夏の嘘つき近年稀にみる猛暑に見舞われた、七月某日。打ち水など一瞬で干上がりそうな日差しの中、俺は”特等席”で涼をとっていた。
「お隣の斉藤さんも、先日倒れたそうで」
眩しいほどの日差しが照り付ける庭の、縁側にて。ゆるりと団扇を扇ぐ千寿郎が、兄上も気を付けてくださいね、なんて気遣わしげに告げる。その言葉は、そのままお前に返そう。ついそんな言葉が口をつきかけたが、何とか踏みとどまる。弟の膝を枕にしている身分では、どうも説得力に欠けるのだ。結局、兄の威厳を取り戻す間もなく、千寿郎は小さな子どもに言い聞かせるように笑った。
「それにしても、外での鍛錬も程々にして下さいね」
「…うむ」
「兄上、暑いの苦手なんですから」
そうでしょう?と同意を求める声に、曖昧に頷く。すると機嫌をよくした千寿郎が、団扇を扇ぐ手を止めないまま、俺の額に滲む汗を拭ってくれる。いつから用意していたのか、水を含んだ手拭いはひんやりと冷たくて。その気持ちよさに、俺は目を閉じた。
(――俺は暑さが苦手、か)
一体、誰が言い出したのやら。そうだと疑わない弟の口ぶりに、思わず頬が緩んだ。いつの頃からか、夏になると弟は声高に主張する。兄上は暑さに弱いのだから、と。最初は幼子の冗談だと思っていたが、どうも違うらしい。夏が近付く度に俺の身を案じ、頼むから涼をとってくれと世話を焼く。今日も何気なく庭で鍛錬をしようと思っただけなのだが。耳聡く素振りの音を聞きつけ、台所から飛んできたらしい。
俺が言うのもなんだが、少し過保護だ。そう思いつつも、何も言わない。暑さに弱いのは父上で、昔よく母に団扇で扇がれていた、だとか。むしろ俺は暑さには強い方だ、とか。そんな小さな嘘を、俺は未だに隠し通していた。
「…何か、召し上がりますか?」
俺の汗を拭っていた手が、ぴたりと止まる。それにつられて瞼を上げれば、頭上では弟が気遣わしげに俺の顔を見つめていた。どうやら、要らぬ心配を掛けたらしい。俺の世話を焼きたがる弟を見るのは好ましいが、過度な心配は本心ではない。ならばいっそ種明かしでも、なんて案は瞬時に消え、ふと弟の唇に目が留まる。何か、食べるもの。食べたいもの。それは、今目の前にあった。
「そうだ!お隣から西瓜を、」
「千寿郎」
名案でも思い付いたのか、ふわりと笑った千寿郎が団扇の手を止める。当然先程までの風は止み、本来の蒸し暑さが戻ってくる。そしてそのまま立ち上がろうとした弟を、俺は団扇を持つ手ごと握りしめた。
「兄上?」
突然のことに目を瞬かせた弟が、不思議そうに首を傾げる。冷えてますよ、と言わんばかりに指を差した先は、台所だろうか。弟には悪いが、今は西瓜なんて目じゃない。もっとうまいものが食べたい。そう願って、金朱の瞳をじっと見つめる。俺の意図がつかめずキョトンとした瞳が、次第に見開かれていく。まさか、いやそんな筈は。根が素直な弟の動揺は、手に取るように分かる。それに追い打ちをかける様に見つめ続ければ、柔さが残る頬が朱に染まっていく。とどめに空いた手も絡めとってやれば、逃げ場をなくした千寿郎は真っ赤な顔のまま「嘘ですよね?」と項垂れた。
「…余計に、暑くなりますよ」
「構うものか」
もしかしたら、僕の勘違いかも。そんな淡い願いを一笑に付して、そのまま唇を迎えに行く。その合間にも「外は暑いからだめ」とか「水分が先」なんて声が漏れ聞こえたが、その言葉ごと食べてしまった。
(――あぁ、今年も言えなかった)
今年の夏も、きっと嘘をつき続ける。そんな予感に、俺はうっそり微笑んだ。
おしまい