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    yuno_tofu

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    yuno_tofu

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    芽衣編 ①刻々と近づいていた暑さは、文月(7月)に入り瞬く間に肌に纏わりつくようになる。けれどそんな暑さも影響は何も無いようで、燦燦さんさんと降り注ぐ陽の光の元から帰って来てもシェイムの表情は全く暑さを感じさせなかった。

    「おかえり。何か面白い話は聞けたかい?」

    文机の前に座りながら、いつものようにこてんと首を傾げる。そしてそのまま、弟子相手であればまず冷たい茶か濡れた手拭いを渡してやる所だが彼はそのどちらも要らないだろうと、すっかり恒例となっている問いの答えを待った。

    というのも、一輪堂はただの雑貨屋では無い。付喪神を守る場所だ。
    そして付喪神が被害に遭うこと、もしくは被害を与えてしまうことを出来るだけ防ぐには噂を中心とした情報というものが非常に大切になってくる。
    だから外に行く時は出来るだけ知り合いからそれとなく近況を聞いたりするのだが、彼は噂好きの町娘達やお喋り好きの商人達からも大人気なお陰で効率よく様々な情報を集めてきてくれるようになった。勿論噂なので精査は必要だが、彼はそこもきっちりしてくれて心配しなくていいので安心だ。

    「先程、甲南屋の店主から5日後に商人一家が越してくると聞いた」

    「へぇ?どんな商人かは聞いたのかい?」

    「遠方の松風屋という店の一派だそうだ」

    「松風屋……。あぁ、品の代理販売を始めて随分繁盛したらしい店か」

    彼の言葉に記憶を手繰り寄せ、ようやく行き着いたのは数年前の話題。
    和の国の店というのは大体が自分達で買ったか作った物、もしくは職人に依頼して作って貰った物を客に売る場所であり、扱う品も限定的だ。例えば、陶器の皿と布地の巾着袋を同時に扱う店なんて基本的に骨董品店くらいだろう。私の店も広い意味では骨董品店に類するはずだ。

    しかし松風屋では様々な日用品から工芸品まで、多種多様に扱うらしい。しかも品は松風屋側が仕入れに行っている訳ではなく、提携した職人が定期的に納入する。なので職人は非常に安定した収入を得られ、松風屋は仕入れの手間を省き商品の安定供給が得られる。そして客は様々な店を巡らずとも松風屋一軒に行くだけで大体の買い物が出来てしまうし、もし様々な品が並んでいるのを見て他の品にも目移りしてつい買ってしまう…なんてことが起きれば、それは松風屋の収益を上げると同時に全体的な品の値を少し引いても採算が取れてしまう、という経営形態らしい。

    最初に話を聞いた時は随分と上手い商売だと思った。まぁ弟子に話した時には特に驚くことなく「……デパート、いや普通にスーパーか」とよく分からないことを呟いていたが。

    ともあれそんな松風屋だが、残念ながら天満あまみでは話題になることも殆ど無かった。
    というのも、天満の店の多くは他所の街や異国から集まった品を売買する交易の中継点であり、客というのはやはり大半が商人なのだ。であれば様々な物を一纏めにする理由も薄利多売の経営方法も合わず、商人達が興味を持つこともなく。

    (なのにわざわざ天満あまみに来るとは……)

    考えられる理由は知名度拡大の為か、はたまた新しい経営を思いついたからか。
    だがどちらにせよ普通のようで普通ではないこの店が世話になることは無いだろうなと、特に彼に追加で何か調べて貰うことはしなかった。むしろすっかり忘れていて話を聞いた丁度五日後に予定表を見ていてふと思い出した程度だったが。

    「そういえば…そろそろ新しい商人が来るのだったかな?」

    「ああ。私はいつも通り仕事をしているから君が対応すると良い。向こうの目的は君だろう」

    「…ん?」

    対応という言葉に思わず首を傾げる。
    しかし彼の答えが返ってくるより先に、やや無遠慮に勢いよく店の扉が開かれ四十路手前であろう男と、それよりは少し年下であろう女、そしてまだ幼く恐らく七つか八つ程の娘が入って来ては、女が静かに扉を閉め男はそれを振り返ることもなくずかずかと文机の前に寄り、薄い木版の名刺を差し出した。

    「突然すみません、自分こういう者でして!今日引っ越して来たのでこうしてご挨拶に参りました!」

    やや訛りのある言葉で、しかし商人らしく愛想と元気良く。
    そんな男の差し出した名刺を一瞥すれば、松風屋と与次郎という名が彫られていた。

    (松風屋には確か梢という一人娘がいると聞いたような気がするが……娘婿か)

    挨拶に妻まで連れて来たのは大方知名度を利用する為だろう。まぁ面倒なので触れないが。

    「……ふむ。一輪堂の柊弥琴だ。彼は従業員の白虎。それからもう一人手伝いに来てくれている娘がいるが…そちらはまた会った時にでも。これから宜しくね?」

    とりあえず、簡潔に紹介。
    それから出来ればもう帰ってくれないかなと期待したが、与次郎は「えぇ、是非!」と言いながら持っていた風呂敷から一冊の本を取り出すと有無を言わさず文机の上に広げた。

    「早速なのですが、実は柊様にお願いが御座いまして…。松風屋のことについてはご存知でしょうか…?」

    「……噂程度にはね」

    「おぉ、有難い限りです!」

    「しかしあの経営は私の店には合わない。済まないが──」

    「いえいえ!今回お持ちしたこちらは様々な商人様向けでして!」

    そして始まった話は、様々な店の品を絵と説明と共に一冊の本に纏めて出版したいというもの。客がその本を買い、気に入った品を松風屋に注文すれば代わりに松風屋が取り寄せてくれる仕組みらしい。

    「只今期間限定で天満あまみの商人様方には掲載料をだいぶお安くさせて頂いておりまして…。柊様のこの選び抜かれた商品も是非にと…!」

    (はぁ…)

    つい零れかけた溜息をなんとか堪える。
    確かに画期的…かもしれないが、私が売っているのはただの物ではないし、わざわざ選び抜いた物でもない。だから断りたい、のだけれども。

    「悪いがやはり私の店には」

    「確かに客の顔が見えない不安はございますよね!ですがご安心下さい。松風屋では──」

    さっきからこの調子で、一向に話が終わらない。最終的には初回掲載料無料とまで言い出したが、逆に魂胆が透けてげんなりとした。
    つまりは、私が賛同すれば他の商人達が話に乗ると考えここまで必死なのだろう。生憎金を積まれても世話になる気は無いが。

    そう思いつつ、ちらりと後ろの母娘を見やる。
    そうすれば母親の方は心配そうに男の背を見ており、娘は少しきょろきょろと店内を見渡していた。が、不意に掃除をしていたシェイムと目が合い、ぴゃっと母親の後ろに隠れる。どうやら少し人見知りをするらしい。けれどそっと母親の背から顔を出して再び目が合ったシェイムに優しく微笑まれると小さくお辞儀を返した。

    (母親の育ちの良さ故かな…)

    そんなことを思いつつ、男の話を聞き流していく。
    最早私の興味は目を輝かせる娘の方にあり、たまたま目についたのか近くにあった髪留めを手に取ろうとするのを眺めていた。

    (君の髪の長さだとそれはまだ使えないだろうね)

    もし欲しがった時は大人になって綺麗に髪が伸びたら、そしてその時も心から欲しいと思ったら、とでも言おうかな。それなら多分泣くことも無いだろう。そう考えながら。

    しかしそんな思考は突然の怒声によって散らされる。

    「芽衣っ!勝手に触るな!」

    あと少しで手が届くという所で、振り返り気づいたらしい男が急に激昂する。
    その声に当然芽衣と呼ばれた娘は大きく肩を跳ねさせ、小さく震えた声で「ごめん…なさい…」と涙を堪えるように俯くし、母親は近くにいたシェイムに平謝り。

    そんな光景を前に、いよいよ溜息は現実のものとなる。

    「はぁ……。君、そう大きな声を出さないでくれないかい?」

    言った瞬間、今にも私に謝ろうとしていた男はまさか自分が怒られるとは思ってもみなかったのか、口を半開きにさせたまま固まる。が、それを私が気にする訳もなく言葉を畳みかけた。

    「見ての通り白虎は耳が良い妖だし、そもそもここは店だよ。客が商品を手に取ることになんの問題がある。……それとも、ここの商品は買うに値しないということかな?」

    「いっ、いえ、滅相もありませんっ!しかし娘はまだ幼く何をするか…」

    「なら、無闇に怒鳴る前に注意と改善点を示すべきだと思うけれど?」

    「そ、れは……」

    「まぁ好きにしたら良いさ。ただ私も、働いてくれている子達の為には注意をしておかねばならないからね。特にうちの子らは二人とも耳が良いのだよ。騒ぎたいなら外でしてくれるかい?」

    「し、失礼…しました……」

    まるで先の娘のように男が項垂れる。
    その後ろではシェイムが母親を制止し、更には屈んで娘と視線を合わせて折り紙の花を渡したらしい。と思いきや「他にもありますよ」と折った鶴や船まで懐……というか恐らく煙霧から取り出しており、娘の機嫌もすっかり直っていた。

    「ありがと、お兄ちゃん…!」

    大事そうに折り紙の花と鶴を手にも持ち、娘が礼をする。
    その声に男もはっとしたように振り返ったが、今度は怒鳴ることなくやや引き攣った笑顔を作りつつシェイムに浅く頭を下げた。

    「…娘が、ありがとうございます」

    「いいえ。何かお困りなことがあれば是非ご相談下さい」

    一方の彼は相も変わらずの爽やかな笑顔で。
    けれどそれは今の男にはかなり有効だったようで、すぐさま笑顔を本物にして「えぇ有難く!」なんて言っていた。恐らく私より彼に取り入る方が楽だと思ったのだろう。

    (シェイムは「頼れ」とまでは言っていないけれどね)

    彼のことだ、どうせ話を聞くだけだろう。
    まぁそれであの男が満足するなら別に構わないが。

    ともあれこれでようやく男は一旦引くことにしたらしく、シェイムに小さく手を振る娘と妻を連れて少し小さくした声で「では、突然お邪魔致しました」と言って礼をしながら帰っていった。

    「はぁ、やっと帰ったか…」

    「使えそうかい?」

    「…少なくとも彼の商売に世話になることは無いと思うよ」

    「それは良かった」

    やや呆れながら返事をすると、彼はそう言いながらふふっと小さく笑い持っていた船の折り紙を煙霧に飲み込ませる。
    一方の私は彼のそんな反応を見て少し意外に思っていた。てっきり懐柔して情報集めに使うくらいの価値はあると思っていたけれど。

    「……君からしても利用価値は無いと?」

    「さぁ。仕事と家庭は別だろう?」

    「…まぁそれもそうだね」

    どうやら彼の下した評価は、妻子への扱いからかんがみて「仕事しか出来ない」か「どちらも両立出来ていない」という物だったらしい。ならせめて商人としてはある程度上手くやって欲しいところだが……。

    「はぁ、厄介事を持ってこないと良いけれど」

    切実に、願いを込めて呟く。
    如何せん、天満あまみの商人の間で何かあれば十中八九私に話が回ってくるのだ。……それに、きっとあの心優しい弟子は横暴な父親というものに思う所が無い訳ではないだろう。と、色々危惧はしていたが──

    それから数日後。
    あれ以来、またあの男が訪ねて来ることも無く一輪堂は至って平和。更にはシェイムからの日々の情報報告だって、問題を告げることは無かった。

    「松風屋が随分繁盛しているようでね。噂はそれで持ち切りだったよ」

    どうやら大通りに軒を連ねる老舗の呉服屋の一つが松風屋との提携を決めた事で、他にも続く商人が続出したらしい。私の元に来なくなったのはそれが理由だろう。

    「そうか、随分上手くやっているようだね」

    ようやく少し安心して一言。
    けれどそんな私に彼は少し意地の悪い笑みを浮かべた。

    「君には関係ないことでは?」

    「…そりゃぁね?けれど一輪堂では関わりがない商売なだけで、あの目新しさ自体は良い試みだと思うよ。……まぁやはり私はしっかりと触れて物を選びたいからお世話にはならないだろうけれど」

    強いて言うなら、父娘のことは省いて松風屋のことについてのみ軽く説明をしたら「……カタログ商法?」とまたよく分からないことを言っていた弟子は少し興味があるようだったが……いや、あの子が物を欲しがることも無いか。

    「なら今後その店の噂は報告しなくても問題ないね」

    「そうだねぇ、何か変わったことが無ければ別に良いかな」

    結局、何かしら一輪堂に影響のありそうな新たな商法を打ち立てるだとかそういう変化が無い限りは必要ないだろうと思い言葉を返す。そうすれば彼は「了解した」と返事して以降松風屋の話を出すことも無かったし、二日程経って彼と二人で港に行った帰りに偶然娘こと芽衣が一人で居るのを見掛けたりもしたが……。

    「…白虎、周囲に親御は?」

    「母親が近くにいます。大丈夫でしょう」

    「…そうか、なら放っておいて良さそうだね」

    父親と母娘の仲は分からないが少なくとも母娘の仲は問題無いようで、その後買い物を終えたらしい母親と笑顔で手を繋いで帰るのを眺めた。

    そうして彼らが引っ越してきて二週間。
    すっかり彼らのことが意識から逸れた頃に、小さく……けれど確かに、違和は起こり始めた。



    港での仕事を終えた帰り道。
    いつものように時短主に人避けの為、シェイムの転移を頼ろうと路地裏に差し掛かる。が、後ろの足音は不意に止まりどうしたのかと振り返ればシェイムがじっと別の方角……丁度、街の出入口である門がある方向を見つめていた。と思いきやすぐにこちらを向くことなく。

    「すみません。少し待っていて下さい」

    「ん?あぁ……」

    駆けて行く彼に、きょとんとしながら向かった方角を見る。そうすればそこには周囲の様子を伺いながらこっそりと街の外に向かおうとする幼い少女の姿が見えた。

    「あれは松風屋の……」

    小さく呟き、少し周囲に意識を向ける。
    だが彼が迷わず彼女の元に走ったことからしても、やはり父母の姿はどこにも見当たらなかった。
    つまり、完全に一人で街の外に行こうとしていたらしい。

    しかし彼女は引っ越して来てまだ日も浅いのだし、子供らしく好奇心に駆られもするだろう。勿論街を守る結界の外というのは知識や対策が無ければ危険なので行かないに越したことは無いが……まぁあの口達者な彼が止めるなら大丈夫かと思いつつ、適当に近くの店で商品を眺めながら時間を潰した。

    (にしても……彼が庇護するのは侑李君の関係者だけだと思っていたが、案外そうでも無いのか…?)

    気になるのは、正直そちらのこと。
    それくらいあの利己的な彼らしからぬ行動に思えた。

    それから暫くして、微かな気配を感じ品を見ていた手を止める。そして振り返れば、何事も無かったように彼だけ・・が戻って来ていた。

    「お待たせ致しました」

    「ん、おかえり。……行こうか」

    内心色々と聞きたくはあったが、ここは人も多い店の前。たむろするのも邪魔になるし、何より人耳があれば話すにも話しにくいとだろうと、そのままちらりと路地の方に視線を向け彼の返事を待たず歩き出す。そうしてようやく一輪堂に帰って来たのだが。

    「…それで、彼女は?」

    「外に出て遊ぶのに慣れていたよ。アレの家庭は期待出来ないから召喚具を渡してある。マスターの傀儡が呼べる魔道具だ」

    「そう、か……」

    外に出るのは初めてではなく、だが彼のこの言い方だと恐らく両親は気づいてすらいないらしい。そして無理に連れ帰ることも出来ないと思ったのか対策はしてきてくれたようだが……先日の仲の良さはどうしたのやら。

    そう思いつつ、彼が懐から取り出した黄色の鈴に目を向ける。まさか彼以外にも侑李君が作った存在が居るとは知らなかったが、果たして幼子を任せても問題無さそうな性格なのか……。そこが少しだけ不安になって、鈴に手を伸ばしながら彼を見上げた。

    「これを鳴らすのかい?」

    「いいや。これを他人に渡す時は条件を付けなければならない」

    「条件…?」

    「持ち主で呼び出す条件を変えている。子供なら遊び道具にするか落とす可能性もあるだろ?だからアレに持たせた魔道具には"強く振れ"と伝えた。強い衝撃を与えたら強制召喚するように設定してある」

    「なるほど…」

    つまり、誤作動防止。
    それを理解しつつ、止められなかったのでそのままそっと鈴を持ち上げてみればちりんと優しい音が響く。そして悟られないよう観察の振りをして力を微かに込めると、少し暗い青緑色の服を着て灰色の猫の耳と尻尾を持つ無邪気そうな少年と、深い赤紫色の服を着て赤紫色の猫の耳と尻尾を持つ顰めっ面の少年が遊ぶ記憶が垣間見えた。

    (侑李君は……猫科が好きなのだろうか…)

    少なくともシェイムの今の姿は侑李君の口振りからすると彼本人が選んだ物なのだろうけれど、それはそれでもしかすると侑李君の趣味に影響された可能性も無くはない。……あまり高くも無さそうだが。

    そう思いながら、とりあえずは大丈夫かなとそっと彼の手に鈴を返し、侑李君のことを思い出したついでに気になっていた疑問を投げかけた。

    「にしてもなんだか少し意外だね。君は侑李君の友にしか興味ないと思っていたよ」

    確かに普段から周囲に愛想を振り撒いている男ではあるが、それはあくまでも相手に利用価値があると踏んだか一輪堂で働く上で避けられない交流の場合にのみ発揮されるのだと思っていた。だが今回はそのどちらにも当てはまらず、侑李君とも関係が無い。なのに自分から首を突っ込んだことがどうにも彼らしくないと思ったのだが。

    「白虎としての行動をしたまでだ。それに子供には将来があるだろ?今のうちに恩を刷り込んでおく方が有効利用出来る」

    にっこりと。
    隠す気の全く無い悪どい表情で、にっこりと。

    「……君らしい、ね」

    その姿には思わず私も苦笑いをして言葉を返す。
    確かに普段の彼らしい発言でも表情でもあるのだが……なんというか、本当に抜け目のない男だ。

    だが、それならそうとこちらも存分に利用させて貰おう。

    「まぁそこまで世話を焼く義理はないが、些か気になるね。君もその気があるのなら松風家彼女らに少し注意を向けておいておくれ」

    「了解した」

    そう返事を一つして、それからすぐに仕事に取り掛かる。
    そんな彼を眺めながら杞憂であることを願っていた。

    しかし──

    街の外に向かう松風屋の娘を見掛けてから数日。
    基本的に街で流れている噂なんて流行がどうのやら、羽振りがどうとか人間関係がなんだとかで、あとはたまに奇妙な噂や遠方での話が聞けるくらいだ。
    だが最近はというと、松風屋で共に越してきた従業員が解雇されたという話であったり、飛脚が珍しく仕事でやらかしたという話。更には松風屋の嫁が大切な物を無くしただとか、何やら騒々しい物ばかり。そして今日に至っては。

    「また街近くの林道で怪我をする者がいたらしい」

    「……ここ数日で何件目だい?」

    「これが五件目かと。流石に天満あまみ大儺たいなが見回りに行ったようだが、何も異常は見つからなかったそうだ」

    「そう、か……」

    天満あまみ大儺たいなと言えば常駐の大儺たいなとして代々この街を守り続けている神楽鈴の妖──鈴彦姫の一族であり、次期当主として主に仕事を任されている神楽かぐら 翡凪ひなは中々に……それこそ、父である現当主の神楽かぐら ひびきよりも腕の立つ娘だ。恐らく翡凪ひなの鋭さであれば私の作った耳飾りがあっても尚、直で会えばシェイムの持つ力の違和に気づくだろう。

    だが、神楽家一番の強みはその鈴のように澄んだ声や強い霊力を宿した神楽鈴による浄化の力。 最近林道で頻発している謎の事件──飛脚が荷物を背負うのに付けていた紐や馬の手綱が急に切れただとか、辺りには枝葉や小石程度しか落ちていないのに突然何か大きな物でもぶつかったような怪我や荷物の破損をしただとかの調査をするにはやや不向きかもしれない。
    とはいえ邪鬼の気配が完全に消えることも早々無いだろうし、単純な邪鬼絡みならその痕跡を追えても良いと思うが……。

    (邪鬼ではない、ということか……はたまた…)

    気になるのは事件が邪鬼が起こすにしては被害が軽いということと、いつも日中のみ・・・・ということ。となれば自ずとあの少女が脳裏を過ぎったが、悪戯にしては些かたちが悪い。それに動機もよく分からないし、そもそも方法が謎だ。ただの人間に出来る芸当ではないだろう。

    なら……。

    「少しだけ気掛かりなことがある。前に芽衣アレを神社辺りで見掛けてね。話をしようと追い掛けたのだが見失ってしまった」

    「……君が撒かれたのかい?」

    彼女について考えていたことを見透かしたような彼の言葉に思考を中断、それから思わず眉間に皺を寄せた。
    それは別に彼に不満があるからではなく、ただそれくらい信じられない気持ちがあったから。

    なんせ彼は獣人の五感を持っており、更には天満あまみの地図であれば全て完璧に頭に入っているはずだ。
    対して彼を撒いたという松風屋の娘はまだ引っ越してきて一ヶ月程度の子供。普通なら、撒けるはずがない。だが、現に彼は撒かれていて。

    「ああ。耳と鼻も使ったのだけどね。すぐ近くの人間に捕まったので追うのを辞めた。それ以来見掛けもしないよ」

    「ふむ…」

    彼が撒かれたのも見掛けないのも、偶然か故意か。
    少なくとも彼の能をあなどる気にだけはならず、また柄にもなく考え込んだ。

    「並大抵の人間には不可能なことに思うが……。今までにあの娘に限らず人間に撒かれたことはあるのかい?」

    「いいや。相手がその気なら追わないこともあるが、今回に関してはあの時、私が先に気付いて行動をした。アレが気付いていたら視線で分かるからね」

    「そう、か…」

    この時点で考えられることは、彼女に何らかの「先導者」が居たという可能性。それが人間なのであればまだ良いが……もし、そうでなければ。

    (しかしいくら夢見草くらみかやよりは弱くともこの街にも全体を覆う結界はある。邪鬼が入ればすぐに神楽家が気づくはずだ。となれば付喪神か?だが……)

    付喪神とは、所有者の為に力を使う。なので、明確な指示や条件も無しに自己判断で力を使うということは滅多に無いのだ。勿論あの娘が前もって「白虎に見つかったら私の姿を隠して」とでも言っていたのならまだ分かるが。

    (付喪神か、もしくは巧妙に結界を掻い潜る邪鬼か)

    この二択なら、まだ前者の方が有り得るだろうか。
    それはそれでどこか腑に落ちないのも確かだが。

    「違和感があるのならいずれ尻尾を掴めると思うよ。何か分かったらすぐ君に知らせるさ」

    再び考え込む私に、少し上から声が降ってくる。
    ……確かに彼の言う通りだ。それでももし事態が悪化の一途を辿るのなら、家族の問題というものに触れさせるのはあまり気乗りしないが弟子にもさとりの力で助力を頼むとしよう。

    「そうだね…。あまり刺激しても良くないだろうし……済まないが引き続き宜しく頼むよ。もし親御に会うことがあれば最近特にあの娘が大切にしている物があるかどうか聞いておいておくれ」

    「了解した」

    返事をし、またそそくさと仕事に戻る彼の背を見送ってから小さく溜息。それから進展を迎えたのは、たった二日後の話だった。

    朝、いつも通り昼四つ(10時)前に開店準備を終わらせ、あとは店の表に掛かっている「閉」と書かれた札を裏返して「開」にするだけ。それを普段と変わらず彼に任せ、私は文机の前の座椅子に座ろうとしていた、が。

    突然響く、強い焦りの滲んだ扉を叩く音。
    それは只事では無いことを鮮明に示していて。

    「ふむ……どうする?」

    今にも扉を開けようとしていた手を止め、彼が振り返る。けれどその言葉に答える前に、外から必死な馴染みのない女の声が聞こえた。

    「松風です!どうか、どうか話を……!」

    ようやく分かった声の主に思わず頭を抱える。
    あぁ、どうしてこうも問題ばかり起こるのか……。

    「…開けてやりな」

    小声でそう返しつつ事態に対応しやすいよう、座ろうとするのはやめて立ったまま扉に視線を向ける。
    そして彼が扉を開けば、店の前には一人の女──くだんの娘の母親が不安を堪えるように胸元で両手を握り小さく俯いて震えていた。
    けれど扉が開ききれば音で気づいたのか弾かれたように顔を上げて。

    「大変お待たせ──」
    「も、申し訳ありません!芽衣を、芽衣を見ておりませんか?!」

    彼の言葉を遮る声に、一瞬顔を顰める。
    それは勿論無礼に対してなんかではなく、流石に少し想定外なことに対して。

    「お話を伺いたく存じますので中へ」

    すぐに、今度は私の指示を待つことなくシェイムが彼女を招き入れ扉を閉める。
    その間に私は草履を履きつつ、どうやら店まで走って来たらしい彼女を手招いて礼は制しながら上がり框に座らせた。一方の彼は扉の前でじっとしており、恐らくは必要な情報が得られればすぐに探しに行けるよう待機しているのだろう。そう思って、彼女の息が整ってすぐ話を進めた。

    「それで、息女は家出でもしたのかい?」

    「は、はい…。最近…様々なことがあって、それでつい気が立ってしまい…」

    「…確かに盗難やら解雇やらあったようだけれど」

    「そ、それが…芽衣が、持っていたんです」

    「……何?」

    「仕事に出た後、忘れ物をして家に戻ると芽衣が巾着袋に向かって話していて…。それで、その袋の中に私の無くした宝石が…」

    「…管理はどうしていた」

    「鍵を掛けていました。持っているのも私だけです」

    「過去にこういうことは?」

    「ありません」

    「欲しがったりも?」

    「はい。あまり宝石に興味を持つ子でもなくて…。それで…思わず袋を取り上げようとすれば…芽衣は私に宝石を投げつけて出て行ってしまったんです」

    「盗った物をそう簡単に手放したのか……」

    流石商家の娘ということなのか、焦りつつも簡潔に言葉を返してはくれるが、話しだけ聞いても今一つ動機は見えてこない。
    だが今考え込んでも仕方ないと、他の情報を求めた。

    「他に盗った物は」

    「夫の貯めていた金貨を。こちらも鍵をしていました」

    「何か欲しい物があった様子は?」

    「いえ、特には…」

    「なら最近変わったことは?」

    「変わったこと…。少し前に、石が話すと言ってきたことが一度だけ…」

    「石が?その石は見たか?」

    「はい。何かの破片のようでした。ですが元の形までは…」

    「どこで拾ったかは?」

    「聞いていません。ただその日は帰りが遅くて…」

    「……最近息女が街の外に行っていたことは知っているかい?」

    「えっ?!し、知りません…。日中は近くで友達と遊んでいると言っていたので…。ですが先程近所の子らに聞いても誰も芽衣の行き先を知らないようで、それで…もしかしたら白虎さんなら、と……」

    そう言って彼女はシェイムを見るが、彼は静かに首を横に振るだけ。けれどそのまま彼女が項垂れるのは無視して、彼の元に歩み寄った。

    「白虎。鈴に反応はあるか」

    「いいえ」

    当然彼は頷かない。
    だが私が傍まで行けば、そっと声を潜めた。

    異物を使えば位置を探れる。どうする?」

    「頼む」

    もう、迷う暇はなかった。
    恐らくは相手は邪鬼か、姿自我を作れないほどに破損して堕ちかけの付喪神だろう。であれば多少派手に動いたって氏神も許してくれるはずだ。
    そう思い、不安気にこちらの様子を伺う視線は気にせず彼の返事を待つと。

    「……建物内だ。動いていない」

    「家か…?」

    「家かどうかまでは分からない」

    「そうか…。いや、一度調べておこう」

    もしかすると家のどこかに隠れているかもしれない。むしろそうであってくれた方がましだ。だがどのような状況か分からない手前、ただの人間を連れて行くのは面倒でしかない。それならと、振り返りながら彼女に言葉を投げた。

    「私達も探すのを手伝おう。彼なら息女の匂いも追えるかもしれない。君は神社の方を当たってくれ」

    咄嗟に適当な言葉を並べつつ、一番安全だが可能性が低く、尚且つ探すのに時間の掛かりそうな場所を指示する。と同時に彼はすぐ扉を開けて。

    「では私は街の外を回りましょう。何か分かればすぐに梢さんをお迎え致します」

    「わ、分かりました…!」

    これで仮に時間が掛かっても街の外に出ようとは思わないはず。そんな彼の機転に内心で関心しつつ、深く頭を下げ感謝の言葉を口にしてから外に出て再び走っていく彼女を見送った。
    そしてすぐ、私達も外に出る……のではなく、彼は扉を閉じて私に視線を向け。

    「転移をすれば鈴がある場所に飛ぶことが出来る。行くかい?」

    「あぁ、頼む」

    どうやら詳細な場所は分からずとも転移は使えるらしく、差し出された手に迷わず手を重ね煙霧に包まれた。

    「先程言ったように詳しい位置までは私は分からない。マスターの傀儡に鈴の座標付近に転移して貰うから…何が起きても素早い対応を希望するよ」

    つまりは、警戒をしろと。
    けれど言葉を返す前に視界は赤紫で埋め尽くされ、それが晴れた時にはどこかの部屋の中。とりあえず気配に集中するも何も感じず、少し肩の力を抜いてから手を離し部屋を見渡した。

    (子供の部屋……あの娘の部屋か?)

    家具や小物からそう判断し、それからすぐに床に目を向ける。
    人の気配は無いが、鈴はここにある。つまり床に落としでもしたのかと思ったが。

    「魔具は見付けたよ」

    声に顔を上げると、彼はいつの間にか左目に浮かべていた罰印を消しつつ、すたすたと棚に近づき子供が持つにはやや高価そうな小物入れを開ける。そして中から傷一つない鈴を取り出すと、どこか怪訝そうな顔をしてこちらに振り返った。

    「子供でも分かるように説明したはずだが…ここの人間は御守りを持ち歩かないのかい?」

    「いいや、普通なら持ち歩くはずだが…。君から貰ったから無くさないようにと思ったか、はたまた……」

    この様子だと、今回はたまたま持ち出さず出かけたというより、一度も持ち出したことが無いように思える。勿論紛失を恐れた可能性は否定できないが、普通持ち歩けと言われた物を早々に仕舞い込みはしないだろう。
    それがなんだか違和感で、それなら鈴の記憶を読んで確かめようと彼に手を伸ばし鈴を受け取ろうとした。だがその寸前で、彼はこちらに伸ばそうとしていた手を止め壁に目を向ける。

    「…帰ってきたようだ」

    言葉にはっとして、彼の視線を追いつつ意識を集中する。
    そうすれば小さく隠れ潜むような足音が一つ聞こえた。つまり帰って来たのは。

    「油断はするな」

    小声で彼にそう言ってから、静かに気配の方に歩み寄る。
    そして丁度居間についた所で隣室である土間の勝手口が開き、娘が姿を現した。まるで誰かと話すような独り言を呟きながら。

    「え?誰かいるって…──」

    「やぁ、久方ぶりだね。お邪魔しているよ」

    彼女の話し相手は見当たらないし、気配も感じない。それを確認してから逃げられる前に声をかけにこりと笑顔を向けた。
    そうすれば勿論彼女は驚いたように半歩、後退ったが。

    「この前の、お姉ちゃん…と、お兄ちゃん…?こ、ここ芽衣のお家だよ…?なんで……」

    「母君から君が居なくなったから探すのを手伝って欲しいと泣きながら懇願されてね。それで白虎が君に渡した鈴の気配を辿ってきたのだよ。驚かせて済まなかった。怪我は無いかい?」

    やや大袈裟に演技を交えつつ優しく言っては、少女の前に片膝を付く。
    そうすれば彼女は明らかに不審な私達よりも「母」という言葉に動揺し、目を泳がせながらもこくりと頷いた。それからすぐ慌てたように顔をシェイムの方に向けて。

    「あっ、あのね、お兄ちゃんに貰った鈴はちゃんと無くさないように置いてあるよ!」

    「無くさないように…なるほど。それで家にあった訳ですね。それは誰に教えて貰いましたか?」

    立ち上がった私と入れ替わるように、にこやかなシェイムが少女の前で膝を折る。
    なんとも自然に鎌を掛けながら。

    「あのね、てんが……あっ!!」

    瞬間、彼女は嬉しそうに名前を言うが、すぐに自身の口を両手で塞ぎおろおろとしていた。要するに口止めをされていたらしい。

    (てん…。聞き覚えのない名だ。それがもし彼女の空想上の友ではないのなら……恐らく当たりだ)

    ちらりとシェイムと視線を合わせ、小さく頷く。
    そうすれば彼はすぐに意図を察したように少女の方を向き、微笑んだ。

    「てんさんはとても賢い方なのですね。家なら大切な御守りは絶対に無くしませんもの」

    「う、うんっ!それに凄く優しいの!」

    「芽衣さんはてんさんが好きなのですね。私も他所から来た身なのでお友達が作れた芽衣さんがとても羨ましいです」

    「そ、そうなの…?」

    困ったように微笑んで見せる彼に、少女は何かを言いかける。
    しかしそれを言葉にする前に「てん」とやらに声を掛けられたのか戸惑ったような表情を浮かべた。

    「て、貂がね、もしかしたらお友達になれるかもって…」

    言いながら持っていた巾着袋に視線を落とす。
    その表情はどこか寂しさが滲んでおり、彼女が依存気味なのは一目瞭然だった。

    「てんさんは芽衣さんの傍にいるのですか?」

    「う、うん。いつも一緒にいるの」

    「ああ…芽衣さんにしか声が聞こえないのですね。お友達になるにはどうしたらよろしいでしょうか?」

    「…うーん。で、でも貂の声は芽衣にしか聞こえないから……え?お兄ちゃんに…?」

    不意に言葉を止め、じっと巾着袋の中を見る。
    それから少しの間を空けて、少女はおもむろに小さな石を一つ取り出した。

    「あのね、貂がお兄ちゃんにも石を渡したら良いかもって…」

    「それは…てんさんから頂いた石でしょうか?」

    「うぅん、芽衣が見つけたの。貂の一部なんだって」

    そう言って少し躊躇いつつも彼の差し出した無警戒な手に石を乗せようとする。
    だが少女の手の隙間から僅かに見えた石は確かに何かの欠片のような複雑な柄と磨かれたような光沢があったが。

    (あれは……瑪瑙めのうの原石か?なら…!)

    付喪神は、物に宿る存在であり自然物には宿らない。勿論ただの石を人が磨き上げ剣とすればその時点でそれは自然物ではなく付喪神の宿りうる「物」となるが、あれはどう見ても人の手が加わっていない。つまり、そこに宿るは邪鬼でしかない。そして、この至近距離でも気配を感じさせず、巧妙に人の心に取り入る邪鬼と言えば──

    「シェイムっ!!」

    柄になく叫ぶと同時に、石が彼の手に触れる。
    そうすれば案の定、石は彼の耳飾りから流れる私の霊力に飲まれたのか真っ二つに割れ、そのことに警戒したのか間髪入れずに少女の持つ巾着袋から鋭い爪と邪鬼の証である漆黒の角を一本生やした半透明な細長いいたちのようなものが飛び出しその爪を彼の首元に向けた。

    そこからもう、反射だった。
    何も、考えられなかった。

    それくらい咄嗟に体は動いて、シェイムの襟を掴み自身の後方に精一杯の力で引き飛ばしながら、反対の手に霊力を纏わせ襲いかかって来た邪鬼──飯綱いずなを弾き飛ばした。

    らしくない。あまりにもらしくない。
    彼はこんな邪鬼如きに易々とやられる男ではないだろう。今私がするべきはわざと・・・無防備を演じていた彼を囮としてその間に邪鬼祓いに集中することだろう。それは、分かっていた。
    けれど瞬間的に掛けた天秤は当然のように人間ではなく彼の方に傾いて、私を突き動かす。

    勿論そんな自分に理解が追い付かない状況であっても体は自ずと動き、すぐさま飯綱に向けて空中に生じさせた幾つもの柊木の枝木を突き刺すようにして一斉に飛ばしたが、確かに敵を捕らえたはずのそれは相手が透けるように消えたため刺さることなく、思わず小さく表情を歪めた。

    飯綱は自身の肉体を持たない精神のみの邪鬼であり、核となる部分を攻撃しなければ今のように祓うことは出来ない。それどころか他者の肉体や物に憑依し、邪気により形を変えたりしながら意のままに操りさえする。
    とは言えそう易々と他者の肉体を奪える訳ではなく、相手の精神を弱らせているか自身に依存させているかしなければならないのだが……。

    (完全に後手に回ってしまった。だがまだあの娘に憑依してはいない。恐らく過去に妖の手で石に封印されていたのだろう。先の瑪瑙は囮。なら未だ巾着袋の中にある石を全て祓えば──……)

    「やっ、やめてっ!」

    急いで回した思考を止める、突然の叫び。そして持っていた巾着袋を強く抱きしめる姿に、つい新たに召喚した枝木の狙いを逸らしてしまう。
    ──だがそんな隙を邪鬼が見逃すはずもなく。

    「え…?いやっ、貂、やめっ……!」

    一瞬の間に、巾着袋から溢れた邪気は少女を包み込み、驚きと恐怖の声をも搔き消していく。
    そして晴れた先にいたのは、角を持ち白目を黒くしては少女に似つかわしくない笑みを浮かべる邪鬼の姿だった。

    そんな、明らかな劣勢。
    だが内心焦る私とは反対に、彼は投げ飛ばされて尻餅をついた姿勢のまま小さく溜息を吐きすぐに煙霧を出しては邪鬼も含めて私達を覆い、気づけば周囲の景色は家の中からどこかの森の中へと移っていた。そして。

    「平和ボケかい?元大儺が聞いて呆れる」

    「っ……」

    冷や水のように浴びせられた言葉はぐさりと刺さって、思わず唇を嚙む。だが心に何か引っ掛かったものは素直に引き下がることも無く、返せたのは苦い表情と情けない言葉だけだった。

    「無茶を言うなっ…!」

    「柄にもなく焦ってる理由が知りたいよ。邪鬼に取り憑かれた人間の対処法は?」

    また少し、言葉が重くのしかかる。けれどようやく焦りを自覚して、一つ小さく息を吐いた。

    「……物理的な力以外で邪鬼に対処出来る妖…天満の大儺を呼ぶか、憑かれた本人が強く拒絶するしかない。私の力では体にも傷を与えてしまう…。だが神楽の者が来るまであの幼子がそれまで耐え切れるか分からない。拒絶もあの依存度合いで出来るかどうか……」

    言いながら、ようやく立ち上がろうとする彼を庇うように立ち塞がりつつ余裕の表情を浮かべる邪鬼を睨む。こうなっては私が時間を稼ぎ、彼に神楽家の者を呼んで来て貰うしかない、そう思った。
    しかし彼は相変わらず動じず、すぐに夢魔に姿を変えて。

    「なるほど。精神に関係してるなら私の世界に連れて行けるじゃないか」

    「っ、出来るのか!?」

    思わぬ光明に振り返らぬまま声を上げる。
    彼の世界というのはあまり把握していないが、自身の力量は誰よりも正確に理解している男だ。彼が言うのであれば何かしら案があるのだろうと思いながら問えば、彼は先程回収したらしい鈴を取り出して小さく鳴らした。

    「綾月君を保護した時と同じ方法だけどね。体は君に任せたよ」

    瞬間、邪鬼の表情が崩れ何をしたと騒ぎ立てる。
    まさか自身の内から少女の精神だけを奪われるとは予想だにしなかっただろう。──であれば、今私がすべきは。

    「時間なら幾らでも稼いでやるさ」

    そう言って少し口角を上げ、自身の世界とやらに戻るため消えていく彼を視界の隅で見送る。
    それから改めて、周囲に結界を張りつつ邪鬼に向き直った。

    「……さてそれじゃぁ、我慢比べと行こうか」
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