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    ミドリ

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    【Web再録】水鏡に言【2023.3.26発行マツミナ文字アンソロジー内作品】
    2023.3.26チャ!26発行の
    マツミナ文字アンソロジー「まつとしきかば」内作品のWeb再録です。

    水鏡に言、すいきょうにげん、酔狂に幻。
    タイトルは訓読みで「みずかがみにいう」でお願いします。

    お互いの脳内にいるお互いは僅かに違うことを言うタイプだと思います。

    #web再録
    webRe-recording
    #マツミナ

    水鏡に言 友人で、なくなってしまってもいいと思った。そんなのは、鏡にでも向かって言ったら良かった。
     観る人のために整えられた広い石畳ではなく、ミナキの白い革靴は古い景観のジムを囲む裏手の砂利道を踏んでいる。ざくざくとした音が耳を刺し、血ののぼった頭を痛める。
     いいんだよ、僕のことは。昂った脳が先の会話をリフレインして、再生されたマツバの声にびくりと思わず足を止める。足音がやむと耳元に血の音が際立った。どっどっと刻むリズムに夕暮れの町内放送が和する。
    ──次回、大講堂での講演はジムリーダーを招待し──
     五時を告げる割れ気味の鐘と、単語を区切った人の声。地元のイベントの報せが入る。今日話したのはこの件だった。

     君が自分を売るようなことをするなら、私は君を友人だと思わない。
     そう言い捨てて、出てきてしまった。自分で反芻してみて、じわりと胸が冷えたが無視する。マツバに舞い込んだ仕事についての相談を受けただけなのに、出過ぎたことを言ったと思っても遅かった。
     マツバは仕事が多い。街の看板とも言える、挑戦者の壁となりジムをまとめるジムリーダー。千里眼ではるか遠くを見据える修験者、その修業。三体の使いと金の鳥ポケモンと、それらを拝する塔の守り手。今日の話はその塔の守人としての仕事であった。講談、講話、よくあるものだ。伝説のポケモンを大切にする街らしく、それらについて話してくれという依頼はマツバのライフワークに程近い。
     動画配信サイトでのライブ中継も入る、それなりに賑わう仕事になるとは予想された。ただその仕事相手が問題だった。
     ヤミカラスの声がひやりと夜の風を連れてきた頃、立ち呆けていたミナキの懐で着信音がくぐもった。
    『もしもし、ミナキくん?』
     やわらかく伺う声音に眉を下げそうになったが、自分でも驚くくらい硬い声でミナキは返す。
    「君あの仕事受けるつもりか」
    『仕方がないよ』
    「メインパーソナルのあいつは伝承も伝説のポケモンも客寄せにしか使わない、そう怒っていたのは君だったじゃないか」
     世間でこそ今は華やかな注目を浴びてはいるが、メディアに出ているのを目にするたびマツバが眉をひそめているのを知っていた。撮影禁止と説明してあった焼けた塔の裏の敷地内にカメラが入っていたのだ。自宅を盗撮されたようなものをテレビではじめて知ったマツバの心情は推察できた。なにより、観光客を煽るのは勝手だが、立入禁止である旨を説明するのはこちらなのだ。その不満を受けるのも。
     あいつなんて言っちゃいけないよ、とマツバはやんわり諌めたが、遠まわしにもっとあしざまな言いようをしていたのを聞いていたので説得力に欠けていた。
    「君の伝えていることはもっと素晴らしいんだ、納得いかない仕事なんてしなくてもいいじゃないか」
     さっき言ったの、私は本気だぜ。と、引ける気を引き締めて小声で付け足す。
    『……僕はミナキくんが言うほど立派な人物ではないよ』
     電子に変換された音声は平坦で、いつものようなマツバの声のゆらりとやさしい響きを拾えない。
     ごめん、また、と手短に通話は切れた。
     マツバには、そんな仕事は蹴ってほしい。ミナキの意思は変わらない。友情を犠牲にしてもいい、そう啖呵を切りはしたが、もしその脅しに何の効果もなかったら?
     自分を人質にして、売るような真似をして対価を得ようとしていたのはミナキの方だった。マツバにとっての価値も知らずに。自分との友情なんて、マツバの背負う役目と比べたら取るに足りないものかもしれない。これでも付き合いは長かった。世話をされることの方が多いが、マツバは面倒なときは顔にも声にもそれが出ていて、ミナキはそれを聞きながら世話されるのを好いていた。一週間泊めてくれ、なんて急に言って大変なお小言をもらいながら布団を引っ張り出してもらうのも、ミナキが申し訳なく縮こまっていると遠慮がちに手に触れて暖かい方へ寄せてくれるのも、交わしたまなざしが時々は触れたり体温が分かる距離になったりするのも好きだった。たとえ友情を賭して仮に負けたとしても、マツバとの間には他にも何か残るのではないかとうぬぼれた打算も恥ずかしくなってきた。賭けの釣り合いは、きっととれていなかった。
     背筋を這う焦りに、美しい藤色の裾を蹴るようにしてミナキはエンジュから逃げ去った。

     目立つ白いマントが街から遠く離れた頃、エンジュのジムは灯りを落とす。今日の仕事を終えたジムリーダーが、先刻ミナキが踏んだ裏道を通り家路へと就く。足取りは緩い。ミナキと違って、急ぐ理由はなにもない。帰宅という移動時間はマツバにとって役目と役目の間をつなぐ空白のようなものだった。
     通話を最後に何度も眺めてはしまい込んだギアを片手に上の空でマツバは歩く。目を閉じていても帰れる道だ。危なければゲンガーが教えてくれるだろう。これでも千里眼だなんて囃されている。
     まっすぐ据えられたミナキの言葉がマツバには眩しかった。きれいなポケモンばかり見ている、よく光る緑色の目はいつだってマツバのことを信じていた。もちろん今日も。あのまなざしを受けると、まるで自分がきれいなものになった気がする。
    「あんなに悲しそうに、友だちをやめると言われても」
     脅しになんてならないよ、とふわつく歩調にひとりごち、見ていなかった電柱に顔をしたたかに打ちつけた。とっさに影にいたはずのゲンガーを顧みるも、付き合っていられないとばかりにそっぽを向かれて感傷的な呟きをやや恥じる。聞いてくれた上でほどほどに突き放してくれる相棒に見守られ、マツバは赤くなった額を抑えて家に帰った。


     ◆


     さてここはマツバの家である。件の言い合いから数日経ったごく穏やかな昼下がり。
    「……マツバ? いないか? いないよな」
     留守を見計らったのは自分であるのに怖々とその戸口を覗くものがある。きょろきょろと見回すと特徴的な亜麻色の前髪が左右に揺れた。ミナキはひとつ呼吸を正し、居住まいを整え家主を待とうと背筋を伸ばす。先日からの気まずさにいきなり対面するのは踏ん切りがつかず、なら遠くから帰宅の見える位置で待ち構えてしまおうという算段であった。時の流れに比例して会いづらさは募るばかりだが、件の仕事はやはり止めたい。言うだけ言って発ってしまおう。小狡いことはわかっていたのでミナキの視線は落ち着かない。
     さまよう視線がふととまり、庭に続く木戸がひらいているのが目に入る。古い家ゆえの不用心さはミナキがマツバに注意する数少ない点であった。これは庭に面した縁側まであいているのではないかと気になって、よせばいいのにミナキの足はその境目を越えてしまった。
     世話された苔と適当に生えた下草を慎重に踏み分けて、踏み石に靴を脱ぐ。案の定、濡れ縁の窓ガラスに手をかけるといとも簡単にあいてしまった。
     律儀にお邪魔しますと唱えて上がり、やはり在宅だっただろうかと居間や勝手口を見て回る。上がりこんだのを咎められるならそれでもよかった。いつものように叱ってくれるなら会話の糸口にもなるだろう。いつも通り、叱ってくれればの話だが。
    民家に寄りつく野生ポケモンだったら捕まえちゃってたよ、とわざとらしくボールを構えて言われたのはごく最近のことだ。マツバでもふざけるのだなと感心したことと、ボール越しの顔がそんなときでも様になっていたことが記憶に新しい。叱ってもらえるくらい、まだ友だちだろうか。かすめた弱気を揶揄うように、背後の障子に人影が差す。すいと通り過ぎる影は速くも遅くもないのだが、なぜか目の端にちらつくだけではっきり追うことができない。
    「マツバ?」
     君か、勝手に上がって怒っているのか、と口にしてみたが返事はなかった。かわりに、ととと、と足音がする。ぱんと開いた障子の向こうにも、次の部屋にもその次にもマツバどころか誰の姿もなく、ただ人影は角を曲がるたび現れては消える。ミナキがうろうろと移動した室内側でも廊下側でも間違いなく映るが、どうしても追いつけない。確かに仕切りと死角の多い家ではある。足音は、先よりゆっくりになったようだった。
    「ゲンガーか? ムウマージ? それともヨノワールか?」
     陰や隅を好むこの家のゴーストポケモンたちを誰何してみたが、彼ら特有のくすくすと底から響く笑声のひとつもない。いたずら好きのゲンガーたちに驚かされたことは数あれど、堪え性のない彼らがこんなに長くもったいぶるとは思えなかった。そもそも、彼らは足音を立てない。
     逃げるようだった影は、いつしかミナキの目の前にいた。薄い障子紙をいちまい隔てた廊下側に、シルエットだけでしんと佇んでいる。
     ポケモンでないなら人だろう。ふわりとしたくせ毛のてっぺんが、グラデーションを描く影の先で揺れたように見えた気がした。なんだ、やはりマツバなのではないか。妙に安心した心持ちで、ミナキは自然と口の端を緩める。障子の向こうもふっと笑んだ気配がして、その手がこちらに伸ばされた。障子戸の格子にやたらくっきりとした手の形の影がかかる。向こう側の庭の明るさのせいか、こころなし大きくなった人影がミナキへと寄る。人差し指から順に、こつ、こつと桟を測るような手つきがぐいと力を込め──
     しかしてその戸は開かなかった。先ほどミナキが開けて閉めたところであった。建付けが悪いはずもない。ひどく慌てた様子で桟をゆすぶっているのだが、物ががたつく音はしなかった。足を踏む音だけが、たん、たん、と焦燥をもって鳴っている。ミナキがぽかんと呆けている間もずっと開けようとしていたが、しびれを切らし影はじり、と後退る。途端に影が薄くなる。足音が、慌しく駆け離れゆく。それらはほんの短い時間で、庭の草をかさりと鳴らすと唐突な水音を最後にふっつり消えた。
     たいそう大きな水音だった。大人の男をひとり水面に沈めたくらいの。庭の端にひっそりとあった池の存在が脳裏に浮かぶ。
     えっ、とミナキは小さく叫んだ。マツバの名を呼ぶ。障子紙を破らんばかりの勢いで開け放ち、靴下のまま庭へと転がり出たがそこに人の姿はまるでなかった。
     この先か? と背の低い木の茂ったあたりへ頭から突っ込むと、紫色の毛の塊が飛び出してきてそれきり何もわからなくなった。

    「驚いたよ」
     僕が帰ってきたら庭にミナキくんが倒れているんだもの、と年代物の救急箱を片づけながらマツバがゆったり話しかける。半分に折った座布団を枕に、畳にしおらしく寝かされているミナキは粛々とそれを聞いていた。
    「庭の隅っこにコンパンが巣を作っちゃったから気を付けてねって言ったばかりなのに」
    「コンパンは……自然公園の個体が流れてきたのか、おそらくつがいのための営巣だから次の雨季までには自然といなくなる……」
     解説ありがとう、寝てて。とマツバに遮られ、ミナキの講義はそこまでになった。まだ浴びたしびれごなが身体に残っていたのでどのみちそれ以上喋れなかった。かけてもらったブランケットをたどたどしく引き寄せる。
     それにしても、とマツバが話題をめぐらせる。
    「その影ほんとうに僕だった?」
    「コンパンの動きではないしゲンガーの悪ふざけだろうか、でも池に落ちたんだ」
    「あれは足が濡れる程度の浅さだし、今日はみんな大人しいよ」
    「じゃあ私の夢かもな」
    「寝ぼけて危ない目に遭うのやめなよ」
     マツバは障子へ目をやった。夕暮れも過ぎ暗さを分ける電球色の室内で、映るのは自分とミナキの影だけである。
     ひとつだけ、聞いておきたいんだけど、とマツバがらしくもなく声を潜めてぽつ、と訊ねた。
    「障子の向こうのそれ、指で穴をあけて覗いてみたりしていないよね?」
    「そうしたら張り替えは私の仕事だっただろうな」
     仰々しくおどけて見せたが、そう、とマツバの返事は気のない軽さであった。なら良かった、と口の中で呟くような声がしたが、ミナキは眼前に広げられたマツバの手のひらに気を取られてよく聞いてはいなかった。わずかに伸びた爪が光を通し、指先に乳白色の三日月が五つ揃って乗っている。
     もうすこし休んでいきなよとうながす声と、不思議なほど暗がりを落とすその手に誘われ緑の瞳は再び閉じた。ミナキはしばしの闇の中。それを確認してマツバは紫色の目の奥に、じっ、と力を籠める。
    見やる戸に映った影がわずかにぶれた。そのまま睨んでやると震えは徐々に収まって、後には何かが逃げ去った後の単なる影絵があるだけだった。ふうやれやれ、と息をつく。見ていないならば大丈夫だろうが、この家でおかしなものに絡まれるなど彼は気でも弱っていたのだろうか。
     眠ってしまったかなと翳らせていた手をどける。まだ瞼は閉じられている。眼球のまるさを伝える薄い皮膚が震えたが、眼はあけない。
     鏡のように光る眼が、こちらを見てない間だけ。マツバは内心にそっと言い訳をしてミナキの顔を眺めていた。セットの崩れた前髪が、いくつかの筋になってきれいな額にかかっている。目尻と鼻先にはしびれごなをこすったときの赤みが残る。顔色も庭に落ちていたときよりずっと良くなっているが、緩まない眉根から眠ってはいないのが読み取れた。
    なので、なあ、と話しかけられても驚きはしなかった。驚いたわけではないが、すこし遅れて、なあにと返す。
    「私は別に、君の仕事ややるべきことや、人生に口を出す資格などない」
    「資格制ではないと思うけれど」
    「友人である資格だってわからない、私が一方的に君に厄介になっているばかりでこんなに迷惑な男だろう?」
     それはそう、とうなずきかけたが、必死に続きの言葉を絞り出そうとしているらしいミナキの様子に返事の言葉を少し留める。
     でも、や、ええとな、をたっぷり繰り返して言い淀み、ううんと唸って体を起こす。まぶしげに開いた目が畳から順に正座しているマツバのことを辿っていった。すがめた緑の視線が合うと、見開いた紫の垂れ目とどこか似た形であるように思えた。
    「その、なんだ、私は君のことを、尊敬しているんだ」
     はっきりと動く薄い唇のかすかな荒れを、マツバはそれが嚙み締められていたときのことを思い出して眺めていた。マツバが少し気が重いとこぼした程度の仕事について、必死にマツバのことを守ろうと止めてきたときのことだった。
    「だから」
    「もういいよ」
     言い訳めいた告白を、マツバの声がすっぱり切った。虚をつかれたミナキがやや不安な瞳で見返すと、紫の目の目尻がうっすら紅く染まっているのが見て取れた。色の白い皮膚が伝える血色はじわじわと色を深くする。伝えたかった内容は不足なく伝わったらしいとミナキは理解し、マツバの声のしっとりとした揺らぎに耳を任せる。
     僕の方こそね、と続けるマツバは染まった目元を軽く伏せる。手を広げヘアバンドをずり上げる癖はバトル中に視線を読ませなくするためのものだったが、ただ今は面はゆい顔を隠すことにも使っていた。
    「僕こそミナキくんの役に立ちたいな。尊敬にあたうかまではわからないけど」
     尊敬の価値を、仕事の多いマツバはおそらく知っている。立場で得られるものではないと、何を賭しても得難いものだと。それが遠い雲の上の人のことではなく、すぐそばで触れて引き止めてくれるような相手からのものであればなおさらだと。室内で、マフラーがなかったのでマツバは口元を隠せなかった。かわりにふっと力を抜く。
    「それに、あんなやつの講談でスイクンの話をされるのが嫌なんでしょう?」
    「……っいやそれだけでは、それも否めないが私は君を」
     唇同士が触れ合ったのでミナキの言葉はそこで途切れた。特段初めてのことではないが、こんなに衝動的だったことはなかったかもしれないなとお互いに思っていた。尊敬をふいにしてしまうかもしれないねと視線だけの問いに、そんなことはないだろうと瞑目が返ってきたので、ふふ、と小さく笑いが漏れた。
     抜けたはずのしびれごなの味がかすかに舌を焼いていた。

     後日の件の講演に、マツバはきちんと出演した。普段の黒セーターの装いから〝塔の管理者〟らしい和服の正装に替え、親しみやすいやわらかさを隠し全力のオーラを振りまき登壇した。
     固唾をのんで配信を見ていたミナキはそのわかりやすい威嚇ぶりにあっけにとられ、思わず声を上げて笑ってしまった。もとより澄まして黙っていればミステリアスな瞳の色も相まって、大層な雰囲気のある男なのだ。
     Wi―Fiを分け合うカプセルホテルの隣人から知らない言語での文句は頂戴したが、大変気分が良かったのでにこやかに謝る。イッシュ語が一部通じたので楽しいついでにスイクンのことを語り聞かせたら隣人は逃げてしまったが、マツバであればあと一時間は聞いてくれるのにと画面に戻る。
     まだマツバの講話は続いており、ちょうどスイクンに触れたところであった。メインパーソナリティに一切の口を挟ませず、美しい語り口でマツバの話が紡がれる。ミナキはそれを清流のように浴びながら、こんなに一方的に話していては相手が逃げるぜとイヤホンの音量を上げた。話は今水源の清浄作用の段に入り、何も映さぬほどの汚泥をスイクンがひと時の間に鏡の湖面に変えた逸話が語られた。配信のカメラ越しにどう考えても目があったような気がしたが、ミナキは自分の嬉しい勘違いだろうとさして気にせず瞼を伏せて聞き入った。何の心配も必要なかった。


     ◆



    さてこのあとの語りは藪の中の話である。



     マツバの家の庭の先、コンパンの巣よりずっと奥に連なるのは誰も通らぬ山道である。その葉陰を縫って駆けずる荒れた足音があった。それは姿を持っていなかった。この地のゴーストポケモンたちすら相手にしないようなその影が、逃げ惑うように山を駆け、ついには水に落ちたという。
     水際に一度ひざまずき、なにごとか叫び水面に闇を落としたのちに、吸われるように落ちたという。
     マツバの家からずっと監視していたゲンガーの紅い目には、ふわりと広がるマントのかたちと、亜麻色を返す特徴的な前髪のかたちが不定形にゆらめきながらも捉えられていた。かたちばかりで確かな色は持たなかった。
     では落ちたのは何であったか。影に映って逃げ去ったのは、マツバがわからぬまま追い払ってしまったものは。ゲンガーはそこで仕事は終いと打ち捨てたので、語れることはもはやない。ただ、水鏡に言った言葉は、ときにさかしまに水底から返ってくることもあるということだ。
     動く鏡なんて見るものじゃないよ、と山の麓の古民家で、仕事を終えたゲンガーとこたつを囲み修験者はひっそりとそう嘯いていた。
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