渇き遠く、雨音がする。
重い不快感でヒースクリフの意識は浮上する。雨の日のベッドの中は彼のマナエリアであったから充足感と倦怠感がシーツに引き戻そうとするが、ややあって身体を起こすことにした。じっとりと寝間着がパジャマに張り付く感覚だけならまだしも、喉の乾きは我慢できなかったのだ。サイドテーブルの水差しはすっかり空だった。
「――――」
素足をスリッパに引っ掛けるとふ寝起きの足取りで室内を横断し、ヒースクリフは廊下に続く自室のドアノブに手をかけた。それは思いの外ひんやりとしており、眠気を頭の外へと押し出す助けとなった。
ややはっきりとした思考で、常夜灯が照らす廊下へ一歩踏み出す。遠く、同階のバーからだろうか、年長の魔法使いたちの声が微かに耳に届いた。
バーに行けば、何か喉を潤すものを貰えるだろうか。
一瞬そんな考えが過ぎったがすぐに却下する。確かに貰えるだろうが、きっとまたベッドに戻るまでに時間を要するだろう。雨の日だからか、夜ふかしをする気分にはならなかった。
予定通り階段へと足を向けることにする。
その時だ。背後から扉が開く音がした。反射的に振り返る。
丁度、隣室のシノが扉を開けたところだった。偶然にも同じような時間に目を覚ましたようだ。寝間着姿に愛用しているカップを手にしているから、おおよそ起きてきた理由もヒースクリフと同じなのだろう。
ブランシェットに来る前の一人で生きてきた頃の名残なのか、シノは眠れる時はにはすぐ眠り、起きるべき時にははっきりと目覚められる質だった。そんな彼だが、今は珍しく気怠げにしている。ヒースクリフと同じく寝苦しくてうなされでもしたのか、それとも体調が優れないのか。あまり見ない幼馴染の姿に憂いが募り、ヒースクリフは小さく彼の名前を呼んだ。
「……シノ?」
「……ッ」
大袈裟な程びくりと身体を強張らせたシノに驚いたのは、むしろヒースクリフの方だった。別に身を隠していたわけでも、脅かすように声をかけたわけでもないはずだ。人の気配にも敏いはずの彼がこんなにも驚くようなことはしていないつもりだった。ヒースクリフは目を丸くした後、目を細めてシノを見つめる。
「シノ……具合悪いのか?」
「……なんでもない」
「なんでもないじゃないだろ」
バツの悪そうにふいと顔を背けるシノに、ヒースクリフの中の懸念は大きくなる一方だった。
彼の額に触れようと手を伸ばすが、すぐに間に入ってきたシノの手によって阻まれる。
「……シノ」
「…………熱じゃない。水を飲めば治る」
「本当か? 具合が悪いの、隠してないだろうな」
「隠してない」
「なら、いいけど……」
明らかに何かを隠している。
ヒースクリフは確信するが、彼がこうも言い張るのだから、釈然としないながらもひとまず信じることにした。行き先は同じなのだ、再び部屋に戻ってくるまで様子を見ていてやれば良い。
「じゃあ、一緒に行こう。俺も食堂に行くところだったんだ」
空のカラフェを持ち上げて見せる。シノはやっと顔を上げ、カラフェとヒースクリフと間で視線を巡らせた。
そしてややあってから、わかったとだけ答えたのだった。
果たして、実際シノの体調は問題が無いようだった。
階段を登る際も降りる際もよろめいたり息切れる様子もなく、彼の宣言通り食堂に着き水を口にしてからは言葉数も増えた。自室のある二階へと戻る間には、日が昇ってからのことをぽつぽつと話したりもした。
シノの姿からはいつも通りとまでは言わないが、先程の懸念は不要だったことが伺える。夜更けに二人揃って眠れずにばったり出会う、なんて初めてだったから気になっただけで、朝になれば何でもなかったなと思えることだったのかもしれないとヒースクリフは内心胸を撫で下ろした。
喉が潤い、懸念も無くなれば当然不本意に中断された眠気が戻ってくる。
「おやすみ」
「おやすみ」
私室の並ぶ廊下まで戻ってくると、どちらからともなく他愛のない会話は途切れた。簡単に挨拶を交わし、ドアノブに手をかける。
満たした水差しをサイドテーブルに置く。とぷ、と水面が大きく揺れる。スリッパを脱ぎ、ベッドに身体を横たえる頃には瞼が重くなっていた。
しんと静まり返った部屋の外で雨音だけが聞こえる。隣室からも特に何も聞こえてこないから、シノの方もすぐにベッドに入ったのだろう。
ベッドに入って目を瞑れば、先程までのことも半分夢の続きのように思えてならなかった。朝になったら話題にも上がらない、あったような、なかったような出来事。その頃にはきっと、妙によそよそしかったシノも普段通りで――
安堵した分、本格的に眠くなるのもあっという間だった。魔力も心も満たされていく心地の中、ヒースクリフは再び眠ったのであった。
◇
だがシノの方は違う。
ヒースクリフが目覚めたのは喉の渇きと寝苦しさからであったが、シノが目覚めた理由は理由は夢にあった。
「は………ッ」
隣室の扉も閉まったことを確認すると、真っ暗な自室でシノは短く息を吐いた。
一度引いたはずの汗がどっと吹き出す。どくどくと心臓の音が煩くて、窓の外の雨音などまるで聞こえなかった。
テーブルにカップを置くと、シノはベッドに倒れ込んだ。汗ばんで煩わしい前髪をかきあげ、寝間着の合わせを緩める。
熱などない。体調が悪いわけでもない。
火照るような目眩がするような気分なのは夢のせいだ。
「くそ……!」
なんてことはない。17という歳を思えば健全ともいえる、いかがわしい類のそれだった。
しかしただの淫夢なら良かったのだが、薄ぼんやりとした相手に見覚えがある気がしたのだった。
目が覚めた瞬間に顔なんて幻のまま消えてしまったけれど、一瞬の確信の正体をどっとかいた冷や汗が突きつけていた。
だから、水でも飲もうと思ったのだ。
そして部屋から出た途端、なんの因果から彼に出くわした。
寝癖ではねた金髪。
とろんと落ちかけた瞼。
水を煽り、上下する白い喉。
名前を呼ぶ柔らかな声と微笑み。
夢の中に幻として消えたはずの輪郭がはっきりとしてくる。してきてしまう。
一人きりになった自室のベッドの上でシノは強く目を瞑り、頭を振る。
夢はただの夢のはずだ。なのに、思い返してしまえば先程までの現実と重なって境界がわからなっていきそうで恐ろしかった。
どうにか収まったはずの熱が再び兆してしまいそうな予感までして、シノは自身に悪態をつく。
忘れてしまえ。せめて何か違う夢を。
強く、何度も念じる。
ついさっき潤したはずの喉はもうどうしようもなく渇いてしまっていた。
心臓の音は未だ、雨音よりも煩い。