寒い夜の日の話 そろそろ眠ろうと、読んでいた本を閉じ、ベッドに潜り込む。ほんの少し前まで、暁の皆がいた時は静かな夜でも人がいると感じたが、今は本当に静かだ。
目を閉じて、息を吐く。そろそろ眠りに落ちそうだという時に、リンクパールが鳴った。
起き上がるのを拒否しかけた体を無理に起こし、応えると、誰かの息遣い、いや、誰かは分かっている、ジルだ。随分躊躇っていて、このまま切ってしまいそうな気配を感じた。
「眠れないのか?」
『……そっちの部屋に、行っていい?』
「構わないけど……」
通信はぷつりと切れて、それから遠くで扉の音がする。ひたひたと、廊下を歩く人の気配。扉を開けて待っていると、布団の塊が近付いてきた。
オレに促されるまま、布団の塊は部屋に入ってくる。それから布団の中からでてきた彼女が、オレのベッドに潜り込んだ。
「その布団もかけて」
「はいはい」
落ちている布団を拾って、布団の上に乗せる。これで結構な重みはあるだろう。早くと言わんばかりに隣を叩くので、オレもベッドに潜り込んだ。並んで横になると、かなり狭い。それはそうだ、比較的小柄な種族同士とはいえ、大人が二人。冷たい手がオレの左手にあたったから握ってみるけど、別段反応はない。意識されていないな、と思う。
「雪降ってた。寒い」
「別に雪ってほどでも無かっただろ」
「雪だったよ」
「じゃあ、クルザスやガレマルドとどっちが寒い?」
「ガレマルド」
迷うことの無い言葉に、笑い声が零れた。眠気はどこかに飛んで行ってしまって帰ってきそうにない。
隣の体からなんとなく冷気が漂っている気がする。湯冷めしたのだろうか。石鹸の匂いがするから、シャワーは浴びたのだと思う。
「向こうは寒いつもりで厚着してるから良いんだよ」
「じゃあ、こっちでも厚着したらいいと思うぞ」
「……そうだね。もう帰る」
「わ、悪かったって……! ほら、冷えてるんだからちゃんと布団かぶって、って、ちょっとなんで、そんな冷えてるんだ?」
手が冷たいが、指先が冷える人がいることは知っていたからそこまで気にならなかった。だけど、布越しでも分かるくらいには身体が冷えきっていて、よく見えなかった顔も冷たくなっている。多分、頬も赤くなっているだろう。ぺたぺた顔に触れて、そうしたら擽ったそうに笑う。とりあえず、抱き締めて背中をさすると、されるがままになっているジルが、少し擦り寄ってきた。なんだろう、これは、甘えられているのかもしれない。
「オーロラが出てたから、見てた。街の端にお気に入りの場所があって、あまり人がいないんだけど、そこのベンチに座ってて。それで、そしたら雪が降ってきて。でもまだ帰りたくなくて、こうなった」
「そっか。次は呼んでくれ。コートでもマフラーでも持っていくから」
「うーん。気が向いたらね」
気が向かないことの方が多そうだ。呼び出してくれる時は相当面白かったか綺麗だったかになるのだろう。それだって、夢中になっていたら、オレのことは思い出さないかもしれない。あんたがいればどんな景色だって、と思うのは、待つ側の視点で考えているからであって、オレだって、どうでもいい有り触れたことで呼び出そうとは、思わない。
腕の中で身じろいで、顔が見える程度に距離を取られる。手が伸びてきて頭をわしわしと撫でられた。
「グ・ラハ」
「うん?」
「というか、水晶公、に、聞きたいことがあるんだけど」
「え、っと。分かった、話してくれ」
「結婚したことある? 結婚じゃなくても、恋人とか、子供とか、いた?」
「あ、あのなあ……。してない、いなかったし、子供なんて作ってないからな……」
「なんで?」
「なんで、って。そりゃあ、家庭を作るわけにはいかないだろう。水晶公は、世界とあんたを救って消えるつもりだったんだから。それに。もう人の体じゃなかった」
加えて、恋愛かどうかは別として、オレの一番はずっとこの人だったのだ。民を慈しむ気持ちはあってもそれだけ。家族、という話だけであれば、ライナがいる。だがそれは彼女もよく知っているだろう。
「他に質問は?」
「子供、好き?」
「え? まあ……、子供のいる街はいいな。そんでもって彼らを守り育ててゆく環境や意識が整っているとなお良い」
「水晶公は子供にもモテたんだろうな」
「よく懐いてくれていたと思うし、愛おしかったよ」
分かった、ありがとうと呟いて、少し視線が、オレから逸れる。ぼんやりとした表情は、何か考えているのかもしれないし、疲れてしまったかもしれない。どちらにせよ、邪魔することは無いので、静かにその様子を眺める。
暫くして、ジルの体から冷気が漂わなくなって、ちゃんと温まって来たことに安心しつつ、眠気に負け始めて目を閉じている時間が長くなってきて、もうこのまま寝てもいいんじゃないか、と思い始めた頃だった。
「病院に、行ってきたんだ。宙の果てから帰ってきて、一度、色々調べてもらってて」
再び、眠気が吹っ飛ぶのに充分な言葉だった。
「至って健康、めちゃくちゃ丈夫だねって、言われた。それから、なんでこれで生きてるの、ってさ」
ひとつひとつを、丁寧に、言葉にしている。言葉を選んでいるのが伝わってきて、ただ口を挟むことも出来ずに聞く。視線が合わない。笑顔が張り付いている。
「結構、色々凄いことになってたみたいで、まあ、エーテルがめちゃくちゃになって、それが補強されたってヤ・シュトラも言ってたけど、何か変質してる、らしくて。それがたまたま絶妙なバランスで、生き物として成立してるらしい。あ、でも生きていく上ではなんら問題ないって。痛いところもないし大丈夫、なんだけど、でも」
声が震えていて、思わず、彼女の手を握る。すると、照れたように笑って、握り返してきて、それから、すとんと、表情が落ちた。
「話を聞いて、一番に思い出したのが、君だった。君の選択肢に私がいたら、悲しむかなって思ったから。はやく言わないとって、思って」
「選択肢って」
「恋人とか、結婚、とか」
「た……確かに、オレはあんたとなら、それだって」
「ごめん。私とは、ダメだ。君が望むならなんだってしてあげたかったけど、多分私の体は、もう子供が作れない」
繋いだ手を、ぎゅっと握られた。その後すぐに力が抜けて、オレの手からするりと逃げてしまって、何故か酷く焦って、目の前の体を抱き締めた。少しの抵抗もして欲しくなくて、腕に力を込める。驚いて固まっていたが、諦めて身体の力を抜いたジルが、少し呻く。宥めるような、少し掠れた声。
「苦しいってば。話、聞いてた? 私はもう、人と呼べる体じゃないんだよ」
「オレは、そういう意味で言ったんじゃない……。そうじゃないんだ」
「大丈夫、分かってる。水晶公を人じゃないなんて思ったことないから、ね」
英雄にとって、役目というものは何よりも優先されるものだったのだろう。義務や大義、世界と命運に比重が置かれ、大きな命の流れが重要視され、己の感情は後回し。この人は分かっていない。命は紡いでいくものだが、それは権利であって義務なんかではない。
役目を果たせないから自分を選ぶなと、そう言いたいのだ。無駄なことをするなと、自分を抱いても何も生まれはしないのだからと。
「あんたは何も分かっちゃいない」
自分のことすら俯瞰して見すぎだ、目の前のことすら曖昧になっている。焦りなのか怒りなのか、いや怒っている訳では無い。悲しいのかもしれない。抱き締めていた体に乗り上げて、手首を抑えた。怪訝そうな顔で、だけどオレを信頼しきって、こちらを見上げている。オレが、一番愛している人だ。嫌われたって以外で突き放されたら、堪ったものじゃない。
「いいか、まず、恋人や夫婦において、血を残すことや、子供を作ることも、そのための行為も、義務なんかじゃない。だから別に必要ではないんだ。そんでもって、性行為っていうのは、子供を作る手段、というだけではない」
「……グ・ラハにとっても?」
「手を繋ぎたいって気持ちは分かるか? 何かを知ったら、もっと深く知りたくなる気持ちは?」
手首を握った手を離して、投げ出されたままの手を握った。視線を向けてそれを見たジルは、少しして、握り返してくる。
「うん。分かる、けど」
「同じことだ。もっと触れていたくて、生きているって感じたくて、それからもっと色んな顔を、姿を見たいって思う。互いに無防備でも大丈夫って信頼があって、それから気持ち良くなりたいし、なって欲しいって。そういう思いを満たすための手段のひとつ」
頬に手を当ててやると、すっかり温かくなっていた。目元を撫でてあげて、それから唇を触ると、指先が呼吸で温められる。尻尾がオレの脚をゆるく叩いている。
「他の方法だっていい。けど、オレに限って言えば……」
「抱きたいなって思うんだ?」
「そ、そうだよ」
「子供が作れなくても。それは、目的じゃないから」
「そういうこと、だ」
それから見上げてくる目を見つめ返していたが、耐えきれなくなって、押し潰さないよう気を付けつつ、頭を彼女の首元に埋めた。息を吐く。それで憂いが少しでも晴れるなら、言葉にしたことに後悔はない、ないけれど、あまりにも恥ずかしい。そもそもオレ達は、そんな話をするような関係ではない。ただの仲間で友達だ。例え、周りより少しだけ特別扱いし合っている自覚があったとしても。
マメと傷跡だらけの、決して滑らかとは言えない手のひらが、オレの頭を撫でた。
「私は、だけど。君の子供が、見てみたかったな」
「……オレ、だって」
あんたの子は見てみたかった、と言葉には出来なかったけれど、意味は伝わってしまっただろう。出来るけどしないことと、出来ないことは、天と地ほどの違いがある。
「悲しいね」
「そう、だな」
ぽつりと呟かれた言葉に諦めの色が漂ってはいたが、先程までの冷え切った悲しみの色は薄れていて、そのことに酷く安堵した。
その後はもう、交わす言葉もなくて、眠りやすいよう、彼女の上から隣に移動して、もう一度、手を繋ぎ直して、眠った。
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「……起こしてくれたって、いいのに。全くあの人は」
上手くオレを起こさずに抜け出して行ってしまったらしい。布団は置いたままで、机の上には書き置きを残して。
『マーマレードとパンがあったら朝食べていくんだけどな。コーンスープ付きで!』
これはあれだ、お気に召したから、また並んで眠ろうというお誘いだ。きっと、またふらりとこの街に戻ってきて、部屋に行っていいか、と連絡が来るのだろう。持ち帰ったお土産が、楽しいことであれ、悲しいことであれ、きっとまた教えてくれるのだろう。オレのことを思い出したから、教えたかったんだ、とか言って。