大人になるということは、時々、あんなに苦くて飲めなかったはずのコーヒーが唐突に飲めるようになるような心地を孕んでいる時がある。痛みや苦みに鈍くなって、様々なものを諦観で見てしまうような、そんな瞬間が度々訪れる。それが良いことかどうかはさておき、ただ寂しさが煙草の煙のように揺蕩うことがあった。
加賀美の耳にはそれぞれ三つずつの穴が開いている。勿論、若気の至りでもなければやんちゃの延長でもなく、ただ三つの空洞がそこには存在していた。以前、理由は特にないのだと話をしたことは鮮明に覚えていたが、その中身は少しばかりの無言と濁りを含ませていた。「加賀美ハヤト」はそうであって欲しいと、加賀美本人が自分勝手にそう願ったからだ。
自らを映し込む鏡の前で、指先を耳に宛がう。初めて開けた右耳のロブは、高校の時に友人と一緒に開けたものだった。当時仲の良かったその青年とは、何かとグループ内でも様々な遊びをして過ごしていた相手だったことを加賀美は憶えていた。卒業前にピアスとか開けておきたいよななんていう話をした延長で、同じグループの別の友人が余らせていたニードルで勢いのまま開けたのが流れだった。広がるじんわりとした痛みに、これが大人になることかと何となく感じたものだ。
数ヶ月後、卒業した後に加賀美はその友人の進学先が近場の大学ではなく、海外だと知った。海の向こうに渡った青年はやがて少しずつ疎遠になり、遂には連絡が取れなくなった。おそらくは向こうでの交友関係の問題であろうとは加賀美も理解していたが、それでもちくりと刺さった棘のような痛みは、長らく胸から抜けずに残り続けていた。
左耳のロブは大学に入って一年だかが経った頃。一緒にバンドを組んでいたメンバーが、他メンバーとひどく揉めたことで抜けることになってしまった。加賀美本人も何とか仲を取り持つためにと奔走していたが、結局はそういうかたちを彼は選ぶことになり、脱退してから数週間後に別のバンドに加入した噂を人伝てに聞いた。その時に何故か、件の疎遠になった高校時代の友人のことをふと思い出したのだ。ああ、ピアスを開けよう、と。
夜更けの自室の鏡の前でひとり、買ってきたピアッサーで開けた。つくりものの宝石の輝きが、月明かりを浴びて煌めく。熱を帯びた痛みを感じながら開けたてた耳を触ると、そこには間違いなく銀の杭が突き刺さっている。つくづくグロテスクな行為だなと過ぎったのにも関わらず、加賀美はどうしてかそれを自らの痛みとした。
これが病んでいると称されるならば、人は誰しもこの病に罹るだろう。そういう暗闇ではないのだ。確かに仄暗くはあったが、心地としてはどちらかというと、蝶の標本をつくるようなものである。
人の去り際に、傷を残す。大人になることは、鈍くなることだ。苦みにも、痛みにも、別れにも、悲しみにも、どんどん鈍くなっていく。ならば目に見えるかたちを残しておけば、去った誰かを忘れることはなくなるだろう。鏡を見れば、いつだって思い出せる。記憶と、最後に見た背中を。
「痛、っつ……」
ばちん、と大きな音が鳴って、じんと熱と共に痛みが耳に走る。右耳の元々空いていたロブの少し上に、またひとつ傷をつけた。三つずつだった穴はバランスを崩すが、非対称に言及する者などいないだろう。そもそも言うほど人間は自分のことを見てはいない。それも、大人になってから知ったこと。
遥か前に、自分の先輩であるとある高校生が何の気なしに質問したピアスの話をふとゆるく思い出す。あの時、自分はなんて答えただろうか。気安い相手だからと言って変な話をしていたらと一瞬心配になって、まあきっとそうであろうとも、あの人のことだからさして何も言わないだろうとも過ぎった。語彙力豊富によく喋る割には、そういうところで口が堅い人間であることも良く知っていたのだ。きっと真実を告げていたとしても、おそらくは特段何も言いやしないだろう、とも。
覗き込んだ鏡の向こう側の自分の、長らく綺麗だった耳に新しい穴が開いている。別れの痛みのために、目を細めたその双眸のうろにふと、見知った背が見えた気がした。すぐに居なくなることはないと分かっていながらも、衝動的にそうせざる得なかったのは、きっと情があったから。
今も昔も、とうとうとこぼれるものは単純なひとつばかり。人は、永遠などではないんだなという、ただ当たり前のもの。
「……あなたも、私を置いて去るんだな」
洗面台に流れていった黒茶色の一言は、苦味を携えて白を汚す。涙なんてものは出やしない。何故ならもう、加賀美は大人になってしまったのだから。