その夢には、とある絵本が必要であると言われているらしい。本屋にはないが、古本屋にはあり、目立った場所にはないが、本棚の隅には存在している。誰かが買おうとも、数刻後には同じ場所に現れている。都市伝説ではなく、不思議な噂話でもない。何故なら、絵本の存在を知っている人間は居ないのだから。
眠る前に絵本を捲り、物語を読んだ後、眠りへつく。閉じた絵本は枕元か、枕の下へ。そうすると、ぼうと意識は眠りの水面へと沈み、気付けば読者は見ず知らずの森で目醒めるのだ。
仄明かりの月と濃紺の夜を湛えた下で、読者は白い花畑の道を辿るように歩く。鬱蒼と茂った合間のはずだというのに自然と恐怖は湧き起こらず、好奇心から歩を進めていくと、木の隙間からちらと鮮やかな輝きがこぼれ落ちた。
金の艶やかなアーチは今まで見たことがないほどに豪奢で、奥には切り株を彫り抜いた中にふかりと柔らかそうなクッションが敷かれているソファが並んでいる。ソファの前には広いテーブルがあり、細やかな装飾の施されたテーブルクロスの上には様々な果物やスイーツの数々。細いフルートグラスの中には琥珀色の飲み物が注がれているのが見て取れた。
ぼんやりとそれらを眺めていると、いつの間にか読者の前に誰かが立っていた。黒い燕尾服に白のシャツ、締めているネクタイのワインレッドの上には繊細な装飾が施されているブローチが置かれた男が、読者を見つめていた。
驚く読者へ、男は恭しくお辞儀をした。さらりと落ちるカフェオレブラウンの髪が頬を掠めて、その黒手袋に包まれた手は丁寧に胸元へと添えられている。思わず驚いた読者へ、顔を上げた男はぱちりとひとつウインクをした。
「ようこそ、御客様」
響くテノールボイスと共に開けられたアーチを、男に誘われるままに潜り抜ける。きらりきらりと輝く様々な色に目移りして立ち止まれば、また目の前から別の誰かが読者の前へと歩み寄ってきた。
その双眸はいつか読者が本で見たことのある、大粒の宝石のような瞳がそこにはあった。ペリドットのまばたきは美しく、吸い込まれそうなほどに奥深い。双眸にかかる紫色の前髪のつややかさを眺めていると、その青年は読者に気付いてすっと道を開けた。
「あっちは空いてますから、好きな席にどうぞ」
指し示された方に視線を滑らせると、そこには一人がけのソファが置いてある。ふかふかと柔らかそうな布地は吸い込まれそうなほどに煌びやかだ。そうっと読者が近付いたその背を見送って、先程のカフェオレブラウンの髪の男と、ペリドットの瞳の青年は揃ってゆっくりと頭を下げた。
「それでは、ひとときの夢を」
「ごゆるりと、御愉しみ下さいませ」
此処は、御伽噺の森。絵本の舞台と、今宵を彩る舞踏の巡り。登場人物は読者、たったひとり。
案内人の燕尾服のふたりは、今日もまた誰かを迷い込ませる。めくるめく物語の世界へ、やわらかな霧の彼方へ。月明かりは、ただ主人公を照らすばかりだ。