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    #shusta 遊/郭ぱろ
    ぼんぼん若頭の💜✖️売れない陰間の🧡(全修正版)
    すけべがないのに無駄に長編です、ごめんなさい🤦‍♀️

    移ろう空の行く末は 以前上げたものを360℃違った形でお出しします。名も無きモブも沢山でますし、内容は以前のものより明るいものではありません。ですので、苦手な方もいらっしゃると思いますので、予めご了承お願いいたします。
     このストーリーを閲覧されたことがある方には新鮮な気持ちで見てもらえれば幸いです。閲覧された方がない方には、長すぎると思われてしまうかもしれません。それでも、今では数少ないシュスタですから少しでも楽しんで見てもらえると幸いです。


















     お月さん、アンタはいいな


      毎晩毎晩綺麗なままで


     オレだって、アンタと同じように夜を生きてんのに



     アンタみたいに綺麗じゃねぇのはなんでなんだ
     



     霧が靡く夜だ。
     霧を纏う月は覆い尽くされる暗闇の中、光を損なうこともなく地を照らし、まるで遮る陰りや澱みを晴らすように澄んだ輝きを放っている。そんな月を瞳に映すたび、羨ましくてたまらない。

     世の中の仕組みも、大人達の思惑も知り得ないまま、口減らしとしてこの身を売られたのは遠い昔の事だ。かつては家族だった…しかし、最後には奴隷を売り捌く商人のように下劣な笑みを浮かべて値踏みしていた。
     悲しい現実を受け入れる事も許されないまま肉親に売り渡された後、どれだけ地獄のような世界に放り込まれるかなんて知る由もなかった。けれど、目に映るもの全てがその惨状を物語っていた。
     『花街』なんて名前だけお綺麗で、一夜の夢を売るなんてそんな可愛いものじゃない。 金で欲望を買い、嘘で幸福を得る、そんな悪夢の世界だ。成人にも満たない身なりだろうが金になるなら陰間として客を取らされ、物好きな客に夢を売った。

     最初は我慢出来ていた。
     腹の出た髭面の男共に盛られ、アカまみれの手と生ぬるい粘膜を纏った舌が肌の上を這いずり回っても、ここでシゴトが出来なけりゃお前に価値はない、店を出て餓死すりゃいいと店主に吐き捨てられた。その後、追い打ちをかけられるように夢に囲われた花街には到底そぐわない光景を目にして足元が竦む。
     目の当たりにした視線の先には、鼻につくほどの異臭が漂う溝川に遊女が投げ捨てられていたのだ。艶やかに磨き上げられていたはずの人形は使い物にならなくなるまで使い古され、価値がなくなれば呆気なくお払い箱となる。この光景が己の辿る定めであり、歩むべき道を選ぶ自由さえ与えられない。これが現実なのだと知った。でも、こんな最後にだけはなりたくはないと、ただ漠然とミスタは思ったのだ。



     もう手遅れなのだと分かっている。逃れられないのだと知っている。



     用意した表情や台詞で、作り物の人形に成り代わるたび本物としての心を無くしていく。この身を操っているのは自分自身のはずなのに、いつしか自分ではない誰かに操られているようだった。
     ひとつ、またひとつと、自由が理不尽に奪われていく悪夢のような日々に逃げ場はない。それでも、先の見えない暗闇に望みは捨てきれなかった。救いを求めるように仰いだ夜の空には、中天高くのぼった月が暗く濁った澱みを晴らし孤独を生きている。ミスタは暗闇の空に浮かぶ月へ向かって手を伸ばす。不確かな憧れを辿り、願うように、望みをかけるように。



     あのお月さんのようになれたなら…、と。



     その日をさかえに、ミスタは変わった。
     人としての尊厳すら与えられない悪夢を拒絶するように、歪な現実に刃向かった。ある時はありったけの暴言を浴びせるだけ浴びせ、悪びれもせず客をほっぽり出し、またある時は安酒を盛大にぶち撒けたりと、横暴極まりない客への当たりの悪さは評判を下げていく一方で、ミスタを指名する客は徐々に減っていった。
     店主は金も稼げず所業も悪いミスタに頭を抱えていたが、18の歳を迎えた頃には激しくも繊細なその姿が冴えた美しさをより際立たせていた。透き通った青の瞳は冷ややかな印象を与える。しかし、鋭く研ぎ澄まされた眼差しの中にある芯の強さが、だらし無く着崩した装いですら様に見えてしまうほどだ。とは言え、身なりは良くとも中身は相変わらずで手を焼くばかりだった。それでも、捨てるには惜しく置いておくしかないと見逃され、逃れられない籠の中、細々と生かされていたのだった。






     今夜の月は随分と明るい。
     こんな夜の花街は普段より客が多く、賑わいも増す。しかし、ミスタにとっては関係のない事だった。何せミスタの評判は噂となり他所の店にも知れ渡っている。いくら花街に客が増えようと指名客が増えるはずも無い。

    「今晩はお偉い様が多くお見えになられる。馬鹿げた行動は慎むようにな」

     店主は飽きもせず忠告する。
     ミスタはそんなもの知ったことかとシラを切るが、珍しく今まで身に付けた事のないような上物のおべべを押し付けられた。嫌々ながら袖を通せば、雪を溶かすような春の色彩が散りばめられたおべべにこころなしか胸が躍る。だが、それもほんの一瞬の事。上客となり得る『お偉い様』に評判の悪いミスタを店主が当てがう訳もない。

    「オレはどうせお飾りの人形だっつの」

     店の上り口の横で、陰間達は金持ちを招き入れようと柵越しに振る舞う中、無気力なミスタは愛想を振り撒くでもなく、煙管を口に咥え、明後日の方向を向いて黄昏れるばかりだった。 店主が次々と他の陰間達の名を呼び始める中、ミスタの名は呼ばれない。


     ( ほらな、やっぱり誰もオレを指名しやしない )


    いつもの事だと無関心に胡座を描いていた。だが、最後に自分の名を店主に呼ばれ、ミスタは耳を疑う。大きく目を見開き、店主の方へ視線を向けると、うだうだするなと乱暴に腕を掴まれ無理矢理客間へと連れられる。

    「お、おい…っ!」
    「お偉い様からの指名だ。くれぐれも失礼な態度を見せるんじゃないぞ」

     客間の前に着くと最後の忠告だと言わんばかりに耳打ちされる。客の興を冷めさせたくないのなら、なぜ断らなかったのかとミスタは睨むが、無言で睨み返されるだけだった。

    「どうなっても知らねぇからな」

     責任は負わないと念をつき、目前の客間の襖を開け、先に通されていた客を視界に入れる。 『お偉い様』と言うぐらいだ、てっきり油ののった腐れジジイだろうと予測していたのだが、その予測は呆気なく裏切られる。

    「あっ…こんばんは、はじめまして」

     目前にした『お偉い様』は脂ののった腐れジジィとは程遠い、涼しげに整えられた容姿の青年であった。くっきりとした桔梗色の瞳に、肩にまで伸びた髪は真っ暗な夜の海に、黄蘗色、もも色、桔梗色と色鮮やかな星が流れ星をかけているようにみえる。肌の質なんかを見ればやはり若い印象を覚えるが、身に纏わせた正装とも言える装いからするに、随分と高貴である事だけは分った。

    「…アンタ、ぼんぼんかよ」

     青年から向けられた遠慮がちな挨拶をミスタは無視して、気遣いのない言葉を吐き捨てた。すると、強張っていた桔梗色の瞳は堪えきれず緩やかに細められた。

    「んははっ、わかりますか?僕も申し訳ないと思うんですよね。僕みたいな若造が身の丈に合わない身なりをして…、着物さんにも、お前にはまだ早いってそう言われてる気がするんです」

     唐突な言葉に驚いた様子だったが、クスクスと口に手を当て笑い出し、腹を立てる事もなく聞き流すその青年にミスタは違和感を覚える。

    「でも、君は僕とは真逆です。すごく綺麗ですし、着物さんも君に着てもらえて嬉しいと思いますよ」
    「………それ、嫌味?」

     ふわふわとした口調で能天気に話す青年。
     ミスタは店主に言われた事をすっかり忘れ、冷ややかに青年を睨みつける。

    「いいえ…、違います、本当に心からそう思ったんです。でも気に障ってしまったのなら謝ります」

     青年は眉を下げて悪気はないのだと頭を下げる。
     その風貌と言動の違和感にミスタは堪えきれず声を立てて笑う。

    「あはははっ面白れぇよ。アンタみたいな客、はじめてだ」

     ミスタは青年との距離を縮め、随分と純真な桔梗色の瞳を覗き込むように顔を間近に寄せる。

    「…っ!」

     互いの唇に吐息が触れ合った瞬間、青年は至近距離まで顔を寄せられる事に耐えきれなかったのか、慌ててミスタの胸を押して突き放す。

    「…なに?やっぱ、オレじゃ嫌?他のが良ければ代わるけど」

     拒絶されるとは思わなかった。
     けれど、別にショックを受ける事なんてないので代えを提案してやると、青年は頬を真っ赤にしながら形の良い唇をわなわなと震わせはじめた。その反応にミスタは驚きを隠せず、内心戸惑った。

    「い、ま、なにを…」
    「は?口吸ってやろうと思って」
    「く、口を…?なぜ…?」
    「はぁ?アンタ、ココをなんだと思ってんの」
    「…そう、言われましても」

     声を上擦らせながら訳がわからないと目を回している。訳が分からないのはこっちの方だ。

    「アンタ、ツレになんて言われて来てんだ」
    「え、と…目を慣らせ…、と」
    「…目?」
    「ここにいる者達はお前の目を肥やすにはいい材料になるだろうから存分に楽しんで来い…と、、」 
    「へぇ、目のついでに身体もってことか」
    「からだ…、ですか?」

     目がどうのと詳しい事は分からないが、この青年が初物だと言う事がわかった。何も知らないのをいい事に、流されるまま閨事を教え込もうとしていたのだ。大方、許嫁かなんかの初夜に恥をかかせないようにしたかったのだろう。しかし、色売りとして磨き上げれられた艶を放つ遊女は山ほどいるというのに、その遊女の真似ごとを生業にした陰間を何故わざわざ押し付けたのか理解に及ばないかった。どうであれ、本来の目的を知らされてない立場からすれば驚くのも無理はないだろう。

    「この店に来る奴らってのは、お飾りのオンナオトコに、てめーのブツを突っ込んで出すもの出してかえんだよ。アンタらからすりゃあ、目どころか性欲発散させるには打ってつけの場所ってこったな」

     ミスタは辱しむ事もなくもなく、花街の実情を吐き捨てた。あからさまなその言い方に青年はバツが悪そうに視線を逸らすが、興味自体はあるのか頬を火照らせ、チラチラとこちらに視線をよこす。思春期真っ盛りなその反応が妙に愉快にみえた。

    「そもそも、アンタは何を思ってオレを選んでんだよ?」
    「それ、は…何でもいいから選べと言われたので、その、一番最初に…綺麗だなって思った君を…」

     徐々に窄まる声が煮え切らない。
     でも、悪い気はしない。

    「…………まぁ、ハズレ引いちまったって思えばいんじゃねぇの?アンタみたいなヤツの最初が男だなんて、なぁ?」
    「え、おと、こ…?」
    「……おい、そこもかよ」
    「だっ、て…着物とか、髪とか…、、」
    「それ、他の連中見ても分かんねぇの」
    「そう、ですね…そもそも、そんなにじっくり見てませんし、ずっと見るのは、失礼、かな…と、、」
    「ハハハッ!!ほんっと世間知らずなんだなっ、呆れ通り越して面白いわ」

     ミスタは畳の上に転がり込んで豪快に笑い声をあげた。あまりにもおかしくて、こんなに大声で笑ったのはいつぶりだろうと記憶を辿らせるものの、思い出せもしなかった。過ぎるのは苦渋な悪夢の日々だけ。それなのに、何故だろう。そんな日々さえどうでもいいと思えるほど気分は晴れやかだ。

    「そ、そんなに笑わないで下さい…でも、その通りです…」
    「こんなふざけた場所にノコノコ来るんもんじゃねぇよ。まぁ今回は勉強代として我慢すりゃいいんじゃねぇの?」
    「うぅ…っ」

     青年は羞恥心から火照らせた顔を見られないようにと顔を両手で覆い隠している。しかし、赤く色づいた耳が隠しきれていない。指摘してやろうかと、いたずら心が湧いてくる。でも、こんないびりがいのない客相手にいい気になる自分が馬鹿馬鹿しくなって、ミスタは気を逸らすように、あらかじめ準備されていた酒を手に取り、青年に突き出す。

    「ほら、飲めよ。祝い酒だ」
    「祝い?なんのでしょうか…?」
    「花街でびゅー祝い」
    「えっと、それは喜んでいい事なんでしょうか…、、」
    「うるせぇな、細かい事なんざどーだっていいんだっての。美味い酒飲める口実だと思って黙って飲んでろ」

     強引に押し付けた酒を両手で受け取ると、眉を窄めながらもチビチビと口をつけはじめた。そんな青年を横目に、久しぶりにありつく高価な酒を一気に煽りながらミスタはたわいもない話を青年に投げかけた。会話は当たり障りのないものばかりで、気が抜けていくのにどうしてか退屈に感じない。それに、喉に通しているだけの酒は口当たりが良いように感じる。酒には詳しくはないが、この店で出される酒の味はしっかりと覚えている。それなのに、未だかつてないほど酒が美味いと感じるのだ。流石に酔いが回っているのだろうかと不思議に思うも、酒を注ぐ手は止まらない。その一方で、青年の方はまだ一杯しか注がれていない酒を飲み干す前に、ふにゃふにゃと呂律の回らない口ぶりで眠そうに目を擦る。

    「眠いなら、隣の部屋布団敷いてあっから」
    「……はぃ」

     青年は小さく呟きながら立ち上がる。
     しかし、指差した部屋に向かうその足取りはふらふらと千鳥足で覚束ない。仕方なくミスタは青年の背を支え、隣の部屋の布団に寝かせるが、着崩れさえしていない着物が眠るにはひどく窮屈そうに見えた。ふと思い返せば、身の丈に合わない身なりだと青年が言っていたのを思い出す。柔らかい手触りのわりに重くのしかかるその衣は、まるで信頼と脅迫の証のように思えた。なんて悪趣味なもの着させられているんだと、ミスタは青年の着物を着崩していく。

    「やっぱり、きれいだなぁ…」

     ぽそりと呟かれた言葉が耳に届く。
     その声は酒に浮かされ、やけに幼く聞こえる。ミスタは声のする方に顔を向けると、桔梗色の瞳から注がれる視線に合う。触れ合ったその視線に青年は頬を綻ばせた。

    「…朝焼けの空みたい。ぼくの、いちばん好きな、そらの色」 

     ゆっくりと青年の手のひらが伸びて、その手はミスタの頬へと触れられる。その仕草があまりも優しくて無意識に身体がふるりと震えた。反射的ではあったが、この震えの意味がわからなくて思わず動揺する。ミスタは青年に悟られないようにと視線を逸らし誤魔化した。

    「…そんな綺麗なもんじゃねぇよ。さっさと寝ちまえ」
    「んへへ…っ」

     頬に触れられていた手のひらを軽くあしらうと、青年は残念そうに笑った後、安心しきった様子でゆっくりと瞼が閉じられる。数分も経たないうちにすーすーと寝息が聞こえはじめた。ミスタは不可解な震えにたじろいだものの、なんとか誤魔化せた事に一息つく。不意に、打たれたわけでもないのに触れられた頬からじわじわと熱が広がっていくのを感じる。その淡い温度を追うように、自らの手のひらを頬に当てると無意識に片方の目尻からひとしずくの涙が落ちていく。
     人として、こんな歪な自分を褒めてくれた客なんて誰1人としていなかった。どんなに豪勢なお飾りでいたって所詮使い捨ての玩具でしかないのだから。それなのに、酔った勢いといえど、そんな言葉をかけてもらえた事が素直に嬉しくて、嬉し涙を流せるだけの心がまだ残っている事を教えられたようで、黒く塗りつぶされた胸の中に、小さな光が灯ったように思えた。

     でも、もう会う事なんてないんだろう。
     身分の隔たりはいつだって現実を突きつけるのだから。同じ場所にいることさえ間違いなのだと。

     ミスタは不貞腐れるように横になり、ぐっすりと眠る青年の横顔を眺めると、額にかかる黄蘗色の髪が三日月のように見えて、羨望の眼差しを向ける。この青年はやはり全てを持ち備えている。富も知性も権力も、そう容易く手にする事が叶わないものをこの若さで。生まれ落ちた場所が違うだけでこうも違うものなのだろうか。手にする事が出来なかった生き方は、いくら手を伸ばそうとも掴めるはずのない月そのもののようだ。そんな虚しさを払うように、ミスタは幸せそうに眠る青年の妨害するように鼻を摘んでやると、んぐっ、と変な声が上がって面白い。

    「何も知らない世間知らずのぼんぼんめ、ざまーみろ」


     けど…ありがと…、


     皮肉混じりに笑いながら手を離すと、また規則正しい寝息が聞こえる。その音は鼓膜に心地よく響いて安心感すら覚えてしまうほどだ。
     ミスタはゆっくりと瞼を閉じて、青年にかけられた言葉を思い返す。この澱みに満ちた花街で生きる自分を綺麗だと、朝焼けの空のようだと言ってくれた。 きっと一生分の幸せをくれたし、もうないだろうから癪だけど少しだけ感謝を伝えてやっただけだと心の中で言い訳をして、ひとときの安らぎを噛み締めるように自らの身体を抱き込み、眠りについた。








    「あ、あれ…うまくいかないな」

     昨晩はラクな仕事だったと目が覚めて早々にぼんやりと思う傍で、青年が身支度を始めているのにミスタは気づく。まだ寝坊けているのか、どうやら着物の着付けに手こずっているようで、ミスタは仕方なく眠気の覚めない身体を起こし、手を貸した。

    「お付きがいなきゃ身なりのひとつも直せねぇってか」
    「あっ…すみません、ありがとうございます」

     ミスタにとってこんな世話を焼く事は客へのゴマスリ同然で馬鹿馬鹿しいとさえ思う節があり、これまで指名客相手に下の世話はしてやれど、身の回りの世話をする機会は一度となかった。でも、昨夜の事といい今日も気分がいいからと珍しく世話をかって出ていただった。

    「こんなことで感謝なんかするもんじゃねぇよ。こっちは気まぐれでやってんだから」
    「んへへ、じゃあ滅多にないことを僕はしてもらっているってことですよね?それなら尚更有り難く感じちゃいますよ」
    「なんでそーなんだよ」

     冗談まじりの言い合いを交えながら、帰り際もついでだからとミスタは店先まで青年に付き添う事にした。ふと、隣を歩く青年を横目に見れば、昨夜の強張った表情は何処へやら、朗らかに晴れた表情を浮かべている。これが普段の顔なのだろうが、おどおどと覚束なかった印象ががらりと変わってみえて不思議に思えた。

    「昨晩は本当にありがとうございます。とても楽しい夜でした」
    「あっそ。大した目の肥やしになれねぇで悪かったな」
    「いいえ、そんなことないですよ。こんなにも綺麗な君と過ごせたんですから、僕は運がいい」
    「男相手にバカいってんなよ。アンタ、まだ酔いが覚めてねぇのか」
    「んははっ…そうかもしれないですね。酔ってるかも、しれないです。だから、多めに見てもらえませんか?」
    「………戯言ばっか言ってないでとっとと帰んな」

     嘘っぱちな戯言は聞き飽きている。
     それなのに、嘘に聞こえないのは見つめられる桔梗色の眼差しが真っ直ぐで真剣なものだからだった。ミスタはその眼差しから逃れるように冷淡に言葉を返すが、青年は苦笑いをしながらも綺麗にお辞儀をして背を向け帰って行く。なんで最後まで律儀なんだと、冷たい態度をとってしまった事すら後悔してしまいそうになる。

    「……もう来んなよ」

     けれど、もう会う事もないのだから気にする必要すらないのだと後悔の念を切り捨てるように呟く。幾度となく繰り返し訪れる別れに興味はないし、どうだっていい。…そう思っていた筈なのに、振り返ることのない青年の背をミスタは見えなくなるまで見つめ続ける。その眼差しは、色褪せる事のない月の痕を追うように透明な寂しさを纏っていたのだった。











    「ミスタはどこだ!まだ支度を終えてないのか!?」

     ドタバタと廊下から店主の忙しない足音と劈くような怒号が聞こえる。普段は物静かな店主だが、問題事が起こるたびに癇癪を起こし喚き散らかす店主は今日も絶好調なようで何よりの事だ。しかし、もう少し穏やかな声は出せないものかとミスタは耳を塞いで、悪夢のような日常に目を背いていた。

     あの不思議な青年がこの店に訪れてから1週間ほど経過した。ミスタは相変わらず客の当たりの強さを変えるでもなく、評判の悪さも変わらず仕舞い。客が入り始める頃合いになっても、狭く薄汚い自室で身支度もしないまま古臭い畳の上にへばり付いていた。
     そこに、毎度の如く立て付けの悪い襖を壊さんばかりの勢いでこじ開けた店主がミスタを見るなり不機嫌な態度を隠しもせず一言二言文句を吐き捨て、優し気もない手つきで身体を起こす。店主はくたびれたその手で、ミスタの身なりを整え直し、それを終えると乗り気でない身体を引き摺って、客室へと足を向ける。だが、店の売れっ子でもないのに、店主からこんなにも世話を焼かれる事にミスタは疑問が浮かんでならなかった。

    「この前来て下さったお偉い様がまた来ておいでなんだ、有り難く思うことだな」

     店主の発した言葉にミスタは驚いた。
     まさか、あのぼんぼんがか?と信じられないまま客室に入ると、あの不思議な青年が申し訳なさそうにちょこんっと身を縮めて座っていた。

    「アンタ、なんでまた…」
    「んはは…、それがですね、この前はどうだったかって付き添ってくれた方に聞かれて、楽しく話ができたことを伝えたんですが…信じられないって顔をされて、もう一度ちゃんと行けと促されてしまったんです…、」

     ミスタから注がれる鋭い視線に逃れようと目を逸らす青年にミスタは深く肩を落とした。

    「あ、今日は前とは違うお着物なんですね。その着物もよく似合ってます」

     確かに前に会った時のものとは違う色味の薄いおべべではあるが、こちらは予期せぬ来客に、まともな身支度も出来ないまま飛び込むような形でここにいるのだ。それなのに、屈託のない笑顔を向けられ、必死に取り繕った苦労も無に返されてしまう。 しかし、よくよく見ると青年の方も以前ほどかしこまった装いでない事にミスタは気づく。

    「前より洒落てなくて悪かったな。そう言うアンタも今日は随分貧相じゃん」

     格は下げていても自分が身につけているのよりは物はいいんだろうが、とミスタは嫌味を言う。

    「んはは…そう、これが普段着なんです。とは言え、これでも僕にはまだまだ不釣り合いだと思うんです。…だけど、君は違いますよ。君はどんな着物を着ていても着物が際立っていて、ほんとうに綺麗です」

     まただ、
     こうやってこの青年は真剣な眼差しで言ってくる。ミスタは一瞬狼狽るも、相変わらずの減らず口だと聞き流す。

    「………そんで、ヤる事やんだろ?」

     本題に入ると、青年は慌てて首を横に振り顔を赤くする。意味がわからなくてミスタは首を傾げる。

    「その、僕には、こう言う事はまだちょっといいかなって、でも、そうもいかなくて。だから…君はこういったことに詳しいだろうし…、口実を考えるのを手伝ってほしいんです。…助けてもらえないですか…?」

     青年は眉を下げ、言い淀むように呟いた。

    「ふーん、ぼんぼんで 世間知らずで 童貞ってわけ」
    「それは…っ、」
     
     図星を突かれ、返す言葉も見当たらないのか青年は口を開いたまま黙り込む。その顔にはぶわりと熱が広がり、羞恥に襲われているようだった。それが初々しいったらなくて、ミスタはくすりと笑って見せた。

    「しゃーねぇから考えてやるよ。けど、その敬語やめてくんね?どうせ年近いんだろうし、いくつ?」
    「…21です、けど」
    「へーオレより上でそれ?」
    「うっ…」
    「とりあえず、敬語とかいい」
    「…ぅん」

     初々しさの抜けないこの青年にどうしたものかと頭を抱えたくなるが、言動や佇まいを見るに、これは育ちの良さからくるものなのだろうと思えば案外簡単に納得できてしまえた。

    「…あの、名前、聞いてもいい?僕はシュウ。闇ノシュウ」
    「やみのって…アンタ、まさか…っ」

     その名を聞いてミスタは耳を疑う。
     闇ノと言う名はここらじゃ一番の富豪であると周知されている名家の名。外のことは無知なミスタでも耳にした事があるほどだった。ミスタの反応を察したシュウは困ったように笑いかけ話を切り出した。

     どうやらこの青年は闇ノの家の一人息子で、早くから家を継がされ若頭として奮闘する日々を過ごしているのだと言う。若頭だからといって給金の大部分は知識や経験も未熟な己の元で支えてくれる部下達に回しているのだそうだ。そんな中、気晴らしもろくに出来ずにいるのを察した先代からの得意先に善意で連れられた場所がこの花街なのだと。あまりにも突拍子もないその話にミスタは唖然とするばかりだ。

    「なぁ、オレみたいなのがアンタの相手で本当にいいわけ…?」

     はじめて指名された時といい、見るからにあどけなさの抜けないこの青年があの闇ノの家の若頭と言う事実がまず信じられなかった。それと同時に、花街の看板である遊女より安く売られるような陰間で娯楽を満たすなんて、明らかに役不足なのではないかと疑問ばかりが頭の中を過ぎる。

    「いいもなにも、君がこうやって分け隔てなく話してくれることが凄く嬉しいんだ。だから…、僕のこと見捨てないでほしいんだ」

     ミスタは懇願するようなその眼差しに拒絶する事を躊躇う。生まれる前から全てを手にしている癖に、何故こんなにも縋ってくるのかわからなかった。この身を買われている以上、簡単に逆らえる立場ではない。それなのに、金に物を言わせ圧力をかけるわけでもなく、率直な言葉でミスタの意思を尊重している。やはり不思議な気分だ。なんせ、客相手に下の事以外で頼られた事なんて未だかつてありはしなかったのだから。信頼されているのだと、感じざるを得なかった。

    「…ミスタ。オレの名前」
    「ミスタ君…いい、名前だね」
    「呼び捨てで良いっての」
    「うん…っ!」

     ミスタの言葉にシュウの表情はぱあっと晴れやかになった。その表情にミスタはついほっとした。無知故に手探りなシュウとの距離感がぎこちなくて、少し扱いづらいように思う。けれど、そこに嫌悪感はなく、むしろ穏やかで好ましいと思えたのだった。

     その後、以前と変わらず酒を飲み交わしながら得意先への言い訳を思案していく内に夜が更けていく。なんとか言い訳が出来上がった頃にはシュウも酒で出来上がっていた。口どりや表情もふにゃふにゃで、今にも眠ってしまいそうな所をなんとか叩き起こす。ゆらゆらと揺れる身体を支えてやりながら布団の中へと押し込んだ。一通りの世話を焼いた所でやれやれと思う一方、こうやって世話を焼くのも案外悪いものではないなと誇らしく思えてくる。それはひとつひとつの気遣いに『ありがとう』と屈託のない優しい笑顔で感謝を告げるシュウのおかげでもあった。
     しかし、そんなシュウに名家の若頭としての面影は感じられず、一体どこに隠しているのやらと疑う反面、こんなにも無邪気に笑う一面ばかりを見る事が出来るのは珍しい事なのだろうかと思うと、何故か特別なもののように思えた。

    「…ごめんね、迷惑かけて。もっと…、しっかりしないといけないんだけど…」
    「あんくらいの酒でこんなじゃ、いつまでたってもしっかりなんて出来やしねぇよ。今のうちに甘えとけ」
    「んへへっ、ミスタは本当に優しいね。僕、甘やかされすぎてもっとダメになるよ」

     酔っ払いの戯言なんて冗談めいているものばかりだと常々感じて来た。けれど、シュウの優しさに満ちた声色や眼差しについ絆されてしまいそうになる。

    「…冗談言ってないで早く寝ろ。本家の為に頑張んなきゃいけねぇんだろーが」

     うん、と頷いて瞼が閉じられると規則正しい寝息が聞こえ始めた。多忙な日々をおくる中、こんな所までわざわざ出向いて馬鹿なヤツだとシュウの頬へ手を添えてみると、まったく起きる気配がない。ミスタはまじまじとシュウの寝顔を見つめる。白い肌に伏せられた密な睫毛、筋の通った鼻に形の整った唇。額に掛かった柔らかな三日月が煌めいてる。目元に視線を滑らせると、不健康そうに黒ずんでいた。これは疲労の色だ。とても痛々しく見える。けれど、整った顔立ちをしている所為で、それがあまり目立っていないように感じた。
     生まれついた家で全てを手にしていいご身分だと最初は苛立ってはいたが、それは勘違いなのかもしれない。名家の若頭として底知れぬ重圧に耐えながら人一倍努力を重ね、受け継がれたものを守り途絶える事のないように維持しようと踠き足掻いている。その努力や疲労さえも悟られないように振る舞うシュウの姿を思い描くと胸がつきりと痛んだ。ミスタはシュウの目尻を親指の腹で優しくひと撫でして、閉じれられた瞼の上に唇をゆっくりと落とす。溜め込まれた疲れを癒すように、和らげるように、健やかであるようにと祈りながら。

     これで、本当にもう会う事はない。
     最後なら、この程度の事をしてやってもいいとさえ思えた。客に入れ込む性分ではないのに、同情でもしているのかと皮肉めいた事をミスタは思う。普段なら、同情するどころか嘲笑って貶してやりたいとさえ思うのに、見捨てないでほしいと向けられたあの眼差しを思い返せば、そんな事を出来るはずもない。でも、これはひとときの気まぐれだ、深い意味はないのだと不毛な言い訳をして、ミスタはシュウの隣で眠りについた。





     翌朝、ミスタが目を覚ました頃にはシュウはもう起き上がり身支度もきちんと済ませていた。ミスタが起きた事に気づいたシュウは「おはよう」と声をかけてくる。

    「…悪い、なんもしてねぇのに寝過ぎた。支度、1人でやれたのか」
    「んへへ、前回はミスタに怒られちゃったからね。自分のことはちゃんと自分で出来なきゃって思ったんだ」
    「ふっ、大した成長ぶりだな」
    「うん、ミスタのおかげだね」

     シュウは昨晩よりもすっきりとした表情で笑っていた。何故だかそれが妙に不思議に思えてしまう。これは以前にも思った事だ。不慣れな場所に萎縮して強張っていたはずの表情が、日を跨いで朝を迎えると、重荷を下ろしたように柔らかな表情を浮かべている。それが意味するものは今のミスタには計り知れなかった。
     シュウは店を後にする際、前と変わらず綺麗なお辞儀をして帰っていく。ミスタはその背中を見えなくなるまで見据えていると、1人の陰間がそそそっとミスタの隣に来て、にたにたとした顔を向ける。

    「いい男じゃん。顔もいいし、金持ちなんだろ?まさか惚れちゃったりして」
    「…うっせーよ。アイツはもう来ねぇっての…」



     ―――アイツは ここに来るべきじゃねぇんだから



     ミスタは心に言い聞かせるように呟いた。



     それから1週間が過ぎた頃、呑気に自室でウダウダしていると、まだ店が賑わう時間でもないのに珍しく店主の足音が忙しなく近づいて来るのが聞こえてくる。自分には用はないはずだとしらばっくれていたところ、声もかけず薄っぺらい襖を強引に開け放ち、ズカズカとミスタの自室に店主が押し入った。

    「おい、あの方がまたおいでなさってる」

     あろう事か、前回と同様にミスタの身支度を手伝おうする店主にミスタは狼狽えた。『あの方』と言われて思い浮かぶのは1人だけだ。

    「冗談だろ…?」

     客の名どころか顔さえ覚えた事のないミスタだったが、何故かシュウの事はしっかりと覚えてしまっていた。まさかと聞き返すと、二度も言わせるなと店主は答える。ミスタは身支度の準備を急かす店主のその手を強く払い除けた。

    「自分でするからもう出てけよ!」

     強い口調で言い放つ。店主はならさっさとしろと視線だけで告げると部屋から出て行った。
     何でだよ、と考えに耽るも答えは出ない。追いつかない思考の焦りが身支度に随分時間を費やす始末だ。気持ちの整理もつかないまま足早に、客間へ通されているシュウ所へ向かい、ひとつ深呼吸をして部屋に入る。ばちりと桔梗色の瞳と目が合って、気まずそうにその瞳が揺らぐ。

    「なんでまた来てんだよ。言い訳…、通らなかったのか」
    「…んははっ、…言い訳の方は通ったんだけど…もっと経験積んでこいって言われて断りはしたんだけど…目を養う為だって念押しされて。でも、ここ以外のお店に行くのもなぁ、って…」

     先代からの得意先故に断れないのもよくわかる。だからと言って、毎度毎度ミスタの所に訪れるシュウにも弱ったものだった。

    「どんだけ名の知れたとこでも面倒な客ってのはいるもんなんだな」
    「…じゃあ、ミスタにとって僕は面倒な客?」
    「……っ」

     突如かけられたその問いかけに、息を飲んだ。それはシュウが笑っていたからだった。いつものように屈託のない笑顔なのに、どこか諦めている、そんな笑顔だったから。

    「相手なんか…、するか」 

     憧れてやまない美しい月に黒い影が取り憑いている。

    「え…?」
    「はなから面倒だって思ってんなら…、相手なんかするか」

     その影を少しでも取り除いてやりたい、そんな衝動がミスタの胸に弾ける。

    「それって…面倒じゃないってこと?」
    「……これ以上言わなきゃわかんねぇほどアンタは幼稚?」
    「んへへ、ミスタは手厳しいな」
    「これも『しゃかいべんきょー』だろ?」
    「その『社会勉強』にミスタが付き合ってくれるんでしょ?」
    「うっ…まぁ、な」
    「ミスタ、ありがとう」

     透き通るような光を宿したシュウの笑顔がミスタの瞳に映り込み、良かったと無意識に頬が綻ぶ。しかし、こんな言葉しか返す事しか出来ない無力さに、もどかしさが胸を過ぎる。そんな思いを遮るかのようにシュウが穏やかな口調で声をかける。

    「ね、ミスタ。見てほしいものがあるんだ」

     シュウは懐を探り始めた。取り出されたそれは手のひらに収まる大きさの物で、まっさらな布で丁寧に包まれていた。広げられた布の中には繊細な細工が施された小さな青い花が連なっている簪があった。連なったガラス細工の花々は光の角度によって、青に染色された花々は桜を思わせる薄紅色へと変化する。ミスタは嬉しそうにふくふくとした表情を浮かべるシュウと手元できらきらと色鮮やかに輝く簪を大きな瞳でぱちぱちと交互に見つめた。

    「これね、たまたま商店街の方に出向いた時にみつけて、ミスタに似合うだろうなって買ってきたんだ」
    「え…?」
    「ここのお店って厳しいのかな?贈り物とかいけない?」
    「おくり、もの…」

     ミスタはシュウの言葉を反芻した。
     こんな事はミスタにとって初めての事で、どんな反応をしていいものかと押し悩んでいた。

    「もしかして…、気に入らなかった…?」

     中々受け取とろうとしないミスタに、気に入ってもらえなかったのだろうかと、不安そうに唇を引き結び居た堪れない様子のシュウ。居た堪れなさに襲われるミスタはその簪をぎこちない手つきで手に取り、結い上げられた亜麻色の髪に慎重に飾りつけた。

    「どう、だよ…」

     ミスタは感謝の言葉を伝えなければと思う一方で、それを素直に伝えられなくて、ぶっきらぼうに受け取ってしまった。でも、心の中は喜びで波打っていた。それを確信づける様に、ミスタの瞳は緩やかに綻び、照れくさそうに頬を赤らめていた。ミスタは曖昧に言葉を濁し、しゃらんっとガラス細工の花びらの音をたてて、簪で飾られた髪を靡かせた。

    「うん…、すごく、綺麗だよ」
    「……もっと違うことに金使えよ。自分のこととか、なんか他あるだろ」
    「んへへ、いいんだよ。僕はミスタがこれを受け取ってくれただけで嬉しいって幸せだってそう思うから」

     陰りのない微笑みを浮かべるシュウにミスタは目を伏せる。こんなちっぽけな事で幸せだと感じるなんて随分と安上がりだと思った。けれど、そう感じられるシュウの純真な心は安上がりなものだとは思えなかった。ごくささやかなことであっても、ひとつひとつに幸せを見出せるその心が切なくも温かくて、シュウの心に触れたようで、胸の中がその温もりで満たされていくのをミスタは感じたのだった。

     小さな幸せを分かち合った後、静かで緩やかなひとときを過ごし、朝を迎える。いつもと同じようにシュウの見送りをするミスタは毎度のことながら、「もう来るな」と口では言うものの、『また来いよ』とつい口にしてしまいそうになる。けれど、シュウの帰る背中を見つめながらその言葉を必死に飲み込んだのだった。
     しかし、その日から更に1週間後、前回と同じ曜日、同じ時間にシュウの指名だと店主から呼び起こされる。その後も、何かと用事を取り付けて当たり前のようにミスタの指名を続けるシュウ。もう次は来ないだろうと、繰り返し胸に告げるのも飽きてきて、いい加減疑問に思うようになったミスタは疑念を晴らす為にシュウを問い詰めた。

    「アンタさ、毎週毎週何かとオレん所来てるけど…、ここに来なきゃなんない要件っての、全部ウソなんじゃねぇの?」
    「…っ、えーっと…」

     シュウはびくりと肩を跳ねさせると、あからさまに目を逸らす。ミスタは愕然とため息を落とした。

    「んはは、ミスタは鋭いね」
    「…バレないとでも思ったのかよ」
    「…そのぉ、なんて言うか、ミスタといると落ち着くし良く眠れるし…、それに…」
    「それに…、なんだよ」
    「ミスタに、ただ会いたかったんだ」
    「……んだよそれ」
    「…だって、ミスタ、怒るかなって…」

     悲しそうにシュウは俯いた。
     確かに苛立ちはする。しかし、それはシュウはまた来てくれるのではないかと僅かな望みを持ってしまう自分に対してだった。もしかしたらと期待感だけが膨らんで、真相を知りたくて耐えかねたのはミスタの方だ。そんな中、打ち明けられた応えに、シュウを待つ事を望んでいいのだと許されたように思えて、不毛に抱えていた苛立ちがほぐれていった。

    「…アンタがいいなら、こっちがとやかくなんて言えねぇよ。……好きにしろ」
    「うん…っ!」


     身分の差は埋められない。
     けど、傍にいたいって…、そう思ったっていいんだ。


     弾んだ声と共にこぼれたシュウの笑顔は色褪せる事のない月のように綺麗で、その優しい光を受けたミスタの表情は陽だまりのように温かだった。



     ミスタはこの時思った。
     暗闇で閉ざされた籠の中、不確かではない確かな光が差しているのだと…、そう思えてならなかった。



     しかし、逃れられない悪夢は相変わらず決まって訪れる。でも、この悪夢を乗り越えればシュウにまた会えるのだと、震える瞼を固く閉じて繰り返される悪夢が去るのをじっと待ち続けるのだ。




    「指名だ」

     店主の声が襖越しに聞こえる。
     無愛想な口調だったが、心を宥め客の所に向かった。だが、客間に入った途端絶句した。今日はハズレだ…と。これまで積み重ねた経験から来る直感が、この客は危険だと脳内に警報を響かせる。幾度となくこの直感には世話になってきた。…とはいえ、逃げられる権利なんてものは持ち合わせていない。それなら、二度と指名されない為に媚びは売らず、喧嘩を売って客を呆れさせればいい。今までだってそうやって凌いできたのだから。
     しかし、今晩の客は気が強そうな者を屈服させるのが随分と好きらしく、強い暴言を吐くミスタの手足を雁字搦めに縛り、身につけた着物も雑に剥ぎ取って露になった肌に噛み痕や肌を吸った痕を散々に残していく。
     強引な行為は激しさを増していくばかりで、暴れる身体を捩じ伏せるようにミスタの細い首に手を掛けた。殺される。ミスタは生々しく迫り来る死を感じ取り、身動きの取れない身体をジタバタと死にものぐるいで動かし、死に抗った。
    その騒ぎに気づいた別室の陰間達がミスタに暴行を加える客を引き剥がし、部屋から追い出した。陰間達は手足に縛られていた縄を解き、必死に声をかける。けれど、ミスタの目は虚気で既に放心状態だった。そんなミスタをなんとか自室に戻し、最低限の介抱をするが、陰間達に礼を言う気力も失っていた。陰間達は、また様子見にくるからなと、ひとつ声をかけ、静かに部屋をあとにした。 

     嵐のような騒々しさがやっと去っていった。あとに残ったものは残骸のように朽ちた心と身体だった。青白く血の気の引いた頬に、何故、どうしてと、悲痛な疑問ばかりが涙の雫となっていくつも流れていくばかりだ。ここ最近はシュウが訪れる事で幻のような夢に浸りすぎて、目の前の悪夢から目を背けていた。身体中痛くて指ひとつ動かすこともままならいこの現状は、自分の置かれた世界を目の当たりにするのには充分すぎる。


    「ははっ…そうだった こっちが…現実、だったんだな、、」


      苦痛に霞む意識の中、何が朽ちていく音だけが聞こえ続けた。



     ここがオレのいる場所だ。
     この、暗く絶望だけが蔓延る世界こそオレのいる居場所なんだ。









    「…すた、ミスタ!」

    ほどなくして、陰間達が心配そうに呼ぶ声で朧げだったミスタの意識は引き戻される。日付はとっくに過ぎているらしく、シュウが訪れているのだと言う。けれど、生々しい惨事の痕跡が残ったこの姿を見せるわけにはいかなかった。今日は会わないと言ってほしいと陰間達に伝えると、陰間達は快くミスタの思いを汲み取り頷いた。
     しかし、数分が経った頃、控えめな足音がミスタの部屋に近づいているのに気づく。聞き慣れない足音に不信感を覚えた刹那、随分と聞きなれた声色が閉じられた襖を叩く。

    「ミスタ、僕だよ。さっき、体調良くないって聞いて…、心配で無理を言って来てしまったんだけど……顔だけでも見せてくれないかな…?」

     誰なのかと問わずともその声の主がシュウなのだとわかった。どうして来たのかと胸が騒ぐのと同時に、せっかく来てくれたのにシュウに会ってやれない事に心が痛んだ。けれど、やはりこんな姿をシュウに見せる訳にはいかない。ミスタは軋む身体を無理矢理起こし、部屋の外へ掠れた声を向ける。

    「……悪い、ほんと、今日は帰ってくれ…見せられる状態じゃ…ねぇ、から…」
    「ミスタ、そんなに悪いの?何か必要な物あるかな…?僕、すぐ買って来るから…っ」

     早く帰ってほしい思いとは裏腹に、それを聞き入れられないお節介なシュウ。普段なら呆れるだけで済むのだが、この時ばかりは残酷だとしか思えなくて、それが今はただただ腹立たしくて、張り詰めていたミスタの精神がぷつんと限界を迎る。

    「…もう、いいだろ」

     考えるより先に、鉛のように重いはずの身体が俊敏に動いた。襖を開けると心配そうにするシュウの姿がそこにあった。シュウはミスタの顔を見るなり言葉を発しようと唇を開く。

    「みす…っ」

     その瞬間、ミスタは有無を言わせる事もなく、シュウの胸ぐらを掴み、無理矢理自室に引き摺り込んだ。それに驚くシュウを気にも留めずに畳の上に投げ飛ばして、状況を把握出来ず目を回しているシュウの腹の上に跨った。
     薄暗い部屋の中、シュウはのし掛かって来たミスタの姿を見て言葉を無くす。外に面した障子の隙間から月明かりの蒼白い光が入り、その微かな光に照らされた姿はあまりにも醜いものだった。いつも整えられている髪と着物は乱雑に乱れ、首元からは首を絞められたような痕が深く刻まれている。ミスタはとどめを指すように、躊躇いなく着物の合わせを開き、更に肌を肌けさせるとシュウは目を逸らそうと咄嗟に顔を背ける。けれど、ミスタはそれを許さなかった。シュウの顔を強引に掴み、目を逸らすなと凍えるように冷たい視線で訴える。顕になった白い肌には数え切れないほどの噛み痕や肌を吸われ鬱血した痕。噛まれた所は強く噛まれ過ぎたのか、肌は青黒く染まり、その身の内が穢れによって侵食され、蝕まれているようだった。

    「アンタ、いつもオレにいってたよな。オレは綺麗だって、これを見てもまだそう言えんの?」
    「…っ」
    「だろうな。けど、もう分かんだろ?何度も何度も無駄に金放ってまでオレと会ってんだから」


    ―――これがその陰間の 『本当の姿だ』


     ミスタは現実を淡々と吐露する。
     さあっと身体から体温が失われていくのがわかる。徐々に失われていく身体の熱に震え出しそうになる唇を噛み締める。本物の感情を切り離し、作り物の表情を貼り付けて、鋭利な刃物を突きつけるように悍しい悪夢を見せる。

    「分かってねぇみたいだから世間知らずのぼんぼんに教えてやるよ。オレは客から金を搾り取る低俗な陰間だ。アンタは金持ちの客で、こっちからすりゃあいいカモなんだよ」


    ( 何も間違っていない。ただ、この夢を終わらせるだけだ )


    「籠の鳥に餌やって飼い慣らすのはさぞ楽しかっただろうよ。なんてったって客を楽しませるのがオレらのシゴトなんだからな」


      それが どんなに穢れた行為でも―――


     シュウは震える唇を噛み締めながら眉を歪ませる。
     苦しそうなその表情が痛ましくて仕方ないのに、苦しめているのは自分自身で、表情は別物のように冷静なのに、心の中は動揺と怒りと悲しさでめちゃくちゃだ。けれど、作り物の人形に成り代わる事に慣過ぎたこの身はシュウを苦しめる事をやめなかった。

    「帰れっていた時に帰ってたら、まだいい夢見させてやったのに。……アンタ、金払ってここまで来てんだろ?どうせなら今から『イイコト』してやろうか?」

     ミスタは笑っていた。
     鏡を見たわけでもないが、笑えていると確信できる。現に、目の前にいるシュウは血の気の引いた顔で声さえ上げられずこちらを見つめている。ミスタは乾いた唇を舌舐めずりして、慣れた手つきでシュウの股座を弄る。当然、触れたところで反応を示すわけもない。それでも、必要なことだった。色濃い性の香りが、欲望の感触が。

     覆い尽くされた目の前の光景にシュウは堪らずミスタの身体を突き飛ばし、走り去った。目の当たりにした悪夢から逃げていくその様は…あまりにも滑稽だった。

    「は、ははっ…あははははっ!!」


     ( これでいい、これで良かったんだ。)

     
     ミスタは遠ざかっていく足跡に安堵するように、突き飛ばされた身体を起こす事もなく高らかに笑い声を上げた。喪失感から身体がだらりと脱力していく。その感覚は、しがらみから解放されたように心地良く思えるほどなのに、何故だか細めた目尻からはいくつもの涙の滴がこぼれ落ちていく。
     この涙は一体なんの涙なのだろうか。ふと考えを巡らせてみるも、答えは出なった。でも、今のミスタにとってそんな事などどうでも良かった。もう何もかも終わってしまったのだ。いや、最初から何も始まってなんかいない。ぜんぶ、全部、ひとときの甘い幻でしかなかったのだから。


    「じゃあな、世間知らずのぼんぼん。お前みたいなヤツなんて精々幸せな夢(現実)だけ見て生きてりゃいいんだよ、ばーか」


     瞼を閉じれば、シュウの怯えた顔が過ぎって胸の奥を握られたように締め付けられる。痛くて、苦しくて、じゅくじゅくと蝕まれていくようで、余計に涙があふれ出す。何一つ後悔はないというのに次々とあふれる涙が煩わしくて、訳がわからなくて、胸の痛みを振り払うように皮肉を込めた言葉を呟いた。けれど、ミスタの胸を蝕む鋭い痛みは、いつになっても消えることなどないのだった。







    「…来るわきゃ、ねぇよな」

     あれから2週間ほどが経過したが、シュウはこの店に訪れる事はなかった。あんな生々しい惨状を見てしまえば来る気も失せるのは当たり前の事だ。けれど、シュウならばそんな事さえ気にしないで、また会いに来てくれるかもしれないと有りもしない期待をしまっている自分に、あれほど追い詰めておいて何様なんだと苛立った。

    「お前にも悪ぃな。もう…綺麗だっていってくれるヤツ、いなくなっちまって」

     手元に視線を落とし呟くと、それは返事をするように、しゃらんっ、とガラス細工の花々が音をたてた。
     シュウはミスタの髪に飾られた簪を目にするたび、光によって変化する花々をその指先でゆっくりと愛でるようにと伝わせて、綺麗だと大切なものを眺めるようにミスタをみつめていた。しかし、今はその言葉や眼差しを向けるてくれる存在はいない。それがどうしても心苦しくて、ミスタはこうして簪を手元に置き、語りかける。
     そんな虚しい時間が過ぎていく一方で、シュウが決まって訪れていた日は何も知らない店主がシュウ以外の客を取らないようにしている事にある意味助けられていた。そうでなければ、役目のない簪に目を向ける事さえなかったのだから。
     かと言って、その日以外は客を受け入れる他なく、目障りな客に暴言を吐けるほどの気力も無いミスタは、どんな客であっても言いなりとなる人形であり続けていた。どこもかしこもチグハグに壊れたそれは、がらくたの人形のようで、ミスタにとって何より望まない姿だった。無様で恥ずべき自分のその姿に、嫌悪感が腹の底からせり上がり、汚物と共に口からあふれ出した。
     しかし、それが意外にも客には好評のようだと店主から聞かされる。結局、人間としてなんて扱いもされない、ただの性欲処理の人形。どこまでいこうとこれが自分の役目でしかなかった。

     しゃらん、手元で簪が揺れる。

    「心配すんな、お前の方が大事にされてるよ」

     ―――オレよりマシで、良かったな。

     視線を落とし、嘲笑いながら呟く。不意に、喉の奥が締め付けられて目の奥が熱を持ち始める。

    「オレは…、おまえみたいにお飾りにもなれやしなんだ」

     ただ、きらきらと光を反射するガラス細工の花々が幾つも連なった簪を眺めている、それだけだった。しかし、その花々の色は涙で歪む視界のせいで何の色をしているのかも、ミスタには判別する事が出来なかった。
     

     その後は、もはやもぬけの殻。ミスタは日常のどこにも居場所がないように思えて、意識が黒く塗り潰されていく。それでも、シュウの訪れていた日が来れば傍に簪を置き、今にも壊れてしまいそうな精神を繋ぎ止めるように、何度も何度も暗闇に浮かぶ月に向かって懸命に呼び続ける。助けて…、と。

     そんな悲痛なミスタの呼びかけに応えるように、てぃんっ、と不意に三味線の音が耳に降りる。なんだろう、と耳を凝らすと流れるように奏でられはじめる三味線の音がゆったりと心地よいテンポでミスタの耳を撫でる。子守唄のような瑞々しくも優しいその音色は胸に突き刺さった苦痛や不安を飲み込んでいくようだった。なんてきれいな音色だろう、とうっとりとした心地で瞼を閉じると、そのまま三味線の音色に身を委ねるようにミスタは微睡みの中に落ちていった。

     翌朝、目が覚めると錆びついたように動かなかった身体が嘘のように身体の具合が回復していた。最近は浅い眠りばかりを繰り返していた事もあり、久しぶりにしっかりと睡眠を取れた事に気づく。 けれど、この店に三味線を弾ける者はいないし、芸者がこの店に立ち寄る事だってあるはずがなかった。だとするなら、店の外で芸者見習いが稽古をしに来ていただけなのだろうか。この辺りは殺風景な通りで、ただあるのは大きな川が流れているだけ、稽古をするには丁度いい場所なのかもしれないが、こんな時期に珍しいと曖昧な答えに行きついたところでミスタは深く考えるのをやめた。
     しかし、その三味線の音はその次の週も、更に次の週も夜を通して奏でられているのだ。その度、その心地よい三味線の音色はミスタの身体を抱きしめるように深い眠りへと誘っていった。けれど、ある時気づく。週に一度、夜と共に降りて来る三味線の音は、ここ最近ミスタが客を取っていない日であり、以前の事で言えばシュウが必ず訪れていた日と重なっていると言う事を。もしかして…いや、そんなはずないと、自問自答を繰り返して、幾つもの予想が頭の中をぐるぐると巡るたび、不安が胸に滲んでいった。

    「……やっぱり、いつもと同じだ」 

     今夜もまた三味線の音が奏でられる。
     しかし、今までのように落ち着いた心地で耳を澄ます事はもう出来ない。唐突に抱えてしまった違和感は不信感となってミスタの心を冷めさせてしまっていたのだ。
     ミスタは外に面した障子を開き、恐る恐る三味線の音が聞こえる方向へ視線を向ける。淡い月明かりの下、川沿いにゴザのような物の上で三味線を奏でる姿があるのを見つける。後ろ姿ではあったが、微かな月の光が夜の空に星をかけたような髪色を照らす。視界に入った事実に息を呑んだ。あわよくば、予想を裏切ってほしかった。しかし、見間違う事のないシュウの姿に衝撃を隠せず、何をしているのだと怒鳴りたい衝動に駆られる。
     けれど、頭に血がのぼるのをどうにか鎮め、シュウが勝手にしてる事だ、自分には関係ない、と首を振って障子を急いで閉じ、敷きっぱなしの布団に潜り込む。 潜り込んだ所で三味線の音は微かに鼓膜に届く。その音色は変わらず優しくて、目頭がどんどんと熱くなっていく。滲み出す涙を遮るようにぎゅっと瞼を瞑り、早く鳴り止んでくれと耳を塞いだ。その音は1時間も立たないうちに鳴り止んで、布団から這い出て外を確認すると、やはりその姿はどこにも見当たらなかった。

    「なんなんだよ…」

     ミスタはその場に力なくへたり込んだ。
     わざわざこんな花街まで出向いて来る目的なんてありはしないはずなのに、人通りの少くない寂しい場所で歓声を求めるでもなく、何かを待つように曲を奏で、数十分ほどして帰っていく。ますます理解できなかった。
     しかし、それからも毎週同じように三味線の音は奏で続けられていた。ミスタはどうする事もなく、意地を張るようにシラを切った。けれど、俯く心に寄り添うように奏でられる三味線の音色にだけは耳を傾けてしまっていたのだった。
     どうやら、毎回違う曲ばかりを奏でているようではなく、ミスタも何度か聞いているうちに、少しずつシュウの奏でる曲の数々を覚えていった。その中で毎回といっていいほど奏でられる曲があり、その曲がミスタは特に好むようになった。その音色を覚えたミスタは無意識に外から流れる音と同じ音を口ずさみ、シュウの姿を思い描きながら瞼を閉じる。




     
     今夜は鼠色の暑い雲が月の光さえ覆い隠し、ざぁざぁと雨粒を降らせている。
     きっと、こんな日までシュウは来ないだろうと、ミスタの心は暗く後ろ向きになる。それでも、淡い期待を捨てきれず、障子の傍で膝を抱え待っていたものの、やはりいつもの時間を過ぎても三味線の音は聞こえてこなかった。もう待つ意味はないと、どこか後ろ髪を引かれる思いが胸に過り始めた頃、外から三味線の音が雨の音に紛れながらも聞こえはじめる。驚いたミスタは障子を開け、川縁の方へ目を凝らす。そこには少し大きめの雨傘をさして、いつもの場所でシュウが三味線を奏でていた。今夜はミスタの好んでいる曲から奏で始めたようだったのだが、何かが違う。
     いつもより奏でるテンポが遅く不規則で、降り注ぐ雨脚はどんどんと強くなり、その雨音に遮られ、シュウの奏でる音色が弱っているように思えた。嫌な予感がミスタの背筋に冷たく流れ、もう見ていられないと思った刹那、がしゃんっ、と三味線が落ちる音。肩にかけられていた雨傘は滑り落ち、シュウの身体は糸が切れたように身体を支えきれず土砂降りの地面へと倒れ込む。
     目の当たりにした事態に、周りからの音が消える。強く降り注ぐ雨の音も、自分から発せられる呼吸の音も、何も聞こえないほどに。

    「…っ!」

     気付けば、ミスタの身体は駆け出していた。全ての力を両足に込め、部屋から飛び出し階段を駆け下りて、店の裏側の道端に倒れてしまったシュウの所まで素足のまま向かう。際限なく強く雨に打たれるシュウが視界に入り、吹き出す汗と抑えられない震えが起こる。ミスタは堪らず悲鳴に似た声をシュウに向けた。

    「おいっ!大丈夫か…っ!?」

     ミスタの声かけにシュウの身体はぴくりとも反応しない。ミスタはその身体を慎重に抱き起こすと、驚くほどシュウの身体は熱く呼吸がとても浅いのがわかった。

    「うぅ、はぁ…、はぁっ」

     ここ最近は冷え込む事も多くなった。自室にいてもそう思うのだから、外なら尚更気温が低いはずだ。そんな中、毎週この川縁で僅かであろうと長居してしまうと風邪をこじらせたっておかしくない。きっと、この日の雨が追い打ちとなってしまったのだろう。これ以上身体を冷やさないようにしなければと、ミスタは自身の肩にシュウの片腕を回し、意識のないシュウをなんとか店先まで運んだ。玄関先に通りかかった陰間達が異様なその光景に驚き、血相を変えて騒々しく慌て出す。

    「コイツを…、助けてくれっ」

     状況を説明するより先にシュウを自分の部屋まで運んでほしいとミスタは声を上げた。しかし、その場にいた陰間達は、どうする…と戸惑いをみせた。そんな陰間達にミスタは唇を固く噛みめ、シュウの身体を落とさないように注意を払いながら、頭を下げる。

    「………たのむ、どうしても、たすけてやりたいんだ」

     ミスタの行動に陰間達は顔を見合わせた。そんな中、1人の陰間がふっと口元を崩して口を開いた。

    「いいよ、助けてあげよ」
    「…っ、ほんとに、いいのか?」
    「なぁに?その意外そうな反応は。ほら、早くしないともっと具合悪くなっちゃうよ。みんなもいいよね?」

     声を上げたのは柔らかな眼差しを宿す陰間だった。               
     青味を帯びた瞳が印象的な彼は温和な性格で仲間達の輪を和ませるのが常だった。そのお陰もあってか、他の陰間達も快く頷いてくれた。ミスタは優しい仲間達に心から感謝した。

     シュウの事を頼んだ後、ミスタはもう一度店の裏側に走って戻り、雨に打たれてしまっているシュウの三味線とバチを羽織っていた肩がけで包み、気休めにしかならないだろうが、転がり落ちていたシュウの雨傘で降り注ぐ雨を凌いだ。
     急いで自室に戻ると、陰間達が代わる代わる必要な物を揃えてくれていた。ミスタは揃えてもらった物の中にあった清潔な着物を手にすると、ずぶ濡れになったシュウの着物を脱がせていく。着替えを進める最中、シュウの身体はどこもかしこも熱いのに、がたがたと小刻みに震えていて、顔色を伺うと辛そうに眉を寄せている。熱のせいで顔全体が赤くなって、最後に会った時よりも目元に残された黒ずみが悪化して、頬も酷くこけてしまっているようだ。こんなになるまで何をしてるんだ、と怒りが湧くのを必死に堪え、シュウの着替えを他の陰間達の手を借りながら慎重に進めていった。一通り着替えさせ終えると、青の瞳をした彼に声をかけられる。

    「ぼくたちは構わないけどさ。店主は…どう言うかだね」

     彼は店主とも良好な間柄であった。しかし、この事態を許すかどうか懸念を抱かずにはいられないようだった。ミスタはうまく言い逃れられるだろうかと不安に駆られるも、熱に侵され弱っていくシュウの姿を視界に入れれば引く気は毛頭なくなる。

    「……わかんね。でも…、こっちは譲る気ねぇし」
    「だよね、まぁ外堀さえ埋めてればこっちのものだし。店主ってばなんだかんだでミスタには甘いみたいだからさ」

     悪びれもせず、晴れやかに笑う彼の言葉に背を押されたように思えた。ミスタは頑固たる決意を胸に立ち上がると、店主の元に向かい今の状況を説明し、説得を試みた。シュウの介抱をする為に3日だけ暇をくれ、合間を見てできる事はなんでもやる、と店主に土下座までして精一杯の誠意を見せる。
     店主はミスタを見下ろし数秒してから、ミスタに問いを投げかける。

    「掟に背いている事をわかっているな?」

     やはりそこを突くかと、ミスタは口を固く噤んだ。
     それは今自分が取っている行動がこの店の『掟』に反する事だと自覚していたからだった。助けたいのだと陰間達に頭を下げた時、全員が戸惑い懸念していた意味も、ちゃんと分かっていた。

     この店には掟という縛りが存在する。

     その掟とは、

     『客に対して情をうつしてはならない』

     ただそれだけの事だった。

     最初にその話を聞いた時、誰が情なんてうつすものかとひと蹴りして、こんな事を掟にする必要なんてあるのかと豪語したのを覚えている。それがいまはどうだ。こんなにも厄介な掟なのだと、この身を持って思い知らされている。

    「アイツに…、情なんざ湧いちゃいねぇよ…」
    「ならば、放っておけばいいことではないか」
    「…っ!」

     毒の含んだ言葉を店主は淡々と呟いた。
     ミスタは威嚇を向けるように鋭い眼差しで睨んでみせた。しかし、店主はミスタのその形相に怯むわけでもなく堂々と真正面からその眼差しを受け止めているようだった。

    「そうさな、最近のお前は客からの評判は悪くはない。3日間だけなら目を瞑ってやてもいいだろう。だが、下働きをお前1人でこなしてもらおうか」

     これが条件だと店主は言った。
     毒を吐いてきた店主に、これは簡単に折れてくれないと身構えたミスタだったが、案外あっさりと許可を出してきた事に何か裏があるのではないかと勘繰った。しかし、店主の気が変わらないうちにとミスタは出された条件にすぐさま快く了承し、そそくさと部屋を後にした。
     ふたたび自室に戻ると、青の瞳をした彼が渾身的にシュウの看病をしてくれている最中だった。ミスタは店主から許可が降りたと伝えると、安堵した表情を浮かべながら喜んでくれた。

    「そうだ、きっと夜も寒いだろうし倉庫から暖の取れるもの探して来てもらうように頼んどいたからね。他に何か必要そうな物とかあれば探してくっからさ、遠慮しないでぼくらに任してよ」

     心強い彼の言葉にミスタは感謝を伝えようと口を開くより先に、騒々しい怒号が遮る。

    「オイ、誰だよ!汚ったねぇ足でそこら中歩き回ってるヤツ!!掃除しろよ!!」
    「………やべ」

     やらかしてしまった。
     素足で土砂降りの地べたを駆け回り、その足で店の中を歩き回っり汚してしまったのは自分の他なかった。僅かな時間さえ惜しくて、突発的に行動してしまったが故に、後先を考えられない視野の狭さが業を煮やす。自分の落ち度に肩を落とすが、落ち込んでいる暇などミスタにはなかったのだった。

     急いで水を注いだ木桶をふたつ準備する。ひとつは床掃除に、もうひとつはシュウの看病に。
     まずは、シュウの看病を優先する。タオルを水に浸し、しっかりと絞り上げて、シュウの額に滲む汗を拭い取り、また水に浸し絞ってから額の上に覆い被せる。熱に魘されるシュウの傍に着いていてやりたい気持ちを抑えその場を急いで離れた。
     準備した掃除道具を一式抱え、泥まみれの廊下を一掃する。普段は何気なくダラダラと歩く廊下の床を、今では汗が額から滴って拭う間も惜しいほど死に物狂いで這い回るだなんて思いもしなかった。それに、こんなにも必死になれる自分がいると言う事もそうだ。きっとこの変化は悪い事ではないのだろうけど…、

    「…んなもんこんな時に知りたくなかったっつの!」

    当てつけのように磨き上げられた廊下に向かってミスタは叫び声を響かせた。
     廊下掃除がひと段落すれば、シュウのいる部屋に戻り、水に浸したタオルをしっかり搾り、額にそっと置いた。それから、忘れない内に外で転がったままになった傘を取りに向かったりと体力もないのに、あっちこっちと行き来してばかり。だが、店主に課せられた下働きはまだ半分も終えていない。休む間もなく気力だけで次の仕事へと重たい足を運んだ。

     まずは厨の仕事だ。
     けれど、20分もただずに追い出された。思いあたる節はある。たぶん、高価な皿が5枚ぐらい重なってるのを3回連続で割ったからだろう。つまみを作るのに魚を切ろうと手にした包丁を魚めがけて振り下ろすと、勢い余って握っていた包丁が手からすっぽ抜け、後ろで監督をしていた柘榴色の瞳をした厨担当の彼の頭上を見事に通りすぎてったからだろう。真っ赤に濡れたその瞳が怒りに燃え、鋭い赤をより濃くしていたように思う。………かろうじて、その場でちびらなかったのが救いだった。

     しかし、追い出されても別の仕事はあるので、次は汚れた衣服や布の洗濯の仕事に向かう。この作業に関しては、まだこの店に入って間もない頃、悪さをするたび罰としてしこたまやらされた経験があった事もあり、厨の作業より随分手慣れていた。キリがいい所でシュウの所に戻りタオルを変えて、それからまた雑用と、忙しなく行ったり来たりを繰り返す。 気づけばとっくに時間は過ぎ、時計を見れば既に日を跨いでいた。慣れない作業のお陰でくたくたの身体をひこずって自室に戻ると、青の瞳の彼がふかふかの毛布を準備をしていた所だった。

    「ミスタ、お疲れ様。毛布、持って来たからこれ使ってね」

     ミスタが毛布を受け取ったところで、がたんと自室の襖が開かれる。現れたのは厨担当の彼だった。相変わらず、柘榴色の瞳は射抜くように鋭く、ミスタは恐る恐る身構えた視線を向けるが、怒りに燃える色は見えない。

    「おまえ、なんも食ってないんだろ。さっさと食え」

    反射的に構えていたミスタをよそに、丁寧に握られたおにぎりの乗った皿をミスタの前に差し出された。呆気に取られたミスタは彼の瞳を不思議そうに見つめる。

    「そんで、店主には二度とお前を厨に入れるなって言っといたからな。たっけー皿がこの店から消え失せて困んのはあのジジィなワケだし」

     彼は表情ひとつ変えないまま、ミスタにおにぎりののった皿を押し付けるとさっさと部屋を後にした。

    「ははっ、ご飯にありつけて良かったね。でもさ、この人の薬とか、どうする?」

     困った瞳を向ける彼に、あ…っと我に帰る。一難去ってはまた一難。乗り越えなけれならない壁は山積みであった。薬なんて手元にあるはずがなく。あるとすればと頭を抱え模索するが、答えはひとつしかなかった。

    「…店主の所に行けばあるだろうけれど、素直にもらえっかな。…とりあえず、これ食ったら行ってみる…」

     ミスタは手にしたおにぎりを食べ終えると、小走りで店主の部屋の前に立ち、静かに襖を開ける。店主は書き物をしているところだった。ミスタは正座をして店主に向かって声をかけるが、こちらを見向きもせず、なんだと冷淡な声で返される。

    「…風邪薬とかもらえたりなんかしない…、デスカ?」

     頼み事をする手前、慣れない敬語まで加えてみる。毒の混じった言葉をまた投げかけられる覚悟はしていたが、その予想に反して店主はスッとそれらしき瓶を出してきた。

    「…い、いいのか?」
    「あぁ、金はもう充分貰っているからな」
    「……それ、どういう意味だよ」

    こちらの問いかけに、相変わらず店主は視線すら合わせない。ただ、冷たく空気が張り詰めている。背筋に冷ややかなものが伝い、ミスタの胸はざわざわとどよめく。店主は静まり返った空気を切るように、かたんと音を立てて筆をおろす。書き物に向けていた視線をこちらに向け直し、探るような眼差しで話し始めた。

    「闇ノ様からの指名が途絶えて、そろそろ他の客を取ろうと考えていたんだが…、闇ノ様はまたおいでになられるようになったな」

     ミスタは驚いた。
     店主はまだシュウがこの花街に足を運んでいる事を知っている。何故知っているんだ。シュウからの直接的な指名が途絶えてから、シュウはこの店の門を通っていない。この店は門を通り、店主と顔を合わせねば指名すら通る事はないというのに。あの夜の出来事があってからシュウからの直接的な指名はまだ途絶えたままだ。それならば、以前とは違う形でシュウが足を運んでいる事を店主は知る事はできないはずだ。ミスタは何を言っているのだと戸惑いの表情を浮かべた。

    「何も知らん顔をしているな、無理はない。闇ノ様は金だけ放ってお前に会う事もなく店を出て行かれていた。お前の耳には入らぬようにと口止め料まで払ってな」
    「…っ!?」

     知らされていない事実に、握りしめた拳が血の気を失い震え出す。

     店主は、この老いぼれは、シュウの優しさに付け込んでいたのだ。どこまで非道な人間なんだと胸ぐらを掴んでやりたかった。だが、更なる利益を生むのに打ってつけの話が提示されれば乗らない者などこの花街にいるはずもないく、下卑た笑いを浮かべながら手を擦り合わせるだろう。


     ( オレを、シュウの餌にしたってのか…、、)

     
    「だからさっさと持っていけ。ここで恩を売っておけば、まだ通ってもらえるだろうよ」

     店主は薬瓶をちらりと見て、いらないのかと視線で告げる。店主にとって、こんなちっぽけな薬ひとつ大した価値もないんだろう。それとも、これを元手にまだシュウから金を搾り取るつもりなんだろうか。考えるだけで虫唾が走った。ミスタは立ち上がり、その薬瓶を乱暴に掴み、店主の部屋から飛び出した。自室に逃げ込むように戻ると、抱えきれない想いがあふれ出し、がくんっと膝から身体が崩れ落ちる。

     シュウは本来より倍の額を詰んでまで会いもしないミスタに金を注ぎ込んでいた事。店主は全てを知った上でシュウを利用し続け、金を巻き上げていた事。一番許せないのは、何も知らずに呑気に過ごしていた自分自身。混乱する頭を整理する事も出来ないまま、怒りと悲しみだけが、いくつもいくつも涙となって頬を濡らしていく。

     『金は天下のくだりもの。客は利用するだけ利用して奪ってやりゃあいい。』

     店主から最初に教わったことだ。
     そんな事、紛い物の人形を盾に、善も悪も関係なく客を利用するなんて容易いことだっと思っていた。奪われる前に奪えばいい、そう思い続け悪夢を生きていた。だが、奪う対価として失われ続ける本物としての心。
     擦り切れそうな心を抱える日々の中、シュウと出会い、月のように優しいその心は光のカケラとなってミスタの胸に注がれた。そのカケラの数々は理不尽に奪われ続けた本物としての心を埋めるように鮮やかに色づいていった。そんな美しい月のカケラを与えてくれたシュウを傷つけたくなかった、穢したくなかった。しかし、その思いとは裏腹に、シュウは利用される事を自らの意思で選んでいたのだった。


    ( なんで、なんでなんだよ…っ、)


     今となっては、ミスタの胸の中に輝く月のカケラは重しとっなって苦しめられるばかりだ。受け入れきれない苦痛の中、反射的に痛む胸へと手を伸ばした。悔しい、悔しくて仕方ない。当てどころのないこの想いはどこに向けたらいい。
     ミスタは熱に侵され床に伏せるシュウに視線を向ける。こんな痛々しい姿にさせた元凶自分自身にあるのだと思わざるを得なかった。しかし、このままシュウに辛い思いをさせ続ける事だけはしてはいけないのだと頭を振り、今だけは全ての感情をぐっと堪えてシュウの看病へと気持ちを切り替える。

     涙を拭い、薬瓶に目を移す。
     瓶の表面には文字の羅列が敷き詰められている。それは薬の効力や副作用、1日の使用量などの説明分なのだろうが、ミスタには字が読めなかった。けれど、幼い頃に風邪を拗らせた時、無理矢理この苦い薬を一粒飲まされたのを覚えがある。まずこの一粒で大丈夫だろう。ところで、意識がほとんどないシュウにどうやって薬を飲ませばいいかと、考えるが中々思い浮かばない。まず、飲み込めるのかを試さなければと、準備されたグラスに水を入れ、少しだけ口に入れてみる事にした。
     飲み口をシュウの口元に運び、一気に入らないように慎重に流し込む。すると、こくんっとシュウの喉が動く音がして、なんとか飲み込めている様子に一先ず安堵した。問題はこの薬だ。薬は水と違って固形物だ。喉に詰まる恐れがあった。安全に薬を飲み込ませるには、適正な水分と同時に固形薬を流し込む必要がある。本来なら本人の力だけで済むことではあるのだが、シュウの意識がない以上、その行程を代わりにしてやらないといけない。それは、ただ単に自分の口内に固形薬と水を含み、それをシュウの口にこぼさないようにうつしてやればいいだけの事。でも、出会った当初、口を吸ってやろとした瞬間、必死に手で口を塞いで口を吸われるのを防いでいたのを思い出す。
     貞操観念のないミスタからすれば理解できないことだったが、シュウにとっては重要な事であるように思えた。だからと言って今は命の危機だ。そんな甘っちょろいものに拘っていられない。

    「悪く思うなよ。ぜんぶ…、アンタのせいなんだからな」

     これが腹いせだとでも言うように、ミスタは薬と水を口に含みシュウの上に覆い被さり、熱い口内へ流し込む。顔を上げシュウの様子を伺うと少し口の端から水が溢れてしまってはいるが薬を飲み込めているようだった。一先ず飲み込めた事に安堵すれば、一気に緊張していた身体が脱力していく。思考もどんどん緩み意識が薄れ、閉じていく。

    「あした、着物も変えてやんなきゃな…それとあとなんだっけ…おれが、してやれること…あと、のこった、しごと、、」

     なんとか思考を巡らせようと踏ん張るも、堪えきれそうにない。ミスタは自分の着替えも出来ないまま壁にもたれかかり、襲いくる睡魔に滑り落ちた。






    「ん…っ」

     瞼の裏に光を感じる。ゆっくりと重い瞼を抉じ開ければ朝日の白い光が目に沁みた。ミスタは視線を彷徨わせあたりを見渡す。まず目に映ったのはシュウの姿。その光景に、ぼんやりとした意識がはっと覚めて、飛び起きるようにシュウの顔を覗き込むと、辛そうにまだ苦しげな呼吸を繰り返している。それに、シュウの首筋に手を触れさせると熱も下がっていないように感じる。ミスタは課せられた仕事の合間を縫って、流れ出る汗を拭き取り、こまめに額に被せては取り替えてと渾身的に看病をしてきたつもりだった。けれど、一向に容体が良くなっていない事に焦りを感じた。何をしてやてやったらいい、何が出来ると、自分に問いただしても答えは出せず途方に暮れていると、不意に襖が開いた。

    「調子、どうなんだ」

      顔を覗かせたのは柘榴の瞳を持つ厨担当の彼だった。いつもぶっきらぼうな態度を見せる事が多く、近寄りがたい雰囲気があるのだけれど、容量の悪さから食事すら取れずにいたミスタの為に、おにぎりを持ち寄ってくれたり、厨の仕事でのミスを店主から庇おうとしてくれたり、気遣ってくれているようだった。

    「まだ、熱が下がんねぇんだ…」

     そんな不器用で優しい彼だと知って、頼っていいのだと意思表示をしてくれているのだと思えた。

    「なんか、食わせてやれてんの」
    「…何を食わせやったらいいのかわからない、オレ看病とかした事ねぇから」
    「分かった、こっちで準備して部屋まで持って来る」
    「おーい、お邪魔するよ」

     今度は違う声が聞こえて来る。青の瞳を持つ彼だ。
     
    「……チッ、なんでお前までくんだよ」
    「えーなんでそんなに嫌そうなの?君だって心配だから来たんでしょ?それはぼくだっておんなじ」

    見るからに不機嫌な彼をあしらい、彼はひょいっとミスタの顔を覗き込む。

    「ミスタ、隈がひどい。目も充血してるし顔色も良くないよ。休んでほしいのは山々だけど…それはできないだろうし。せめて無理はしないでね。だってぼくらがいるんだから」
    「け、けど…っ」
    「ぼくらに任せてって言ったでしょ?」
    「ほっときゃいいんだ、どうせこいつは言うこと聞かねんだから」
    「ねぇ、それどっちのこといってる?」
    「ふっ知らねぇ」

     どちらも引かないスタンスと言うのが、どこかおかしいところではある。けれど、心配されている自覚があるからやはり無碍にできないし、看病の心得がないミスタにとって2人の助けはどうしても必要だった。

    「ごめん…。やっぱり、オレひとりじゃシュウに何もしてやれない、だから…っ」
    「うん、わかってるよ」
    「そんなもん最初からわかんだろ」
    「こら、そんな言い方したらダメでしょ?ミスタだって頑張ってるんだから」
    「へーへー悪かったよ」

     柘榴の瞳の彼を青の瞳の彼がまぁまぁと嗜めると、柘榴の瞳の彼はふとした疑問を問いかける。

    「それよか、メシ作るのはいいけど。この人、今ちゃんと飲み込めんの」
    「……薬は飲めた」
    「へぇ、どうやったの?」
    「口移し」
    「「……は?」」
    「だからオレの口から直に飲ませたんだ」

    大きく目を開き唖然とする2人に、 ミスタは身を縮める。

    「……な、なんだよ」
    「おまえ、それ本当に大丈夫だったのかよ…」
    「口移しってミスタにも風邪うつるくない?大丈夫なの…?」
    「あ…」

     ミスタは自分の取ってしまった行動に今になって不安を覚える。もっと早くにいい方法を聞けていたならと、罪悪感が胸に広がっていく。

    「……まぁ固形薬が飲み込めてるんだったらあんまり問題なさそうだね」
    「けど、薬はメシ入れた後に飲ませるもんだろ?そうじゃなきゃ腹壊すんだぞ?」

     説教が次々と飛び交い、空気が沈んでいく。
     
    「それにさ…メシとか準備してんのかとおもってたのにおまえときたら」

     確かに、無知な自分が悪い。でも、もっと悪いのは倒れてしまうほどの事をしでかしているシュウの所為だ。

    「だ、だって!…きゅるる」

     言われっぱなしになる立場ではないのだと、言い返そうとした瞬間、場違いな音が混じる事で空気が一変する。

    「こんな時まで空気読めねぇとか、あっありえねー」

     音の根源は自分のものだとはどうしても言いたくなかった。

    「うん、なんていうか、とりあえずご飯先だよね」
    「ぷっ、この人、どでかい腹の虫飼ってんのな」

     けれど、そんな見え透いた悪あがきに2人は乗ってくれた。まるで悪戯好きの集まりが揃ったみたいで、それだけでミスタの心はすっと軽くなった。
     2人は食事の準備をすると部屋を出ていく。その間、ミスタはシュウの額に乗せるタオルを新しいものに取り替え、汗で濡れるシュウの身体を清めていく。

    「あんま絡んだことない連中なのに、案外良いやつらだ」

     思い返せば、シュウと出会うまであまり同業の陰間達と関わりを持たなかった。いや、そんな余裕を持てなかった。そうは言っても未だに余裕があるなんて到底言えないのだが、いつの間にかこうして繋がりが持てている事に驚いてならない。きっとシュウにこんな事が起こらなければ、ここまで会話をする事もなかった。この繋がりを持てたのはシュウのおかげなのだろうかと、シュウに向ける感情がほんの少しだけ和らいでいった。
     
    「メシ、できたぞ」
    「おまたせ、ちょっと準備に手こずっちゃった」

     シュウの着替えが終わる頃、2人がお盆に乗せた食事を手に戻ってきた。差し出されたお盆の上には一つの土鍋にお玉、それからお碗と匙が二つずつ。ミスタはちらちらと視線を土鍋に向けていると、青い瞳の彼がにやりと含みのある笑みを浮かべる。

    「ね、聞いてよ。ご飯作るの手慣れてるくせに、分量間違えちゃうんだよ」
    「うるさい。お前が横でべらべら喋るから多くなったんだろ!」
    「はいはい、ぼくのせいね。ってことで、ミスタも食べてほしいんだ」

     そう言って、青い瞳の彼が土鍋の蓋を取ってみせた。中には野菜を細かく刻んで入れられたお粥が入っていた。

    「おいしそう…」
    「美味しそうじゃなくて、美味いんだっての。じゃ、俺がこの人に食わすから見ときなよ」

     柘榴の瞳をした彼はお玉を使い、お粥を掬ってお椀に取り分け、お盆の上に置く。

    「ちゃんと冷ましてやんなきゃ火傷すんだからな。んで、あとは飲み込みやすいように体勢を起こしてやんの」

     シュウの肩をゆっくりと抱き起こし、シュウの身体が倒れないように左腕で背中を支え、頭を胸元にもたれ掛けさせた。そこから腕を器用に動かして、お盆に乗せたお椀と匙を持ち、シュウの口にお粥を運ぶ。ミスタはその動作のひとつひとつを覚えるように目を凝らす。

    「うん、ちゃんと飲み込めるみたいで安心した。けど、やっぱり量は少しずつな」

     柘榴の瞳の彼はシュウの様子をしっかりと伺いながら、時間をたっぷりかけて食事の注意点を実践してみせ、一通り食べさせ終えると再びシュウの身体を布団に横たえる。

    「こんなもんだ。あとは、こまめに水分も入れて、薬も飲ませてりゃあもっと良くなるだろ」
    「うん、そうだな…」
    「そんなに心配しないでよ、ちゃんとぼくらも手伝うんだからさ。ほら、ミスタもご飯食べてしっかり栄養補給しちゃってよ」

     青の瞳の彼は空のお椀にお粥をお玉で掬い、ミスタに差し出す。ミスタはこくりと頷いて、まだ湯気の立つお粥を口に含めば、食べやすいように細かく刻まれた野菜がとろとろに煮込まれたお出汁となって優しい味付けだ。栄養の不足した身体に沁み渡っていくのが分かり、あっという間に残りのお粥を平らげた頃にはミスタの顔色も良くなっていた。

    「それじゃ、今日も雑用あるだろうからね。ミスタにぼくらからのプレゼントだよ」

     一息ついた所で、自信満々に白い布袋をミスタは手渡され、恐る恐る中を除く。

    「な、なぁ…これって、、」
    「これ着てたら着物汚れにくいし!あと三角巾もあるよ!!」
    「くくく…っ」

    布袋の中には、まさかの割烹着と三角巾。まるで掃除婦のそれだ。柘榴の瞳の彼は笑い出しそうなのを必死に堪えるのに必死のようで、ミスタは調子の出ない様子で引き攣った笑いを浮かべる。

    「あ、あんがとよ…」

     ミスタはここまで手を貸してもらっている手前、不機嫌を堪えてお礼を言うと、早速掃除婦のセットを身につけ掃除道具を手に部屋を練り歩く。

    「え、割烹着お似合いじゃーん!超似合ってんよー!」
    「うわ!!本当にあのミスタがやってる!!すげーなっ頑張れよー!!」
    「なに?ミスタ、花嫁修行中?」

     誰にも声をかけられたくはなかったが、その光景を見かけた陰間達は好奇心と物珍しさ故に次々と声をかけてくる。

    「うっせーよ!!無駄口叩くぐらいなら手伝え!!」

     掃除道具を掲げ大声で叫べば、大概の陰間はぎゃははっと雄々しい声で逃げていく…のだけれど。

    「ねぇ、そんなに忙しなく手を動かしちゃあその子は満足しないよ。ほら、もっと焦らしてあげるみたいにしておやりよ」

     こんな風に声をかけてくる陰間もいるみたいだ。そんな彼は片目を艶々とした長い髪で隠し妖艶な笑みを浮かべてこちらを眺めていた。

    「何言ってんの…」
    「ふふ、お掃除の手解きさ。こんな風にここの縁なんかは虐められると弱いんだ」

     この店の陰間達は顔が美しい者が多く、それ以上に性欲が強い者もごく当たり前に存在する。それ故に性的な思考に向きやすいのだろうけれど、普段の何気ない生活にも混ぜ込んでいる者もいるようだ。
     彼は整った長い指先で窓の縁をすーっと性を含んだ手つきで撫でた。

    「弱いってさ…」
    「もちろん埃のことさ。殿方の相手をするのとそう変わりはしない、そうだろう?」
    「そーゆーの間に合ってるよ」
    「いや、君はまだまだだよ。貸してごらん、もっと僕が魅せてあげよう」
    「なんか…、オレ違うもん見せられてね?」

     動作だけではなく使う言葉ひとつひとつが官能的で、頭が混乱を起こしてしまうが、案外的確で無駄のない身のこなしであるように思え来た頃には、これが洗脳か?とテクニシャンな彼の戦略を覚えたように思える。方向性はおかしいが、彼なりに手助けしてくれているようだ。

    「さぁ次はどこを攻めるんだい」
    「あんたさ、暇なの?」
    「ふふっ、やるなら多い方が燃えるじゃないか。そうだね、なんならもっと増やしちゃおうか」

     彼は上唇を舌舐めずりすると、ちょっと待っておいでと彼に告げられる。何をする気だろうと待っているとテクニシャンな彼に連れてこられた数名の陰間達はギラギラとやる気に満ちた輝きを放っていた。掃除をするだけでこんなに目が漲って、どんな事を吹き込んだんだと彼に視線を送ると、彼は満更でもない表情を浮かべ応える。

    「汗の滴る激しいことをしようと言ったら、みんな来てくれたよ」
    「……えっと、ただの面倒な掃除の仕事なんだけど。あんたらほんとにいいの?」
    「「「そ、そうじ…?」」」
    「そうさ、みんなで激しく絶頂を見ようじゃないか」
    「……掃除の絶頂ってなんだよ」

     嘘だろ…してやられた…っと陰間達から呆れる声が上がる。それでも、連れられた陰間達は各々の絶頂談議(下事情)を交えながら、しこたま掃除に手をつけて回った。あらかた終えた頃には、この見返りは君のとこの殿方のお顔を拝見させてもらうと、未だ漲った目を向けられミスタはその熱量に拒む事はできなかった。

    「これ…店主にバレたらやべぇ気がする」

    ふと、店主に下働きは1人でこなすようにと言いつけられている事を思い出し、嫌な予感に焦燥感が胸に過ぎる。

    「ふふっ、そんなことかい。それなら心配ないよ、僕らは罰が好きだからね。いくらでも受けて立つよ」
    「で、でも…メシ抜きとか、あるかも」
    「ふーん、ミスタ、君は優しい子だね」
    「なっ、やさしくなんて…」

     手助けした事で罰を与えられるのではないか、そんな心配をしただけで優しいと言われ、何が言いたいのだとたじろいだ。

    「僕らが勝手に手を出したことだ。だから君に非はないさ」

     彼は穏やかな口調で呟くと、そっとミスタの頬に片手を伸ばし、さらさらと皮膚を撫でる。

    「君は理由のない優しさが怖いんだろう?でもね、その優しさに人はいつだって突き動かされるんだ。余計なお節介だって分かっていても、ほんの少しでも喜んでくれるのなら、理由なんてなくともいいのさ」

     君もそうだろう?と片方の瞳が訴えかける。その瞳は深い琥珀色だ。琥珀の瞳はミスタの心を見据えるように射抜く。

    「きっと、それが過ちであったとしても、誰かの為に自分の意思で生を真っ当したいんだけなんだよ」
    「自分の意思で…生きる、か」

     彼の言葉にシュウの事が思い浮かんだ。
     ありったけの優しさを、持てる全ての優しさをひとつ残さずミスタに注いだ。その結果、こんなにも身を削り弱ってしまった。ミスタはそんな優しさを与えられる価値もないのに、何か理由が無くてはと、探ったところで何もありはしない。その事実を思い知らされているようで、それが怖くて仕方なかった。その弱さに彼は気づいているようだった。
     頬を優しい手つきで撫でられる最中、厄介なやつに弱みを握られたなと思い悩んでいると窓から月明かりが漏れ出しはじめ、その光は彼の背を押した。

    「あぁ、僕らの時間が来るね。今日は楽しかった、また僕とシよう」
    「うん…こっちも色々とありがと。けど次はもうちょいその言い回し抑えくんない?」

     ミスタは弱みを握られた腹いせに、頬に添えられた彼の手を片手で取り、自分の口元に運ぶと官能的なその人差し指に歯を立てる。彼は指先に走る甘い刺激に恍惚な表情をする。

    「ふふっいいね。そんな君も僕は好きだよ。でもね…」

     ―――そういったことは、あの人にも取っておいで。きっと喜ぶさ。
     彼はミスタの耳元に顔を寄せ秘め事を告げる口調で呟いた。

    「な、何言ってんだよ!こ、この変態野郎ッ!」
    「あはは、最高の褒め言葉だよ」


     咄嗟に出たミスタの単純な暴言は彼とってご褒美のようで、それに満足すると彼はくるりと背を向け夜に溶け込んでいった。
     
     



    「あ、ミスタおかえり。氷枕、倉庫にあったからシュウ様に使ってあげてるよ。あと汗も拭いたし、お水も食事も済ませたよ。熱はまだあるけど顔色は少しずつ良くなってる…それから、シュウ様やっぱりいい男過ぎて見惚れてたら秒で時間過ぎるね」

     下働きを終えて自室に戻れば、青の瞳の彼が看病をしてくれていたようだ。

    「…あ、ありがと。ずっとついてくれてたのか?」
    「ううん、ぼくだけじゃないよ。交代で見てる」
    「交代?」
    「うん、この人の容体の話をみんなにしてたら、みんな気になっちゃって、手が空いてるっぽかったら来てくれてる。今じゃみんなの人気者だね」
    「それ…変なことしてるやつとかいねぇだろうな」
    「あはは、流石に病人に手は出さないって」
    「そうだといいけど…」
    「それじゃあ、ぼくそろそろ行くよ。ミスタもちょっとは休まなきゃダメなんだからね」

     彼だけでなく、他の陰間達もここまで時間を割いてくれているとは思わなくて、本当に甘えてばかりの1日だった。2日目がもう終わってしまう時間だというのに、今日はほとんど任せきりになってしまった事が申し訳なくなる。せめてもう少し看病を続けようとするのだが、疲れと睡眠不足から睡魔に襲われ、まだダメだと抗っていると不意に自分を呼ぶ声が聞こえてくる。

    「…みす、た?」

     かすれたシュウの声が確かに聞こえた。
     ミスタはシュウ起きたのかと飛び上がる。顔を覗き込むと桔梗色の瞳が僅かに開いていたが、その瞳はまだ虚ろげだ。

    「よかった…、げんき、そうで、。ぼくね、ずっと、みすたと、はなしたいことがあって、あやまりたいことがあって…、」

     苦しそうに呼気を吐きながら紡がれた言葉は、とても健気なものだった。自分の身よりミスタの身を案じながら、謝りたいのだと今にも泣いてしまいそうな表情を見せる。

    「…みすた、ぼく、きみのささえになりたいのに、なにもできなくて、……ごめん、ね」

     その言葉に息が詰まった。
     シュウはミスタの支えとなれない非力で無力な自分を嘆き、責めている。熱に魘されても尚、懸命に伝えてくるその姿が痛々しくて仕方なかった。

     ( こんなに苦しんでるのに、なんでオレの事ばっか気にかけてるんだ…なんでそんなにオレに構うんだ…こっちは必死で引き離そうとしてんのに…っ)

     目頭が熱くなって、あふれ出しそうな涙を必死に堪えていると、シュウはぼんやりとミスタを見上げ心配そうな表情を浮かべ呟いた。

    「み、すた…?…どうして…つらそう、なの…?みすたに、そんな顔…してほしく、ない…。みすたには、ずっと、笑っててほしいんだ…」

     朦朧としている筈の意識の中、迷う事もなくミスタの頬にシュウの手のひらが触れられる。その感触に前にも同じ事があったのをミスタは思い出す。あの時のシュウは酒に酔っていて浮ついていた事もあり、淡い戯れ合いに心が綻んだ。けれど、今は違う。誰の所為でこんな思いをしていると思っているのかと腹立たしくてしょうがなかった。でも、シュウの手のひらから与えられる底知れぬ優しさが、胸の内に広がる怒りを遮って、余計なお節介だと跳ね除ける事さえ出来ない。ただ、この優しさを拒絶をする事よりも、今だけはシュウの望みを叶えてやりたいという良心が漠然と浮かんだ。
     ミスタは頬に触れられた手のひらの上に自分の手をそっと重ね、シュウの手を愛おしいむように瞳を綻ばせて頬をすり寄せる。
     シュウは、んへへ…っと幸せそうに笑う。けれど、その瞳には涙があふれていた。幸せそうに笑っているのに泣いている、その表情がチグハグで胸が痛んだ。せめて泣かないでほしくて、頬に伝う涙を拭うとシュウは安心したように虚ろなその瞳をまた閉じてしまった。

    「くっ…ぅっ…、」

     情けないまでに涙がこぼれ落ちてくる。どこまでも身勝手なシュウが憎い。でも…憎みきれない。こんな気持ち、知りたくなかった。

    「 …なぁ、アンタの中のオレはなんて答えんだろうな」


    ―――教えてくれよ、シュウ



     翌朝、朝陽に誘われて目を覚ます。
     あっという間に3日目の朝が来てしまったのだ。ミスタは起きて早々にシュウの様子を伺い看病をしていると、柘榴色の瞳をした厨担当の彼がシュウとミスタの食事を手に部屋ヘ訪れた。ミスタは彼にお礼を告げると、彼に教わった通りにシュウの食事を丁寧に進める。その光景を彼はじっと見て声をかける。

    「なぁ、大丈夫か」
    「あぁ、そうだな。まだ目は覚さないけど少しずつ回復してる。みんなも助けてくれるし」
    「違う、おまえのこと聞いてんの」
    「え…」
    「この人のこと気にしながら下働きするのしんどいんだろ。もう今日はこの人のことだけ集中しな。雑用なんざなんとでもなるんだし、おまえが倒れちゃこっちも迷惑だ」
    「け、けど…そんなことしたらっ」
    「おまえは好きでこの人の世話してんだろ、んなら俺らだって好きでおまえらの世話したっていいはずだ」 

     彼はミスタの返答も待たず立ち上がり、部屋を出ていった。そんな彼を見て、優しさに理由はいらない、そう告げられた事を思い出す。
     乱暴で不器用で優しい、みんなそうだ。みんな、生きたい生き方なんて分からない。だから、今やりたいと思う事を真っ当しようとしているのだ。そこに理由なんてものは必要ない…そう教えられているように思えた。
     それから、何も追われる事もなく看病をする事は心に余裕が持てて随分助けられた。それだけじゃない、代わる代わる陰間達が様子を覗きにきては慣れない看病の作業の手解きをしてくれたのだ。
     昼を過ぎた頃、青の瞳の彼が食事を持って顔を覗かせた。

    「あ、やっぱり言ってた通りだ」

     徐に見せた彼の表情はひどく心配している様子だった。

    「ミスタ、休めてないんでしょ。ぼく、ミスタがご飯食べ終えたら意地でも休ませろって伝言もらって来たんだよ。ミスタにも倒れられたらたまったもんじゃないって、素直じゃないよね…」

     頭に過ぎるのは今朝声をかけてくれた柘榴の瞳の彼だ。きっとミスタは言う通りにはしないだろうと持ち場でも気を揉んでいるらしい。

    「けど…隣で寝るわけにはいかねぇだろ」
    「うーん、別にいいんじゃないかな。薬、ちゃんと飲ませてるんでしょ?なら一緒に寝ちゃえばいいよ。倉庫にも予備の布団はないわけだし」
    「え…」
    「え、じゃないよ。きっとこの人もミスタなら気にしないって」
    「わかった…もうこれ以上迷惑かけらんないし、ちゃんと休んでるって伝えといてよ」
    「うん、約束だかんね」

     青の瞳の彼を見送り、意を決して一式の布団に潜り込むとシュウの横顔に視線を向ける。やはり、近くで見ると余計に以前より痩せているように思えてしまう。ミスタはシュウの頭を胸元に抱きよせ、労るように声をかける。

    「はやく、元気になれよ」

     この声が聞こえているのか、眠るシュウの表情が和らいだように思う。その安心感と腕の中から聞こえる穏やかな寝息、そして体温が心地良い。この2日間まともに横になれなかった所為もあり、ミスタの意識が安らかに沈んでいく。

     眠りに入ってから数時間が経った頃、ミスタの頬に誰かが触れている感触がした。優しくゆっくりと撫で始めたその手は、ぎこちなくて、でも温かくて、誰が触れているのだろうと瞼をゆっくりと開ける。ぼんやりとした視界に入ったのは眠ったままだったシュウが微かな月の光を背に、ミスタを見つめながら頬を撫でている姿だった。シュウはミスタが目を覚ました事に気づくと小さく呟いた。

    「ミスタ、ごめんね…」

     戸惑いを含んだその声は震えているようだった。

    「……」

     ミスタは何も口にしないまま身体を起き上がらせる。
     本来なら喜ぶべき瞬間のはずなのに、ぴりぴりとした空気が狭い空間に漂った。

    「…ごめんね、僕、何も出来なくて…それより、、ミスタの身体は…もう大丈夫…?…ずっと気になってて…」

     シュウは無言を貫くミスタの様子を伺うように声をかける。それも熱に魘されている時と同じように自分の事よりもミスタの事に気を病んだままでいるようだった。しかし、張り詰めた沈黙が更に冷たいものに変わる。

    「…………アンタ、体調どうなんだよ」
    「あ、うん、もう大丈夫な気がす「じゃあ、もういいな」

     シュウの応えを聞き終わる前に、ミスタはシュウの頬に向かって大きく手を振りかざす。刹那、ばちっんと、鋭い音が張り詰めた空気を一気に切り裂いた。

    「アンタはほんとにどうしようもねぇ野郎だよっ!折角分からせてやったのに…、なんでっ、なんでここまでするんだよ!!オレはアンタにここまでされる価値なんてねぇのにっ、なんでわかんねぇんだ…!!!」

     シュウは唐突に手を挙げられたというのに打たれた頬を片手で押さえたまま、何の意思も示さなかった。それは、まるで打たれて当然だと言っているようだった。

    「ミスタ…、君に聞いてほしいことがあるんだ」

     痛いくらいの静けさが漂う中、シュウはひとつ瞼を瞬くと決心した瞳で言葉を紡ぐ。

    「僕の周りにいる人たちは、僕の顔色を伺って隙を突こうとする人ばかりだ。いくら優しい言葉をかけられても、向けられる視線の奥には冷たい気配が常にあって、気を休める暇もなく、ずっと隙を突かれないようにしなきゃいけなかった」

     その口調は淡々としたものなのに、どこかその声には不安の色を帯びていた。しかし、シュウの表情はこれまでの事を穏やかに受け止めているようにも見える。

    「でもね、ミスタといる時は違う。君は僕の名を知る前も知った後も、僕に対して顔色を伺ったり態度変えるような事はしなかったでしょ?だから僕はミスタといる時が一番気を落ち着けられて、ありのままの僕でいられたんだ…」

     まだ感情の整理がつかないでいるミスタは、シュウから紡がれる言葉に唇をきつく噛み締めた。

    「これまで僕は多くの人の本心をこの瞳で見極めて来た。だから、あの夜ミスタに言われた言葉は、ミスタの本心じゃないって分かったんだ。無機質な人形が話してるみたいで、温度が感じられなかった…」

     ミスタは唐突に投げかけられた言葉に、引き結んでいた唇を解いた。
     シュウは見抜いていたのだ。誰も気づかれる事のなかった作り物の姿を、シュウは最初から見抜いていた。見抜いて、限界だと知って、ミスタの心に寄り添おうと心を砕いてくれている。

    「それがわかったのに、僕は怖くなった。僕は…、ミスタをあんなに傷つけてしまうような人と一緒の立場なんだって…、そう気づいてしまったから」

     シュウは同じ痛みを負ったように苦しそうに顔を歪ませ、胸に刻まれた傷を覆うように長い指先で静かに塞ぐ。

    「僕は…、ミスタを傷つけるような人達と何も変わらないんじゃないかって…、だから僕は逃げてしまった。ミスタはずっと僕が君と会う時間を楽しみにしてる気持ちを汲んでくれて、僕が本当の客としての立場に気づいて気を負ったりしないように隠して接してくれていたのに…ミスタが僕に見せないようにしてたものを見させるしかない状況に僕が追い込んでしまった… 」

     ミスタに向けられていた思いを置き去りにしてしまっていた、その事実を悔いるようにシュウの声が震える。

    「何度も謝りに行かなきゃって思ったんだ…。だけど、今のまま会いに行ってもまたミスタを傷つけてしまうんじゃないかって」


    ―――だから、店主と取引をしたんだ。


     取引、何の事だと聞く前にその答えが頭を過ぎって、どくんっと心臓が張り詰めた音を立てる。
     
    「ミスタに自由が得られるように、僕にミスタの時間を買わせてほしいって。そうすれば、ほんの少しでもミスタが傷つかないでいられるって、そう思ったから。…でも、根本的な所は何も変えられなくて、これじゃダメだって思うのに… こんな時、僕には三味線の音を奏でることしかミスタの傷を癒してあげられることができなくて…それも結局はこんな形でミスタに迷惑をかけてしまった…」

     シュウが囚われていたもの、それは変える事の出来ない現実だった。
     それでも、シュウは繋ぎ止めたかった。
     たとえ、この声が、この想いが、届く事が叶わなくても、手を伸ばさずにはいられなかったのだ。

    「結局…、僕は何も変われていないんだ。ミスタのこと、傷つけてばかりで…っ、ミスタの言う通り、僕はどうしようもない人間だ…」

     込められた想いに気づけず遠のいていく心、どうすれば良かったんだと思考を巡らせたとて答えは出ない。ただあふれる出るのは密かに隠し続けていた想いだった。

    「オレがアンタにあの姿を見られたくなかったのはオレが勝手に見栄を張ってただけで…、だって、アンタがあんなにきらきらした目でオレを綺麗だって言ってくるから…、突き放そうと思えばもっと早く突き放す事だって出来たのに…出来なかった…っ!」

     ただの気紛れな関係、それだけで良かった。絆が深くなればなるだけ傷ついた時の傷もそれだけ深くなる。だから、お互いに傷つかない為に情に流されてはいけないんだ。それなのに、会う度に絆されていくばかりで、胸の奥底ではシュウの望む存在になってやれない事に不安が募ってしまっていた。
     そんな自分を知らないで欲しかった、見ないで欲しかった。いつかは気づかれてしまうと分かっていても、隠し通せないと分かっていても、それでも、もう少しだけこのままでいたいと、願ってしまっていた。

    「こんな事になるならもっと早く突き放せば良かったんだっ、そうしてればこんなことなんてなかっただろ!!今頃、アンタの本家じゃアンタが帰ってこなくて心配してるだろうよ!!アンタはアンタのいる世界を大事にしろよ…っ、こんな低俗で価値のないオレなんかさっさと忘れちまえばいいのに、なんで…っなんで忘れてくんないんだよ!!」

     気持ち悪いと押し退けたって良かったのに、伸ばされたその手は押し退けるどころか掴んで引き寄せてくるものばかりだった。シュウはあの醜い惨状を目にしても尚、ミスタのことを一心に想い、直接顔を合わせもしないまま店主に高額な金を託しただけでなく、寒空の下、自分の身を顧みず三味線の音を奏で続けていた。ただ、ミスタの助けになりたい、支えになりたい、それだけの為に。その優しさに甘えてしまった身勝手な自分が許せなくて、許せないのに、自分だけに与えられた優しさが嬉しくて堪らない。そんな事を思ってしまう自分が分からなくて、分からないから嫌いで、この胸の内に芽生えた感情が怖くて憎たらしくて仕方ない。

    「なんで…っ、こんなオレの為にアンタが利用されなきゃいけないんだよ、なんでっ、アンタが犠牲になる必要があんだよっ、オレは、なにも持ってやしないんだっ、与えたくても与えてやれないんだ…っ、ぉれは、オレは…っ、アンタといると、つらい、ばっかだ、、」

     こんな自分を許さないで欲しかった。シュウはずっとありのままでいてくれていたのに、穢れた自分を隠して本当の自分を偽ってみせていた。いつだって生きる為に必死で、傷つかない為に作り物の人形に成り代わる事しか生きのびる術を知らなかった。けれど、シュウは正反対だ。全てを手にして生きている。富も知性も権力も、最初から対等でいられるわけもなく、結果としてシュウを騙し、裏切った。だから、罪悪感しか残らないこの胸の内を晴らす為に罰を与えて欲しかった。


    「ミスタ、ごめんね。全部、僕が悪いんだ」


     ( 悪いのはオレなのに、どうして、どうして、オレを責めないんだ…)


    「僕は、ミスタの事、分かってるつもりでいたんだ。いや、分かっているつもりでいたかっただけかもしれない」


     ( どうしてシュウがこんなオレのことまで背負おうとしているんだ…)

    「僕はミスタの為にって理屈づけて、一方的な独りよがりの想いを押し付けたいだけだった」


     ( たのむから、頼むから、どうか…オレを傷つけてくれ…)


    「僕のしたことは許してもらえないってわかってる。だけど…、本当の価値を見抜けないほど僕は落ちぶれてないよ」

     泣き腫らした頬を労るように、シュウの手のひらがゆっくひとミスタの涙を拭う。許しを請うその声と仕草はミスタに罪はないのだと懸命に訴えているみたいだった。しかし、注がれる眼差しには深く切望する想いが込められていた。

    「ミスタは僕の一番好きな空を連れてきてくれる太陽なんだ」
    「え…?」
    「君が傍にいてくれるといつも見えるんだよ。大きくて、広い…、朝焼けの空が」

     独り現実に押しつぶされる日々に救いを求め、互いに欠落したものを埋めるように、分かち合うように、微かな光をみつけ、大きな拠り所となっていた。ここが特別な居場所なのだと。

    「だから、僕にとってかけがえのない存在だ」
    「……っ」

     閉塞感に満ちた胸に差し込んだ光がどれほど救いだったか、痛いほどにわかる。それでも…

    「…………こんな煤けた太陽なんて、あってたまるかよ」

     眩い太陽のもとには暗い影があって、優しい月のもとには冷たい霜が降り注いでいる。現実は理想には程遠く、蓄積された期待を壊してしまうほど、弱くて頼りない。これが逃れられない真実だった。

    「じゃあ、僕の目を見てよ。僕の目にうつる太陽は煤けてなんていない」

     桔梗色の瞳がじっとこちらを見つめる。その瞳に迷いは見えない。まるで、ミスタの胸の内に広がる暗い影が溶かされていくようで、その視線にミスタは釘付けになる。
     

    「ねぇ、ミスタ」


     ( やっぱり、お月さんみたいだ…)
     

    「僕はもう目を逸らさないよ。だって、ミスタが僕の太陽である事にかわりないんだから」 

     決して満ち足りていない、不完全な月だ。
     たとえ、この月が満月でなくても、こんなにも胸が惹かれてしまうは、あの壮大な夜の空を統べる月である事にかわりはないからなのだろうか。
     



     おわる






    あとがき


     まずはこんな長文を最後まで読んで頂きありがとうございます。
     私は🧡の卒業から本家を観ることは一切無くなりましたが、そこから見えるシュスタの関係性を練り直して出来た代物がこんな物となってしまいまた。
     非常に偏った解釈で完結したストーリーにまとめられておりません。けれど、まだこのストーリーの断片を覚えて下さっている方、もう一度読んでみたいといった声を下さった方に、届けられたらいいなという思いから長い時間をかけてストーリーを修復しました。ですので、ご感想などあればどんな短文でも構いませんので送って頂けると嬉しいです。皆さんの思い描くシュスタの関係性はどのようなものでしょうか。どうかお聞かせ下さいませ。
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