夏の日差しと不死川先生 高校三年生の夏、俺は見てはいけないものを見てしまった────
連日続く猛暑は三十度どころか三十五度を超えてくる。照り付ける太陽はジリジリと肌を焼き、昼日中の帰宅へのハードルをこれでもかと上げてくる。
「うげぇ…」
昇降口から足を一歩踏み出した途端にむわっとした空気にげんなりする。ため息をつく俺の肩を叩いたのは隣にいた友人で、その視線の先には水道。
ニヤリと笑った友人に俺は大きく頷いた。
「うっひょぉ〜」
「きっもちぃ〜最高だあぁ」
青空に輝く水飛沫。キラキラと輝くそれはまさに青春ってやつ。嫌気が差す程の暑さを忘れ、テンションが上がりすぎていたのがまずかった。
「あ、」
と思った時には、手からホースが離れていた。濡れていて手が滑ったのだ。空中に放り出されたホースは大蛇のように暴れ、空から雫が降ってくる。どうせ既に濡れていたから頭から水を被った所で問題は無い。寧ろそれが目当てで水遊びをしていたんだから。ただ、一つまずいことが起こった。視線で追いかけたホースの先に、ここに居てはいけない人物がいた。
「やべッ」
「あっ」
「……あ」
バシャッ…!
太陽に輝く雫が夏空に映える。そして一気に下がる体温。
ハハ…目的達成。今俺、すっげー涼しいわ。と言うかもう、寒いくらい…
「「ヒィィィッッ」」
あまりの恐怖に下げた視線の先で、ポタリ、と地面に吸い込まれた雫。目の前の人間から立ち上る怒気に、俺たちは恐怖のあまり飛び跳ねて抱き合った。
ホースの着地地点に居たのは不死川実弥先生。この学園にはおかしな教師が多いが、その中でもかなりヤバい部類の数学教師。
顔と胸に何故か大きな傷跡があり、百八十を超える身長にがっしりとした筋肉。おまけに短気で怒りっぽく、般若も裸足で逃げ出すレベルで怖い。
その学園一怖いと言っても過言ではない教師が今、俺たちの目の前にいる。……ずぶ濡れで。
ぐしゃ。
地面で暴れるホースが勢いよく踏み潰され、あんなに激しく動いていたのにピタリとその動きを止めた。次はお前たちがこうなるんだぞと言わんばかりの、無言の圧力。
恐怖のあまり友人と抱き合ったまま恐る恐る顔を上げて、肩を震わすその人に悟る。
──終わった。俺の青春が終わった。いや、俺の人生が終わった。
「いい度胸だなァ…」
「えっ…」
「あ…」
濡れた髪を掻き上げながら顔を上げた先生に、心臓が跳ねた。
尖った性格にそっくりな、いつも跳ねている白い髪は濡れて勢いが無く、首すじから胸元へと雫が伝い落ち、太陽を反射する濡れた胸元が眩しい。ずぶ濡れなせいで白いシャツが張り付いて肌の色が透けているし…ニコリと唇が笑みを形作っているのは怖いのだが、睫毛に乗った雫が顔を上げた拍子に弾けてキラキラ輝いて、水が入ったのか少し閉じ気味になった目が妙に色気があるというか……なんか、なんというか…
──エロくね?
い、や、いやいやいやまさかそんなはずがあのシナ先だぞ 人殺してそうな見た目の、窓から人1人ぶん投げたことのあるあの人だぞ ……よし、もう一度ちゃんと確認してみよう
……胸、でかくね えこの人って男だよね男であってるよな 胸筋っつーかもうあれ、おっぱいじゃん… 水滴が谷間流れてますけど 男の真っ平らな胸板の上を水滴が真ん中に向かって流れるわけねぇじゃん男に谷間はねぇだろ
お っ ぱ い じゃ ん
2度見してもやっぱりなんかエロいし、見てはいけないものを見た気がして俺は勢いよく顔を逸らし、隣の友人も同じように顔を逸らしていた。
「……なんか、シナ先えろくね」
「……俺も思った。なんか、やばくね」
不死川先生に背を向け、2人で顔を寄せい声を潜めて話していると、後ろで不死川先生の青筋が浮き出る音が聞こえた気がした。
「「あ」」
「よォしてめぇら、歯ァ食いしばれェ。」
俺たちが錆び付いた人形みたいにゆっくり振り返ったのと、破裂音が聞こえたのはほぼ同時。
飛び散る塩化ビニールの青と、煌めく虹。
俺たちは3人仲良く頭から水を被る羽目になった。
水道を止めていなかったせいで不死川先生が踏み潰していたホースが限界を迎えたらしい。大きな音と降り注ぐ水に不死川先生も、俺たちもフリーズした。
──キラキラ、キラキラ。眩しいのは果たして、太陽を反射する水飛沫か、それとも…
辺りを埋め尽くす水飛沫の中、俺たち3人は顔を見合せて沈黙した。そしてその沈黙を破ったのは、
「ぷっ、はははッ…」
意外にも不死川先生の笑い声だった。
「くっ…ハハッ…悪ィ悪ィ。そりゃ水止めてねェんだもンなァ…っふふ…」
さっきまでの怒りは何処へやら。不死川先生は腹を抱えて笑っている。
「「あ、イエ…スミマセンデシタ。」」
「まァ、こんだけ暑けりゃ水浴びもしたくなるかァ。」
──この人、こんな風に笑うのか。
不死川先生がこんなにも笑っている所を初めて見た。俺たちの数学の担当も不死川先生だけど、授業中に笑っているところなんて見たことがない。なんせ教室に入ってきて着席を促す際にも怒鳴るような人なのだ。
そんな人が、笑いすぎて涙まで浮かべている。
「は〜っ…ははッ…気にすんなァ。おめェらのお陰で涼しくなったわァ。」
「「っ〜〜」」
眦に滲んだ涙を指で拭いながら、先生は俺と友人の頭を順番に撫でていく。優しい笑顔とその仕草に頬を赤くしたのは俺だけじゃない。
「ずぶ濡れだなァ。天気いいし、干しときゃ乾くだろ。」
悪戯っぽく笑った先生がベストのボタンに指をかける。景気よくベストを脱いだ先生は濡れて重くなったベストを摘んで揺らしながら何か言っているが、俺たちはそれどころじゃなかった。なんせ、濡れたシャツが素肌に張り付いている中に、2箇所だけ色が違う部分が晒されているのだ。
──俺たちは健全な高校生男子、こんなの、意識するなって方が無理がある!
「随分楽しそうなことしてンじゃねぇの。」
「「」」
「おわっ う、宇髄ィ てめっ、どっからわいてきやがった」
ドスン、と轟音と共に目の前に人が降ってきた。文字通り、降ってきた。さっきまで太陽に照らされていた不死川先生に影が差したと思ったら、上から降ってきたのだ。
そしていつの間にか不死川先生は白いパーカーを身に付けていた。なんという早業。
「どっからって、あそこからだけど。」
「上ェ あんなとこから飛び降りるなよ、危ねぇな。てか離せェ」
この暑い時期、使用教室は全室クーラーを入れているから窓を開けないのに、宇髄先生の指に従って見上げた教室は窓が開いている。たぶん、あそこは美術室だったはずだ。
つまりこの人3階から飛び降りて怪我ひとつなくピンピンしてて おまけに不死川先生にパーカーまで着せたってこと 何事 てか何者だよ…
「ちょっと実弥ちゃん黙っててな〜。宇髄先生大事なお話があるんだわ。」
「ングッ」
不死川先生の背中にピッタリくっついた宇髄先生の右手が、不死川先生の口を塞ぐ。不死川先生はデカイけど、宇髄先生はもっとでかくて、大きな手で不死川先生の顔は半分も見えなくなった。
「なぁお前ら、なンか見た」
「み、みみみみ見てないです!見てないです」
「な、なんも見てません!はい」
ニコリと笑っているのに目の奥は全く笑っていない赤い瞳に見つめられて、俺たちは首をブンブン振って全力で叫んだ。見たけど、見ちゃったけど 宇髄先生の言ってる"なんか"は多分あれだけどそんなこと言えるわけが無い
──殺される これ絶対殺されるやつぅ!
「…そ。じゃ、こいつ貰ってくわ〜。」
一瞬真顔になったものの、宇髄先生それ以上追求すること無く不死川先生を肩に担いで連れていった。
「え… あの人たちって…」
「そ、そういうこと… なのか…」
背を向けながら手を振る宇髄先生と、その肩に担がれ暴れる不死川先生を見送りながら俺たちは顔を見合わせた。
「や、やめようか、この話…!」
「そ、そうだな」
水浴び中よりも下がった気温に鳥肌が止まらなかった。