西暦三千云々年、国際宗教団体はとある一つの政策を打ち出した。信ずる心は救われるという表明の元、すべての先進国に国教を定めることを推奨した。勿論多様化の観点から国内で統一する宗教は各々の国で決定するべしとされたが、先進国の中で唯一その推奨という名の強制命令にひどく頭を悩ませることになった国があった。そう、今まで多神教を良しとしていた日本である。
以前より先進国の中でも日本、というよりは日本人の自殺率というのは世界的にも高く、直近の調査では第一位にあり続けてしまっていた。最早人口減少に拍車をかけているとさえ言われており、様々な文化や伝統が失われつつあると言われていた。それを他国の人々は「救われようという信ずる心が日本人にはないからだ」と囁き合っていた。云わば、国を挙げて信仰する宗教がないからだと。
そんな他国からの圧力を受け、日本政府は遂に屈してしまった。様々な協議の後、彼らは過去国内で信じられきた宗教をを洗いざらい調査した結果、とあるひとつの信仰宗教に辿り着いた。──否、辿り着いて「しまった」のかもしれない。
虚空教と呼ばれたその宗教は、いつ、どこで誕生したものか、記録にはひとつも残っていないのだという。虚空から生まれ出でし宗教。誰しもがゼロから生まれ、そうしてゼロに還っていくのだろうと教えたその宗教は、世論の知らぬ水面下で膨大な教徒を抱えていた。神ではなく、万物の始まりであり終わりである虚空を信仰するという摩訶不思議な教えが中心とされてはいるものの、明確な誰かを信仰対象としてとらえていないことが主な決め手となり、様々な反対を押し退けた上で国は虚空教を国教として定めることとしてしまった。宗教国家とはならない。ただそうだとしても、この国で推奨すべきは虚空教だと。そう言い切ってしまったのだ。
そうして、国教を定めてから数年後。日本は、人口が激増した。それは何故か。──虚空教を国教としたころで、他国の虚空教徒が次々と永住を決めたが故に人口が増えたという寸法だった。誰しもが虚空教に魅入られ、信仰し、そうして虚空へと落ちていたのである。
「──あーあ」
日本の首都、東京の某所にて。とある低いビルの屋上で、スマホを眺めていた学生服の青年は可笑しそうに溜息を吐いた。その手元の画面にはニュースが映っている。日本の人口が、国教を定める前からおよそ十倍に増加したこと。急激な人口増加のために首都部では土地が足りなくなってしまっていること。現在他国の中のいくつかで、日本の人口増加を受け自国の国教を虚空教へと変更するかどうかを協議しているところもあること。
虚空教は、膨れ上がっている。人類皆が、この膨大な波の中で虚空に還りたがっている。ゼロに救いを求めている。無が優しい隣人であることを認め始めたのだ。その始まりが、なんであるかも知らずに。
現在、教徒の中でとある噂が流れていた。虚空教を伝え始めた、所謂教祖がいるのだという話。もう百年だか二百年だか前からずっと年齢も見目も変わらない、虚空の体現者がいるのだと。それは虚空教教祖しか着ることの出来ないローブを被り、いつでも教徒たちを見守っているのだという。
「……僕は救世主なんかじゃないのにね」
ぱちんと指を鳴らした青年の服が、まばたきの合間に黒い服へと変わる。赤が内側に縫い合わされたローブを頭に被りつつ、靴さえ置き換わった革のブーツの踵を二度、こつこつと合わせる。それからすうと息を肺いっぱいに吸い込んで、青年は変化する。高校生から、教祖へ。
「この国に住まいし、虚空教徒の皆々様!」
いつしか世界のすべてを虚空へと飲み込む日まで、虚空教は止まらない。何よりも虚空を飼い慣らした教祖はそうして、今日も謳い上げるのだ。
「たすけて」と嘆く誰かに、ゼロへ還ることを説きながら。