異能パロ① 人が異形の生物に変貌する現象は、遡れば十九世紀後半のヨーロッパから始まっているとされていた。とある小さな村で起こったその悪夢の始まりは、現代の魔女裁判を彷彿とされる疑対象の磔刑と火炙りで一度は途絶えたとされていた。が、気付かぬうちに世間の認知外で少しずつ、病魔のように広がっていたのだと誰かは言う。
『それ』になった者は、関節の痛みから始まる。身体中の関節が軋み出し、気が付かぬうちに短期間で身長が──否、四肢が伸びるのだ。そうして足と手が細長い生物と化した後、全身が白く変化し、人間であった意識も面影も失われては、ただ人を襲うだけの異形と化す。故にそれを人は、白化獣と呼んだ。
二十世紀も半ばをとうに折り越した日本。首都、東京。紅蓮に沈む夕焼け空を少しばかり見上げていたとある青年は、現代では珍しい黒の羽織りを翻しながら歩いていた。グラデーションになった青緑の裾は、既に失われかけている新緑を彷彿とさせる。揺れるブロンドグレーの淡い光彩は、その奥に潜んでいる青空にも良く似た双眸を隠しながら、少しの風を起こしつつ人気のない雑居ビル群の中を進んでいた。
ふと、青年は古めかしいとあるひとつのビルへと歩み寄っていく。勿論外と同じく人気のない正面玄関へと入っていくのかと思いきや、自動ドアの手前で右に折れて、駐車場らしきフロアへと歩を進めた後、唐突にひとつの車止めの真上で立ち止まった。長くもない静寂の中で、気配を探る青年。自分を追う誰かが居ないことを確認した彼は、靴の側面でその車止めを軽く三度蹴るように叩いた。
瞬間。ごごご、と石が引きずれるような音と共に車止めと地面が沈み、溝とその裏からひとつの扉がせり上がってきた。鉄製の鈍い銀を放つ色合いに手をかけて押し開けると、等間隔で置かれた灯りの中に浮かび上がる、地下への階段が奥まで続いている。少し黴臭さを纏わせたその場所へ、青年は躊躇うこともなく足を踏み出し、降りていく。
こつこつと靴音を立ててあまり長くもない階段を降りれば、また更にコンクリートで固められた薄暗い廊下が続いていた。灯りは少し頼りなさげに揺れ、青年が歩き出すと同時に背後では先程と同じように石が引きずれる音がする。何歩か進むうちに彼がやってきたはずの階段は既にただの壁と化しており、廊下はただ隅に闇を揺蕩わせながら続くばかりだった。
一分程度の少しばかり長い廊下の先には、これまたもう一枚扉が立ち塞がっていた。今度は黒のメタルカラーに塗り固められているそれに、青年は手に嵌めていた皮手袋を外して、ぺたりと扉の面に手のひらをつく。少しの間の後、ぴぴぴと扉から音が鳴った。
『掌紋認証、虹彩認証作動、クリア。声帯認証を行います。あなたの御名前は?』
「ナンバー百十八、Aタイプ。甲斐田晴」
『声帯認証クリア。認証オールクリアです。御帰りなさい、甲斐田晴様』
「……ただいま」
小気味良い鍵の開く音と共に、目の前の扉が開く。甲斐田と名乗ったその青年はゆっくりと開かれるそのドアの速度に合わせて、足を踏み入れた。
廊下の暗がりとはうって変わって、扉の向こう側に広がっていたのは広大な空間だった。モノトーンを基調として、大小様々な扉や螺旋階段。行き交う人々はどこか忙しないながらも笑みが零れており、ああ本当に帰ってきたんだなあと甲斐田は息をゆるやかに吐いた。
甲斐田の正面、少し歩いた先の方には大理石にも似た石で作られた受付があった。そのカウンターの外側の方、受付の職員に話しかけている人影に見覚えを感じて、甲斐田はゆっくりと歩み寄る。
「アーニキ」
「お……? 甲斐田やん! 長期任務終わったんか」
「ちょうどさっき帰ってきました。そっちは?」
「俺もさっき帰って来てん、報告書上げたとこ」
「ああー……報告書……気が重い……」
シルバーの髪に紫と濃いピンクのメッシュを散らしたこの青年は、甲斐田の先輩であり兄貴分の不破湊だ。甲斐田と同じくAタイプであり、彼のアフェルは──。
「ああ、そういや甲斐田ァ」
「はあい?」
「アフェルの定期検査、気ぃ付けよ」
「えっ、何です?」
「んあー……あれや。〝シューラン″の機嫌が悪い」
「……ああ、成程……嫌だなそれ……」
甲斐田の思考を飛ばした不破の言葉に、疲れで凝り固まった肩が更に気落ちする。この機関に所属している検査器具は、自我が強すぎるのが玉に瑕だと甲斐田はよく思っていた。とはいえ、「なまもの」である時点でどうしようもないといえば、その通りではあるのだが。
◇
白化現象、そして白化獣。それに伴う影響は二十世紀前半の時点で、既に世界各地に伝播してしまっていた。重なる被害、死亡率。ナイフや重火器などの一般的な武器ではまるで歯が立たない。人類はこのまま衰退していくのかと思われていた最中、白化現象が発生した人々の間に、変異種が観測されるようになった。
贖罪人。白化現象に見舞われながらも、精神が変化せずにそのままでいた人々。ただ、全くの変化が無かったという奇跡ではなく、彼らには妙な能力が備わってしまっていた。肉体が変化した者、特定の物体や物質を操れるようになった者。そして、分類することの出来ない異変を内包した者。
そんな者たちが同じくして白化獣になった者たちを終わらせることが出来る者たちであると認知された時、世界はとある機関を打ち出すこととした。
──国際機関、失楽園。甲斐田の所属している機関であり、住まいのあるここは日本支部のひとつである。設立番号でもある「二四三四」と呼称されることの多いこの場所で、甲斐田は既に五年ほどの日々を、白化獣の調査や戦闘に費やしていた。
「おつかれさまでぇーす……甲斐田ですけどお……」
「ああ、晴。お帰り~、お疲れ~」
「あーーーー! とうじろ~~~! ただいま~~~~~! 良かったぁ、今日の担当藤士郎だったんだ……ならまだ安心だぁ……」
「ちょっとお、言うほど安心されても僕困るんだけど。ここ最近ほんっとに機嫌悪いんだよ、検査器具ってば」
中央広場から北側に入った螺旋階段の最下層には、この施設の中でも一番に精密とされる白化獣が置かれていた。──白化獣とは言うものの、機関内ではそれを白化獣とするか、それとも贖罪人とするかは議論として分かれてはいるが、一旦のところ分類としては白化獣と言われているので、甲斐田や他の仲間たちもそれに倣っている。
階段を降りきった先の大部屋には、目的の白化獣と甲斐田の同期でもある弦月藤士郎が佇んでいた。該当の白化獣はVタイプの贖罪人の管理下の元、各支部に一体は配属、運用されている。失楽園発足のとある国で研究の成果としてそれらは作り出されているというが、製作方法は未だ未知である。というか、正直人権侵害にも近しいような気もして知りたくないというのが甲斐田の本音であった。
通常、白化獣は四肢が異様に長い真っ白の人型であることが一般的だ。変異体の亜種もわんさかいるが、基本的にはそれから外れることは少ない。だが、今甲斐田の目前にあるのは、言わば──羽を中途半端に捥ぎ取られた、天使の様相に似ていた。
合成白化獣、検査器具。それらに分類される白化獣の役割は、贖罪人がその身に内包している白化現象の核であり、武器でもある林檎の変化や異常を発見するためにある。
「じゃあ、検査開始するよ」
弦月の声に頷きながら、甲斐田は所定の位置につく。真っ直ぐに見遣った検査器具の擡げた頭を見つめていると、かちかちと機器を弄る音と共に音声アナウンスが流れてきた。
『これより、合成白化獣、検査器具を用いたアフェルの定期検査を行います。該当者の声帯認証を行います。あなたの御名前は?』
「甲斐田晴です」
「分類タイプは?」
「──Aタイプ。アノマリー」
『甲斐田晴、アノマリータイプ』
機械音を響かせながら、検査器具に繋がれた管が揺れる。刹那、検査器具がゆっくりと擡げていた頭を上げて、捥がれた翼を少しだけ動かした。その顔面には、削り取られたようになにもない。目にあたるものも、鼻にあたるものも、口にあたるものも、なにひとつ。まるで白い粘土にでも埋められたかのように、のっぺりとした骨格程度しか浮き上がっていない。
これが、本国の合成白化獣か。と、甲斐田はいつもその顔を見て思う。怖いとか、君が悪いというよりは、ただ、可哀想だと。
『検査器具、エラーなし。検査対象、エラーなし。アフェル、異常性なし。該当者、アノマリータイプ、甲斐田晴の検査結果は問題ないと判断します。これにて合成白化獣、検査器具を用いたアフェルの定期検査を終了します。管理者は速やかに検査器具の電源を落としてください。繰り返します、管理者は速やかに──』
「はいはーい、聞いてるよ。検査終了、お疲れ様でしたー」
「ありがとう。機嫌悪いって聞いてたけど、いつも通りじゃなかった?」
「いやあ、さっきまではすんごい起動に駄々捏ねてたんだよ。ちょうど二時間前にイギリスから帰って来てた教授の時はもうそれはそれは。叫ぶし飛ぼうとするしで大変だったんだから」
「……僕の時は大人しくて良かった……」
所定の位置から降りつつも、ぐっと伸びをする甲斐田に声をかけながら弦月は検査器具に手を伸ばして、おそらく人間であれば髪が生えているであろう場所をゆるやかに撫でる。特段動きもしない検査器具だが、その短い翼を機嫌が良さそうにゆっくりと羽搏かせては、ぐるると喉鳴りを響かせた。それを見る度に、まあやはり甲斐田は何とも言えない感情に苛まれるのである。
とはいえ、既に検査が終わった甲斐田は一旦自由の身だ。検査室の弦月に軽い挨拶を告げて、螺旋階段を上がっていく。帰ってきた時と同じ中央広場に戻ってきてから、とりあえず報告書作成のために自室へ戻ろうかと視線を彷徨わせると、佇むその背をぽんと誰かが叩いた。
「うわっ!? わー……びっくりした。もちさんじゃん」
「んはは。お帰り、甲斐田くん」
「ただいまです。もちさんがここにいるのも珍しいような?」
「ああ、うん。呼び出し喰らって」
「呼び出し……」
「というか君もね」
「え、僕も?」
甲斐田が驚いて振り返った先には、先輩の一人である剣持刀也がけらけらと笑っていた。特例の贖罪人である剣持はその稀有さから主に日本各地を飛び回っていることが多く、あまり施設に帰ってくることはない。以前何度か調査や任務に行った仲故に甲斐田は彼と友人ではあったが、二人して呼び出しを食らうとなると、思い当たる節はひとつ。
「……もう次の調査ぁ~……?」
「ご明察」
「うわあやだあ」
「それも今回、チームだってよ」
「え? 誰と?」
「僕と君、あと不破くんと……」
「ああ、アニキも!」
「あと、社長もってさ」
「……エッ。社長って、社長?」
「そう。加賀美ハヤト」
「ええええ!? 日本帰って来てたんですか!?」
思わずホールに響きそうな声量を響かせてしまったが、それは無理もない。剣持と甲斐田の言う加賀美ハヤトとは、ホビーグッズを中心に取り扱う大企業である加賀美インダストリアル代表取締役社長であり──そして、現Gタイプ中最強と謳われる贖罪人なのだから。