#序
雄大な山々に囲まれた景色の中に、ぽつぽつと散らばるように点在する家たち。田畑はどこまでも伸び広がり、細いあぜ道は森の麓まで首を伸ばしている。人の薄い自然は、間違いなく田舎と呼ばれるべき風景だった。
その田畑の合間で、一人の少年は高い太陽をひとつ見上げてから小さな手を掲げる。眩しさに眩んだ双眸は淡いブラウンを強く際立たせていて、そこにかかる前髪は柔らかなカフェオレカラーだ。品の良さそうなシャツとサスペンダーを纏わせながらぱちりとその大きな瞳を瞬かせると、少年は一度やってきた道を振り返る。遠くに見える田舎の家々に、聞いたこともないような虫が足元で歌う。少年が住んでいる都会の高層ビルでは一度も見たことのなかった光景だ。それだけで、胸の奥底がわっと沸き立つように熱くなる心地に見舞われる。今にも走り出したいという衝動と、きっとはしたないとお母様に言われてしまうだろうという理性が少年の心の中で火花を散らしていた。
勝手に抜け出してきた少年を、彼の父は叱るだろうか。いや、しかし先に約束を破ったのはお父様の方だ、と少年は思い至る。本当であれば今年の夏は、家族で海外旅行に行く予定だった。それが彼の父の仕事の都合で急遽取りやめになった挙句、彼の母の都合とやらでこの田舎まで来ることになったのだ。
勿論少年は田舎が嫌いなわけではない。こんなに心躍る、好奇心を沸き立たせる場所はあまり無いと思っている。が、約束が守られないこととはまた別の話だ。どうせであれば家族皆で旅行に行きたかった。母が嫌いなわけでもない。それはそれ、これはこれというやつだった。
だから、という勝手知ったる理由を少年はでっち上げ、その双眸の向く森へと対峙する。その小さな靴を一歩踏み出し、そうしてもう一歩。土を踏み鳴らした足音が、テンポアップしていく。いつしか走り出した少年は森の中へと足を踏み入れた。この地では、禁足地と呼ばれている山へ。
好奇心でいっぱいになった少年──加賀美隼人は気付いていない。きらりきらりと輝いた彼の表情を高い木の上から無言で見下ろす、ひとつの大きな翼の存在になど。
◇
#遭逢
夏の木々は爽やかに、たださらさらと風の合間に揺れている。隼人は背伸びした幹に時々手を突きながら、青草の多い茂った獣道を進んでいた。舗装などされていない、おおよそ人が踏み締めて出来ていたのだろう道には苔が生え、葉が群生している。よろけないように注意をしながらも、少年の足は前へ前へと一歩ずつ森の中へと入り込んでいた。
この山に隼人が踏み入る大きな理由は二つある。一つは純粋に、興味があったから。好奇心が抑えられなかったが故とも言う。そしてもう一つは、これだけ大きな森であるならば、カブトムシが捕まえられるだろうと予測したからだった。今まで都会に住んでいた隼人は、ペットショップ以外の場所でカブトムシを見たことがない。過去に開いた虫図鑑では、カブトムシはこのような大きな森で捕れるのだと書いてあったのだ。ペットショップで買い与えられるそれに不満があるわけではないが、どうせならば自分で探したカブトムシを捕まえて帰りたい。きっと捕まえて帰った矢先には彼の母に叱られるのが事の顛末ではあるだろうが、今の彼はそんな可能性など微塵も過ぎってはいなかった。
小さな背丈で見上げる森の木々は、どれも大きく高い。ざわざわと風に揺れて歌う葉のさまが、どこか隼人を歓迎しているかのようだった。もしかしたらカブトムシだけじゃなくて、もっと珍しい虫が見られるかもしれない。期待に胸を膨らませた隼人が逸る気持ちで一歩を踏み出した、その瞬間だった。
「わあっ!?」
唐突にずり、と踏み締めた地面がずれ、足が縺れる。傾いた身体は踏ん張ることなど出来ずに斜めになって、一瞬後には訪れるであろう痛みに思わずぎゅっと目を瞑った。──が、その痛みはいつになってもやってくることはなく、むしろ隼人の腹には何かが巻き付いているような心地さえ感じた。あれ、と小さく声を上げて薄く目を開き見遣ると、彼の腹には黒布に覆われた誰かの腕が、彼を支えるために回されていた。
「へ……?」
「まったく、子供一人で山なんか来るからそうなるんだろ」
ぱちくりと目をまばたかせた隼人の背後から、聞き慣れない誰かの声がする。振り向いたその先には、紫髪を風に揺らして此方を見るひとりの青年の姿があった。萌黄色の双眸はまるで宝石のようにきらりとつややかで、隼人は思わず村の人にこんな青年は居ただろうかと思い返す。が、彼が会った人の中には確かにこんな瞳の色の人は居なかった。大体は老人か大人かの二択で、子供など片手で数える程しかいなかったのだから。
思わず驚き固まる隼人を見てか、青年は大きく溜息を吐くと隼人から手を離した。ぐら、と少しだけ体躯は揺らぐが、この程度ならば自分でバランスがとれる。改めて隼人は青年に向き直り、わあと思わず声を上げた。
「おおきなはね!」
「……最近の子供はビビって逃げたりしないのか。面倒だな……」
今までどんな本を読んでも見たことのない不思議な服装をしていたその青年の背には、黒くて艶めいている大きな翼が広げられていたのだ。あまりもの恰好良さに声を上げた隼人だったが、向かいの青年はどこか呆れたように溜息を吐く。おおよそ隼人が彼の翼を見て逃げ帰ることを期待していたのだろうが、隼人は都会っ子だ。そんなもので物怖じするような子供ではない。むしろ翼なら隼人だって欲しいと願うだろう。いや、どちらかといえばロボットのコックピットに乗りたい欲の方が強いかもしれないが。
青年の様相にきらきらとした瞳を向けていた隼人を見てか、青年ははああと大きな溜息をまた吐いてから隼人へと向き直る。
「帰れよ。ここが禁足地だって聞いてないのか」
「……きんそくち、って、なんですか?」
「あー……大人に入っちゃ駄目だって言われなかったのかってこと」
「いわれました」
「じゃあなんで来た」
「……カブトムシ、欲しくて」
「はあ? カブトムシぃ? そんなの五駅先の寂れた商店街にあるペットショップに売ってるだろ。わざわざ山に入っても取れないって」
「いないんですか!?」
とっとと追い出したいが故に口をついた言葉だったというのに、青年の一言を聞いた隼人が途端、悲しみを目一杯に顔へと広げる。大きな瞳からは今にも涙を零しそうな勢いで青年を見つめるものだから、ぐ、と少し声を詰まらせた青年は視線をゆるく泳がせて、ああ、だか、うう、だかを呟いた後に口を開いた。
「……いない、わけじゃ、ないけど」
「ほんとですか! ぼく、カブトムシがほしくて!」
「……捕まえたら、ちゃんと家、帰る?」
「かえります!」
「…………」
「……」
「……はー……分かった、付き合うよ。捕まえたらちゃんと家帰ってよ」
「はあいっ」
そうして小さな押し問答に負けた青年は、隼人のカブトムシ捕獲に付き合わされることとなったのだった。
◇
#理由
件の青年は自らの名を名乗らなかったが、隼人は持ち前の元気さで自己紹介をしたところ、青年は本日何度目かの溜息を吐きながら「そうやって得体の知れない誰かの前で迂闊に名乗らない方がいいよ」と言った。が、隼人は元気よく挨拶しなさいと母から教えられていたため、一瞬どうしていいか分からずに困惑の表情を浮かべるとまた更に間延びした声を出した青年は「……僕はいいよ、もう、仕方ないから」とどこか諦めた顔で視線を逸らしたのだった。なお、その後隼人が彼をおにいちゃんと呼ぶと、彼は何とも言えない顔をしてから烏と呼べと言うので、結局隼人は青年を烏おにいちゃんと呼ぶことにした。
鬱蒼と茂った森の細い道を二人、隼人の小さな歩幅に合わせて歩く。きょろきょろとあちこちを見回す隼人とは対照的に、烏の青年はどこか居心地悪そうに時々隼人を見下ろしてはその歩調を合わせていた。真面目にカブトムシを探す隼人の表情は真剣そのものであったが、その小さな背で果たして木の上にいるであろうカブトムシなんて見つかるものなんだろうか。このままずっと付き合わされるのは御免被りたいが、と心の内で過ぎった青年は、ふとそもそもこの隼人少年がわざわざ大人の言いつけを守らず山までやってきた理由を聞いていなかったことを思い出した。
大人の言いつけを毎度破ってしまいそうな子ではないだろうというのは、隼人少年を見ればよく分かる。品の良さそうな服装と言葉遣いを鑑みるに、そもそも近隣の村出身でさえないのだろうとも。おおよそどこかの都会あたりから一時的にやってきているか、引っ越してきたのか、とあたりを脳内でつけた青年は、大きな瞳をいっぱいに広げて木々を見つめている少年の頭へ声をかけた。
「隼人」
「はぁい」
「何で山に入り込んだの?」
「え? それはカブトムシを……」
「そうじゃなくて。カブトムシなら村の子供でも持ってる子いるし、なんだったらここじゃなくっても、入っていい森なんで幾らでも教えてもらえるはずでしょ。なんでわざわざこの山に入ったのって話」
「……」
少しばかりの静寂。口をはくはくと動かしながら、何かを言わんとして、そして閉口した隼人少年はいくつかの迷いを見せてから青年を見上げる。しかしその身長の高さから、木々の合間から零れた光に目が眩んだのだろう。眉間に皺を寄せて眩しそうにした隼人に一瞬不思議そうにした青年だったが、視線の先の陽に気付いてああと声を漏らしてから、自分の服が汚れるのも気にせず隼人へと視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
わざわざ目の前へと視線を移してくれた青年へ、隼人は未だ少し視線を泳がせていたものの、意を決したように萌黄色の双眸を見つめ返す。
「ぼくは、……『よそもの』だって、いわれて」
「……ああ、成程」
ただその一言だけで、青年をすべてを察したかのように俯いた。田舎特有の除け者扱い。身内認識、保守的思考が強すぎるあまりの疎外。田舎というものはどこもそういう思想が強すぎるきらいがある。青年もそれはよく知っていた。それはもう、とてもよく。
ぽつぽつと隼人の言う話を搔い摘むと、隼人の母は元々山の裾の方にある村の出身で、進学を機に上京し、そのまま結婚をしていたが法事の都合で帰郷。親族に息子である隼人の顔を見せるために連れてきたは良いものの、母は思っている以上に法事の手伝い等々で慌ただしくしているが故に迷惑はかけられないと隼人は一人で遊んでいたのだという。
村には同世代か少し上程度の子供たちがおり、混ぜてもらおうと何度も話しかけていたものの「余所者とは遊ばない」と一蹴されてしまったため、友達も出来ず仕舞いであったらしい。そんな彼等が村の端で集まり白熱した様子で見つめていたのが、甲虫を使ったバトルだったのだと。
「おおきくてつよいカブトムシをつかまえたら、ぼくも、おともだちになれるとおもって……」
「……そっか」
小さく零れ落ちた隼人の一言に、青年は何とも言えずに平凡な返事をする。彼は理解していたのだ、おおよそその程度で如きで凝り固まった保守思想の子供たちが掌を返すことなどないと。そんなに世の中は上手く行くわけがなく、簡単に進むはずがない。そうであったなら、きっと彼奴は。
そこまで考えが傾いたところで青年は一度頭の中に過ぎったものを見ないふりしてから、隼人の頭をぽんぽんと撫でた。俯いていた淡褐色の瞳ははっと青年を見てから、ぐっとこらえるように眉間に皺を寄せる。涙を我慢するように歪められた表情に、青年はふは、と笑みを漏らして立ち上がった。
「なら、でかいカブトムシ捕まえて自慢してやらないと駄目だね」
「……!」
はっと隼人が見上げたその先で、青年はにやりと笑みを浮かべる。それはどこか悪戯っ子のような表情を彷彿とさせたし、いつぞやかに母に黙って二人でガンプラを買いに行った時に見た、恰好良い父の子供っぽい表情にも似ていた。まあ、その時は見事母に見つかって父は怒られていたわけなのだが。
ただ隼人が間違いなく思ったことは、この田舎に来てからどこか感じていた疎外感と孤独が、青年の前では一切感じなかった。彼だけが、隼人がこの田舎にいることを唯一赦してくれているような、そんな心地だったのだ。
ふと、隼人の中では少しばかり、一抹の願いが過ぎる。けれどそれは、きっと青年の好意を踏みにじってしまうことだから。
「行こう、隼人」
「はい!」
その願いはそっと胸の奥底に仕舞いこんで、隼人は青年の呼びかけに微笑んで応えるのだった。
◇
#孤独
隼人が山に立ち入って数時間。何度か休憩を挟みながらも探し回っているカブトムシだったが、一向にその姿を見つけられないままで二人は山の中で大きな溜息を吐いていた。虫や甲虫が見つからないわけではないが、おそらく隼人が望んでいるような、村の子供たちを打ち負かすような大きくてカッコイイカブトムシとやらが見当たらない。思えば青年もカブトムシなんてこの昼のうちにいたっけ、なんてことを考え始めていたが、まあどこかしらに居るのなら諦めなければ見つかるだろうなんて日和見なことを考え始めていた。
少しばかり日が大きく傾き始めてきた空を見上げて、青年は日暮れまでの時間を計算する。夜になる前には隼人少年を森から帰してやらねばならないため、森の出入り口までの距離から時間を算出するため思考を巡らせているうちに、ふと、傍らから隼人の姿が消えていることに気付いた。あれ、と視線を彷徨わせて、数瞬。思わず息を呑んだのは、隼人が少し先の道で何かを見上げて佇んでいるのが見えたからだった。
「隼人!」
慌てて駆け出した青年が、つい数刻前に転んだ隼人を抱き留めた時のようにその身体へ腕を伸ばす。ぐいと引き寄せ後ずさると、先程までとらわれたかのように一点だけを見つめていた隼人がはっと我に返ったかのように青年を振り返った。
「からす、おにいちゃん……?」
「馬鹿、何で勝手に先に行ったんだ! 森はただでさえ危ないんだから、一人で進むなって最初に……!」
「……ごめん、なさい」
ぽろ、とその瞳から大粒の涙を零した隼人の姿に、青年は思わずぎょっとする。荒げていた声を引っ込めては自分の足の中で泣きじゃくり始めた隼人におろおろと視線を彷徨わせると、たどたどしく双腕を広げてぎゅっと抱き締めてから背を優しく撫でた。
そもそもな話、必死になってしまったとはいえ青年も分かっていたのだ。隼人少年は別に先に行きたくて進んでしまったわけではないということも、自分がうっかり目を離してしまったが故に「連れていかれかけた」ということも。
けれど、それを言ってしまっても隼人は理解が出来ないだろう。──否、違う。青年は恐れていたのだ。この森を、自分を、隼人が怖がってしまうことを。
「……僕の方こそごめん。叱りすぎた」
「っ、う、うう、ひぅ……ごめんなさ……」
「いいよ。怪我なくて良かった」
ゆるやかに背を撫でて、泣きじゃくるその声を聞きながら青年は顔を上げる。遥か前方に佇む、朽ちた赤鳥居。隼人が見つめていたのはその鳥居の先にある、壊れたひとつの祠だった。かつて、この祠には大昔とある神が住まわっていた。ああいや、違う。住んでいたのではない。楔として置き去りにされていたのだ。永遠にもなれず、終わりも定められない、可哀想な贄が。
少しばかり胸を突いた痛みに、青年は目を伏せた。遥か過去に見た橙色の髪を思い出して、ぐっと息が詰まる心地がする。彼が終わってしまってから、もう幾年が過ぎたのだろう。そんなことを考えてしまったからだった。
「……からすおにいちゃん」
「……ああ、うん? 何、」
「どうしてないているんですか……?」
いつの間にか泣き止んでいた隼人が、不安そうに零した言葉にはっと青年は袖で自分の頬を拭う。そこには煌めいた涙の痕が染みになって残されていて、迂闊だった、と青年は咄嗟にそう思った。長らく過ぎ行く悠久の中で、すっかり忘れ去るつもりでいたはずの記憶が蘇ってしまった如きでこの体たらく。子供に見せるものでもないだろうに、なんてことを過ぎらせて、目を瞑る。
久々に人間の温かさへ触れてしまったからなのかもしれない。そんな風に考えて、青年は振り返るように思った。やはり、この山に人間を招き入れてはいけなかったのだと。
「隼人」
「はい」
「……帰ろう」
「え? でも、カブトムシは、」
「……ごめん。諦めて」
「でも、」
「……っ、隼人!」
「ぼくが、わるいことを、したからですか……?」
「違う。でも、……でも、」
歯切れの悪い声。今にもまた泣き出してしまいそうな双眸。悪いことをしている自覚はあった。約束したというのに、それを破る行為であるとも。けれど、これ以上隼人少年をこの山に留めておくわけにはいかないと青年は思ったのだ。そして、自分の傍に置いてもいけないと。
長い長い時の中で、生半可な心が悲鳴を上げていた。一度温かさを知ったものが、それを失った後、孤独に身を窶した時にその冷たさに痛みを感じないはずがない。少しずつ、冷たさが感覚を奪うように孤独が馴染んだとしても、時々温かさを思い出してしまえばそれはまた痛みに変わってしまう。青年にとって隼人は、その温もりに成り得てしまったのだ。ならば、遠ざけなければ。
いっそ心などいらない、悠久に終わりが訪れればいいと祈ってしまうほどの苦しみなど、一度きりでいい。誰かが傍にいることの温かさと、誰も傍にいないことの寂しさであれば、後者を取った方が青年にとっては良かったのだ。この小さな少年を、山の贄などにしてしまうくらいであれば、いつまでも自分は孤独であることを甘んじて受け入れるべきだと。
「……もう陽が暮れる」
ぽつりと青年が呟いた一言に、ざああと風が凪いで木々が騒めく。青に満たされていた空は、いつの間にかあの日の橙を差し込んでいた。
◇
#離別
半ば強制にも近しい無言の中、隼人少年は茂った合間からあっという間に森の出入り口へと引き戻された。どう歩いてきたかなど記憶になく、ただどこか強張った表情をずっと湛えていた青年の後ろ姿に手を引かれているうちに、見慣れた道へと辿り着いてしまっていた。
ぱっと離された手に寂しさを覚えながら、隼人は目の前の青年を見る。彼は振り返ってから此方に視線を寄越すと、さあ、とひとつ声をかけた。
「暗くなる前に帰りな」
「……」
いつの間にか空は既に陽が傾いていて、橙色が流し込まれたように広がっていた。元々暗くなる前には帰るつもりだった隼人だったが、先程の脈絡が引っ掛からないはずがなかった隼人は胸の何処かがここで帰ってはいけないと喚いているのを感じていた。理由や理屈は分からない。けれどただ、帰りなくないと告げている。
どこか視線を彷徨わせて迷う隼人を見てか、青年は本日何度目かの溜息を吐いてから自分の頭をがしがしと掻くと、隼人の腕を急に掴んでからぐいと自分の前へ引っ張った。強い力に引っ張られた後に放られて、隼人の足は森から数歩出ていく。振り返るように森へと視線を向ければ、青年は佇むように隼人を見ていた。森に溶け込むように、寂しげな表情で。
「……あした」
「明日?」
どうしても、どうしても彼を独りにしたくない。その気持ちが働いて、隼人はふいに口を開く。
「あしたも、きていいですか」
「駄目に決まってるでしょ」
「でも、やくそく、まもってもらってないです」
「…………」
「……」
「……あー、分かった、分かった。じゃあ、明日晴れたらね」
「はいっ! またカブトムシ、さがしましょう!」
「まったく……」
呆れたように微笑んだ青年の素振りに、隼人は先程までの彼が戻った心地がして笑みを浮かべた。明日も遊んでくれるのなら、今日は帰ることにしよう。そう思って、田畑のあぜ道を走り出そうとしたところで、ふとぴたりと止まった彼はくるりともう一度だけ振り返って佇んでいた青年を見た。
「またあそんでくださいね!」
「っ、」
その時、青年の表情が少し変化した気がした。けれど、それは夕暮れの影になってうまくは見えなかった。
「……はいはい、じゃあね」
そうして返された一言にまた機嫌を良くして、隼人は今度こそあぜ道を走り出す。きっと今日のことを誰かに話せば怒られてしまうかもしれないから、黙ったままにはなってしまうが。けれど優しいお兄さんのような友達が出来たという実感は、走り出す隼人の胸いっぱいに広がっては自然と笑みを零した。
その小さな背が、遠ざかっては更に小さくなっていくのをいつまでも見つめながら、青年は何も言わず、ただ立ち竦んでいるばかりだった。
帰宅した隼人は何よりも先に、すぐ見つけた母へ明日の天気を聞いた。少しばかりの間の後に彼の母はここ最近はずっと晴れていたし、明日も晴れるだろうと返したので、隼人はそれはもう上機嫌に夕飯と風呂を済ませ、いつもは年相応にちょっと駄々を捏ねるだろう就寝をそれはもうあっさりとベッドへと入り込んだものだ。それを見た彼の母はきっと村内で友達でも出来て、一日目一杯遊んだのだろうと微笑んで見つめていた。
どっぷりと夜は暮れ、そして数刻の後に訪れた朝焼け。隼人は太陽が昇って二時間程の後にぱちりと目が醒め、掛布団の中で数度寝返りを打った後に嫌な胸騒ぎがしてはっと飛び起きた。ベッドから少し離れた部屋の対岸にある窓に飛びつくように駆け寄って、外を見遣る。一瞬聞こえた違和感の正体は的中するもので、窓の外はひどい土砂降りの雨だった。
呆けるようにぽかんと窓の外を見つめる隼人に、丁度通りかかった彼の母が眠たげに目を擦りながら朝の挨拶を告げる。どうにかしてそれに答えた隼人は、その後に母から告げられた一言に更に大きな双眸を見開いたのだった。
「そういえば隼人、明日の朝の電車でおうちに帰るからね。荷物片づけておくのよ」
約束を破るのは、今度は自分の方なのだと悟った瞬間だった。
結局その日は一日中雨が止むことはなく、長い長い土砂降りの果てにようやく止んだのは隼人が帰る日の明け方であった。何度か約束を守ろうと山へ行くか迷い続けた隼人だったが、母に、更に言えば青年に心配と迷惑が掛かってしまうと幼い思考でも十二分に理解が出来てしまったが故に、隼人は結局親戚宅から山の方を見ていることしか出来なかった。
曇り空が広がった朝頃、隼人は泣き腫らした目元をそのままに、母に手を引かれて親戚宅を後にした。何度も振り返った山の方角に人影があるはずもなく、苦しさを残しながら無人駅のホームへと歩いていく。ああ、約束を破ってしまったなと思いながらも、もう一目だけでも青年に会いたかった、喋りたかったという後悔ばかりを滲ませて電車の到着を待つために立ち竦んだ口数の少ない隼人へ、隣の母はふと何かを思い出したように隼人の名を呼んだ。
「おかあさま、なんですか?」
「そういえばね、隼人のお友達からだと思うのだけれど……」
そう言いながら母が取り出したのは、小さな木箱だった。古めかしく苔の生えたそれをきょとりと目を丸くして受け取った隼人は、木箱をそうっと開けた。
途端、ふわりと香ったのは、あの森の香り。最早懐かしささえ覚えるような、木々の木漏れ日と葉擦れの詩。湿った土と苔の匂いに混じって、花の匂いがした。名前は分からない、やわらかくてあたたかな、あの青年のような。
香りと共に緩み始めていた目の奥の熱は、箱の中身を双眸に映したことでとうとう溢れてしまった。
「今朝、玄関に置かれていたのよ。きっと、隼人へのプレゼントだと思って。いいお友達で良かったわね」
箱の中に置かれていたのは、隼人がずっと探し求めていた大きなオスのカブトムシが一匹。元気に動くそのさまはきっと、村の子供たちが持っていたどんな甲虫より強いだろうと思えた。そしてそのカブトムシに添えられるように滑り込んでいた、大きな一枚の黒い羽根はつややかで──まるであの、大きくて広い背中に生えていた、翼のようで。
さよならも言えなかった。また会いたいとも言えなかった。ただ約束を破ってしまったのは隼人の方で、けれどそれでも彼は、約束を守ってくれたのだ。隼人の「カブトムシを捕まえたい」という、ただ愚直で些細な約束を。
思わずわんわんと泣き出した隼人は、箱を握りしめながらようやく気付いたのだ。自分はカブトムシが捕まえたかったわけでも、あの森を探検したかったわけでもない。──ただ強くて格好良くて優しい、あの青年と友達になりたかっただけだったのだ。そう理解した時にはもう既に時は遅く、隼人はひたすらに幼すぎたのだと。
ぱあっと警笛の音が鳴る。ホームに滑り込んでくる電車に、戻り来る日常。友達になりたいと願った彼のことも、一日だけの夏の思い出も置き去りにして、隼人は青々と茂る山々の中から街へと帰っていく。あの姿を、いつまでも記憶に残したままで。
◇
#終
雄大な山々に囲まれた景色の中に、ぽつぽつと散らばるように点在する家たち。田畑はどこまでも伸び広がり、細いあぜ道は森の麓まで首を伸ばしている。人の薄い自然は、間違いなく田舎と呼ばれるべき風景だった。
彼の母の故郷である集落は、遥か昔に贄の儀式があったという。所謂村であぶれた者を自然に捧げ、人々を守ったり豊穣を願ったりするような因習。数百年前きりに廃れたとされるその儀式は、記録ばかりだけが古い文献に残されているばかりだった。
またその集落近くにあるとされるとある山の一部には、禁足地と呼ばれている場所があった。件の儀式を行っていた祠があるとされており、現在はその山一帯に悪しき何かを封じ込めるために、人間は人一人たりとも足を踏み入れてはいけないとされていた。踏み入れれば最後、件の儀式で味をしめた悪しき何かとやらが、人間を食らってしまうのだとか、なんとか。その悪しき何かと関係があるのかはさておき、この禁足地には昔からとある一人の青年が目撃されているという。萌黄色の双眸を持つその者を、集落の者たちはこぞって「烏天狗様」と呼んでいた。
そんな禁足地の田畑の合間、橙色の空を湛えた袂で一人の男が森に入ろうと出入り口で佇んでいた。ざわりと風に凪いで揺れる木々を見つめたその双眸は淡いブラウンを強く際立たせていて、そこにかかる前髪は柔らかなカフェオレカラーだ。品の良さそうなシャツとパンツスタイルで、おおよそ田舎には似つかわしくない風貌の男は一度やってきた道を振り返る。遠くに見える田舎の家々に、懐かしい声色で虫たちが足元で歌っている。男が住んでいる都会の高層ビルではあまり聞かない音たちだが、むしろそれは少し、回帰心さえ抱かせていた。
彼は丁度数ヶ月前まで、とある会社の社長であった。若くして父親の会社を継いだものの、本人は以前より他にやりたいことがあるのだと何度も口にしていたためか数年ほどで経営を更に大きく軌道に乗せた後、あっさりと信頼する部下に社長の座を譲ってしまったのだ。両親や周りからは何度も何度も惜しまれながらも彼は会社を辞め、身一つでこの場所までやってきたのだ。地位も名誉も棄て去ってまでも、この場所に来たいと思っていた。
踏み締めた足元の葉を見遣ってから、ふとポケットに入れていた、唯一の所持品を取り出す。ここに来るまでに持ってきたのは片道切符とそれのみ。スマホも鞄も鍵もなにもかも、彼は自室に置いてきていた。ついでに言えば、遺書とも取れるだろう手紙もそこに添えてある。死ぬわけではないが、俗世から見れば死んだも同然であるのだから、こればかりは致し方ないとした。
未練があるわけではない。楽しかったことも、友人も、山ほどあったし居た。ただ此処に来るまでに、やりたいことはすべてやりきったつもりだった。だから後悔はなかったのだ。残りのいつ終わるか分からない人生を、あの一度きりの出会いに捧げようといつからか決め続けていた。
指先が引っ張り出したそれは、古びた一枚の羽根。あの日、木箱の中に入っていたつややかさは既に失われ、花の香りも既になくなっていた。それでもこれだけは大切に、大切に保管し手元に置き続けていた。いつか来るだろう、再会の日のために。
がさ、と風に揺らいだ葉に近しい何かの音に気付いて、彼は視線を上げる。森の入り口、少し進んだ獣道の先で、禁足地であるはずのそこにはいないだろう人影がそこにはあった。懐かしい姿、変わらない萌黄色の双眸。思わず微笑みかけた彼に、双眸はひどく歪む。
「…………はや、と……?」
「はい、烏お兄ちゃん」
加賀美隼人は、古い記憶の奥底に眠っていた声が自分の名を呼んだせいか、少しばかり浮かれた心地で一歩を踏み出した。傾き続ける陽、すぐそこに迫っている夜、禁足地に踏み入る、人間の足。
焦ったように声を荒げた青年に、隼人はただ一言だけ言った。
「人間には余る程の永遠が、ここにはあるんですよね」
「それ、は……だけど、永遠なんかじゃ」
「あなたにとってはまばたき程度ですか?」
「……そんなことは、ないけど、」
「なら、共に居させてください。この身体が例え作り変わって人間でなくなったとしても──私は、初めて出来たあなたという友達と永遠を共にしたい」
集落の老人から隼人が訊いた、古い古い伝説。それは、隼人がこの一帯を記した文献から予測したものとほぼ同一であった。
禁足地に踏み入ると、人間は贄にされてしまう。山に住まう悪しき何かを抑えつけるだけの楔として、その魂が少しずつ磨り減りやがて消え去るまで、人間にとっては長いばかりの永久を「仮初の神」になることで留まらざる得なくなるのだと。
故に、この場所は禁足地。人間が人間には戻れなくなってしまう、そんな土地。
「前のように、理解せずに立ち入っているわけじゃないんです。その意味を理解して、此処に私はいる」
「隼人、だけどそれは……!」
「約束したでしょう。──晴れたら、また遊んでくれるって」
あの日の約束を、守れなかったのは隼人の方だった。だから今度は、もう一度守るために。
「遊んでください。今度は、ずっと」
「……本当に、あの頃から馬鹿だな、隼人は……」
「あははっ! それでも、面倒見てくださるんでしょう?」
「……当たり前じゃん。今も昔も、ずっとちっちゃい子供みたいだよ、本当」
ずっと強張った表情だった青年の顔つきが、どこか諦めと喜びを綯い交ぜにした表情に変わる。ようやく折れたらしいと笑みを湛えた隼人もまた、昔より荒れ果てた獣道の中に足を踏み入れつつ、風に揺られて鳴き出す森を見上げた。
森の青と茂りの香りに、藤の花を思わせる青年の匂い。これから長い長い、気の遠くなるような永久を過ごすのだというのに、どうしてか隼人はひとつも恐怖や不安を抱いていなかった。きっとあの日別れてしまってからずっと引き摺っていた寂しさが、もう今は感じないからだろうか。
ふと隼人は、前を歩く青年に声をかける。足を止めた彼の双眸に、ああやはりと少しの温かさを感じて。きっとまた置いていくのだろうけれど──ただそれは、遠い遠い時間の果てだからと思いながら、隼人は口を開くのだった。
「もう一度、名乗っておいた方が良いですかね。変わらず、加賀美隼人と言うんですが」
「知ってるよ。……僕は、剣持刀也って、昔は言われてたかな」
「剣持さん……刀也さん?」
「なんか隼人にそう呼ばれるの、よそよそしいな」
「……一応もう私、おにいちゃんとか呼んじゃう年齢ではないんですよね」
「何を今更。これから外見変わらずに年齢だけ重ねる羽目になるよ」
「それもそうか……じゃあ、刀也おにいちゃん」
「うん。……またカブトムシ、探そっか」
「……はい!」
──あの時掴めなかった手を、探せなかったものを、今度は、二人で。