ゆるやかにつま弾いた音に、歪みを感じる。調律がずれていると気付いたのは、何も考えずに指先が弦をいくつか弾いた後の出来事だった。チューナーを探すために立ち上がった剣持は、ぎいと鈍く軋んだ椅子を置き去りにしながら車の中を歩き出した。
──現世の終焉というものは、今回顧するならば思っている以上にあっさりしたものだったと、剣持は記憶していた。始まったものはいつか終わりが来るだろうとは確かに思っていたものだが、それがまさか隕石の衝突や環境破壊によるものではなく、未知の化物によって荒廃する羽目になるとは剣持も思ってはいなかった。とはいえ特段何かが大暴れしていたわけではなく、それこそ前述の通り隕石の衝突から始まり、その衝撃による地盤沈下と大津波、異常気象から引き起こされた環境破壊による地球荒廃が直接的な原因ではあったのだが。結局のところその諸々が一番最悪な形で噛み合ってしまったのは、聞く話によると桜魔皇国で言う「魔」と呼ばれる未知の化物のせいだった、らしい。ただその辺りのことを剣持本人は色々説明された割にはうまくピンとこなかったので、自分の意識範囲外で何かしらされて、この世界は滅びに向かっているのだなということだけは判断出来ている。
実際、近いうちに世界は滅ぶと予言された通り、この世界は現時点でも崩壊に向かっているようだった。崩れ落ちた道路、折れ曲がった高層ビル、燃える山、吹き出す池、夜になると何かも分からないモノの遠吠えが聞こえる。それらの中で剣持は何故か、今の今まで生きていた。昔の知り合いどころか、そもそも人という人に数十年単位で会っていないような状況だった。
この世界には自分以外の人間が残っているのだろうか。そんなことを考えながらも、剣持は今日を生きている。生きられるだけ生きようと、そう思っている。何せ、元の世界に帰ってしまった泣き虫な後輩に、もう一度会いたいという願いを抱いているから。
「……えーっと。ああ、あった」
雑多に小型機械をしまってある段ボールの中から、以前貰ったチューナーを引っ張り出す。以前これを使っていた件の後輩が、ぽつりと剣持に言った言葉を思い出した。それは彼が元の世界に帰ってしまう前、まだ懐かしい四人でいた時のことだった。
「ね、僕たちはどこから来たんでしょうね」
「……ん?」
「お?」
確かその時は丁度、別の仕事で到着が遅れていた最年長を待つため、休憩室で思い思いぼんやりしていた時だ。スマホを眺めていた剣持と、その隣でゲームをしていたシルバーカラーの青年、そして件の彼は持ち込んだアコースティックギターをぽろぽろと鳴らしながら、チューニングをしている最中だった。
心地良い音が響いている中、少しばかり眠くなっている剣持の耳にそんな言葉が届いて、一瞬何かの聞き間違いをしたのかと顔を上げたその先で彼は、特段何も変わることなくぽろりと弦をつま弾いていた。が故に、脈絡のないその言葉が余計不安立たせたものだ。
少しばかり言葉を選んでいた剣持に、隣でゲームをしていた青年の方が先に口を開く。
「哲学か?」
「ん? んー、そういうんじゃないんですけど」
「んん、じゃあ、センチか」
「んーーー……そうかも?」
「んはは、なんで甲斐田くんの方が疑問形なの。自分で言い出したくせに」
「や、何でしょ。何となくそう過ぎっただけっていうか……?」
言い出したはずの当の本人が一番不思議そうに首を傾げては、何でもないですといつものように微笑む。それに何か引っかかりがあったわけでもなかったが、今思えばあの時の発言が既に何かの始まりだったのかもしれない。世界が壊れる予兆は、それからすぐ後のことだったと剣持は記憶していたからだ。
どこから自分たちはやってきて、どこに向かっていくのか。そしてどこで終わるのか、そんなものは今の剣持であっても知りやしない。ただ間違いなく言えることは、終わってしまった世界の端で今でも生きて、息をして、何かを伝えるために発信し続けている者がいる限り、ここが始まりであることはきっと揺るがないはずなのだ。誰しもが世界は終わったのだと言おうとも、剣持はまだ終わっていないと言う。だって、今でも自分は此処で生きて、「剣持刀也」として存在し続けているのだから。
ちらりと壁に掛かった、電子カレンダーを見る。届かない配信を続けてもう数十年。誰も聞いていないそれを繰り返して、反応のないコメント欄を眺める。空虚のふちを濃くしている行為だとしても、それを無意味だと剣持は思っていない。いつかの始まりを問いたいつかの後輩が、生きているあのどこぞの異世界人が、いつかこの世界で息をし続けてきた剣持の痕跡を見つけるだろうと信じているからだ。それが剣持の生の前でも、死の後でも構わない。自分は諦観も、忘却も、後退もせずに此処にいたのだということが伝われば、それで良いのだから。
指折った回数は幾度となく。今もこうして、全自動走行付きのキャンピングカーで一人、剣持刀也は生きている。生きて、配信者として、配信を続けている。
「──僕から応答が無くなったら、まあ、死んだと思って」
『馬、ッ鹿……! 絶対、絶対もちさんの安否確認するまで、そんなこと思わないからな!』
「……んはは。馬鹿だな、甲斐田くんは」
それが、あの泣き虫で仲間思いで優しい、後輩で友人である青年へ出来る唯一のことだと、剣持は思っていた。