Shayt ④-2時刻は昼四つ半を過ぎた頃。
この時間になると天満の街はより活気に溢れ非常に賑やかだ。
……とは言えそれはあまりこの一輪堂には関係がないので、別に昼寝をしようが散歩に行こうが問題ない。
「お待たせ。それじゃぁ行こうか」
準備を終え、自室から店の方に戻るとシェイムは大人しく座って待っていた。そんな彼の手には渡した覚えのない書類もあったが……まぁ別に見られて困るものも無いので気にせずそのまま店の出入り口兼玄関から外に向かう。
そして黙って付いて来た彼も出たのを確認してから、一輪堂の名前と屋号が彫られた木札のぶら下がる真鍮製の鍵でしっかりと戸締りをした。
(そういえば、彼にも鍵を渡しておいた方が良いだろうか?いやしかし彼が鍵を使うとも思えないからねぇ……)
ふとそんな思案。
弟子には当然、私の家で面倒を見ていたこともあるのだから渡してあるが、彼は……少なくとも玄関を使っているのを今初めて見た。
それにお使いを頼むとしてもそれは私が楽をしたいからなので、つまりは店に私が残るということ。であれば戸締りの必要もなく、やはり彼には鍵を渡さなくて良いかなと思い始めたところで。
「おぉ、柊さん!それにさっきの兄ちゃんじゃねぇか!今からお出かけかい?」
元気の良い声が鼓膜を揺らす。
けれど「相変わらず声が大きいね」という本音は出さず、声の方を振り返った。
「おはよう、源之助。新入りが世話になったようだね」
軽い笑顔を向け、愛想良く。
それからやはり今朝の果物は近所で八百屋を営む源之助からの差し入れだろうなと思いつつ、ちらりと隣を見ればシェイムは先までの私との会話が嘘のように大人しく会釈していた。なんともまぁ、演技派なことで。
としているうちに、源之助の声に引き寄せられたのかどんどんと人だかりが築かれていく。恐らく今朝シェイムに会った幾人かが話を広げたのだろう。
……そういえば弟子の時も最初はこうなって、けれどあまりにも弟子が愛想良く丁寧にお淑やかな挨拶をするものだから、まさか背の高い年上の男が苦手だなんてその時は思いもしなかった。
そして、今隣にいる彼はというと。
「ほら、挨拶をし」
そう言ってみても、ただ黙ってにこりとしながら相変わらず会釈するのみ。しかもどういう感情なのかは分からないが尻尾の先が少し震えていた。
……果たしてこれは、緊張しているという演技なのか彼らに興味が無いのか。
少なくとも本当に緊張しているという線だけは無いだろうなと思うが、まぁ別に彼らとはそれなりに友好的でいてくれれば問題ない。ということで早々に気にするのをやめて、それからもう良いだろうと彼らを見渡した。
「さて…そろそろ私達は行くとするよ。何かあれば気にかけてやっておくれ」
そう言って、にこりと。
そのまま了承の言葉を口にする彼らに軽くだけ手を挙げて返事をしては、あとはもう振り返らずに歩き始めた。
「人望があるのだね」
「……ただ長くここに居るだけさ」
人の群れから脱し、ようやく、しかし小声で喋った彼に、こちらも声量を合わせて前を向いたまま言葉を返す。きっと彼なりに私の利用価値を測っていたのだろうけれど、これは謙遜でもなんでもなく、ただ私の本音だった。
そう、私はただここに居ただけ。
きっと、元大儺という肩書と、堅物だが優れた神使であった結望ちゃんの祖母と友であり今も桜月家と友好が深いから、尊重されているだけにすぎないのだろう。人間は、どうせそれしか見ないのだから。
そして私も、ただ友の孫娘を守るという約束と付喪神の為だけにここに居るのだから。
(あぁでも今は弟子を見守りたいというのもあるか)
ふとそう思って、僅かに表情が緩む。
勿論師匠としての責任感でもあるが……仮にそうでなくとも彼女はかつての友のように私の興味を強く惹く娘で、私が自らの意思でここに居ると言うには十分すぎる理由だろう。
「さてと、それじゃぁまずは馴染みの店を紹介するかな」
弟子にもしたことを、もう一度。
なんだか懐かしい気持ちになって、それからは何事もなかったかのように彼と並んで歩いて行く。そして時折、今後頼むであろうお使いの為に幾つかの店に立ち寄っては簡単な説明をしていった。
ここは酒屋。
夢見草で作られた物が並んでおり、種類は少ないが味は本当に良い。
ここは書物屋。
店主の趣味で和の国各地の本が並んでいる。最近は極僅かに黄丹の本も取り扱うようになった。
ここは質屋。
男所帯でややむさ苦しいが羽振りは良いし頼めば品を引き取りに来てくれる。品を売るなら大体がこの店。
ここは餅屋と和菓子屋。
弟子や商談相手が来る時は大体ここで甘味を買う。
ここは骨董品店。
店主の鑑定眼は……あまり良くないが、たまに付喪神の宿った品を知らずに置いている。
ここは茶舗。
質の良い茶葉を置いていて、定期的に一輪堂に売りに来てくれる。
ここは飛脚問屋。
港で商船から色々買った時や遠方に鑑定した品を送り返す時はここに頼みに来る。
ここは呉服屋。
繊細な刺繍が人気でよく遠方からの客が来る。その分店主は情報通だしお喋りだから店の前を通るとたまに奇妙な噂話なんかが聞ける。
ここは小間物屋。
髪飾りや化粧品、他にも日用品なんかを扱っている。流行りに敏感で、新しい品が多い。
そんな短い説明だが案外彼は大人しく聞いていて、私が店主に紹介したり店員に会釈されれば素直に「よろしくお願い致します」と言いながら、まるで好青年かのような爽やかな笑みを浮かべていた。
ただ一つ気になった点としては、名前を聞かれると必ず「白虎とお呼び下さい」と言っていたことだが。
「シェイムとは名乗らないのだね」
「横文字は覚えにくいだろ?」
そう言ってにこりと。
けれど何となくそれは嘘というか、本音では無いのだろうと思った。なんせ、彼が他人のことをそこまで気にするとは思えない。とは言え。
「まぁ…そうだねぇ。それに異国の名の妖というのも目立つし、君が気にしないなら別に良いか」
そこまでとやかく言う気も聞く気も無いし、異国の言葉に馴染みのある者が少ない今、覚えにくいのは確かだろう。なら好きにさせておくかと思い、そこで話を終えたつもりだったが。
「弥琴さんがたまに呼んで下さるのなら、私は全く気にしません」
爽やかに。それはもう爽やかに、にっこりと。
恐らく今日見た中で一番の笑顔ではないだろうか。しかも律義に普段はしない“私”だなんて言い方もして。
けれど悲しいかな、今までの彼を見た後では出る感想なんて。
「……上手い作り笑顔だね」
やや呆れ気味に、ぽつりと一言。
しかし何故か彼は機嫌良さそうに尻尾をくねらせて、暫くの間笑顔のままだった。
(皮肉のつもりだったのだけれど……)
それが分からない質でもなかろうに。
まぁ私も私で「弟子に怒られるのは悪くない」なんて言って酒飲み仲間に心底引いた目を向けられたことがあるからあまり言える立場ではないが、たまに彼の反応は……いや、やめておこう。
それよりも、ふと思い出した彼女のことを考えて、少し思案。現状についていつ怒鳴り込んで来ても良いように美味い酒は用意してあるが、果たしていつ来ることやら。
そんなことを考えながら足を進め、ようやく街一番の大通りに出る。
そしてこのまま通りを横切って海の方に向かうのが本来の目的……なのだが、その前に折角なら一つ大事な場所に寄り道しておこう。
「ここが、天満神社だよ」
大通りを少し歩いてから、大きく立派な石鳥居の前で足を止める。
そして早速また左目に赤い罰印を浮かべる彼を横目に、私も社殿を見上げた。
海運を司り、天満の地を治める氏神――明の君。
彼が祀られているこの神社は海を一望する場所にあり、境内も広く中々に荘厳だ。
しかし一番の特徴はやはり、社殿が二つあることだろう。
というのも、明の君という男神は女が苦手というか、女がいると緊張してしまう神だと言われている。なので手前に誰でも参拝可能な本宮があり、奥に女人禁制で本宮より立派な奥宮がある訳だ。
そして一般的に明の君は奥宮に座していると思われているが……まぁ事実がどうであれ大した問題にはならないだろう。
「ここに使いを頼むことは無いとは思うが、一応場所は覚えておいておくれ」
そう言って歩きだすと、彼はやっと爽やかな好青年の振りをやめたらしく普通に「了解した」とだけ言って罰印を消し大人しくついて来る。
それからまた港に向かう間、彼は特に何も言ってこなかった。
(……つまり彼のあの解析能力は万能ではなく、神社の結界には阻まれるということか。もしくは、所縁のある物ではなく対象そのものを視なけばいけないのか…。どちらにせよ、問題は無さそうだね)
内心で、一人そんな安心を。
とは言ってもそう大して不安だった訳でもなく、ただ彼を試してみたかった、もしくは彼女に早々に怒られておいた方が気楽そうと思っただけだが。
ともあれ暫く歩いて、またあちこちの店に寄って店主や店の紹介を交えつつようやく港へ辿り着く。相変わらず海は凪いでいて、潮風は穏やかそのもの。けれど行き交う人々の活気は大通り並みだ。
「左側のあちらは漁師用の港で、あの横長の建物は水揚げされた魚の競りなんかをする場所だ。で、反対の右側は商船用の港。こちらは何軒か建物があるけれど、小さいのは大抵一時倉庫や簡易的な寝泊りの場だ。一番に用があるのは競りが行われる最も大きい建物。輸送船から下ろされた物はまずそこに集まる。荷物の受け取りをお願いするだろうから覚えておいておくれ。それから、少し離れた所にある煉瓦造りの建物。あそこが今の目的地で、これからも行く機会が増えるだろう」
街にある大抵の建物は木造か漆喰で、それなりに歴史を感じさせる佇まいをしている。しかし大通り沿いに数軒とここにある褐色煉瓦の建物だけは真新しく建材も建築様式も他とは異なるから少し異質だ。とても目立つので目印には確かに丁度良いが。
「あれは異国の建物を模して造られた物かい?」
「ああ。黄丹の者達には珍しいからか、こちらの建物の区別がつかないようでね。彼らの為に彼らの建築様式で建てられたのがあれだ。中では部屋ごとに臨時の小さな店が開かれていて、こっちの商人達は大体「異人館」だとか「黄丹邸」なんて呼んでいるかな」
「ふむ。なら大通り沿い煉瓦造りの店は異国の者が経営していると?」
「いや、あれは…異国文化に憧れたか目立って集客を狙っているだけのこの国の人間だよ。まぁしっかりと外観に合わせて異国の品を中心に売っているけれどね」
そう説明しながら、今日も今日とて賑やかな競り場を横目に過ぎて行く。そして目的地の異人館に辿り着いては、近い部屋から一つずつ巡り始めた。
ある部屋では異国の陶器、またある部屋では異国の小道具。そしてある部屋では、色とりどりの布や糸。
その何軒かで気になった物を、例えば硯を使わない筆記用具……シェイム曰く「万年筆」という物であったり、裁縫が趣味である結望ちゃんの為に何本かの糸を購入していく。いつもなら言語の問題で多少時間の掛かる会計も、彼に任せれば速いものだ。
お陰で難無く買い物は進み、ようやく辿り着いた最後の部屋では。
「……」
爽やかな笑顔で話すシェイム。そして上機嫌に異国の者特有の距離の近さで嬉しそうにシェイムの肩を叩く商人。
そんな彼らの異国語でのやり取りは、弟子に終わった外の世界での時間に置き換えれば……恐らく五分くらい経っただろうか。
最初は、異国の商人が辿々しい山和言葉で話し掛けて来た。しかし伝えたい言葉が上手く翻訳出来ず非常に困った様子だったので、見兼ねたのかこちらを見たシェイムに頷き返した所すぐに彼は流暢な異国の言葉を話し始め、商人は大層驚きつつもまるで縋るような目をしながら表情を明るくした。そして恐らく煽てられでもしたのか、もうすっかりシェイムに心を開いたらしい。
(これは良い縁故になりそうだ)
そんなことを思いつつ、静かに一人で品を眺める。
普段は商人に話し掛けられあまりゆっくりと出来ないが今回は彼のお陰でのんびり出来た。まぁ時折彼からの興味か監視であろう視線は感じるが。
「弥琴さん」
「ん?」
不意に彼に呼ばれ、振り返る。そうすれば彼は傍まで来て、そして少し声を潜めた。
「1つタダでくれるそうだよ」
「……なるほどね」
ちらりと視界の端で商人を見やると、それはそれはご機嫌な様子で先ほど彼に見せていた品を元の棚に戻したり手入れしたり。なら有難くお言葉に甘えようかなと思いはしたが、彼の功績なことは間違いない。であれば彼の意見聞くのが筋だろう。
「何か気になった物はあったかい?」
「……強いて言えばアレだね」
少し店内を見渡して、それから彼が指したのは棚の隅にあった小さな木箱。それは小ささの割に様々な模様が描かれており綺麗だが、どう開くのか一見すれば分からない物だった。
「からくり箱か…」
特定の手順で蓋を動かさなければ開かない仕掛けの施された箱。いくらか構造は違えど、似た物が異国にもあったらしい。だが和の国の物とは違い、かなり安い値が付けられていた。
「人から譲り受けたらしいが開けられなかったらしい」
「なるほどね」
察したかのように渡された情報で、安値な理由を納得しつつそっと箱を手に取る。すると中からは小さな物音が聞こえた。
(開け方は……、…道理で開けられなかった訳だ)
そっと力を込めれば、元の所有者らしき男が箱を開く記憶を垣間見れる。その工程はかなりややこしく難解で、以降の所有者はこじ開けようとするにも作りが精巧すぎるし、中身を傷つけない為には破壊する訳にも行かないしで、どうやら数々の挑戦者の手を離れてきたようだった。
それと同時に、意図せずとも中から微かな憂いの感情が指先から伝わる。
それは物に宿った心……というよりは、元の所有者がこの箱を手放すに至った時の強い想いだろう。だが、あまり黙っていても不審がられる。それに一気に記憶を読み取ると私への負担も大きい為、とりあえずは記憶探しを切り上げ彼を見上げた。
「こういう物を集めるのが趣味なのかい?」
「パズルゲーム…君に分かるように言えば、謎解きの類は得意でね。商人からソレの昔話を聞いて中身に興味が出ただけさ」
そう言いながら彼は返せと言わんばかりに手を出す……が、それは気づいていない振りをして再び箱に視線を戻す。そしてあたかも鑑定でもするかのようにじっくりと見回した。
「へぇ、昔話か。どんな話なんだい?」
「…所有者がその中に高価な物を隠して殺されたそうだ。誰にも開けられなく、今の商人に回って来たらしい。しかし商人も開けられないからそのまま売りに出したそうだよ」
諦めたように手を下ろしながら、包み隠すことなく案外あっさりと。しかしその話を聞いて想うのは当然中身のことで。
異国に付喪神に似た存在がいるかは分からない。
だがもし彼が開けることだけに満足して中身をこの国で売り払ったら、そしてこのまま付喪神のいるこの国でこれ程強い想いを抱き続ければ、いつしかそれは呪いになり邪鬼となるだろう。それなら、もし元の所有者が本当に大事にしていたのなら、何より物がそれを望むのなら、どうにか傍に返してやりたい。そう思って。
「……そうか。所謂曰く付きという奴なのだね。であれば、これは私に譲ってくれないかい?付喪神を知る身としてはこういう物を放っておけなくてね。せめて邪鬼に堕ちないようにしてあげたいのだよ」
にこりとした顔を向けつつ、いつもと変わらない調子で。勿論物の記憶を読めることは言わずに。
そうすれば彼はどこか訝しむように笑ったが。
「おや、人の欲しがった物を横取りするとは……まぁいいさ」
「ありがとうね」
どうやら追及をする気は無いらしく、早々に諦めてくれたことに笑みと礼を返す。それから「これで全部かい?」と聞く彼に頷いて会計から戻ってくるのを待ち、その後は店主に会釈だけしてさっさと部屋を出た。
「通訳ありがとうね、助かったよ」
「利用価値はあるだろ?」
「ああ、とてもね」
自信満々な表情を浮かべる彼に、くすりと笑いながらの肯定。こういう所はなんだか子供らしいなと思いつつ、色々と役立ったのも事実で素直に褒めれば少しだけ尻尾を揺らしてついて来る。なんとも素直なものだ。
そんなことを思い少しくすっと笑いながら、一瞬の思案。おおよそ重要な場所は巡り終えた。それにもう昼過ぎだし切り上げ時のはずだ。
「さて、それじゃぁ粗方の案内も終わったことだしそろそろ帰ろうと思うが…何か他に気になることはあったかい?」
「いいや、あとはこちらで処理する。帰宅するなら転移を使おうか?」
「それは便利だが……」
内心「こちらで処理とは?」と少し思ったのはさておき、ここから一輪堂までの時間を考える。勿論四半刻掛かるほどでは無いが、便利に違いは無い。
とは言え己の速さで瞬間的に移動する力を持つ妖はいれど転移という力を持つ妖はおらず、もし街の者達に見つかると厄介この上ない。それは弟子も注意していることで。
「くれぐれも人に見られないようにね。弟子だっていつも路地裏でしか使わないようにしているし」
念の為そう言っておきながら、ちらりと人気の無い路地裏の方に目をやる。そうすれば彼はにこりとして。
「意識しているさ。視線は範囲内なら感知出来るからね。歩いて帰りたいのならどうぞご自由に」
そのまますたすたと私を置いて路地裏へ向かっていく。相変わらず彼らしい。まぁついでに甘味でも買えると思うと別に歩いて帰っても構わないが……。
「折角だし君の帰り方も体験させて貰うよ」
極力彼の能力については把握しておいた方が良いだろう。
そう思って普通について行くと彼は手を翳し煙霧を出したが、それはすぐに路地を塞ぎながら景色に溶け込むように透けて行き、一見するだけでは煙霧の存在に気づかないだろうと思う程に。
そして彼が振り向いて私に差し出した手を軽く握りながらその煙霧を通り抜ければ、景色はいつの間にか一輪堂の横にある路地へと変わっていた。
「…ふむ」
手を離しながら、小さく呟く。弟子の転移は一瞬の浮遊感のようなものと微かな花の香りがするが、彼の転移にはそういったものはないらしい。やはり原理が全く違うのだろう。
そんなことを考えつつ、黙って先に店に向かった彼を追った。
「弟子のとはまた違うのだね。とても便利だ。助かったよ」
「彼女のものは瞬間的に場所を入れ替えるような転移だと推測している。私が今使ったのは空間と空間を繋げるものだ。どちらも使えるが、隠密ならこちらが効率的だからね」
「どちらも、か。それは羨ましいね」
なるほど、と納得しながら鍵を開け羽織を脱ぎつつ居間に向かう。そうすれば彼は私の羽織を流れるように受け取っては畳んで煙霧で仕舞い、私は荷物を受け取ると座って満足に包みを開け始めた。勿論、からくり箱以外を。
だがその途中で今の時間を思い出しふと手を止める。
「荷物ありがとうね。ところで君は食事が必要かい?」
「いいや、どちらでも問題ない。空腹なら何か作るが?」
逆に問われて、思わず言葉に詰まる。
確かに「物」である彼は食事が要らないだろうなと思いはしたが、私は──
「あー…そうだね。何か食べる、かな…」
誤魔化す為には、そうするべきだろう。
そう思って少しぎこちない返事をしつつ朝貰った果物の残りでも食べようかなと思い、立ち上がろうとした。しかしその前に彼が動いて。
「なら私が準備しよう。座って待っていてくれ」
「おや、いいのかい?」
上げかけた腰を大人しく下ろし、土間に向かう背を見送る。とは言え勝手知らぬ土間で大丈夫かと少し心配したが、要領良く作業を始めるのを見てすぐにまた開封作業に戻った。
「お待たせ」
それから少しして、お盆に皿と椀を乗せて戻ってくる。
そのまま机の上に置かれた料理は、豆腐の味噌汁と菜の花の辛子和え、それから程よい大きさの塩おにぎりが二つ。そのどれもが良い見た目と香りをしていて。
「おや早いね。…美味しそうだ」
食事はどうせ娯楽でしか無く弟子には料理下手とさえ言われた私とは違い、やはり彼は器用だ。そうしみじみと思う程に美味しそうで、思わず表情が緩む。
しかし机に置かれたのは一人分のみであり、彼は私に箸を渡すと踵を返して土間の片付けに行ってしまった。どちらでもと言っていたのだし、共に食べるかと思っていたが……。
(とりあえず……冷める前に頂くか)
少し悩むもそう結論付け、素直に手を合わせる。
それから「頂きます」と一言添えてから食事を口に運んだ。
(うむ、中々美味しいね。弟子の料理も好きだが……彼の料理も悪くない)
味は濃すぎず、しっかりと素材の味がする。きっと弟子には薄いだろうが私には好みな味だ。……だがやはり一人で食べるのは落ち着かなくて。
「……君は食べないのかい?」
彼が洗い物を終えて戻ってきて早々、手を止めて見上げながら聞いてみる。すると彼は今度は掃除の用意を始めつつもちらとこちらを向いた。
「共に食事をするのがお望みなら明日から2人分を準備する」
てっきり食べない理由が返ってくるかと思っていたが、彼の返事はそんな言葉。それは私の思考を見越しての物なのか、いつもの捻くれなのかは分からないけれど……。
「そこは好きにしたら良いよ。無理に付き合う必要は無いからね」
流石に無理強いもどうかと思い、そう言って苦笑いを返す。けれど意外なことに彼は「なら明日は2人分だ」とだけ言い残し廊下の掃除に行ってしまった。
(良かったのだろうか……)
内心そう思いながらも、食事を再開する。少し気を遣わせたかと思ったが……まぁあの「素直」な男が良いと言うなら良いかと気にするのは辞めて料理に集中した。なんとなく、先程まであった気の散りは少なくなったと感じながら。
「ご馳走様」
その後、何事もなく全て食べ終えきちんと手を合わす。
それから皿を下げる為に立ち上がろうとしたが、やはり丁度良く彼が戻ってきては私を立たせる間もなく皿を全て持って行き洗い始めてしまった。……確かに楽で有難いのは間違いないが、なんだか小間使いでも雇った気分だ。まぁ彼のことだし、ただ自分でやった方が効率的だからとかそんな理由だろうけれど。
そう思いながら静かに茶を飲んでいれば、案の定。
「この後の予定は?」
洗い物を終えて戻って来て早々に、開口一番。
その様子に少しだけ苦笑いしつつも、楽をさせて貰ったのも事実だしと考え込んだ。
「そうだねぇ……。大体の説明は終えたし…あぁそうだ、折角だから今日買った物の名前と値段を帳簿に書いて貰おうかな」
どうせ後でやらねばならぬことだし、それなら忘れる前に……あと、彼の字を書く速さや綺麗さを確かめる為に。
そんな魂胆で言ってみれば彼はすぐに「了解した」と返事をして机の上を片付け始め、私も席を立ち店の文机の引き出しから帳簿と筆や硯を取り出し居間に戻っては墨を磨った。
そしてお互いの用意が終われば私の向かいに座った彼の前に帳簿を広げて見せて。
「それじゃぁ、ここの続きから書いてくれるかい?名前は大体で伝われば良い。値段はこの領収書………を見なくても君は大丈夫そうだね」
軽く説明をしながら、筆を持ち文字を認めていく彼の手元を眺める。弟子は最初「筆使うのなんて小学校以来なんですけど……」とぼやいてややぎこちなかったが、彼はまるで毎日使っているかのように迷いなくすらすらと。文字もとても読みやすく感心……しかけたが、よく見れば私の字と瓜二つだった。
「……」
「よく書けているだろう?」
「ああ、とてもね……」
私の視線に気づいたらしい彼がにっこりと笑うのを見て、少し半目になりながらも言葉を返す。まぁ悪用しないのなら別に構わない、いやむしろ今後役立つ場面もありそうではある。……彼がどのくらいの間ここに居る気なのかは定かでは無いが。
ふとそう思い、視線をたゆまず働き続ける彼の手元から白い髪の隙間に垣間見える淡い青と緑青色の瞳へと移した。
「……それで、君はこれからどうするんだい?私の監視をして何か得られたか?」
当然私はこの半日、随分と楽をさせて貰えた。まだまだ彼のことは掴みすら出来ていないが、意外と大人しいようだし手元に置いても問題は無いだろう。そう思った。
しかし彼の方はどうなのかと思い問えば、彼はぴたりと筆を止めて、それからくすっと笑った。
「綾月君とは君よりも長い付き合いでね。それにマスターが彼女を信頼している。一方の君は彼女の師匠と自称している割に隠し事が多過ぎるが、利用出来るだけの価値はあると私は考えていてね。何かあれば弟子より自分に聞けと指示をしたろ?それの対価を先払いしているのさ」
「……なるほどねぇ。なら良いさ、君がその気なら思う存分使ってあげようじゃないか」
つまりはまだ当面の間、気が済むまではここに居る。
そんな彼の答えに、私も満足してにっと口角を上げ笑ってみせる。まぁ彼が私のどの辺に価値を見出したかは分からないが…… 利用させてくれるのなら遠慮なく利用させて貰おう。
そう思いながら、再び仕事に戻る彼を眺める。
あまりにも生き物と近く、けれどどこか異なる不思議な「物」。様々な疑問や面倒さはあれど、少なくとも私が正体を明かさない限りは良好な関係を築けるだろう。何より、給料も情報だけで良いようだし。
「これから宜しく頼むね?」
小さく呟く。
返事は、返って来なかった。
だが尻尾は確かに揺れていて。
──かくして、色々とありはしたが一輪堂に新たな従業員が正式に増えることとなった。それが私自身にも大きな転機となるとは、露知らずに。