梅の木で逢いましょう 04 俺の好きな奴には、その両手で抱きしめるほどの世界がある。
朝起きておはようの声とともに、腹の減るような米の匂いがする。飯椀を無言で押し付ければ、にこやかな笑顔とともに炊き立てのご飯がこんもりと返って来る。アイツが洗濯物を干せば、調子の外れたよくわからない唄を口ずさむ。あまりにも楽しそうなのでそれを茶化すものもいない。
そのあたたかな、郷愁すら呼び起こしそうな温もりのあるやさしい世界。それはアイツにはよく似合っていると心から思う。光忠はそんな世界に必要とされている。
だから――そんなお前の、”世界”を取り上げることができたらなんて。
俺は一体、何度その傲慢を思い描いて来たことだろうか。
活気のある宴会部屋を離れ、縁側の廊下を伝って静かな自室へと帰って来た。
光忠にとって歓迎会は、もてなしの心を表すのに大切にしていることの一つだ。
本丸には多くの刀が招かれ、審神者と歴史のために戦っている。その招かれた刀達が本丸に馴染めるよう、最初の手助けをする。それは幾度となく光忠が行っていたことだ。
今日はもう夜も遅い。部屋の戸を静かに開け、そっと閉める。ここまでくれば、楽しそうな宴会の喧噪はもう、聞こえてこない。
外の庭の流れる水音くらいしか聞こえない静けさは、逆に光忠の心を落ち着かせてくれる。だから光忠はふうっと溜めていた重い息を一つ吐く。
部屋の灯りをつければ、宴会の前に敷いておいた二つの布団が皺一つなく、そこにある。
珍しく同室の彼がまだ帰って来ていないけれど、それはそれでよかったのかもしれない。
今日は自分の兄弟を名乗る福島光忠の歓迎会だった。もちろん光忠もそれを喜び、手料理を存分に振る舞った。しかし肝心の当人には初回の挨拶以外に話しかけず、挙句の果てには歓迎会から抜け出してきてしまった。
別に仲良くしたくないわけではないし、手助けをしたくないわけでもない。
光忠にもうまく言えないのだが、いままでの他の刀と違い、なんというか距離感がうまく掴めないのだ。
全く知らない他の刀であれば、それなりの対応もできただろう。かといって縁者といっても好物を知るほど、よく見知っているというわけでもない。
気恥ずかしさとでもいうのだろうか。光忠はよく知らないけれど、相手は光忠のことをよく知っている。自分からどう相手していけばいいかが分からない、手の内を知られている気まずさ。
けれど光忠の方が本丸では先輩だ。いつもなら本来なら、手助けをしてやる立場だ。そうやって考えに考えを重ねていき、光忠の気持ちは何だか落ち着かない。
「はぁ……」
これは相手が悪いわけではない。彼は光忠に対して充分に気遣いと優しさを向けてくれている。
その悪意のない好意が逆に光忠を困らせてしまう。光忠は冷たい布団の上でさらに一つため息を重ねた。
ため息すら響くほど静かすぎる夜に、その空間を破る音が後ろから聞こえた。
「戻っていたのか」
「……え、あ。お、……おかえり」
光忠が振り向けば、そこに彼はいた。扉に手を掛け、ちょうど部屋に入ろうとしている彼を、光忠はじっと見上げる。
褐色の髪に睫毛から覗く獣のような細い眼光に惚れ惚れする。さらに褐色の肌に獣ならぬ龍が潜むすらりとした体躯を見ると、光忠はいつも浮かされたように格好がいいと思ってしまう。それは光忠が特別の情を分かち合う相手でもあるからだろうか。
大倶利伽羅は普段無口な分、その眼差しが鋭いと思われがちだ。それが今日は口調も視線もどこか柔らかかった。彼は光忠には基本的に優しい。それは分かっているものの、どこかトゲトゲしい雰囲気があった。今日はその雰囲気がなく、どこか生温くすら感じさせて、やっぱり光忠を落ち着かない気分にさせる。
「どうした、眠れないのか?」
既に部屋には布団が敷いてあるにも関わらず、光忠がその上で座り込んだままだった。それを何か不思議に思って聞いてきたのかもしれない。戸を滑るように閉めると、大倶利伽羅は静かに光忠の方へと近づき、その隣へと座る。その間隔がいつもよりいやに狭くて、さらに光忠の落ち着かない気持ちに拍車がかかる。
「……どうした?」
声色がそっと柔らかく、転がすように優しい。心を傾けてくれるさまが芯から感じられる。
さらさらと縺れた髪を解くように、光忠の頭へ手を伸ばす。そして撫でられるとまるで自分が子供にでもなったように思えて来る。彼に、甘やかされていると思う。俯いた頭を抱き寄せ、伸びあがって額にそっと唇を寄せられるなんて、甘えて来る猫のよう。本当に甘やかされていると思う。
そして離れた唇の温もりが肌に残ったまま、光忠がボーっとしていると、大倶利伽羅はそんな光忠をただただじっと見つめてくる。それが本当にくすぐったい。
大倶利伽羅だって歓迎会に参加していた。けれどいつもは早めに切り上げて来るのに、この時間まで部屋まで帰って来なかったという事実。それは珍しく飲みの席に長居したことになる。
見つめて来る彼の顔はほの赤く、かといって部屋に入って来る足取りはしっかりしていたので、呑み潰れて帰って来た様子でもない。けれどほどよくほろ酔いはしているようだ。
視線の柔らかさ、それが角が取れたかのように明らかにいつもとは違う。
「ん、ちょっとね。……それより珍しいね。君が、歓迎会に長居するなんて」
その熱い視線をそらすように、別の話へと切り口を向ける。もしかしたら嫌がられるかもしれないいつもの彼と違う大倶利伽羅の行動を問いただすような質問。普段なら少し嫌そうな顔の一つでも見せるかもしれない。でもなぜか彼の視線の柔らかさは変わらぬばかりだった。
「まあな。……面白いものが見れたからな」
遠い空を眺めるようにその場面を思い、それを思い出し笑いでもするかのような。表情が柔らかくて、慈しみ、愛しさ、それらをシロップ漬けにして溢れそうなほど、とろりとろりとその視線にのせているかのようだ。
「そうなの?」
彼がそういうことを言うのはとても珍しい。他と他が交流を積極的に深め合うような場所に、自ら長居してさらにはその場を面白がる。光忠は思わず目を見開き、パチパチと瞬く。
「お前はいなかったのか……。それも珍しいな」
「なら、よければ教えてよ。君がそんなに面白いと思ったなんて」
気になるとばかりに聞けば、彼は微笑む。お前が聞きたいのならと、ポツポツと話をしてくれた。
「今日の新しい刀、福島だったか。あいつが、日本号と呑んでてな」
新しい光忠の話が大倶利伽羅から出て、光忠はビクリと体を震わせる。大倶利伽羅はそれを気にせず、光忠の髪の毛を手櫛で優しく梳いていく。
「……へえ」
声はうまく出せていただろうか。光忠は彼の慈しみの籠もった視線から、気まずそうに視線をずらす。
「そういえばお前の珍しい姿も見たな」
「え?」
光忠は思わずその言葉に振り向けば、反らした視線をその眼力で磁石のように引き寄せられた。あまりに神妙そうな顔だったのか、その顔は見た大倶利伽羅はふと、鼻から息を吐くように笑う。誰かを馬鹿にしているさまは欠片ほどもなく、ただただ愛しいとその瞳を訴えて来るさまが、逆に光忠には息苦しいくらいなほどで。
「なんか、君に変な姿見せちゃったかい……格好悪いなあ」
逃げるようにお愛想笑いを見せても、彼の視線は酔ってはいるものの、その芯をしゃんと見極めていた。まるでそれではないと目が語っている。
「いや俺も存外、お前のことが――光忠のことが、分かっていなかったんだなと」
まるで自嘲するような声。それが光忠当人の考えていることと、全く違うことを大倶利伽羅が考えていると自然と分かった。
「――新しい刀、福島が来ただろう。その初対面の時のお前の顔、見物だった」
台詞は人から聞けば揶揄うようなものだけれど、その声音が怖いくらい優しく降り注ぐ。だから光忠も布団に座ったまま、彼の優しい手慰みを受け、静かに聞く。
「どんな初対面の刀が来ても、人当たり優しく、その笑顔を崩したことがない。それなのにあの福島にはポーカーフェイスで、まるでボロの出ないように取り繕われた笑顔。核心をそらすような話しぶりで」
手櫛で梳いていた大倶利伽羅の手は、襟足までするすると下りていく。襟足からうなじを辿るようになぞり、撫でられる。それが何だかとてもくすぐったくて。
「……うん」
いやいやと少しだけ首を振っても、彼は気にもせずそれを続ける。
「そんな対応を取るのが珍しくて」
手元の動作は相変わらず愛猫でも愛でるようなやさしさだ。けれど語り口はそこにまるで盃を携えて、どこか遠くの空でも眺めながらポツリポツリと零すような語り口だった。
だから光忠も、まるで幼子のように素直に話すことが出来た。
「なんかね、……あの人と話していると、何だかいつもの自分じゃなくて」
「……ああ」
「苦手、なんてことは言いたくないけど、何かうまく自分を出せなくて。格好のよい姿をみせたいけど、何だかぎこちなくて」
嫌いではないんだ。多分どうやって付きあえばいいか、ほんとうに分からないんだと。光忠が布団に向かってこぼす弱音を、大倶利伽羅はやわらかく受け止める。
「いいんじゃないか。珍しいだろう――そんなに素が出る相手、なんて」
目が瞳が、甘く柔らかかった。生きとし生けるもの全てねめつけるようないつもの眼差しはそこになく、酒で角が取れたほろ酔いのまろやかな視線は、光忠にとっては後光が見えるほどだった。
「――そういえば、知っているか。福島が日本号に歓迎会で絡んでいたこと」
「え、そんなの知らない」
大人の男の色気とそれを紳士的なやさしさで閉じ込めたような、理知的な刀。自分の立場をよく分かっていて、それを踏まえた立ち振る舞いをする――あの刀。
「酒を飲んでいないはずなのに、呑まれたかのような言動で。ふ……冷静さなんて欠片もなくて、日の本一の槍を手放すものかとか何とか、わめいていたな」
それがまるで真逆のような、むしろ私情めいた話で他の刀に絡む――見たこともないあの光忠の話を大倶利伽羅は話す。どこか遠くを見て思い出し笑いをするような、力の抜けた顔で眉を緩め、鼻息で笑う。
「あと、あの厳つい日本号を号ちゃんと呼んでいて、あれはあれで兄弟だなと思った」
兄弟と言われ、ドキリとする。光忠の心はまだ惑いの最中だ。どの気持ちが正か邪かも未だ何も分からないままで。
「でも、僕はあの刀のような――」
言い訳染みた声が出そうになって、それを彼が明確に遮った。
「……いいじゃないか。俺はお前にも苦手の刀がいるんだと、少し安心したくらいだ」
相手の刀のことを考えないような悪い顔で、よい酒の肴を得たとばかりに大倶利伽羅がニヤニヤと笑う。おまけに手慰みに撫でていた首に唇を寄せ、口付けまで残していく。
「んッ……ちょっと」
首の後ろだから痕を残されたのかも分からない。あわてて後ろ手で首を擦り、大倶利伽羅を睨む。
睨まれた大倶利伽羅はそれすらも可愛いとでも思っているような、どうしようもない甘さが見える顔だった。今日は思ったよりも酔っているのではと、光忠は疑念を持ち始める。けれど。
「もうっ! でも、伽羅ちゃんだって最初はちゃん呼び、嫌がってなかったっけ」
俯いていた顔を上げ、大倶利伽羅を睨んでやろうと顔を覗けば、彼は瞳をぱちくりとさせ、意外そうな顔で光忠を見た。まるで覚えていたのかとでも言いたげだ。
「……いや。でも今はもう――どうでもいいな」
どうしてと不思議そうな顔で問いた気な光忠に、大倶利伽羅はぴしゃりと断言した。
そのすべての問いに、大倶利伽羅の口からはきっと、うまく話すことはできないだろう。
でも本当にそんなことは大倶利伽羅にとって、どうでもよくなったのだ。
今まで大倶利伽羅にとって光忠は、全てを博愛し、全てから好かれる生き物だった。人見知りをする素振りなんて欠片も見せたことがない、いわばそれはあらゆる全て、そう”世界”を抱きしめているようでもあった。
大倶利伽羅にとっては口にも出したくないだろうが、それはあの黒鳶色の龍も思っていただろう。相手のそんな”世界”を取り上げてしまいたいと。そして自分自身を見て欲しいとどんなにか思ったことだろう。
それがあの刀が苦手だと、いつものような格好のいい姿を見せれないと弱みをみせる様。その不器用さが何よりも愛おしい。そつのない男で誰からも好かれていて、皆を平等に好きだとおもっていたから尚更だ。だからずっとお前の特別だと、信じられなかった。
それが事実を一つ知るだけで、瞬く間に変わる。光忠にだって相性の悪い相手がいるというその事実。彼にもそれなりの外面があって、皆に打ち解けているようで、そうではない柔らかいところがある。人一倍柔らかいその中心、心の内に入れてくれる特別があったとようやく大倶利伽羅は理解できるようになった。
なぜなら光忠はきちんとその心の内に入れてくれていたからだ。その証拠に光忠は大倶利伽羅を――伽羅ちゃんと呼ぶ。
それ以上の特別なんて、大倶利伽羅にはない。
今までは何もかもが信じられず、まるであの龍のように梅の木のいらない枝に齧りつき、そして不必要な威嚇していた。それが本人に通じていないと気付かずに。
だから、その明確に見える好意――その特別だけは、信じられると思った。
そんな信じられる今、大倶利伽羅にはその特別が何より愛おしくてたまらない。
手を伸ばせばそこにいつだっていて、その特別な愛称で柔らかく呼んでくれる――その奇跡。
褐色の手を伸ばし、首ではなくその”世界”ごと抱き込む。ああ、これはもう俺のモノなのだと。
そして首へ頭へと手を伸ばし、その頭を引き寄せて強引に大倶利伽羅の膝へと横たえさせる。突然の状況についていけない光忠の困り顔を見ない振りをして。
「お前が何を悩もうと、それをどう思おうと構わない。こうして――いつかは形になるだろう」
その黒曜石のように艶めく美しき髪に手を入れ、猫でもあやすかのように優しく触れていく。このままこの膝で寝てくれたらどんなに幸せなことだろうかと、大倶利伽羅は思う。
「俺だってずっとお前が苦手だった――ヘラヘラ他の奴に笑ってばかりのお前が。でも苦手があるというだけで、ずっと親近感を感じる。だから今はそのままでも、いいんじゃないか」
「そうなのかい。でも……伽羅ちゃん、ずっとずっと僕に優しかったよ?」
光忠は今一つピンと来ていないようだ。それでも大倶利伽羅にとってその心は、ずっとずっと抱えられたままだった。それがよく知るはずの相手の知らなかった一面を垣間見ることで、急速に解けていく瞬間。それは雪解けのように突然だった。
「――お前がそう感じるならそれでいい。お前の特別の内に俺がいれば、……それでいい」
そう大倶利伽羅が酒で解けた口から言えば、光忠は目を丸くする。それはまるでそんなことなど考えたことのなかったというような、その目から表れる表情。
「それはそうだよ。伽羅ちゃんに人見知りするなんて……ふふ、考えられないや」
ふふふと光忠は笑って、大倶利伽羅を見上げる。相手を信じ、疑念一つ抱いていないようなその顔、その心――どうして今まで信じることが出来なかったのだろうか。
「ねえ、僕らは人じゃないんだよ。……でも僕はさ、人が好きだから。人らしく皆と仲良くしようとする。仲間は特にね」
手を伸ばし、光忠は大倶利伽羅の頬に触れようとする。それを大倶利伽羅は甘んじて受ける。
「物は大事にされたものをどうしても特別扱いする――だからさ」
一呼吸置き、光忠が笑った。やっぱり光忠は笑う顔が一番似合うと心から思う。
「僕に特別優しくしてくれる君が、どうして”特別”にならないの?」
小さな子供を諭すような、甘く転がすような飴玉。月の優しい光とともに、それが転がり落ちていく。
大倶利伽羅の使えていた心の重石は氷解し、その桜が舞うような笑顔が溶かしていく。
彼の長い睫毛の影が美しいと思った。それが大倶利伽羅を見て孤月を描くのが何より好きだった。
それを間近で見れるというのは心満意足、もう満ち足りているのだ。
だから別に憎らしい”世界”を取り上げる必要なんてなかった。ただ相手の世界を、相手の心を理解すればそれでよかったのだ。
黒鳶色の龍の夢が本当は何を示唆しているかなどは知らない。ただ龍の振る舞いは今までの大倶利伽羅の心によく似ていた。龍は梅の木を大事するがゆえ、梅の木に近づく全てを拒絶した。梅の木を大切にしないものも、梅の木に粉をかけるものも。その全てを梅の木の意思を確認すらせずに。
けれどもう、黒鳶色の龍はあの木を独り占めなどしないだろう。
それは相手の望むところではないし、それよりももっと大事なことがあると判った。
ささいなことかもしれないが、それを知る前と後では何もかも違う。
だからそれをもう嫌悪もしないし、独りよがりもしない。
大倶利伽羅がきちんと、相手の真心に気付けたのなら。