清麿は人の観察が好きである。特に水心子のような人の心の観察が好きだ。
会社で同僚でもある水心子は、純朴だと清麿は思っている。志が高く自分をいつも律していて硬い表情が目につくかもしれない。そして生真面目で気位が高い嫌いもあるが、彼が頑張っている背中を清麿は好んでいる。反面、その中身はとてもミーハーだ。理想の自分であらねばと願うばかりに、それを体現している存在に非常に弱い。
例えば職場の先輩、燭台切さんがそうだ。入社したばかりで一通りのレクレーションが終わり、同じ部署に運よく水心子と配属された。そこの教育担当として面倒を見てもらっているのが燭台切さんだ。
最初は頑なだった水心子ではあったものの、彼の性格に合わせて先輩はうまく自分を曲げて接してくれた。そのおかげで今はその背筋の通った格好良さに憧れを抱き、半ば崇拝者のように慕っている。自分ではひそかに気付いているものの、水心子の心にはまだ柔軟性がない。だからそれを持つ先輩に憧れ、慕っているのだろう。自分にないものに対してそれを得たいと憧れ、それに嫉妬するのでなくただ尊敬の念を向ける。それは相手へのリスペクトを感じると清麿は思う。
この間も燭台切さんと休憩室でランチを食べた時のことを、そこにいなかった清麿に水心子は熱く語ってくれた。燭台切さんは最近スープジャーという、保温できる容器を持って来ている。それをお弁当として食べているという。料理は好きなものの、帰りが遅く朝弁当を作っている時間がないからとは本人の弁である。
水心子にしてみれば、新入りの自分達の面倒を見ながら夜遅くまで仕事をし、それでも何とか弁当を作って来る姿勢が凄いと言う。清麿はどちらかというと水心子がそんな風に尊敬の念を抱いているさまが、すごいなと感心してしまう。自分が頑張るだけでなく、相手のこともきちんとみていて、それに素直に好意を示せる。それは水心子のいいところだと清麿は知っている。
だからよく水心子がこうして自発的に話してくれることが、清麿には嬉しい。皆の前ではしっかりしなければと平静を装っているが、こうして素が出れば彼のいいところしか出ないから。
話を戻そう。そう、燭台切さんがその日はミネストローネをスープジャーで持って来ていたという。水心子が話すには、そのミネストローネはスープジャーの中で保温調理して来たという。要するに生のままの野菜を切ってお湯で温めてからスープジャーにいれ、お湯と調味料を入れてお昼まで待つ間に野菜が煮えるという話だ。やったことがないから今一つピンと来ないが、水心子がそんなことができるなんて先輩は凄いと褒めそやしていたので、きっと彼の目の前には出来立てほかほかのミネストローネがあったのだろう。人参は柔らかく、さらには中にはショートパスタも入っていて、美味しそうだったと食のこだわりが薄い水心子が言うのだ。それはきっと間違いがないはずだ。
「知ってる? ミネストローネってね、具沢山の野菜スープのことなんだって。イタリアの懐深いスープで日本で言えばみそ汁のようなものかな。何でもある野菜を入れればいいから、別にトマトが入っていなくたっていいんだ」
水心子は敬愛する先輩がその時話した話を思い返し、熱っぽく話してくれた。燭台切さんは面倒見がよく、業務上の質問も尋ねれば、落ち着いて丁寧に説明してくれる。何でも聞いてと彼自身が言う言葉のとおり。けれど彼のお弁当のスープジャーについてふと尋ねると、毛色の違うものを感じる。冷静沈着な燭台切先輩とは思えない熱を感じる。言われなければ余計なことをしゃべらない彼が、どんどん前のめりに話していく。まるで好きなものを夢うつつに語るかのように。
誰に対しても平等に接する燭台切さんが、その熱をみせることに静かに興味が湧く。
「そうなんですか! 先輩は物知りですね」
すると燭台切さんは頭を振る。
「違うんだ。これ、友人に教えてもらったんだ。スープジャーも彼が教えてくれたよ。だから物知りなのは友人の方なんだ。彼ね、忙しくて弁当が作れない僕を見て、スープジャーの弁当のこと、教えてくれたんだ。ミネストローネだってね、僕がトマトがないから作れないと言ったら、そもそもトマトが入っていたスープじゃない。何でもある野菜を入れればいい。何でもいいんだ。アンタの腹を温めるなら。そう彼が言ってくれたんだ」
燭台切さんはやんわりと自身の手柄ではなく、あくまで友人が教えてくれたことだと主張する。その友人は同じ会社に勤めている別部署の人だそうで、古くからの知人だそうだ。無口でキツイ表情に取られてしまうが、きちんと先を見ていてその場限りでない優しさをもつという。
「保温調理はね、はじめに温めることが肝要なんだって。そういうことを肌で覚えて教えてくれる彼の方が物知りだし、何もしゃべらなくても時間が経てば温かな料理が食べれるような確かなものを与えてくれる。まるでスープジャーみたいな人なんだ。きっとしっかりしなきゃって気を張っていたから、肩肘張らなくていいんだって言いたかったんじゃないかな」
その時の水心子は燭台切の表情を見て驚いたという。花笑みというのだろうか。花が綻ぶように燭台切さんは微笑んでいたと水心子は言い募るのだ。
彼はいつだって笑みを絶やさない。口調も態度もまだ硬い水心子と違って年長者である彼は、その場の空気を柔らかくするよう、優しく微笑む。でもこれはそれとは性質が違う。
この花は自分よりその友人の花の方が美しいと心から信じている。その尊敬するさまは水心子にはもはや崇拝にすら感じたのかもしれない。自分が先輩に感じている憧れと同じような、一途なもの。それを直に感じてしまう。
あんな格好いいお方の尊敬する人だ。有能な人に違いない。そう水心子は力説していた。きっと燭台切さんの友人は凄い人なのだろうと清麿ですら感じる。
確かに燭台切さんは仕事ができる。人の適性を見抜き、新入りの清麿たちにも即戦力となれるよう 日々導いてくれる。一見、力量に見合わない仕事が来ても信じて最後まで見守り、何かあれば尻ぬぐいまでしてくれたこともあった。清麿から見ればその背中は確かに格好がいい。
ただそんな有能な人が一途に慕い、花笑みを見せる人。それは仕事の有能さとは別に何かあるのではないかと思う。例えば好きな人、なんて考えすぎかなと観察体質の清麿は当て推量してしまう。
水心子を始めとした人を観察するのが清麿は好きだ。前を向いて歩く人が好きなのだ。だから違和感にはすぐ気付く。その違和感が当たっているかどうかは、分からない。
随分と思考が沈んでいた。ランチの時間とはいえ、深く思考を沈めるのはあまり褒められたことではない。相手がいるならなおさらだ。
水心子との過去の話から頭を切り替える。今日は燭台切さんとランチだ。残念ながら水心子は当番なので、一緒には食べれない。それを水心子は少し悔しそうにしてはいたが、私には職務があるからな! と強がる水心子は清麿からみれば可愛げがある。
そうして考えに耽っていたら、どうしたの、と給湯室から戻って来た燭台切さんから問われた。清磨はそれに何でもないですと笑って流し、持って来た弁当を広げる。向いに座った燭台切さんは今日もやっぱりスープジャーを持って来ていた。
赤い色の広口の形。そのきっちりと閉められた蓋を取ると、中からスープが出て来る。豆乳と思われる白っぽいスープにつゆの色かラー油の色だろうか、色が混じり合っている。その色が涼し気な中にも元気があって美味しそうに見える。溶け残りと思われる氷がひしめく青物の間にひっそりと浮かび、きちんと冷やされて持ち運ばれてきた様子がうかがえる。給湯室に行った時に持っていたタッパーから燭台切さんはうどんの麺を取り出す。お弁当にスープとうどんと目を丸くしたものの、その物珍しさに逆に興味が湧く。
「これ、茹でたうどんを持って来たんですか?」
「違うんだよ。最近はね、流水麺っていう水で洗っただけで食べれる麺があるの。それでさっき給湯室で洗って来たんだ」
便利だよねと燭台切さんは言い、そのタッパーから麺を箸でつまみ、スープジャーへと沈めていく。それはさながらつけ麺のようで、お弁当でこんなものが食べれるんだという常識を覆されていくようでもある。それをスープジャーのつけ汁から取り出し、箸で持ち上げ啜っていく。それだけなのに燭台切さんがするだけでその所作がさまになるから不思議だ。
「へえ最近はそんなのあるんですね」
「本当にね。いつもは自分で麺を打つ方だから余計に考えもつかなかった」
普段麺まで手作りをするほどの料理上手。なのに流水麺の存在を知っている。
「麺も手作りするんですか。したら誰かに教えてもらったりとか」
そこに少しの違和感を感じて、清麿は質問を重ねる。
「そう、優しい友人が教えてくれたんだ。こうすれば弁当でも手軽に麺を食べれるって」
そうやさしく微笑む。これは水心子が言っていた花笑みという奴ではないだろうか。これはただの微笑みではなく、思う者がある笑みだと、清麿は観察する。
「その人のこと尊敬しているんですね」
そうして、探るように質問を重ねていくと、彼は手を振ってそんな大層なものじゃないよと言う。
「ただ人として好きなだけ」
そうさらりと燭台切さんは言う。けれど清麿から見える顔はそんなさらりとしたものではない。
水心子は花笑みと言っていた。花が綻ぶように笑うと。でもそんな単純なものではないと思う。花と例えたが、これは野の花が咲くようなものではない。こんな大輪の花が一輪だけ綻ぶように咲く。ひっそりと祈るよりに咲く。それは誰かの為の花なのではないだろうか。
「でもね友人にね、温かいつゆにして冷凍しておいた手打ち麺を入れて持ってきても面白いんじゃないかって言ってみたら呆れられちゃった」
小麦粉に完全に火が通るか確認できないだろうと怒られたと、その時のことでも思い出しているかのように、彼方を見て燭台切さんは笑う。清麿の目は見ているけれど、そのガラスを通して違う思い出を映しているような。美しい記憶を思い起こしているような。
「先輩、お食事中すみません」
燭台切さんと話をしながら趣味の観察をしてランチを食べていたところ、なぜか当番で残っていた水心子がやってきた。
「これ、先輩の友人と思われる人から届け物です」
そう言って黒いスープジャーを燭台切さんの前に置く。
仕事中にわざわざありがとうねとねぎらえば、彼は嬉しそうな顔を照れくささで覆い隠す。視線を外す目線も可愛げがあり、ますます観察が捗ると清麿は思う。
「じゃあ、当番あるので俺戻ります」
仕事を抜け出して来たようで、水心子はすぐに持ち場に戻って行った。
残されたのは黒い容器のスープジャー。でも目印なのか金色の星のシールが貼ってある。そのシールは一つしか貼られていない。けれど清麿には夜空の星のように見えた。沢山の星が集まり、光りの強さも異なる星々がチカチカと輝く。あの空がそこに見えた。
それをおもむろに燭台切さんが手に取る。蓋をキュルキュルと回し、カパッと蓋を持ち上げた。
中を覗き込むと白くて丸いもの。傾ければコロコロと転がり、燭台切さんの手の上に落ちて来た。
清麿の頭の上に疑問符が立つ。なぜ卵が、どうしてここに。疑問がつきない清麿にかまわず殻を丁寧に剥き、その中身をワインレッドのスープジャーに落としていく。
中に入っていたのはとろりとした温泉卵。
たしかにつけ汁に入れて食べれば美味しいだろう。でもなぜここに届けられたのだろうか。燭台切さんが今日つけ汁のうどんを食べると知っていたのだろうか、その友人は。
清麿には謎がつきない。でもその顔は嬉しそうだ。どうして温泉卵が届けられたのか。それを気にもせずに綻んだ笑顔を見せている。
燭台切さんの友人はやさしくて、尊敬できる人で。なおかつランチに何を食べるのかも知っていて、それに合った付け合わせも準備できる。
それは果たして友人なのだろうか。誰かの為の花ではなく、既に誰かの花なのではないかと、そう見立てたくもなる。
清麿は人の機微に聡い。だから水心子の盲目的な憧れでは気付かない思惑にも気付く。でも別に水心子の心はただの憧れで、崇拝者だ。だから素知らぬ顔で何も見なかったように続けた。それがこの面倒な感情への得策だと傍観者である清麿は知っているのだ。
そう、人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでしまうのだから。