ジェミルク(仮) どこか遠くで子供の泣く声が聞こえた。
それはまるで世界中の悲しみを、小さな一身に背負っているのだといわんばかりに甲高く、一生分の涙を流しているのかと尋ねたくなるほど嗄れていた。
一体どうしたといのだろうか。
俺は泣き止むことのない声を放っておくことができず、腕に力を込め横たえていた身を起こせば、体の上に降りかかっていた石や土たちがパラパラと音を立てて地面へと落ちていった。
不思議なことに、意識が落ちる直前まで身を包んでいた真白なシーツは何処へ消え失せ、代わりに土などで薄く汚れた自分の体を見た俺は、そこで漸く今置かれている状況を思い出した。
ああ、そうだ。ここは戦場で、俺は敵が投げた爆発物に吹き飛ばされ、壁に体を強打し気を失っていたのだと。
「ルーク、逃げろ!」
分かっている、そんなこと。だからさっさと動けよ俺。
このままでは確実に撃ち殺されるぞと、ぼんやりと霞かかった脳みそに罵詈雑言を吐き散らしていれば、背後から味方の一人が俺の襟元を掴み安全地帯に走れと引きずり起こしてくれた。
「死にたいのか!」
嫌だ、死にたくない。
ならばやるべきことは一つしかない。俺は一向に震えの止まらない四肢に無理やり力を込め、遠ざかっていく味方の背を必死に追いかけていれば、気が付くと大きな建造物の中にいた。
「サンキュー、助けてくれて」
二階の中央部分が大きな吹き抜けとなっている空間で一度足を止め、乱れた息を整えながら周囲を見渡し安全であることを確認した後、ここまで導いてくれた味方に声をかけた。
「気にするな。お前が生きていただけで十分だ」
「何言ってんだよ」
馬鹿なことを言うな。それはお前も同じだろうと思いつつも口にはせず、俺はヘルメットの隙間から溢れる汗を止めるために留め具を外した。
「ここがどこか分かるか」
水気を含んだ頭髪に手を突っ込みガシガシと乱暴に拭い取り、正面に立っている味方に状況を尋ねるもなぜか返事はなく、どうしたのかと視線をやればそこには誰もいなかった。
「おい……?」
慌てて味方の姿を探すも影すら見当たらず、始めから俺一人しかいなかったといかんばかりに、ガチャガチャと装備品のぶつかり合う音だけが、空虚な建物内に鳴り響いた。
「なあ、どこに行った」
恐らく爆発物の類による被害にでもあったのだろう。
天井を覆っていたはずのガラスは床一面を覆うように砕け散り、様々な店舗が並んでいたらしい大きな穴は軒並み暗闇に満たされ、新たに再建するよりも放棄を選択された建造物は、それでも僅かに残された雰囲気から昔は多くの客で賑わっていたことが感じ取れた。
「ここはショッピングモールか?」
しかし今となっては土埃と粉塵で灰色に薄汚れ、清潔感のない埃の臭いが鼻についた。
「誰かいないのか?」
何度声を張ろうと自分のものしか返ってこない反響音に、俺の心臓は少しずつ早鐘を打ち始め、無人であるという事実を噛み締める度に恐怖が襲ってきた。
理由なんてものを考えるまでもない。
爆破されたショッピングモールに加え、多くの人が逃げ回ったことで壊れた装飾品の数々が、思い出さないよう蓋をした過去の記憶に手を掛け、無理やりこじ開けようとしてくるのだ。
そんな古傷を暴かれるような痛みと不快感に耐えつつ、第三者の温もりが欲しくて誰かいないのかと耳を澄ませれば、どこか遠くで子供の泣く声が聞こえた。
それはまるで世界中の悲しみを、小さな一身に背負っているのだといわんばかりに甲高く、一生分の涙を流しているのかと尋ねたくなるほど嗄れていた。
一体どうしたといのだろうか。
この場に居続けるだけで恐ろしさが身を震わす中で、なぜ誰もあの子に手を差し出してやらない?
もしやもうここには俺とあの子以外、誰も居ないのか?
だとすれば俺がやることは一つしかない。
図体だけは大きい体を縮こませ震えるだけの自分を再び叱咤し、急いで子供の元へと向かえば、ショッピングモールの中央。爆発の中心となった窪地にその子はいた。
「なあ君、大丈夫か」
年齢はまだミドルハイスクール前後だろう。未発達の細く幼い体とサイズの合っていない衣服の組み合わせは、余った裾や袖から除く手足の持ち主を余計か弱く見せた。
「ここは危ないから、俺と一緒に安全な所へ行こう」
この灰色一色に包まれた世界に対抗するように、どこまでも澄んだ青いキャップを被った子供へ手を差し伸べた瞬間、俺の中に潜んでいた記憶が一気に溢れ出した。
「なんでお前が……」
俺の声に反応し振り返った幼い子供の姿を、当時同じものを身につけていた本人が見間違うはずもない。
「お願い、パパを助けて」
「お前なにを言って……。親父はあの時」
これは夢だ、そうだろう。でなければ俺が幼い自分と出会うという、嘘のような場面に立ち会うはずがない。
そりゃ俺だって、本来であれば出会うはずのない相手のことを、最初はたまたま似ているだけの子供であると願ったさ。
だがどうしてかな。これは幻覚なのではと疑う心に反し、脳みそははっきり現実だと主張してくる。
「どうしてパパから逃げるの」
「俺は……逃げてない」
どうやら無意識のうちに一歩後ろへ引き下がった俺を見てか、目の前に佇む子供は目敏くそれを指摘してきた。
「パパのこと、好きじゃなかったの?」
ああ、なんということだろうか、餓鬼の姿をした俺相手に困惑するとは。もしこれが舞台であれば、俺は喜劇を演じた名俳優となっていただろう。
「これは夢だ。夢なはずなんだ!」
「本当に?」
止まらない冷や汗はそのまま、気付けば口内に溜まっていた唾を飲み込めば、汚れを知らない純粋無垢な瞳に動揺している俺が写り込んだ。
「ねえ、これが夢じゃないなら教えてよ。親父が死んでから何年も過ぎてるのに、アンタの中の俺は一体いつまでこの姿のままなの?」
まるでいい加減親父の死を受け入れろと、餓鬼の姿をした俺は大人になった自分を見上げ、怒りを含んだ声で静かに問うた。
やめろ、俺を責めるな。
あれが起こったのは俺の責任じゃない。
親父を殺したのは、俺じゃない!
そうやって何もかも振り切るように頭を抱え込めば、首元に下げていたドッグタグの鎖が、唐突にぶちりと音を立てて千切れた。
ああ、大変だ。落ちていく。何もかもを否定した世界の中を、スローモーションで首元から離れていく金属片に注視すれば、ドッグタグの持ち主である俺のではない。餓鬼の頃から何度も読み返した個人情報が書かれていた。
「パパは……、いや。親父は俺たちが殺したんだ」
ー
突如脳内に鳴り響いた爆裂音に飛び起き、慌ててベッドから床へと転がり落ち数秒、周囲が安全であることを確認している途中で、俺はここが自宅の寝室であることを思い出した。
「夢、だったのか?」
思わず安堵の息を吐き湿った手を握り締め身を起こせば、首元にぶら下げたままのドッグタグが、カツンと床に当たった軽い金属音に、俺は悪夢といっても過言ではない夢の内容を一気に思い出した。
「違う、俺じゃない。親父が死んだのは、俺の……」
夢の中で会った幻に対し自然と口から零れ落ちた言い訳に、俺は何度か頭を振りあれは現実ではない。だから反論する必要はないと、未だ夢から覚めない脳みそに言い聞かせ、身体を覆うベタ付いた嫌な汗を流すべく寝室を後にした。
今現在の時刻なんて時計の針を見るまでもない。
カーテンを閉め切った窓の奥からは、メトロシティの夜特有の喧騒とネオンの光が、電気の消えたダイニングを鮮やかに照らし、俺が先程まで視ていた悪夢など所詮夢なのだと、家主の気持ちとは裏腹に騒々しいほど賑やかで。俺はそれにどうしても耐えることができず、逃げるようにシャワールームへ足を運んだ。
とはいえ、汗を流したところで再びベッドへ横になり、すぐに寝てしまうほどの眠気は残っておらず、代わりに俺はクローゼットから適当なジーンズとパーカーを選ぶと、外の空気を吸うためドアノブに手を掛けた。
ー
夜の中華街は俺のナワバリだ。
酒に酔った住民も、立ち並ぶ店を眺める観光客も、道のど真ん中で喧嘩を始める連中も、全員が俺のナワバリにいる限り守らなきゃならない。でなければ香港で世話になった、あの有名なユン哥とヤン哥に合わせる顔がねえ。