いっけなーい遅刻遅刻ぅ!
「もう、エアリアルったらどうして起こしてくれなかったの!?」
私、スレッタ・マーキュリー。17歳!フツーの女子高生!
今日は授業が無い土曜日だけど、大事な用があるの。それはね……
ぱぁん。しゅーん。とっ!
真っ直ぐに飛ぶ矢が、空気を切った。
すぐさまその矢を目で追うと、矢は惜しくも的のそばに刺さった。
(よかった。エランさんの番はまだだ……)
心の中でホッと息をついた。
観客席に腰をかけ、選手の方をそっと見ると、エランさんは床に正座をし、出番を待っているところだった。
今日は弓道の地区大会の日。この日に良い成績を残せば、次はもっと大きい地区の大会に出ることになるらしい。エランさんは私よりひとつ上の三年生で、弓道部に所属している。エランさんはキャプテン(弓道だから、部長と言った方が良いかも?)ではないけれど、エースだ。それぞれの学校から出る選手は五人で、その最初と最後に射る人が上手いと聞いたことがあったけれど、エランさんの正座している位置は、先頭だった。
ピンとのびた背筋。伏せられたまぶた。道着から伸びる腕は太く、長い指は揃えられている。
(い、息止まっちゃう……)
まだ弓を持ってもいないのに、エランさんに釘付けになった。
エランさんと数人がすっと立ち上がった。ちょうど今から、私たちの学校の番だったようだ。
エランさんが弓を持ち、矢をつがえている。弓道のことが全く分からない私でも、完璧な仕草だとわかる。ぶれがない。迷いがない。
黒い袴を履いた長い足が大きく開かれ、矢の先が斜めに地面に向けられたかと思うと、エランさんの頭の上まで上がった。矢と地面が水平になり、つるがぐん、と引っ張られた。矢がエランさんの口元まで下がると、ぴたりと止まった。
一秒。二秒。三秒。四秒。
いつまで数えられていたか分からない。
ぱぁん、という音が響いてすぐ、とっ、と矢が刺さる音が聞こえた。
「は……っ」
息も、瞬きをするのも止めていた。「よぉし!」と言う観客や生徒のかけ声と、拍手の音が聞こえてから的の方を見ると、想像通り、真ん中に矢が突き刺さっていた。
「エランさんっ! 地区大会優勝、おめでとうございます!」
「ありがとう。朝、君の姿がなかったから、もう君は来てくれないものだと思っていたよ」
「ご、ごめんなさい! 土曜日だから、アラームかけてないの忘れてて、寝坊しちゃって……!」
「次の大会は日曜日だけど、また来てくれる?」
道着から着替えて、制服になったエランさんが、首を傾げた。
夕日が眩しい。エランさんはそれ以上に眩しい。
「……!! い、行きます! ぜったいぜったい!」
エランさんの方から来てほしいと言われて、心臓がどっくんどっくん暴れ出した。差し入れにと持ってきていたドリンクと手作りのお菓子を渡して、軽くなったバッグの紐を両手で握りしめた。俯いていたせいで、帰り道を歩くエランさんと肩が軽く当たった。慌てて謝ろうとしたはずみに、バッグが手から滑り落ちそうになった。それを素早くエランさんがキャッチして、エランさんの肩にバッグがかけられると、うろうろさせていた私の手がそっと握られた。
「あっ、わ、あ……!」
「一緒に夕飯を食べに行かない?」
「ふぁい……っ!!」
謝ればいいのか、お礼を言えばいいのか迷っていた私を、エランさんは優しく引っ張って歩いた。エランさんの柔らかい雰囲気とは全く違う、硬い手のひら。それにとても大きくて、私の手が小さく見えた。
「君は何が食べたい?」
「ええええエランさんっ!!」
「……ん?」
また首を傾げたエランさんを見上げた。
さっきまでの、弓を引くエランさんの姿がきらきらとよみがえる。あんなに遠い所に的があったのに、矢を上に向けず、真っ直ぐに引っ張る肩。矢が的に刺さるまでの、何もかも焦がしてしまいそうな強い視線。
あの目で。あの目が、私を見てる。
「エランさん……!」
ぴりりりりり。
「……」
「……」
「……スレッタ・マーキュリー。携帯か何か、鳴っているようだけど」
「……はい……」
何かとんでもない事を言おうとしていた私の唇は、今はむすっと尖っているだろう。
私はエランさんと繋いでいない方の手で、もぞもぞと制服のスカートからソレを取り出し、のろのろと耳に当てた。
『スレッタ! この辺りで人々の’'欲望'’が大きくなってるよ! さあ早く出動だ!』
「……っ」
「何か、用事が入った?」
も〜〜〜! どうして今なの!? ううん、いつもいつも、エランさんと良い雰囲気になった時ばっかりジャマが入る!
私は小さい女の子の声がする、携帯みたいなソレを閉じて、握りしめた。
「ごめんなさいエランさん……一緒にお夕食 、食べられないです……」
「そう……残念だ。君から貰ったお菓子、この後大事に食べるね」
「こ、今度、もっと美味しくて、大きいのを作ります! 埋め合わせ、させて下さい!」
空のバッグが返された。そしてエランさんが手をするりと離すので、心の底から落ち込んでいると、その手が高く持ち上げられた。
「君のお菓子も欲しいけど。朝目覚めてから一番に……君からの応援の言葉がほしい」
ちゅっ、と指先に柔らかいものがふれた。
「じゃあまた。スレッタ・マーキュリー」
そう言ってすたすたと去っていくエランさんの背中を呆然と見ていたところで、またあの電子音が手の中で響いた。
ポンッ、と音がしたあと、手の中から携帯が消え、私の耳元で、女の子の声がした。
「スレッタ! 早く行かなきゃ!」
「……」
「もー! あのクールボーイめ、スレッタをこんな風にして……。最近スレッタの周りに、ああいうキザなヤツ多くない? 流行ってるのかな? スレッタ、多分あれは、本当にそのままの意味だと思う……。さすがに付き合ってもないのに、ベッドの上で激励を貰いたいなんて言わないでしょ」
──スレッタ、おはよう……。
──おはようございます、エランさん……今日の弓道の大会も、頑張って下さい。エランさんならきっと、優勝できます……!
──そうだね。でも君、その足で、今日の応援に来れるかな。
──それは、エランさんが昨日の夜、あんなに……!
「そ、そそそそうだよね!? きょ、今日は遅刻しちゃったから、今度はちゃんと早く来てね、って意味、だよね!?」
裸のエランさんが、同じく裸の私の腰を撫でながら、私に朝の挨拶をする様子を思い浮かべてしまって、頭をぶんぶん横に振って追いやった。なんてハレンチで、欲にまみれた事を考えていたんだろう。
「彼、意外と根に持つタイプなのかなぁ?」
「そんな事ないよ……それに、もっと早く会いたいって言われてるみたいで、嬉しい、から、いいの……」
「ふーん。まっ、早く着替えて。どんどん’'欲望''が大きくなってる。チャンスだよ」
「うん……」
私はエランさんの背中がごはん粒くらい小さくなったのと、周りに誰もいないことを確認して、身につけているヘアバンドを取り去った。
その瞬間、風が吹いた。
私の周りだけを、くるくると風が舞い、制服の白いスカートが揺れた。
「変身」
ごうっ、とひときわ強い風が吹くと、黒いヘアバンドがひとりでに首に巻きついて、きゅっと締められるのを感じた。
白いスカートは黒に様変わりし、折り目正しいプリーツがなくなって、ふわりと軽く揺れる。真っ黒な薔薇の花びらを敷き詰めたようなパニエが、スカートを押し上げた。そして現れたコルセットの編み上げが、ぐぐぐっとウエストを引き絞り、白いシャツは、黒いブラウスに。首元と手首まできっちりと小さなボタンが留められ、繊細なレースがのぞいている。ローファーは、燃える鉄のような真っ赤な色をしたバレエシューズになって、ヒールが伸びた。
あちこちにレースやフリル、リボンがついている、とっても可愛いゴシックロリータのドレスを着た淑女に、私は変身したのだ。
「うーん……ゴスロリというか、お葬式の時みたいな服にちょっと見えるけど……」
「え〜。靴は真っ赤で可愛いよ! それにツインテールも、ロリータの定番って感じでかわいいじゃん!」
「えへへ、そうかな」
長い黒のリボンと髪が一緒に、頭の横で揺れている。
「よぉし。行くよ、エアリアル!」
とうっ、と赤い靴に力を込めて、地面を蹴った。
携帯から形を変え、人型のロボットのような姿になったエアリアルが、建物の上を飛んでいく私の隣をふよふよと漂っている。
「弓道場から、みんなの欲望が膨れ上がっていってるね」
「ついさっき、エランさんと一緒にいたところだ……」
「まぁ、そのエランさんはもう駅の方に行っちゃったし、弓道場に残ってる人たちのものだろうね。コレは」
弓道場に残っている人……。つまり、今回の大会で、あまり良い成績を残せなかった人たちだろうか? 優勝した、エランさんを含む私の学校の人たちは、打ち上げに行ったり、帰ったりしていた。
ぴく、と私の耳が反応した。この姿でいる時は、人々の声がいつもより聞こえるのだ。
『負けた……! また、あの学校に……俺もう、三年なのに……』
『なんで……最近は調子良かったのに。最後を、俺に任せられてたのに……!!』
『くそっ。あの優勝校の大前のヤツ、彼女と一緒にさっさと帰りやがって。なんでアイツが勝って、真面目に練習してた僕が、こんな……』
『もう弓道は早めに辞めて、受験勉強に専念した方がいいのかな……』
選手の声や、その家族や友達の声。悔しがる色んな声が聞こえた。なかにはエランさんへの声もあった。
「あ〜、このままじゃ恨みになっちゃうよ。エランさんがやっかみを受けない為にも、ちゃちゃっと欲望を吸い取っちゃおう、スレッタ!」
「……うん。そうだね」
ぽんっ、と白い掃除機のような機械が宙に現れた。機械の真ん中には、丸くて青い宝石が輝いている。
「スイッチ・オン!」
ブオーン! と大きな音を出して、掃除機──欲望バキューム君の吸い取り口を、弓道場の方に向けた。建物の近くを漂っている、紫色のモヤっぽい空気を吸い込ませると、どんどん空気が軽くなっていくのが見えた。
ふらりと弓道場から出た生徒が、矢を入れた長い布の袋を、ぽとりと落とした。
「なんであんなに頑張ってたんだろ、おれ……どうせ高校卒業したら、辞めるのに」
思わず、掃除機のノズルを上に向けると、そばでエアリアルが声を高くした。
「駄目だよ、スレッタ! もっともっと吸い込んで!」
「う、うん」
掃除機を下に向け、吸引力をアップするボタンを押そうとした、そのとき。
「こらこら〜っ! また人々の活力を奪ってるね!?」
「やれやれ……土曜日なのにご苦労なことだ」
「マジョッタ。そこまでだよ」
「あ、あなたたちは……!」
いつの間にか私の後ろに、白い王子服を着た三人の男の子がいた。しかも、似た背格好で、全く同じ目元を隠す仮面をして、おんなじ声をした三人組だ。けれど、身振り手振りや、話し方、性格が三人まるきりバラバラなので、簡単に見分けはつく。
その三人の中から、すっと一人が前に出た。
「よ、ヨンゴーさん……っ」
声が思いっきり震えてしまった。
「そんなにすぐ、見分けがつくんだ」
「そ、そんな事より、ち、ち、ちかいでしゅ……っ」
かつ、と冷たくて固いマスクが私の鼻の先に当たった。奥の緑色の瞳が、私を溶かしてしまいそうなほど熱く、じっと見つめている。
三人の中で一番きっちりと結ばれたタイについた、薄い紫の宝石が、この距離ではよく見えた。
「ねぇ。どうして君は、人々の活力を奪うの……?」
「ふあぁぁ、み、耳が……っ」
耳元で囁くように言われて、腰から力が抜けそうになった。掃除機なんて、ヨンゴーさんに持ち手部分を取られてしまっている。
「おい4号。キャラクターに忠実なのは結構だが、ちゃんと仕事はやれよ」
「言われずとも」
ヨンゴーさんが掃除機の電源ボタンを押したのか、ブオオオオ とうるさく鳴っていた音が止んだ。
「と言っても、俺だけで十分だろうがな」
ヨンゴーさんの後ろにいるゴホンニンサマが、私の方に右手の指先を向けた。
「まずい! 避けて!」
「ッうん!」
掃除機から、ぽんっ、と箒の形に変わったそれに乗り、すぐに三人のそばから離れた。
「オートクチュール・ピロー!!」
ひゅん、と私のすぐ近くを、白い四角の物体……枕が飛んで行った。
「ぶふっ。いつ聞いてもウケる……」
「笑うな5号! 俺だって、せめて英語かフランス語で揃えろよと思ってるけど、何故かそれだとダメなんだよな……」
あのゴホンニンサマから放たれる枕に触れたら、問答無用に眠りにつかされてしまう。
以前、あの枕に当たってしまったエアリアルは、ものの数秒でスリープモードになった。
「ふ……しかし俺の能力は、一瞬で敵を弱体化できるんだ。アホな口上でも、最強だろう?」
ちなみにエアリアルは、あれからその時の枕で寝ている。三人にはヒミツだけど。
「まぁね。でも、食いしん坊な彼女には、僕の能力が一番効くんじゃないかな? フル・オブ・ハピネス!!」
「あああぁぁっ!!」
ゴゴーさんが突き出した右手から放たれる光に、私は正面から当たってしまった。
ぎゅるるるるる、と乙女にあるまじき音が、私のお腹から鳴り出した。
「ペイルの調べによると、実は君は、食べるのが好きなんだってねぇ。人々の欲望を吸っておきながら。ほらほら、体に素直になりなよぉ」
ふわん、とどこからか、食欲をそそるスパイスの香りがした。お腹を抑えながら顔を何とかあげると、ゴゴーさんの手に、カレーがあった。ごくりと喉が鳴り、カレーに手を伸ばそうとして、ヨンゴーさんの姿が目に入った。
「ヨンゴー、さん……」
……口がカレーくさい女の子って、どうなの?
そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、伸ばそうとしていた手は止まり、お腹の音もぴたりと止んだ。
ヨンゴーさんは何かと距離が近い。カレーを食べてすぐに、彼にさっきみたいにそばに寄られてしまって、カレーくさい女の子だと思われたら……イヤだ。
「ふむっ!」
お腹に力を込め、お腹の音もこれ以上ヨンゴーさんに聞かれないように踏ん張った。
「あらら。ボク、乙女のパワーに押し負けちゃった? 飢餓状態にするって、結構強いと思うんだけどなぁ……」
そして、ゴゴーさんの出す料理はとっても美味しいらしい。技をくらったエアリアルは、喜んでカレーを食べている。……うぅ、私だって我慢してるのに!
「お腹が空いたら、イライラしたり、悲しくなったりするからね。迷ったり、頑張ったりする時は、お腹いっぱいでなきゃ!」
仮面の下で、ばちんとゴゴーさんがウインクをするのが見えた。
次はヨンゴーさんの攻撃がくる! そう思い、ヨンゴーさんの方をばっと見ると、既に弓を引き、矢をこちらに向けているところだった。
「覚悟しろ。マジョッタ」
あの、矢を下に斜めにしてから射る、姿は……。
「アンダー・ザ・ラブ」
「ひ……っ」
ぱぁん、と弦をはじく音が聞こえたかと思うと、私の胸の真ん中に、深々と赤い矢が刺さっているのが見えた。
「あぁ……」
「マジョッタ。僕にキスをして」
「え?……えっ、えっ!?」
目の前に、私に刺さった矢を白い手袋をした指でつまみながら、顔を寄せるヨンゴーさんがいた。
き、キスされちゃう!?
ぎゅっと目を閉じ、両手を胸の前で握りこんだ。
「……」
「……」
いつまで経っても、唇はおろか、頬や額にも、衝撃は来ない。おそるおそる目を開けると、ヨンゴーさんの緑色の瞳が、ぐらりと揺れるのが見えた。
「やはり僕の技が効かない……なぜなんだ……!?」
「へ……?」
ぱちぱちと私は瞬きをして、止めていた呼吸を戻した。
(た、タイミング見失っちゃった!? 私のバカバカ! ファーストキスはほっぺたを包まれながらされたいって、ずっと思ってたんだもん……そういえば、カレー食べなくて、やっぱり良かった……)
ホッとするやらモヤモヤするやら、変な気持ちになっていたところで、ハッとして頭を振った。悔しがっているヨンゴーさんに、私は両手を組んで、胸を張ってみせた。
「ふ、ふーんだっ。相変わらず弱っちいですね、ヨンゴーさん! そんなので、どうやって私に勝とうって言うんですか?」
ヨンゴーさんは、一番手強くて、一番弱いのだ。彼の能力が、私に効いた試しは無い。
明らかにムッとしたヨンゴーさんが、ゆらりとマントをはためかせて、私から少し離れた。
「いくらでもやりようはあるさ」
そう言ってヨンゴーさんがまた弓を引くので、私は思わず構えようとして、ほっと息をついた。
「何回私に挑んでも無駄です!」
なんでかは全く分からないけれど、一度だって、私に〈アンダー・ザ・ラブ〉は効かない。
ヨンゴーさんが矢をつがえる姿を見て、咄嗟に後ずさった。一本だけではなく、何本もの赤い矢を一気につがえ、放った。ひゅーん、と矢が落ちていったり、上に飛んでいったり。
「動物たち、僕の言うことを聞いて」
「え?」
「彼女を地面に引きずり下ろして」
「え? わ、あわわ……っ!?」
突然、どこからかやってきた鳥さんが私の肩をぐいぐいと足や羽で押し始めた。そしてヨンゴーさんも私の手を取って引っ張るので、箒が落っこちた。地面に下ろされ、手は取られ、これから何をされるのだと慌てていると、足にふわ、と何か柔らかな感触が当たった。尻尾だ。
「あ、ねこさん……」
可愛い、と思ったのもつかの間、たくさんのネコが私の元に集まってきて、私のドレスをぐいぐい引っ張り始めた。
「ひゃああっ!? あっ、やっ、くすぐった……、あ!? ネコさんっ、パニエ引っ張っちゃダメですぅぅぅ!!」
パニエどころか、ドレスのあっちこっちをぐいぐい引っ張られたり、ばりばり引っ掻かれたりして、繊細なレースがずたずたになっている。このドレスは魔法の特別製なので、次に着る時は直るといっても、今! 大問題だ。
飛んでいる時は気にならないハイヒールだけど、こんな状況で耐えられるはずもなく。あっけなく道路に尻もちをついた私は、ネコの重みにも耐えられず、完全に倒れてしまった。
ふわふわ。ばりばり。私の肌の上を、柔らかな毛とするどい爪が走る。
「きみたち。彼女の顔や肌に爪を立てたら、お仕置きだよ。服は好きにしていいけど」
「ひえぇぇ! 服もだめですぅ……!!」
また目の前に、ヨンゴーさんの顔があった。真上に。顔の横には、腕がある。押し倒されているみたいだと気付いて、顔に熱が一気に集まった。
「僕は、人間だけでなく、求愛行動をする者……つまり動物や虫にも、言うことを聞かせられるんだ。恋をさせて」
「恋……」
美しい模様をした蝶が彼のそばを舞い、小鳥が四つ葉のクローバーを口にくわえて、彼に差し出している。
私の胸に乗っているネコが、ヨンゴーさんの口に顔を寄せるのが見えた。
「ん。良い子だね」
ネコにキスをされたヨンゴーさんが、その子の頭を優しく撫でた。
「なぁ〜ん」
ゴロゴロゴロ……。ネコが幸せそうに喉を鳴らした。
ガーン!! と、私の胸に、雷で打たれたみたいなショックが走った。
「私だって、わたしだってぇ……!」
ヨンゴーさんに、良い子だねって、言われたい。チューされたい。よしよしされたい。お仕置きもされたい……!
「うわぁ……ボクたち、一応正義のヒーローなのに……」
「おい、性欲担当。その辺にしておけ。絵面がヤバすぎる……のは今更として、その女の青い宝石を取るのが先決だ」
私の足の方から声がした。ゴホンニンサマと、ゴゴーさんだろう。
「それなら、とっくに」
箒に付いていた青い宝石を、ヨンゴーさんがつまんで私に見せた。あっ、と思った時には、白い手袋の中にぎゅっと収められ、指の隙間からきらきらと青や紫の星屑が散っていった。
「あぁ……っ! これじゃ、お母さんに渡せない……!」
「残念だったね。また君の負け」
「ううううぅ……きょ、今日のところは諦めますけど! 次は負けません! それに私、あなたには負けてないですからっ!!」
「待て、マジョッタ!」
もこもこの毛玉とヨンゴーさんの腕からなんとか抜け出し、枕の上で幸せそうに寝ているカレーくさいエアリアルを引っ掴んで、私は彼らの前から姿を消した。
あぁ……。お母さんになんて言おう。
そして、お母さんにも、誰にも、この気持ちは何としてもバレないようにしないといけない。
──気になる男の子が、二人もいるだなんて!
私はボロボロになったドレスを着たまま、お母さんに今日のことを報告しに行った。
私の家は、地上から見れば何の変哲もない家だけど、地下室がある。そしてそこでお母さんは毎日のように、研究に勤しんでいるのだ。
とあるポッドに、薄い青の培養液みたいなのが、たっぷりと入っている。そしてそこには、私とそっくりの小さな女の子──姉が、いる。
私と同じ赤い髪の毛をゆらめかせ、目を閉じて、眠っているように見える。
「お母さん……ごめんなさい。今日も、ジャマが入って……欲望ジェム、持って帰れなかった」
人々の欲望は、紫っぽいモヤとして現れ、私やお母さんにはそれが見える。そしてそれをギュッとすると、青い宝石にできるのだ。掃除機(欲望バキューム君も、お母さんの発明品だ)で紫のモヤを吸い込み、ろ過が行われると、綺麗な青色になるらしい。
「またあの三人組ね? 目障りな……私がじきじきに行こうかしら」
「だ、だめ!!」
咄嗟にそう言っていた。
「あ、えっと……今度こそ私があの三人を倒してみせるから……! もう一回チャンスが欲しいの。それに、三人って言っても、ヨンゴーさんは全く私の相手にならないし。そうやって一人ずつ倒して、欲望ジェムをちゃんと集めるから……!」
今回撤退したのはヨンゴーさんのせいだけど……というのは黙っておいた。
そして何より、ヨンゴーさんに対する私の反応を、お母さんに見られてはまずい。
こんな醜い「欲望」をエランさんにだけでなく、ヨンゴーさんにまで私が向けていると知られれば、どうなってしまうんだろう。私の気持ちは掃除機に吸い込まれて、なんで彼を好きになったんだっけ、と抜け殻みたいになってしまうのかもしれない。欲望を吸われた人間がどうなるのか、それは自分がよく知っている。憑き物が落ちたようにも、ぽっかりと穴が空いたようにもなるのだ。
それは、イヤだ。
「そう? まぁいいわ。人々の欲望が尽きることはないもの。じきに集まるわ。そして……出来上がった元気玉をエリーにあげれば、エリーは目覚めるわ!」
「うん。私、頑張るから……」
「ところで、スレッタ。あなたが抱えてる枕だけど……何? エアリアルも、どこにいるのかしら」
「こ、これはその……」
おずおずと枕をお母さんに見せた。その上には、まだエアリアルがすやすやと眠っている。
「あら、カレーくさい。献立をどうしようか迷っていたけれど……今日の晩御飯はカレーにしましょうか」
「やった!」
もうカレーを食べる「口」になっていたので、私はつい喜んだ。
一方その頃。
「はいはい。フル・オブ・ハピネス〜」
ぽん、ぽん、ぽんっ! とテーブルの上に、三つの料理が現れた。
勝気な笑みを浮かべる男の前には、高級フレンチ。
ニコニコと愛想の良い笑みを浮かべる男の前には、ハンバーグ定食。
死んだ魚の目をした男の前には、肉じゃがが現れた。
いただきまーす、と手を合わせ、各々箸やナイフを手に取って、食事を始めた。
「まずまずだな」
大きな皿の十分の一よりも小さい肉をナイフで切り取り、頬張った男がそう言った。
「うざっ」
「スレッタ・マーキュリーが昨日、『あーん』して食べさせてくれた肉そぼろご飯の方が美味しい」
つゆだくのじゃがいもをホクホクと頬張った男がそう言った。
「うざっ」
「あの女、チョイスおかしいだろ。そんなぽろぽろ落ちるもん、あーんするか? 普通」
五号は、皿に箸を突き立てる……なんてことはせず、ぽいぽい口にハンバーグを入れて、破顔した。
「うん。最高においし〜。キミたち、文句を言うなら食べなくていいんだよ?」
「褒めただろ」
「君の料理は、スレッタ・マーキュリーが食べさせてくれる食事の次に美味しい」
五号はなんだかゲッソリした。二人からの最大の賛辞だったらしい。
「はいはいどうも……まったく、人使い荒いんだから」
町の平和を守る仮面の三人組も、楽しく夕飯を食べていた。
「……なぜ、僕の能力は、肝心の彼女に効かないんだろう」
普段は自分から話しかけることが滅多にない、四号がぽつりとそう言った。しかし、二人はそれを真面目に取り合わなかった。
「知らん」
「キミの能力が弱いだけじゃなーい? それか、他に好きなやつがいるとか」
「……僕の能力は、番にも効くよ。だから当然、他に好きな人がいる人間にも効く」
「こっわ! 正義の味方なのに、邪悪っていうか、別の争いの種がうまれそうな能力だなぁ」
「番の片方にだけ効くんじゃなくて、両方を僕の支配下に置ける。雌雄関係なく。だから、効力が切れたらお互いに気まずいだけだと思う」
「そーですか……」
五号はぶるりと震えた。絶対にコイツの矢にだけは当たらないようにしよう、と。
「ていうかキミの恋愛観、歪みすぎでしょ。惚れたら自分の言うことを聞くのが当然、ってことでしょ? コワーイ」
「からかうな。五号。矢を向けられるぞ」
「それはマジで勘弁」
四号が、五号を不思議そうに見た。口数も表情も乏しいが、案外四号は目の奥が分かりやすいのだ。
「惚れた相手に尽くせるって、幸せじゃないの?」
「あ、そっち? 好きな相手には、なんでもしてあげるって気持ちの具現なのか、アレ」
「まぁたしかに。お前の矢に刺されたやつ、幸せそうといえばそうか」
二人はやっと、四号の能力について納得した。しかし五号が、さっと手を振りかざし、テーブルの上にアイスクリームを三つ出してみせた。
「でも、幸せかどうかで言ったら、美味しい食事を出せる、ボクの能力が最強でしょ!世界中の美味しいものを食べて食べて食べまくるまで死ねない! ボクのそんな思いが具現化した、すごい技なんだから」
「ハッ。最高の睡眠を提供できる俺が一番に決まってるだろ。冬の布団の中の抗い難い柔らかさと温かさを、いつでも与えられるんだ。俺は、生きる為に寝るんじゃない。気持ちのいい睡眠を取るために生きてる! 」
「……僕は、スレッタ・マーキュリーとセッ」
言うな!!!! とオリジナルが四号の顔に枕を叩きつけた。〈オートクチュール・ピロー〉。椅子からぐらりと四号が傾き、意識が朦朧となりながらも、何事か呟いている。珍しく、四号が熱く語る二人に合わせて、なにか自分も言った方がいいのだろうか、と考えた結果だった。
「彼女と、セックスをするのがすべてでは、ない、けれど……すれったに会ってから、まいにちがしあわせ、なんだ……。あと、アイスよりスレッタ・マーキュリーがあーんしてくれたクレープの方が美味しい」
がくり。四号が目を閉じた。その寝顔は幸せそうで、スレッタのことを夢に見ているのかもしれない、と二人は思った。
「クレープって、あーんで食べさせにくいでしょ」
「知らん」