空が赫い。橙色とも言えるし、群青とも言えるだろう。けれど間違いなく、それは赫かった。朝焼けは眩しく双眸を眩しく照らして、その陽の袂で髪をたなびかせた少年が一人立ち竦んでいた。
「帰ろう」
その意図が分からないまま、俺は頷くことも否定することも出来ないで彼の双眸を見ていた。萌黄色の輝きはまるでホログラムのようにきらりきらりと瞬いている。赫の中に浮かぶ星のようにそこに在って、俺を此処に留めさせた。
どこに、とも言えず、どうやって、とも言えず、俺はただ握り込んでいたペンを取り落とした。からんと落ちた音が木霊して、ぶわりと目の前に墨が広がるかのように黒に塗り潰された。言葉が描けない、言葉を繋げない、言葉を紡げない。これを確かに震える手でずっと握り締めて来たのに、これさえ失ったら俺は。そんなことばかりが目の前を掠めて。
「……──、」
不意に、歌が聞こえた。
◇
加賀美が目覚めなくなったという連絡がろふまおの他三人の元に届いたのは、収録が控えていたとある日の朝だった。数日前より加賀美自身が少しばかり体調が芳しくなさそうだという話は交流の厚い彼等も聞いていたし、プライベートでも良く集まることの多い社やチャイカからも何度か問われることが多かったが、本格的に寝込んでしまったのかと心配を滲ませた他三人の返答に、スタッフは口を濁すように零したのだ。
「いえ──寝込んだのではなく、言葉の通り、目を醒まさなくなってしまったんです。加賀美さんのマネージャーとご自宅を訪ねたんですが、声をかけても揺さぶっても起きなくて。呼吸はあるのですが、こう、妙な様子で……丁度同行してくださってた社さんが、甲斐田さんを含めた皆さんを呼んだ方が良いと言うので。今日の収録はキャンセルで、加賀美さん宅まで来ていただけませんか」
その話に、甲斐田は咄嗟に気付いたのだ。これはもしかして──魔や、それらに付随する何かなのではないか。加賀美が何かに魅入られてしまった可能性があるのでは、と。おそらくその可能性を察したらしい不破と剣持も顔を見合わせて、すぐさま分かりましたと告げる。自分たちで何が出来るかは分からないが、それでも心配にざわりと身の内が煮返していることもまた確かだった。
すぐに案内しますと一度休憩室を出ていったスタッフの背を見送りながら、三人は緊張から細く息を吐いた。頼り甲斐のあるろふまおのリーダーの一大事、勿論自分たちでやれることがあるならばとまばたいた不破と剣持を見遣りつつ、甲斐田はそっと意識をゆるく集中させて、慣れた様子でどこかへと感覚を飛ばす。所謂念話と呼ばれる、桜魔皇国出身にしか扱えない方法で彼はすぐさま長尾と弦月へと連絡を取った。もしかしたら魔が現世に入り込んでいる可能性がある、どうか周りを気を付けてと。すぐさま返ってきた返事はいつも通りではあったものの、加賀美の安否を心配する言葉といつでも手を貸すという一言が付随していたので、甲斐田もふっと少しだけ冷静さを取り戻した。
「……甲斐田。目醒めないようになる魔とかおんの?」
「時々。ただ大体人間に取り憑くような悪さするやつは、心の闇とかにつけ込むことが多いんですよ。流石に社長が悩みなしだなんて言わないですけど、でも──」
「メンタルの隙とか見せなさそうだけどね、あの人」
剣持の言葉に、甲斐田と不破は無言で小さく頷いた。それなりにもう三年目の付き合いにもなれば、彼の人がどんな人間であるかなんてことはある程度掴めるようになるものだ。不破は思っている以上に考えなしではないだとか、甲斐田は周りの予想以上に打たれ強いだとか、剣持は誰よりも強かであるだとか。その中に、加賀美ハヤトという人の印象も何となくは彼らの中で確立されていた。
前向きで、しっかり者で、大人で、だけど子供でもあり、何事にも楽しむ姿勢があって、そして頼れるリーダーであるということ。そんな彼に何かつけ込まれるような隙があったのなら、それはきっと彼自身に何かあった時だ。目覚めなくなったそのまどろみの底で彼が何を思っているのか、今は分からないが──ただ、自分たちでそれを引き上げることが出来るなら、そうしてやりたいと。確かに三人は紛うことなくそう思っていた。
◇
過去何度か三人は加賀美に誘われて彼の家に上がったこともあってか、その部屋は当たり前の如く見慣れた光景が広がっていた。ひとつ違うとするならば、ベッド上に加賀美が横になっていることくらいだろうか。
端に寄った時に見えた彼の姿はいつも見るスーツ姿で、まさかこのまま寝ていたなんてことはないだろうと視線を彷徨わせると、勝手知ったる顔でキッチンから三つのお茶が入ったペットボトルを持ってきた社が軽く声をかけてきた。
「社長、このまま寝てたんだよ。俺たちが見つけた時もそう」
「……昨日帰ってきてそのまま寝たとか?」
「いや、俺の記憶が違いないなら、確か社長って昨日一昨日は家に居るはずなんだよな。三日前本当は俺とチャイカとプラモ見に行く予定があったけど、最近ずっと具合悪いっつってたからリスケになって。その連絡が五日前だったから、この五日間は家に居たはず」
「ってことは、五日前は意識があったってことですよね。四日前は?」
「葉加瀬と夜見が連絡取ったって言ってたな。相変わらず具合悪いつってたらしい。三日前の時点でゆめおが相談したいことがあってチャット送ったらしいけど、返事なかったってよ」
「じゃあ意識が確実にあったのは四日前までってことか……」
ふむ、と顎に指を当てる甲斐田と、加賀美の私室をきょろきょろと見回す不破。その隣で剣持は変わらずずっと生きているかも不確かな横顔を晒している加賀美を見つめていた。こんなにも静かで生気のない顔をしているところを見たことが無かったからだろうか、剣持の心の裏がざわりと嫌な感触で騒ぎ続けていた。
静けさが満ち始めていた加賀美の私室で、甲斐田は少しばかり瞼を閉じると手繰るように顔を上げた。ぱち、と目を開けたその正面には、丁度何かを机から拾い上げていた不破がいた。
「不破さんそれ」
「んあ、これ? ほい」
たったそれだけの会話で、不破は甲斐田に手に持っていた紙を手渡した。ぺら、と捲ったそれはどうやら加賀美宛に届いていた手紙のようで、同窓会の文字が垣間見えた。おそらく現世では当たり前なのだろう文言の幾つかの中に、既に欠席の欄へ丸が付いている。まあ加賀美自身仕事とライバー業とで忙しい身であることは確かなのだから、同窓会なぞ出ていられないのだろうとは想像に難くはないのだが。
ただ何故かそれが、甲斐田は妙に感じたのだ。何かと人付き合いは悪くないだろう加賀美だ、同窓会など一時間だけでも行きそうなのに。などという何となくの印象が邪魔したせいかもしれない。
然して結局のところ、この部屋に訪れた時から充満している気配に、今現時点で明確な理由が分からない以上どうしようもない。一旦は原因を叩くしかないだろうと踏んだ甲斐田は、部屋内に居た不破、剣持、社の顔を見回して言った。
「端的に言うんですが、社長が目覚めないのは魔のせいです。おそらく桜魔皇国から抜けてきた何かしらに取り憑かれた可能性がありますね」
「……僕らでどうにか出来るの?」
「出来ますよ。寝ているだけなら起こせばいいんです、夢の中に介入して」
「おいおい、簡単に言うなあ」
「多分スタッフさんが僕を含めて呼んだのも、この可能性が大きいと判断したからじゃないかな。とりあえず夢の中に入るための準備をするんですが、そのために三人の手を借りたいんです」
「俺らでやれること、あるん?」
不破の問いかけにこくりと頷いた甲斐田は、ちらりと社を見た。
「社さん、もし社長が起きた時にひどく衰弱していると思うんで、食事作ってもらえないですか。なるべく胃に負担が少ないもので」
「おっけー。買い出しから行ってくるわ」
「不破さんは僕のサポートを頼みます。夢の中に入るために術式を安定させようとすると、僕動けなくなるので」
「おん、任せや。何か来てもぶん殴ったるわ」
「で、剣持さん」
甲斐田の呼びかけに呼応するように、剣持が顔を上げる。
「剣持さんには、社長の夢の中に入って欲しいです」
「……え、甲斐田くんじゃなくていいの?」
「僕は外で夢の中に入る術式を安定させるだけで精一杯ですから。この中なら、一番社長を引っ張ってこられそうなのは剣持さんしかいないですし」
「……何根拠?」
「えっ。……仲良いし?」
「それ別に僕だけじゃなくて、甲斐田くんも不破くんも仲良いでしょうが。……まあ、やれることはするし、良いけど」
肩を竦めて見せるその姿は冷静さを纏いながらも、少し緊張を張り巡らせたのだろう。無理もない、自分以外の誰かの夢に入って当人を連れ帰れなんていう大役、普通の高校生にはあまりにも大きすぎる。一瞬だけ惑うように視線を巡らせた甲斐田だったが、それに気づいたらしい剣持は彼の肩をぱしりと強めに一度叩いた。
「い、って!」
「大丈夫、行くよ。僕、君らの先輩だし」
そう零しながら剣持が双眸を向けた先。そこにはやはり目覚めることのない加賀美の姿が、静かに横たわっていた。
◇
夢に介入する方法というのは幾つか確立されている。というのも桜魔皇国では魔に取り憑かれて目覚めなくなる人というのは割とよくあることだからだ。頻度で言えばインフルエンザに罹るようなものである。ただそれは常に魔と隣り合わせの生活を過ごしているあの世界の住人であるからその程度であるというだけで、現世人になるとまた話が変わってくる。夢に対するとらわれや、抜け出しが格段に上がってしまうのだ。
現世人は魔への対抗が低いために、一度入り込まれてしまうとそれこそ甲斐田のような異世界人がいない限りは自力で抜け出すことが敵わない。そのまま目覚めないままで衰弱していくか、ひどい時には心にとらわれて死んでいくことさえあるという。故に現世には時々祓い屋と称して異世界人が混じっていることがあるのだが、まあそれは一度置いておくとしてだ。
一般的にポピュラーであり、また確実性が高い方法として対象の夢をこじ開ける術者と、それに介入して対象者を連れ帰る誰かが必要になる。今回で言えば術者は甲斐田で、対象者を連れ帰るのは剣持だ。香に似た金木犀の香りと共に意識を集中させ、段々意識を白んだ世界へと進ませる。それこそ眠りに誘われるような心地を覚えつつも、ただ遠退くことのない意識がぱっと白に満ちていた世界からどこか暗転した暗がりの中に置かれた瞬間、剣持の双眸にはいっぱいの星空が映っていた。
「……どこだ、ここ」
きょろりと視線を彷徨わせてみると、どうやらそこは見覚えのないどこかの学校のようであった。長く続く廊下には人一人居らず、左右に並ぶ教室にも誰かいる様子はない。衣擦れの音だけが小さく響く教室内で、剣持は加賀美の姿を探した。が、何処にも影さえ見つけられなかった。
一度教室を出て、暗がりの転がる廊下を歩きながら教室を見て回る。夜の学校なぞ人がいる方が大問題ではあるが、ここは夢の中。誰かしらがいないと困るのだ。出来ればその最初のエンカウントは夢の主であれば助かるけどな、なんてことを考えながらとんとんと靴音を鳴らして階段を上がった、その先。どうやら既に上はないのだろうその踊り場には扉のない屋上が、口を開いて佇んでいた。そしてそのまた奥で、ひとつの椅子に座っている誰かの背も。
たんたんと階段を小気味よく昇り、扉のない屋上へと踏み入る。どこまでも続く夜は静けさを湛えていて、その真ん中で背を丸めている誰かはどうやら机に向かって何かを書いているようだった。黒髪のその人物を覗き込もうと剣持が彼の影の正面に立とうとした、瞬間。
「!!」
急にその誰かが叫び声を上げながらがたん、と椅子を倒して立ち上がったのだ。大きな音にびくりと剣持が固まっている間に、目の前の誰かが此方を見てぱちりと目が合う。ふわりと揺れた長い黒髪の間から見えた双眸は、宝石にも似た美しいアーモンドカラー。見覚えのある、加賀美の瞳だった。
音と意外な姿のせいもあってか、声さえ出せずに目の前の加賀美らしき誰かを凝視することしか出来なかった剣持は、同じく人がいると思わなかったのか驚愕に塗り潰されているその者の手元へとどうにかして視線を下ろした。そしてそこに散らばっている、真っ黒に塗り潰された紙の数々にまたひゅ、と息を呑む。おそらくそこには何か文字が書かれていたのだろうという形跡は辛うじて見て取れたが、けれどそのすべてを上から意図的に黒でぐちゃぐちゃに潰した跡があった。
なんだこれ、と思わず一瞬思案した剣持だったが、それを抱えるように机に張り付いた加賀美らしき誰かの双眸にぎっと睨み付けられた。
「……しゃちょ、」
「どっか行けよ」
刺々しい声色は確かに剣持が知る加賀美だ。けれど、いつもの物腰の柔らかいあの口調とはうって変わった口振りが、更に剣持の口を噤ませた。明らかに警戒されているな、と若干の気負いに視線を惑わせると、ふとその視界に読み取れる文字が見えた。──『進路相談』『大学』『バンド』なんて文言の並ぶ、一枚の紙が。
その時に、剣持はとあることを思い出した。以前、加賀美に高校の話を振られた時に意趣返しも込めて自分はどんな学生生活だったんですかと聞いた時のこと。どこか遠くを見つめるような寂しさを含んだ表情でひとつ、「案外レールが決まっている人生ってつまらなかったんですよね」と零した時の顔を。
そこでようやく、剣持は何かが繋がったような気がした。同窓会のはがきに、弱った心、そして目の前にいる少し幼さを残している加賀美を模した姿の誰か。案外その理由が単純明快であったということも。
「……加賀美ハヤトって割と単純だったんだな」
「は?」
「いーえ、何でもないですよ」
肩を竦ませて、少しばかり机から離れた剣持は黒髪の彼から遠く視線を外して、夜の向こう側へと瞳を投げた。何処までも続く暗がりは、今の彼を映す水面なのだろう。ならば、朝を連れてきてやらねば、夢からは覚めないのかもしれないとも。
「僕、実は尊敬している人が居るんですけど」
「……はあ、」
「腹立つくらいしっかりした大人なのに、子供みたいな顔で何でも楽しそうにしてるんですよね。本当にむかつくくらいに」
「ガキってことじゃないのか」
「ガキってわけじゃないんですよね。頭は良いし、気遣いも上手いし。なれるなら、僕はああいう大人になりたい」
「……ふうん」
「でもあの人も僕と同じで、色々と悩んで乗り越えてきたんだなってことを今知りました。遠い人間の気がしていたんですけど、案外手の届く背中だったんだなと」
遠くに投げていた視線をちらりと戻して、剣持は目の前にいる黒髪の青年を真正面から見つめる。吹き付けた強い風が気付けば机の上に縫い留められていた紙をばさばさと飛ばしては、白い鳩のように空へと舞い上がりながら千々に散った。
すう、と大きく空気を吸い、剣持は言葉と共に息を乗せる。何かを伝えたいと、ただ愚直に願って。
「だから、大人になることって案外悪くないみたいですよ。社長」
その瞬間、ざあっとまた一際大きな風が吹きつける。その強い風に乗せられるかのように、夜の端が朝を見せ始めていた。
◇
歌いたいと思っていた。いくらでも歌えると思ったし、こいつらとならどこまでもやれると真面目に考えていた。けれど、それを誰よりも早く裏切ったのは俺だった。
立場が、道が、未来が、こんなにもあっさりと上から押し付けられるように決まって、それ以外のものは必要がないと言われた時。大人になりたいだなんて誰が思うんだろう。バンドメンバーを、友達を、仲間を裏切ってまでなる大人にどんな価値があるんだろう。馬鹿な虚実譚ばかりを書き殴った歌詞に矛盾を孕んで、自分との乖離の溝ばかりを見つめて、ただそれが引き攣れるようにずれて、ずれて、ずれて。
殴り合いになって喧嘩別れした。気付けば卒業は近くて、俺は色んな人を裏切ることになって。大好きだった歌が歌えなくなった時、最早自分の価値観さえ見えなくなった。作っていた歌詞さえもう何も思い起こすことが出来ない。いっそ死なせてくれ、殺してくれ、そんな風にさえ過ぎって。
「──だから、大人になることって案外悪くないみたいですよ。社長」
でも、見知らぬ誰かが、そう言ったのだ。大人になることは悪くないのだと。
ああ、空が赫い。橙色とも言えるし、群青とも言えるだろう。けれど間違いなく、それは赫かった。朝焼けは眩しく双眸を眩しく照らして、その陽の袂で髪をたなびかせた少年が一人立ち竦んでいた。
「帰ろう」
その意図が分からないまま、俺は頷くことも否定することも出来ないで彼の双眸を見ていた。萌黄色の輝きはまるでホログラムのようにきらりきらりと瞬いている。赫の中に浮かぶ星のようにそこに在って、俺を此処に留めさせた。
どこに、とも言えず、どうやって、とも言えず、俺はただ握り込んでいたペンを取り落とした。からんと落ちた音が木霊して、ぶわりと目の前に墨が広がるかのように黒に塗り潰された。言葉が描けない、言葉を繋げない、言葉を紡げない。これを確かに震える手でずっと握り締めて来たのに、これさえ失ったら俺は。そんなことばかりが目の前を掠めて。
「……──、」
不意に、歌が聞こえた。耳馴染みがあって、だけど俺はそんな歌詞を書いたことも歌ったこともない。けれど間違いなく知っているそれに、はっと見開いた双眸の向こうで、紫色の髪の少年は楽しそうに歌っていた。
羨ましい。歌いたい、歌いたい、歌いたい! 僕も、俺も、──私も。
ざあっと色が鮮明に戻っていくように夜が明ける。目の前を掠める薄茶色の自分の髪を雑に掻きあげて、喉を開くように声を発した。伸びていく声が交じり合って、萌黄色の双眸が細く笑んだ。まるで出迎えられるように紡いだ音は、眩しい世界に取り落としたペンを突き立てた。
そうだ。私は確かに、此処に居たんだ。
◇
件の魔というのは甲斐田曰く、そこまで大きなものではないという話だった。ただ少しばかり狡猾であり、負の感情を膨らませることが上手いらしい。例えば、少しばかり過ぎった学生時代の苦い後悔を増幅させるくらい、容易いことであった。
剣持の意識が戻るのと加賀美が目覚めるのはおおよそ同じくらいで、どっと疲れた剣持とはうって変わって数日眠りこけていた加賀美はそれはもう今までのエネルギーを取り戻すかのようにご飯を食べた。社が用意していた料理を平らげた挙句足りないと宣った彼は、迷惑料として四人に出前寿司を山ほど注文した上でそれを全部食べた。それはもう今までないくらいの量を食べる図に、胃の心配なんてしなくて良かったかとどこか遠い心地で彼を見ていた甲斐田がいたりいなかったりしたものである。
加賀美の不在は思っている以上に様々な影響を出していたようで、両親と社員にはひどく心配され、事務所に行けば様々なライバーに具合を聞かれまくったようだった。同期二人からは差し入れをぽいぽい投げられ、夢追からは快眠グッズを押し付けられ、雑キープの二人には積みガンプラを増やされたらしい。山ほどの紙袋を抱えた姿はいつぞやかのバレンタインデーに女性スタッフから山ほどチョコレートを貰っていた不破にそっくりだったと剣持は横目に見つつ思っていた。
「剣持さん」
一度キャンセルになった、塾の収録日の朝。いつもより少し早めに事務所の休憩室に着いていた剣持の元に、珍しく早く来たらしい加賀美が声をかけてきた。口に出さずに言葉の続きを待った剣持へ、加賀美は少し気まずそうに視線を泳がせてから、ありがとうございますと零した。
一瞬何の話か分からずに一巡した剣持だったが、それが何を指しているか思い出した途端、何とも言えない心地に苛まれて目線を逸らした。
「……ああ、別にいいよ。っていうか一番頑張ったのは甲斐田くんでしょ、甲斐田くんに言いなよ」
「甲斐田さんと不破さんにはもう既に言ってはあるのですが……剣持さんにはきちんとお礼をしておきたくて」
「だから別に良いって」
「……」
不意に途切れた会話に、剣持がゆるく視線を加賀美に戻す。アーモンドカラーの双眸は緩やかに窓の外を見つめていて、剣持はそれを追い掛けるように自分も外を見た。
鮮やかな、青。晴れやかな大空は、何処までも続いていそうな錯覚さえ覚える。どんな苦悩を覚えても、沈痛に苛まれても、朝はやってくるのだと思わせた。
「私、大人になって良かったです」
あの日、黒髪を揺蕩わせたちっぽけな高校生の痛みは、間違いなく加賀美の中に残っている。裏切った苦しみだって、未だにじくじくと胸を刺していた。未だ痛みは続いているし、古傷にもならないままだ。
それでもいつか、もっと大人になった時に、過去になるのかもしれない。忘却ではなく、不格好な歌として笑える日が来るのかもしれないと。
朝が来るということは、背が伸びるということは──大人になるということは、そういうことなんだろう、と。
「……そう」
「はい」
嬉しげに微笑んだ加賀美の表情に、剣持は少しだけふっと息を零した。それが何を意図して漏れた感情なのかは自分でも分からない。けれど、ただその笑顔を見て改めて思うのだった。
──ああ、大人になるなら。やっぱりこういう人間になりたい。そんな、どこかくだらない後日譚を。