宙独 打ち込んだ文字に呼応するかのように表れた『nothing』の表示に、剣持は薄く溜息を吐く。本日三度目のチャレンジもどうやら失敗に終わったようで、最早半ば諦めてさえいるものの、そうして分かっていながらも浮かぶ文字を打ちこむことをやめられなかった。
無人宇宙ステーションを発ってから、もう数年が経過しようとしている。刻まれる時間はずれることなどない衛星時計であるせいもあってか、剣持にとってはそれが今はひどく恨めしいとさえ思っていた。日々、細々とした宇宙食を口にし、小型宇宙船を直しつつ、外れることのない軌道を確認し、そして打ち込む文字が返すエラーメッセージを見るだけの日々。それはあまりにも空虚であり、孤独であった。一日のうちにやるべきことなどというのは本当に些細で、あとに残った膨大な時間は宇宙船の中で共有されている膨大なデータベースを読むくらいか、あるいは。
キーボードから手を離した剣持は、重い腰を椅子から離してからゆっくりと宇宙船の中を歩く。完璧に計算し尽くされた船内では重力装置が作動しているので、彼の身体が宙に浮くことなどはない。いつだったかに、重力装置を一度切ってみようと提案したとある男が本当にそれをやったがために、別の男が飲みかけていたコーヒーがカップごと宙に浮き、それはもう大変なことになったものだ。切る時は事前に言えと後からこっぴどく叱られていたが、その叱っている本人自身もその時浮いたコーヒーに驚きはしゃぎまくっていたのもあって、隣で一部始終を見ていた剣持としては何とも説得力がないな、なんてぼんやり思っていたものだった。そんな出来事も、既に遠いものになってしまったけれど。
そういえば、またとある日には宇宙における植物の研究として別室にある温室で野菜を育てていた別の男もいた。家庭菜園ではよく見る茄子やきゅうりなどのラインナップが主だったが、定番中の定番であるトマトがないなと口にしたら、男はぶすくれた顔で「だって嫌いなんですもん」と零したのだ。剣持はその時初めて、彼がトマト嫌いであることを知って声を上げ笑ったのをよく覚えていた。因みにその後、宇宙食の中にトマト味の野菜固形食があったことを思い出した剣持が貯蔵庫に行くと、他の宇宙食より少しその固形食の方が減りが少ないことに気付き、また一人で笑ってしまったこともあった。それもまた、もう何年前のことになるだろうか。
思い出せば思い出すほど、剣持の脳裏には彼らと過ごした日々ばかりが思い起こされていく。大事な話から取り留めのない話まで、とにかく飽きるほど色んな話をした。命がけでトラブルを処理し、時に喧嘩し、時にふざけ合い、何度も何度も笑い合った。チーム、グループ。そんな言葉では片付かないほどの絆が、そこにはあったと剣持は思っていた。……否、今でも思っている。
地球を発って数年、そして補給のために無人宇宙ステーションに何度か立ち寄り、発ってきた。宇宙でのミッションは幾らかこなし、剣持たちはあと二年ほどかけて地球へと戻る予定だった。自らたちの故郷は様変わりしているだろうか、共通の友人たちはどうなっているだろうか。そんな他愛のない話をしたのが、確か最後の無人宇宙ステーションを発ってすぐのことだったはずだ。けれど、その二ヶ月後に彼らへと通達されたのは、軌道計算システムが唐突に弾き出した『帰還地点消息不明』の文字だった。
何故、という疑問は結局今でも解消されていない。ただ、何度設定し直し、計算方法を変えても、帰還地点である地球を選ぶことが出来ない。他の無人宇宙ステーションへと向かうことは可能だというのに、だ。であれば軌道計算システムの故障やエラーではない。本当に帰還地点である地球が、何かしらの理由で消滅してしまったということになる。勿論そんなことなどあり得るはずもないため、剣持たちは何度も地球本部へと通信信号を発信し続けていた。が、現在に至るまで応答が返ってきたためしはなかった。
いっそプログラム自体を手動設定できるように書き変えることは出来ないだろうか。そんな話が出るようになった頃、今度は常用していたスリープポッドがある日を境に開かなくなってしまった。しかも、剣持以外の三人のポッドだけである。初めはこじ開けることも考えていたものの、ポッドは中に入っているだけで半永久的に中の人間を生かすための栄養取得や必要酸素濃度はクリアされるように出来ているため、今後下手にポッドが使えなくなってしまう方が痛手であると判断して、そうすることはなかった。が、自分も彼らと同じようになってしまっては元も子もないため、現在剣持だけは固い仮眠ベッドで寝る日々を過ごしてはいるが。
スリープポッドは、中の人間が睡眠活動から醒めない限り開くことはない。ということは、彼らはあの日からずっと眠り続けているのだろう。どんな夢を見ているのか、故郷に帰還するその青い惑星を、宇宙船の窓から眺めている光景を見ているかもしれない。それを叶えてあげられるのは、現状剣持しかいないわけだが。
「……」
言葉もなく、重い足のままで剣持はスリープポッドの並ぶ部屋へと入る。一番端の空いたポッドは剣持のもの。そしてその隣に眠る、三人の仲間たち。加賀美、甲斐田、不破の三人は、今も変わらず穏やかな表情を浮かべて目を瞑っていた。その双眸を開くこともなく、声を発することもなく、変わらぬままでそこに横たわっていた。
仲間も目覚めなければ、帰る場所もない。手動切り替えとして弄ったプログラムは未だエラーを吐き出すばかり。漂う四つの命を乗せた小型船は、今日も行く先を失っては漂うばかりだ。たった一人の、老いることさえない青年の想いなど測らずに、途方もなく広がる宇宙に放り出したままで。
剣持は部屋を後にして、もう一度軌道計算システムの前へと座った。キーボードの打ち込みが未だ覚束ない剣持を、いつだったか仲間三人は少しだけ笑ってから「でも」と零したのを思い出す。
『まあでも、もちさんはそもそもが頼り甲斐あるし』
『そそ。パソコンおじいちゃんなくらいなあ』
『誰がおじいちゃんですか』
『まあまあ、そういうのは私たちに任せてくれたらいいですから』
任せるだなんて。もう、起きてさえ来なくなってしまえば、どうしようもないというのに。
【 earth 】
「……」
【 nothing 】
「…………」
画面から視線を逸らす。その視線の先で、剣持は在りし日の彼らを思い出した。軽口を叩いて笑い合うその表情を眺めている剣持へと、彼らは時々此手を振ってくれた。何しているんですかと声をかけて、寄って来てくれていた。それがどれほどまでに嬉しく、好きだったのか。そんな今更すぎることに、剣持はようやく気付いたのだった。
帰ることも出来ない地球は、本当に青かったかさえ、未だ分からないままだ。