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    ミドリ

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    ミドリ

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    2019年7月28日発行
    マツミナWeb再録

    ミナキがマツバの友人だと騙るところから始まるふしぎな友だちのはなし。

    前半 ミドリ:小説
    後半 いくい:漫画→ https://poipiku.com/280712/8398373.html

    ※完売済
    お手に取ってくださってありがとうございました!

    マツミナWeb再録「友だち」 失礼、少し話をいいだろうか?
     私はミナキ。スイクンハンターをやっている。ここでスイクンの姿を見た、というのは君のこと、で……いや、待て、待ってくれ。けして怪しい者じゃない。
     そうだ、君はマツバのことを知っているか? エンジュシティのジムリーダーの。スイクンを見た人がいるとの噂を彼から聞いて。そうあのマツバだ。
     前から親しくしてくれていてね。何なら直接確認を取ってもらって構わない。ああでも今の時間じゃ忙しいかもしれないな。……ではすまないが、スイクンの話だけ。長い時間は取らせないから――

     話し終えるころにはかたくなだった相手の笑顔も引き出して、離れてもなおミナキはずっと手を振った。見えなくなるまで見送った。朗らかに保った笑顔をそのままに、ぽつりとひとり呟いた。
    「また、やってしまった……」
     ここに、嘘がひとつある。マツバから聞いたというのは方便だ。そもそも彼とは、友達ではない。

     ◆

     最初はとっさのことだった。
    まだ新品だったマントのすそをひるがえし、ミナキはそのときエンジュへと池を訪ねてやって来ていた。スイクンゆかりの名所と名高い場所である。すり切れるほど読み込んだ、『スイクンの清め池』の記事の内容そのままに、件の池は私有地の中だった。もちろん勝手に入ることなどできないが、木立の向こうに垣間見える、あの輝きがその池だろうか。
     もう少し、一目だけでも見えないか。境界線になっている、低い生垣が膝をかすめた。そろりと踏み出したその先で、目が合ったのは白い眉毛の老人だった。
    ――なんやそないおかしな格好で、誰に断ってわしの庭に入ってきた。
     植木ばさみが手元で鳴って、ミナキの靴が後ずさる。隠しもしない剣幕に、停止しかけた頭を回す。何でもいい、何か話をしなければ。言い逃れのできそうにない現行犯でも、不審な者ではないことを、納得させる方法は?
    ――ス、スイクンの池がある、と聞いてきて。
    ――ほお、そんなんどこで聞いたん。
    ――……マ、マツバが、このお庭の池が素晴らしいと、話していたので一目見たくて。
     エンジュシティの新しい顔、人望厚く街で知らない者はなく、ホウオウはじめジョウト界隈伝説譚への造詣も深い。老人が重い片眉を吊り上げた。
    ――なんやなんやマツバさんの! お友達ならはよ言いや。
     その名の効果は抜群だった。そんなら表からお入りと、にこにこ促されるまま、敷地へ足を踏み入れる。
     スイクンが清めたという池を擁する庭園を、主人に連れられ案内された。たっぷり二時間の自慢は聞いたが、池の水質サンプル採取も快諾されて、最後には、世話になっとるからマツバさんによろしゅうな、と肩をたたかれ解放された。
     読んだ雑誌の隅に載っていた、新任ジムリーダーの名を、マツバの名前を口にしたのはそれが初めてのことだった。
     友達どころか直接会ったこともない、知っているのは荒い画像の中だけだった。

    「すまないが、君はこのあたりの人だろうか?」
    聞きこみというのは侮れない。この世に存在するものならば、必ず誰かが目にしているのだ。今日もわずかな情報から、辿って着いたエンジュの端で道行く女性に声をかける。
    「水色の、大きなポケモンがいたというのを見たり聞いたりしてないか」
     人好きのするミナキの笑顔に返ってきたのは無視だった。長い髪をうっとうしげに左右に振って、足早に離れる背中を追いかける。
    「待ってくれ、話だけ」
    「ジュンサーさんを呼びますよ」
     門前払いに慣れてはいたが、警察沙汰になるほどのあまりの拒絶にミナキは怯んだ。嫌な汗が背を伝い、焦る頭だけ熱くなる。何を正直に言ったところでこれほど冷たい心の壁は、そうたやすくは溶けないだろう。
    「マツバ、の、」
     緊張に、口が乾いていくのを隠し、にっこり口角を持ち上げる。
    「マツバのことを知らないか? 私は怪しい者じゃない。彼からここらの噂を聞いて、ポケモン調査に来ただけなんだ」
     落ち着き払ってそう言うと、怪訝な視線は消えていた。あら、と口元を覆い、女性が気まずげに向き直る。
     申し訳なさそうに非礼を詫びてくれたのだが、そもそも責めることなどできなかった。何しろ騙しているのはミナキだった。害あることこそしていないが、いつ露呈したっておかしくない嘘までついて、私は何をしているのだろう。
     目撃証言をまとめるためにその日に寄った図書館で、備え付けのパソコンを立ち上げる。検索窓にスイクンではなく、マツバ、と入れて検索したのはその日が初めてのことだった。千里眼、と眉唾な候補をクリックする。
    「……なんだ、同い年じゃないか」

     良くないことと分かっていたが、マツバのことを調べるほどに親しい演技は真に迫った。マツバという名前は頼れるジョーカーのようだった。行き詰まり、まるで活路のない局面で、助けてくれるカードになった。幾度となくこれが最後と思いつつ、マツバの名前を仄めかすのを、やめるタイミングが掴めない。
     正攻法ではない手段でも、今は調査やハントの時間が惜しい。いくらあっても足りないほどに、追いかける水の獣は遠大で、ミナキは本気でその果てしない道のりを一人で埋めようとしているのだった。
     だとしても、ジョーカーは残しておけば最後には自分の首を絞めるもの。今抱えている焦燥感がスイクンまでの道の遠さによるものか、いまだ誰にも責められない嘘の重さによるものか、ミナキにももうよくわからなくなっていた。

     ◆

     エンジュの資料館にいた。ミナキの足は足音を吸う素材の床の一点で、ぴたりと立ち止まっていた。
     探していた、伝承資料がここにある。一歩進めば簡単に手に取れる棚に置いてある。ただその前に、立入禁止、の小さな札が静かに下がっているのであった。
     ふらりとミナキの手が伸びる。ためらいがちな重心が、資料に引き寄せられていく。当たりたい記述はほんのごく一部。すぐに戻すから少しだけ、と、申し訳程度のテープが示す立入禁止へ踏み出した。
     和綴りを白手袋が滑ってゆく。慎重に辿った古い崩し字が、ちりちりとした罪の意識を次第に忘れさせてゆく。夢中なところで珍しい記述に行き当たり、慌ててメモを、と鞄を探り、そこで、眉をひそめた資料館職員と目が合った。
     一般の方ですか、詰め寄る視線にミナキは反射で笑顔を返す。
    「挨拶もせずすまなかった、実はマツバにこちらの資料の話を聞いて」
     流れるように口をつく。名を使ったのはいったいこれで何度目だろうか。
    「マツバさんの? そう、ですか……」
     それなら一度、確認取らせてもらいます、とミナキを咎めた職員は、声こそやわらかなジョウトのイントネーションではあったが、目付きが和らぐことはない。
    「マツバさんのご友人なら、ご本人に連絡入れても何も問題ありませんよね?」
     そしてミナキは裏に通され、事務所に座っているのであった。
     若い職員が電話を手に持ち眉間にシワを寄せている。本当ですねと訝しむ空気に、もちろんさ、と取り繕って胸を張る。
     発信音が鳴り終わったらもうすぐに、私の嘘は露見する。続いてしまった騙りも最後になるだろう。
     厳重注意で済むならいいが、出禁くらいにはなるかもしれない。ひどく気まずい思いもするし、スイクンハントにも痛手だが、重い荷物をおろしたような一種の安堵も確かにあった。いずれ来るのが分かっていた日だ。
     雑然とした事務所の中で、ミナキはひとり、よそものだった。つてや頼りのない身を、馴染まないキャスター付きの椅子に深く預けて職員を見る。電話越しに何度も頭を下げている。
    「……え、マツバさん来はるんですか」
     電話口でトーンを上げたその声に、ミナキは耳を疑った。思わず椅子ごと向き直り、驚き顔と不思議そうな顔を見合わせる。
    「電話で話せば済むじゃないか!」
     ミナキという男のことなど知らないと、一言マツバに言われれば、それでおしまいのはずだった。
     来はるて言うんで、お待ちください、と、急に立ち上がったミナキを座らせ、職員も戸惑い首を捻っている。
     マツバがここにやってくる。騙りに使った本人が。
     急な焦りに手足が冷えた。熱さか寒さかわからぬ汗が、こめかみを伝い首へと流れて消えてゆく。そわそわと粟立ちはじめた背中を浮かし、落ち着かない速度で周囲を見回した。
     会いたくない。何のつもりで来るのだろうか、いったい何を言うのだろうか。わざわざ直に会いにに来る、その理由がわからなかった。逃げられないのは承知でも、ミナキの目は扉と窓とを行き来した。椅子から一歩も動けずに、時計の針だけ進んでゆく。換気扇のカバーを外してダクトから、まで現実逃避が進んだところで、ガチャリと扉の音がした。
     執行時間を聞いた心地で、引きつけられたミナキの視線が固まった。迎えに出ていた職員に、連れられマツバがそこにいた。
     はじめて会った。目が合った。画像の中のものだった紫の目がミナキのことを捉えていた。
     一秒ほども射すくめられていたのだろうか。永遠みたいな無言の中で、マツバの瞳が細くなる。ごくやわらかな、笑みだった。
    「……ミナキくん」
     まるで気安い笑顔のようで、自然な仕草で距離がつまる。近付いた色の薄い眉毛が下がり、困ったような形になった。
    「先に言っておいてくれれば良かったのに」
     すみません彼すぐ行動しちゃうタイプで、いつも事前に教えてと言っているんですけどと、愛想よく職員に説明しているその声は、想像よりも、低く落ち着いたものだった。
    「見たいものがあったみたいで、もしできたら少しだけ閲覧させてやってもらえませんか」
     あっけにとられたミナキを示すマツバの様子は、悪びれもせずなごやかだった。職員の表情も硬さがだいぶ和らいで、まぁマツバさんがそう言うなら、と雑談混じりに古い資料を運んでくる。
    「いや、いたずらなのか本の場所が入れ替わってることが多くて、整理がてら一時移してるところだったんで」
     気まずい会釈と資料をミナキが受け取ると、マツバが近づき背中をかがめて囁いた。
    「どのくらいで終わる?」
     子供の内緒話めいた無邪気さで、一層真意が掴めない。ミナキは不思議と震える喉で、ひとつ唾を飲み込んだ。

    「もう終わったの?」
     白い靴が踏み石を鳴らし、出てきたミナキの死角から、やんわりとした声がかかった。帰ってしまっただろうかと、淡い期待を抱いていたが、観念して資料のコピーで重たい腕をぎゅっと縮めて振り返る。
    「あ、ああ、その、ありがとう。助けてもらった」
    「いいよお礼なんて、友達なんだから」
     見ず知らずなのに、と続けようとしたミナキを遮るマツバの笑みには含みがない。
    「またね、ミナキくん」
     金髪を初夏の湿った風に吹かせ、さっさと帰っていってしまった。
     穏やかな夕暮れの放送にも、念願の調査材料に対しても、ミナキは上の空だった。
     あれは、咎められたのだろうか。婉曲な注意だったのか。耳に残った声色からは、どうもそうとは思えなかった。確かめようにも、ミナキの友達を名乗った男の姿はもうどこにも見えはしなかった。

     ◆

     ウェブでヒットした情報をもとに、ミナキはエンジュ北西の竹林を目指していた。案の定、遊歩道には観光客があふれていたが、目撃情報によるところにはスイクンが現れたのは、もっと奥の方である。
     照りつけ始めた日差しの中で、シャツの襟をボタンひとつ緩め、ミナキは私有地を示す境に立っていた。人の気配は遠くなり、竹の葉が揺れる音だけ際立っている。
     異世界めいて背の高いこの竹林のその先に、スイクンが目撃された水辺があるはずだ。ちらりとでも拝めないか、うっかりを装って踏み入れてしまってはいけないだろうか。
     二の足を踏む。持ち主に断りを入れるべきなのはもちろんミナキもわかっていたが、どう説得したものか。
    ――ごめんください、こちらの竹林の話を、マツバという男から、……――
     そこまで考えたところで、先日会った当人の顔が浮かんでミナキは想定をやめた。紙面で見ていた印象よりも、いくぶん崩した笑い方がまだ目の奥に焼き付いている。マツバ本人に騙りが知られているというのに、これ以上嘘を重ねる気にはならなかった。どうにかマツバの名前を出さず、研究目的と理解して見学させてもらえないか。交渉せんと腕を組んで悩むミナキに声がかかった。
    「おや、もしや……」
    「あ、怪しいものではない!」
     弾かれたように振り向くと、歩み近寄る羽織の紳士。ネットで調べたここ一帯の土地の主人の顔だった。
    「ミナキさんじゃありませんか?」
     不審のかけらも載ってない、期待の目線に面食らう。名乗ってもいない段階での、この声掛けは予想外だ。構えてなかったミナキの首肯はいささか稚気なものになったが、主人は満足そうに頷いた。お話はマツバさんから伺ってますからどうぞどうぞと招かれて、境を踏み越え竹林の奥へ分け入った。物腰低い主人の解説付きである。若干唖然としながら水辺の調査を進めつつ、聞けば、僕の古い友人が、熱心にスイクンのことを調べているから、来たらよろしくと頼まれたのだと笑っていた。
    「マツバさんのご友人ですからね」
     丁寧な案内に礼を述べると、主人はそういって名刺まで渡してくれた。
     見送られ、人の増えた遊歩道を戻りつつ、ミナキはずっと考えていた。
     私とマツバは友人ではない。それは私の嘘である。顔を合わせたのも一度きり。友好的な出会いの場でもなかっただろう。
     何故? 偶然でも人違いでもなく友達ですらもないというのに、竹林の主人にミナキのことを言い含めておく理由がない。今日竹林を訪ねることも、まるで分っていたようだ。以前に読んだ『おみとおし の 千里眼』という記事タイトルがふとよぎる。
    「……まさかな」
     ごく小さく呟いて、その足は自然と街の中心地、エンジュジムへと向かっていった。

     ◆

     景観に合わせた低い構造のジムを見上げ、ミナキの足が立ち止まる。千里眼のご本人がここにいるのは知っている。引け目もあって今まで寄り付かなかったが、近くで見ると案外大きい。
     来たのは良いが、何と言えばいいのだろう。
    『何のつもりだ?』――どの面下げて?
    『余計なことを』――まさか。
    『ありがとう助かった』――しかし何故?
     何しろ友達ではないのだ。面識があるという表現すら怪しまれる。ジムの前まで来たもののミナキは及び腰になる。話す以前にマツバを呼び出せるはずもない。のろのろとした足取りで、一般見学者用と書かれた二階の観覧席へと昇っていった。
     手すりの端に肘をつき広い中央フィールドを見やる。人もまばらで、今はバトルもしていない。
     それでもマツバの姿は見つかった。季節も問わずマフラーを垂らし、数台のカメラに囲まれ立っていた。黄色い腕章のスタッフが、忙しそうに周りで立ち働いている。撮られながらもマツバはレポーターに答えているのか、PRでもしているようにジムをぐるりと指し示す。
     マツバの顔がこちらに向いた。遠いし見えるはずないと、ミナキはわかっていはしたが、とっさに視線をそらしてしまった。
     振り返れば、観覧席の柱には、大きなポスターが貼ってあった。
     ライティングされたエンジュの広い街道と、会おうと思って来たはずの男の姿があまりに綺麗に写っていた。
     慣れた様子で取材を受ける眼下のマツバに背を向けて、ミナキはそのままジムを出た。場違いだ。どう考えても遠すぎる。名前をちらりと出すだけで、街の誰もがあぁ、あの、と顔をほころばせるのだ。不審の目を消す人望を、ミナキはただ借りていた。それだけの関係でしかない。

     ミナキの活動に変化があったのは、それからすぐのことだった。
     順調なのである。これまでになく。
     個人所有の資料や古書の請求もすぐ通り、単なる聞き込み中にも相手から、もしやあなたがマツバさんの、と先に聞かれることがちらほらと。否定するのもおかしいので、ああ、まあ、と濁すが、相手の警戒は格段に解けた。
     手ごたえがある。まだ遠くとも、憧れの化身のような水の獣へ、伸ばした指が少しづつでも進んでいる。スムーズに手にできた貴重書のコピーをまとめ終え、達成感からミナキは大きく息をつく。
     この土地で、ミナキは漂流者であった。後ろ盾もない中で、必死に言葉を尽くしてきた。時には誤魔化すようなことまで言って交渉しても人の心はそうたやすくは開かなかった。それらの扉が、ここしばらくで緩んだようだ。わずかでも確かな足場を得た感触がある。目に見えて、やりやすくなった。
     それらが全て、マツバとはじめて接触した、あのとき以来だということをミナキも意識せざるを得なかった。

     ◆

     焼けた塔を訪れる。歴史の香るすすけた風に白いマントをはためかせ、幾度となく足を運んだ場所である。もちろん一般公開区域までのことである。
     正面の外観くらいしか調査がかなっていないので、どうにかもっと見えないか、あわよくば裏側などを窺えないかと今日とて観察に来たのである。
     古びた柵と、ずっしりとした鎖によって区切られた公開ラインから身を乗り出し、覗き込むミナキの肩を掴む手がある。
    「危ないよ」
     ゆったりとした語調の注意に引き戻されて振り向くと、そこにマツバが立っていた。これは怒られる事案かと、思わずミナキは身構えた。
    「塔の裏が見たいの? いいよ、ちょっと待っていて」
     友達のような気安さで、ぱっとどこかへ行ってしまった。
     咎められもしなかった。ミナキがぽかんとしているうちに、金髪をふわふわさせてマツバはすぐに戻ってきた。手には、物々しい鍵束がある。ポスターや、ジムではしていたマフラーがない。マフラー、と、尋ねるでもなく呟くと、え? 休みだしあんなの暑いよ、と嫌そうな返事が返ってきた。
     灰色に重くくすんだ戸を押し開けてミナキを招く。ついて入ればそこは敷地の内側だ。塔を隠すように取り囲む深い森の濃い緑に、東側だけ時季外れの赤い紅葉が広がっている。未知の地面がミナキを誘う。
     なんでそこまでするのかと、疑問が脳裏をよぎったが、目の前の光景にすぐに霧散してしまった。
     焼け崩れた内部を覗かせ、黒く炭化した建材に、時間だけが降り積もっている。むき出しになった骨組みは、無数の伝説を直に見てきたはずである。崩れかけた瓦の装飾は、もとは何を象っていたのだろう。マツバのほうを見もせずに、写真は、と細く震える声でぽつりと漏らす。構わないよと聞こえてから、何枚撮ったかわからなかった。
     人の手はほとんど入っていない。焼け落ちた木材と生きた木々の香りが密だった。つやつやとした草が、ところどころでひざ下近くまで伸びて光を受けている。
     この塔の奥深くに、スイクンの生まれた場所が眠っている。
     歴史的にも水辺以外での目撃情報はこの塔に近付くほどに多くなる。エンテイ、ライコウもしかりである。三体ともにこの近辺へ頻繁に訪れていると見て良いだろう。三体の神獣の、ホウオウとの繋がりの場所である。かれらにとっても特別な場所になるのだろう、それはもちろんスイクンも。神聖な空気にミナキは肌がぴりぴりした。素晴らしかった。細部まで漏らすまいと、時間を忘れ目を皿にして眺め回して、不意に地面の一点に吸い寄せられた。足跡だった。大型である。
    「まさか……!」
     声に出ていることにミナキは気づいていなかった。細心の注意を払って跪く。セットされた茶色の頭が急にしゃがみこんだのを見て、マツバもそっと近寄った。真剣な緑の目が、地面と手元のノートとを忙しく行き来している。
    「ん……違うか、スイクンの足跡ではないな」
    「わかるの?」
    「ああ、スイクンであればもっと幅がせまい。歩き方も前脚と後脚が重なるようになるはずで……」
     いつしかマツバが近くにいたのに、話す途中で気が付いてミナキは少したじろいだ。書き込みだらけの、ポケモンの足跡から見る生態と判別法を独自にまとめたノートを閉じる。ぱたりと紙のやわらかい音を、マツバの視線が追っていた。妙に気づまりで立ち上がると、紫の目がじっとミナキを見上げていた。
    「すごいね、ミナキくん」
     夕刻の斜めの陽が紫色の瞳にさして、ひときわ深く光に濡れる。垂れた目元も端正に、まっすぐ投げかけられた称賛に応え損ねて目をそらす。落ち着かない視線が泳ぎ、手元の時計が視界に入る。時間を見れば戸をくぐってから、ゆうに二時間が経っていた。びっしり文字の増えたレポート用紙と、今日の写真で埋まった端末の画像欄がその証人になっていた。
    「すまない! 長い時間待たせた……」
    「もういいの? そうだね、お腹空いたしどこか行こう」
     鍵束をじゃらりと鳴らし、重そうな錠を再びかけた。軽い足取りで歩いてゆく背中をぼんやり眺めていると、マツバが斜めに振り向いて、どういうわけか佇んでいる。立ち止まった金髪は自分を待っているのだと、ミナキは気づき慌てて追った。

     黒蜜と粒餡が織りなす暗いコントラストに、四角い求肥がおもちゃのようにピンクと緑で散らばっていた。バニラアイスの白色を朱塗りの匙が薄く削る。立派な老舗のあんみつである。
     向かいで熱心にアイスを削るマツバに、ミナキはようやく口を開いた。
    「この間はどうして」
     資料館で、友達だと話を合わせてくれた理由がわからない、と、ずっとつかえていた疑問を投げる。甘い豆を噛んでいたマツバは資料館、と呟いて、そういえばね、と身を乗り出す。
    「僕の実家にああいう古い資料がたくさんあるけど見に来ない? 分類もできてないからどこにも出していないんだ」
     焼ける前の塔のことが書いてあるのとか、スイクンもいる古い絵図とか、と、続く言葉にミナキは疑問を忘れ去った。行く! という答えに笑い混じりで座りなよ、と促される。思わず立ち上がっていた腰を落ち着け、それじゃあ次のお休みに、と約束をして別れてしまった。ミナキの手元には急に増えた資料と、結局解けなかった疑問が残ったままだった。

     ◆

     古めかしい玄関に、インターホンだけ取って付けたように真新しい。ボタンに触れ、押し込む寸前、白い手袋の指先はさすがに少し躊躇した。堂々とした由緒正しいマツバの実家に、確かにミナキは場違いだった。
     中途半端に止めた手に何かの影がふとかかる。見る間に影は広がって、大きな黒い爪の形が現れた。
     驚き見開く眼前に、三角形に吊り上がる、大きな一対の目があった。その目のくろいまなざしに視線を外せず喉が鳴る。影の触った手が冷たい。もしや、今までの報いをここで受けるのか? 静かなパニックはほんの短い時間で終わった。
    「ゴースト」
     のんびりとした男の声が奥からかかると、端まで裂けた口がにぃっと笑って静かに消えた。
    「ミナキくんもう仲良くなったの?」
     いらっしゃい、と出迎えたマツバに案内されるまま、廊下を踏んで奥へ奥へと屋敷を進む。途方に暮れるほど広いと思ったが、中は案外生活感のある家だった。人心地つき、なんだか知らないが楽しげにしているマツバに向かって恨みがましい視線を向ける。
    「びっくりして声が出なかった」
    「そう? じゃあ気に入られたのかな」
     笑って流す様子に反論しようとして、開けてもらった襖の向こうにミナキの目は釘付けになる。山と積まれた古書資料にふらふらと、言い返す言葉も忘れて近寄った。書斎に吸い込まれていく姿にマツバが何か声をかけたが、もはや聞こえていなかった。

     ギシリと凝り固まった不快感に、首を回すとぽきぽき盛大な音が鳴った。驚いて、年代物の掛け時計に目をやると、ミナキが案内を受けてから三時間近くが過ぎていた。
     気付いて今更痛み出す目をきつく閉じ瞬かせると、視界の端に黒い影。先ほど会ったゴーストが、借り物の資料を抜き取りふらふら漂っている。声を上げ、そちらを向くと消えてしまい、また視野の隅に現れる。なるほどそういうことか、と、ミナキは一度知らんぷりした。そっぽを向いたまま、さりげなく手を伸ばし、
    「よし、捕まえたぜ!」
    「ミナキくん終わったの?」
     資料をつかんで取り返したのと、襖を開いてマツバが覗いてきたのは同時だった。ゴーストは姿を消して逃げ出した。

     磨き込まれた木目の卓は一枚板と分かるつくりで、ミナキはきまり悪さから、目の前の茶菓子を取っていじっていた。
    「あの子、古い紙とか好きみたいで」
     邪魔してごめんね、とマツバが冷茶を供しながら謝った。
    「郷土資料館で本の場所が入れ替えられてるいたずらがあってさ、気になって調べてみたらそこに住み着いてたこの子が動かしちゃってたんだ」
    「君のゴーストじゃないのか」
    「半野生だよ、僕が預かっているだけ」
    「やっかいごとに慣れてるんだな」
     ふふ、まあねと小さく笑い、マツバも菓子を取ったので、ミナキも手元の包みを広げる。
     風流な竹林の意匠が施された薄い包みをひっくり返し、ふと思い出して手を止める。
    「そういえば、どうして私が竹林へ行くのが先に分かっていたんだ?」
     当のマツバは何それと、まったくもって要領を得ないという顔をしているので、躍起になって説明する。事前に口添えしておいてくれただろう、あの竹林の主人へと。
    「ああ、ミナキくんよく噂になってるし、話のついでと」
     あと視えたから、と、菓子とミナキの説明をゆっくり飲み込み、こともなげにマツバが返す。
    「みえた、とは」
    「千里眼だよ」
     まさか本当だったのか? と、疑うような声が出て、ミナキは慌てて口をおさえる。
     あはは! と、屈託のない呵々大笑が返事だった。マツバは笑いを含みつつ、そうだよね、と息を整え菓子の二個目を手に取った。
    「信じてなかった? それなら、そうだな、スイクンを視てあげようか」
     半信半疑のミナキを残し、冷茶をあおって席を立つ。件のゴーストがいつの間にやら戻ってきて、ミナキのノートに興味を示す。いなしたり、戯れていたわずかな時間でマツバはひょいと戻ってきた。
    「視えたよ。調子よかったから、間違いないと思う」
     地図を貸してと催促されて、端の傷み始めたそれに言われるままに書き込みを増やす。まだ信じられない気持ちで眺める地図に、この短時間で見慣れた黒い手がかかる。こら、と地図を引っ込めるとゴーストは面白そうにミナキのマントをめくり始めた。
     マツバがしばし考えて、
    「ミナキくんその子連れていく? 僕の家でもいいけれど、同種の中だと気を張ってしまうみたいでさ」
     じゃあ気を付けてね、と手を振って、ゴーストごと見送られた。キュウコンにでもつままれた心地でミナキはマツバの家を後にした。もし本当なら重大な手掛かりと、よくわからない道連ればかりが増えていて、結局疑問はひとつも減りはしなかった。

     ◆

    「――マツバ!」
     以前の逡巡が嘘のように、マツバが玄関を開けるか開けないかのところで、飛び込んでゆく特徴的な男がいた。マントの襟がめくれていて、走ってきたことを物語っていた。
    「居たんだ、君の言ったとおりのところにスイクンが現れた! すごい、本当にすごいぜ!」
     薄紫のタキシードが大きく手ぶりを表して、興奮冷めやらぬミナキの話は洪水のように止まらない。
    「良かったねぇ、スイクンに会えて」
    「スイクンもだがすごいのは君だぜ?」
     ぱちぱち瞬きをするマツバに構わずミナキの話は続いていった。出現場所と伝承の個人的な考察にまで及んだところではっと気付いて口を噤む。
    「すまない、私ばかり一方的に喋っていた」
    「いいよ、ミナキくんの話が聞けて面白いし」
     役に立ったなら良かった、と嬉しそうにする顔を前に、妙にそわそわと落ち着かない気持ちがミナキの心に湧いていた。どうやら緊張ばかりのせいではないようだった。
     ミナキが騒いで来たせいか、マツバの母が様子を見に来た。まのびした声で、友達、と母親に伝えるマツバに落ち着かなさはやや増した。ミナキの言った友人と、マツバの言った友人が、不思議と符合しているが、この関係は何なのだろう。

     また視えたら教えるからおいでよ、という言葉を額面通りに受け取って、ミナキは定期的にマツバの家へ通っている。我ながら、少し図々しいのでは、と思わないでもなかったが、ゴーストの様子を見せる名目もある。意外とできたポケモンで、ミナキが散らかしたノートを集めて仕舞うのが上手になったと報告すると、手持ちに世話焼かせて、と呆れられた。マツバのほうがよほど私の世話を焼いているのではと思ったが、口に出すのはやめておいた。
     マツバの世話になる人は多いようだ。ある日マツバを訪ねていくと、身なりのいい先客がちょうど帰るところであった。すれ違っただけだったが、しきりに振り返っていた。
     ミナキの横でそれを見送っていたマツバの顔は少しだけ、知らない男のようだった。
    「千里眼の依頼だよ。でも、いくら謝礼を積まれても、一見さんはお断りしてるんだけどね」
     内容にもよるけど易々とはね、と言うまろい目元に、優しさだけでない意思がにじんでいるのが見える気がした。しばらく見呆けていたが、ミナキははた、と思い当たる。
    「その、相場というのが分からないのだが、私も何か支払った方が良いのだろうか」
    「ええ? ミナキくんからお金なんて取らないよ」
     行き倒れるよ、と茶化すマツバはもういつも通りの調子であったが、ミナキは深刻な面持ちを崩せない。手元に残り続けた疑問がふつ、と湧いて蘇る。
    「どうして私にそこまで良くしてくれるんだ?」
     友達でもないのに、とはうまく言葉にできなかった。友達、と、周囲に向けてお互い言って、本当のところは当人である私にもわからない。マツバの表情、雰囲気からもどういう心算かいつまでたっても読み取れない。無条件で差し出される特権は、さすがに少し怖かった。かすかに柔和な弧を描いている口元が、何かを言おうと小さくきざす。不思議な緊張感がミナキの背中をくすぐった。
    「……どうしてだと思う?」
     まつ毛を伏せて思案していた千里を見通す紫の目が、ミナキのことをぴたりと捉えた。射貫く瞳が次第に大きく見えてくる。さり、と畳のこすれる音がする。よろめいて、自然と足が後ずさる。引いた分だけ近づいた、マツバの指が見えない糸で吊り下げられているかのように、すうとミナキへ差し向けられる。音のない速度で距離が減ってゆく。その指先が、今にも顎へと触れそうに――。
    「か、体が目当て、か……?」
     射る視線は瞬きをしてぷつりと途絶えた。まつ毛の影が見える距離で、私に、いかがわしいことをするつもりかと、と尻すぼみのミナキの声が消えてゆく。
     一拍置いて、堪え弾けたのはマツバの笑い声だった。うつむいた金色のつむじが震え、とうとう畳に伏して転げ回って笑っていた。おかしい、苦しい、やめてと、文句混じりに笑う声に、ミナキの顔にじわじわ熱が集まった。
    「はぁ、もう、かんにん、ミナキくんそんなのずるいよ面白いよ」
     いくら見てても飽きないよね、と、揺らめいていた指先が笑いにじんだ涙を拭う。赤い顔をしかめているミナキに気付き、そうだねぇ、と続けた。
    「強いて理由を挙げるとすれば、ちょっとそうしたかったから、かな」
     街の地位ある人への仲介も、史跡の特別見学も、道連れにゴーストを寄越したことも、畏敬にあたう千里眼の使用さえ、その気になったからだという。ミナキはやはり落ち着かない。都合がよすぎる、私にとって。実益があるだけでもない。まるで友人かのように真実親しくしてくれるのだ。
     とても納得できないと、さらに眉をしかめると、マツバは一層にこにことする。
    「まぁでも、ミナキくんが期待してるって言うのなら、」
     再度ふわりと近づいて、邪気のない仕草でついと胸元を、マツバの指がなぞっていった。薄手のシャツに体温が移って伝わり溶けていく。
     ――考えておくよ、という声は、耳の裏側から聞いた。
    「違う!」
    「ミナキくんが言ったんだよ?」
     耳をおさえたミナキから、けらけら笑ってマツバが逃げる。追いかけようにも追いつかないほど遠い男のつもりでいたが、思っていたよりしたたかに、人間らしいようだった。
     優しいわりにやや雑な、彼と私が何なのか、結局今でもはっきりしない。だとしても、もしも誰かにこの関係を説明するというのなら、おそらく何度もそう語ったのと変わらずに、友だち、と話すよりほかないのだろう。

                          終  
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