不完全な完璧(寿月)「……いつか、俺のことも忘れるんやろか」
「……絶対忘れない、とは言えないな」
それのきっかけなんて些細なもので、洗濯機を回しっぱにしたとか、お土産を何処かに置いてきたとか、同じ本を買ってきてしまったとか。
「月光さんでもそんなうっかりするんやね」
最初はそんな風に笑ってたのに、鍵を閉め忘れて、鍋を火にかけたままで、よく通う道や、親戚の名前が思い出せなくなっていった。
診断を受けて、薬もらって、次回の予約をした。
お医者さん、月光さんが落ち着いとるからえらい淡々と話してた。説明を受けているときに震えてしまうもんで、手を繋いだ。月光さんは何も言わんで、ましてや振り払ったりもせんでいてくれた。
その状態のままの帰路、道に伸びる影はまるで買い物帰りみたいだ。
ふと、月光さんの歩くのがゆっくりになる。どっちに歩いたらいいかわからないらしい。
「……こっちはあんま通らん道やもんね」
この辺りは入り組んどるから病気のせいとは一概に言えんけど、散歩してて迷うなんてことも今後あるかもしれん。
「……」
「……環境が整うまでは、迷惑を掛けると思う」
この先、俺の負担にならんようにと月光さん待ち時間に支援のこととか熱心に調べていた。なんでそんな突き放すようなことするん、なんて怒れない、俺は優しい優しい月光さんが大好きだから。
俺にだって何があるかわからんし、月光さんを助けてくれる人は多い方がいい。
「月光さんのこと甘やかせるんなら楽しみですわ」
笑ってみせると呆れたような顔をした。
どんなに突き放されても図々しくくっついて、俺達はそうやって今に至るのだから、今まで通りそっちに諦めてもらうのを俺は待つだけだ。
「毛利、散歩に行きたい」
「ん……?ああ……今準備しますね。ふふ、早起きやねぇ」
「すまない」
あれから、月光さんは色んなことが緩やかにできなくなっていった。元々治せんものやって、薬も進行を遅らせることしかできんとは聞いてた。それに月光さんはその薬は飲むとたまに気持ち悪くなるって、お医者さんに聞いて量を減らしても「飲みたくない」とは言わん。
「ええんよ、起こしてくれてありがとうございます」
俺が起きるまで玄関に座ってたこともあるけど、それより全然良い。
『散歩に一人で行かない』
『勝手に火を使うな』
『コンロを確認しろ』
『アラームには従え』
部屋の壁の少し高い位置、至る所に付箋が貼られている。あらかじめ着る服をセットで用意したり、もしもの連絡先を服に縫い付けたり部屋の鍵を全部掛けられんようにしたり。
備えの手間も増えたけど、一緒にいられる時間も増えた。
「月光さん」
毎朝ゆっくりとキスをする。月光さんが戸惑うことがないのを確認する為に。
「今日も覚えててくれて嬉しい」
月光さんのプライバシーはいつも持ってる小さなポシェットだけになった。そこには日記や、俺の写真も入ってる。
それらを眺めているのを見たことがあるけど、祈りの儀式のようでとても美しかった。その成果かもわからんけど俺のことを恋人で、躊躇わずに頼れる人間やってちゃんと覚えてくれとる。
「そんな風に、言うな」
ごめんね月光さん。俺は人に頼らんと生きていけなくなったアンタをやっと『完璧な月光さんになった』と思ってしまうんよ。