「……今日も寒いなあ」
曇天に包まれた空を見上げながらぽつりと一言そう呟いた瞳は、快晴にも似た水色が揺蕩っている。眩しいほどに煌めいたその双眸に雲を写し込んだ一人の少年はぷちりとひとつ摘まんだ葉を手でちぎってから、手元に下げていた籠へと放り込んだ。彼が佇む辺りには大小様々な雑草にも似た葉が多い茂っていたが、彼はその中でもまるですべての葉の種類を知り尽くしているかのように迷いなく特定の葉だけを選び取って摘んでいた。
ここは、天之四国北部。険しい山脈地帯が広がっており、唯一常に雪が覆い尽くしているために国の中でも一番人が住みにくいとされているこの地域で、少年はたった一人で暮らしている。既に百年弱の時を誰にも会わず、孤独の中で生きていた。
今日も細かな雪が緩やかに降り注ぐ中、少年は積もった雪で転んでしまわないように細心の注意を払いながら、幾つかの葉を採取していた。此処から然程離れていない小さな一軒家に住んでいた彼は、自宅に山ほど残されていた薬草調合の本と常々睨めっこしながら暮らしているような日々を繰り返すような生活を続けている。調合が成功したり、効能が正しく表れた薬の一部は自身の親がまだ健在だった時期から馴染みのある、とある不思議な赤く大きな鳥に預けて食料に変えてもらったりしており、少年はそうして細々と生計を立ててきていた。その生活は可も不可もない。それなりに満ち足りていると言えばそうだったのかもしれない。
けれど、時々。少年はふいに、山を降りたくなる。この双眸でどんな人々がいるのか、街はどんなものなのか、知りたくなってしまう。けれどその衝動に駆られる度、少年は敬愛していた自らの母の言葉を思い出してしまうのだ。
『私たちはね、人ならざる存在なのよ。この瞳は、誰かを殺してしまいかねない。だから私たちは、人里離れたこの場所でずっと生きていかなくてはならないの。……ごめんなさい、──』
少年は過去一度だけ、存命だった母の一族譲りの青い瞳が真っ赤になったところを見たことがある。あれは山賊が少年たちが暮らしていた家をどこからか見つけてきた時の出来事で、自分を守ろうとした母は少年を守るためにとその双眸の力を使った。使って、しまったのだ。
この双眸は、人をも殺す。赤く染まった瞳の能力の反動で、母はまるで人を殺した代償を受けるかのように亡くなってしまった。それが大体、百年と少し前の話であった。その日から少年は、この瞳に宿る能力を隠しながら生きている。誰かと関わることを恐れ、誰かの命や自分の命を奪い、奪われることに怯えながら。
寒山の中腹で、訪れることのない夏をどこか夢見ながら少年はずっと過ごしている。本の中に広がる「友達」というあり得もしない空想を描きながら。
「……帰ろ」
幾つかの薬草を抱えて、少年は草原を後にした。人気も無ければ誰かが訪れることもない自宅へ、あるはずもない来訪者を夢見て。
◇
曇天の中で陽が少し傾き始めた八ツ半頃。窓辺で少しのまどろみと共に膝上で広げていた本がずり落ちる。窓の外はようやく雪が止んだようで、ぴちちと鳥が飛び鳴く声が響いていた。袂に置いていた湯気の抜けたカップの中で揺れていたハーブティーが少年の本に当たって少しばかりの音を立てた瞬間、はっと彼は顔をあげて窓の外を見る。変わらぬ景色に少しばかり眠っていたのだと気付いて、少年は未だぼんやりと鈍らせていた思考で空を見上げてから、ふと聞き慣れない音を感じ取って一気に鋭くなった。
この家へとやって来るには、山の麓から大分歩かねば辿りつけやしないらしい。如何せん少年は外に出たことなどないので知らないが、そもそも家自体も木々に覆い隠されている上に道という道だってまともに舗装されてはいない。つまるところ少年宅にやってくる者などここを目的として来ない限りは、やって来られないはずなのである。しかし少年が耳にしたのは、間違いなく人の喋り声だった。
この場所に、誰かがやってこようとしている。それだけで少年は震えあがった。動揺のあまり本を取り落とし、ハーブティーが入っていたカップを倒してしまったがそんなことなど気にしてもいられない。たすけて、と思わず零した声は誰にも届くことはなく、少年は慌てて自宅の扉がある対岸の壁際、本棚が羅列しているその隙間へと滑り込んだ。お願いだから帰って、ここには何もないし誰もいなんだから。そう心の中で必死に祈り続けては、玄関を凝視した。
けれど、玄関の扉はとんとん、と残酷すぎるほどに小気味良いノック音を響かせる。いやだ、こわい、来ないで、帰って。口の中で食む恐怖の声が、がたがたと少年の身体を震わせた。脳裏に過ぎる母の言葉、赤くなった瞳、本の中で一度だけ見た光景。──人間を石に変えてしまう、人殺しの能力を持つ化物の姿。僕は化物なんだと気付いたその日から、誰かと会うことなんて諦め続けていたのに。どうして今更。
「お願いだから、帰ってよ……!」
未だ鳴り止まないノック音と人の声は、遂に玄関のドアノブをがちゃりと回すまでに至った。ああどうしよう、僕も誰かを殺してしまうんだ。僕自身も死んじゃうんだ。そんなの嫌なのに、ただ僕は、僕は。
少年の中で止めどなく巡る恐怖心が、せめての抵抗に手で目を覆い、膝を抱えて蹲らせる。絶望感に満ち満ちた小さな体躯が縮こまっていると、誰かが少年へと近付いて声をかけてくる。けれど少年の視界は、闇のまま。
どうしたん、と言ったその声は何処か、少年と同じくらいの年か少し上のようにも思えた。
「何でこんなところで縮こまってるん?」
「だ、って、僕、ぼく……」
「うん」
きっと声の主は、少年の向かいで膝をついているのだろう。少年が顔をあげてしまえば、その誰かと目が合ってしまうのだろう。こんなに優しい声で話しかけてくれる誰かを石になんて変えたくない。ただその思いだけで身体が支配されて。
けれど、そんな怖がっている少年の固く結ばれた掌を、その誰かは優しく覆い尽くすように握ろうとした。
「何か、あったんか?」
「……ぼく、ぼくが、目を見ちゃうと、石になってしまう、から」
「……石? 石……ああ、そういう」
「だから、早く帰って──」
口振りでおそらく何かを察してくれたのだろうと、少年は捲し立てるように言葉を繋げようと声を荒げた。が、その震えてつめたくなってしまった身体が、ふと唐突に温かくなる。
え、と思わず漏れた音は、少年の双眸を開かせるには充分だった。閉じ篭っていた掌からこぼれ落ちた青空に似た双眸は、自分を包む赤く長い羽織りと、それをかけてくれた自分と同じ年くらいの少年をとらえる。
あまりにも鮮やかな、紫色のうつくしい光彩。今まで自然のものばかりを見るばかりで人と会ったことなどなかった少年が初めて見る、青以外の綺麗な瞳が少年を映し込んで、そうして嬉しそうに笑った。
「目ぇ、合ったな」
「……あ、」
「な。世界って、案外怯えなくてええんよ」
「……あ、ぇ……? 僕、目……」
「うん、合っとるよ」
「……石に、なってない……?」
「んあ?」
少年が聞き及んだ話では、人と目を合わせると相手を石に変え殺してしまうという話であったはず。けれどばっちり目が合っているはずの目の前の者は、未だ普通に会話も出来ているし動いてもいる。なんなら緩やかに首を傾げてきょとりと目を丸くさせていた。まさか母が少年を騙すはずなどないけれど、ではこの状況は一体。
訳も分からずぱちりぱちりとまばたきを繰り返す少年に、未だ首を傾げていた目の前の子は、まあいいやとひとつ零して立ち上がり、少年へ手を差し出した。まばたくその先に開け放たれた玄関には、また彼とは別で一人の少年と、一人の青年が此方を伺うように覗き込んでいる。それから、数刻前まで落ち切っていたはずの曇天が、眩しいほどの青空を見せていた。
人ってこんなに、眩しいんだ。それは百年弱を孤独に生きてきた少年が、初めて知ったことだった。
「なあ、名前は?」
「……へ?」
「俺はな、朱雀。不破湊って言うんよ」
「すざく……ふわ、さん……」
「ん。お前は玄武なんやって」
「ぼく、が、……げんぶ?」
「そう。やけど、名前は別にあるやろ?」
「……僕、僕は──」
そうして、少年は初めて、外へと出た。赤い一羽の鳥と、白い一匹の虎と、青い一頭の龍に連れられて、人々を知るために。自らの数奇な運命は、意外と悪くないということを知るために。
「──僕は、甲斐田晴、です」
碧い一匹の蛇にはずっと訪れることなどないと思っていた、夏を知るために。
◇
天之四国北部。険しい山脈地帯が広がるその寒山の中腹には、人々から神殿と呼ばれる豪奢な社があった。年中雪の降る静けさがいつもは満ちている場所ではあったが、丁度今日は来訪のせいか少しばかり騒がしい。
国土の北を守護する一神、玄武。長寿と子宝を司る神である彼は、青空を思わせるその双眸を揺らしながら向かいにいた青年を見遣る。視線の先には赤い羽織りに身を包んだ青年が、以前玄武が民から献上された温かい毛皮の毛布を勝手知ったる顔で被ってはぬくぬくとしていた。
「……アニキィ?」
「んあ、おー。会議お疲れぇ、甲斐田~」
「なーーーーに勝手に上がり込んでおいてお疲れぇですか!? 来るなら来るって最初に連絡しとけってあれほど!」
「来た」
「今言ってもしょーがないんですよ!」
紫の双眸を細めて笑う青年は、同じく国土の南を守護する一神、朱雀そのものだ。幸運と繁栄を司り、巷では商人の守り神ともされている。実際は現在こうして、毛布を纏ってへらりと笑んではいるが。正真正銘の神である。
玄武にとっては仲間であり友人であり、あの日自分を連れ出してくれた兄貴分でもある青年だ。母の言いつけを守ることは終ぞ出来なかったが、玄武は今こうして仲間たちと助け合いながら、自らの力で民を守れていることが何よりも幸せだった。
最年長である青龍は、玄武と彼の母の力についてただ一言だけ零したことがある。「甲斐田くんのお母さんが駄目で、甲斐田くんが大丈夫だったのは、きっと神の器の問題なんじゃないかな」と。稀有な運命を背負った彼らの中で玄武だけが神の器であったが故に、力が勝手に行使されることも、また行使されたとしても死ぬことなどなく今に至っているのではないかと。
故に、玄武は確かに思ったのだ。ならばやはり、あの日自分を守って死した母を生涯誇りたい。母が命を賭して守ってくれなければ、今の自分は無かったのだから。
そして、自分を迎えに来た彼らが居なければ。玄武として存在することも出来なかった。そうっとかけられた羽織りの温かさも、注がれる優しい視線も、まばゆいほどの紫の光彩も、与えられた言葉も、玄武は数百年経った今でも忘れることなどない。
神と呼ばれようとも、この心は当たり前のように存在する。水をあげるように、木漏れ日が差し込むように、注がれた優しさを手放すことなんて出来やしないのだ。
「……不破さん」
「んー?」
サングラス越しに此方を見るその光の輝きを、玄武はおそらく、ずっと抱き続けるだろう。初めて見た世界の色は、この色だったのだから。
「そういえば、何か甲斐田に用事です?」
「んあー……暇つぶし」
「あんたなあ……」
「にゃはは」
世界は案外シンプルで、けれど複雑で。──思っている以上に、沢山の色で溢れている。