疵「………はぁ」
朝。洗顔を終えた亮は鏡を前に、誰にともなく虚空に向かって溜息を吐いた。
その理由は明白で、鏡に映る自身の首筋に残った昨晩の痕。誰がどう見ても分かる情事の痕跡。恋人であるシャピロがつけたキスマーク。
髪を指で梳かし、いつものように首筋を隠した。
「…髪が長いと言っても、限度があるんだぞ」
こんなことで、いつまでも隠し通せるものか。何度目かの不満が口をついて出る——過去に一度、実際に本人にも伝えたことはあるが、結果は見ての通りだ。
もしかすると、とうに気付かれていて誰も口にして来ないだけなのだとしたら居た堪れない。
「………痛ッ…」
髪を弄っていると不意に痛みが走る。
そういえばそうだった、と昨日のことを思い返しながら、改めて自分の首筋を見た。あぁ、“また”だ。
いじらしい花弁のようなキスマークに紛れて、一番太い血管のすぐ傍に赤く歯形が残されている。
シャピロには行為の最中、時折亮の身体に歯を立てる癖があった。時には薄ら血が滲み、愛情表現などと呼ぶには痛々しい。
当初は快楽や羞恥心を堪える為にでもやっているのかと思ったが——ある夜、特に強く噛みつかれた亮が思わず声を上げてしまった時。満足そうに嗤う彼を見て、そんな可愛げのある男ではなかったと思い直した。
甘さとは無縁の、あまりにも悪趣味で嗜虐的な行為。傲慢不遜なシャピロらしくはある。
「よくもまぁ、毎回飽きないもんだ。大事に至らないのは幸運だな」
否。言葉にはしてみたものの、実際は運などではないことは分かっている。
どんなに倒錯した行動に走ったとしても、シャピロは馬鹿ではない。要の戦力が重傷を負わないよう、わざと頸動脈を僅かにずらし、血管を傷付けない程度の強さで歯先を沈めている。
彼の有り余る理性が成せる業。だからこそ、彼は煽るように嗤うのだ。その挑発的な顔が、まだ瞼の裏に残っている。
まるで余裕を見せつけ、崩してみせろと言わんばかりの表情が。
(……もしも、そんな余裕や理性も消し飛ぶくらい強く抱いたら——あんたは、俺を噛み殺すのか?)
脳裏に浮かんだ言葉が、ぞくりと背筋を撫で上げる。きっとこの震えは、恐怖とも嫌悪感とも違うのだろう。
大惨事になると分かりきっているのに、期待している。そうなれば良いと、願ってしまう。
その瞬間の彼を見たい。鏡の中の自分が微かに嗤っているのを見れば、愚かな欲望を否定はできなかった。
なんだ。やっぱり自分も、あいつのことを言えないじゃないか。