The Last judgment.もしも、もしもの話だよ?
明日、世界が終わるとしたら最期の足掻きに何がしたい?
もしも、が取れてしまった現実で。
カニちゃんは「兄貴に会いにいく」といった。昨日、喧嘩したばかりだっていうのに。
「だって、兄貴は寂しがりだから」そういって、ひらりと手を振る背中を鏡の向こうに見送った。
ウミヘビくんは「あいつのそばにいる」といった。もしも、世界が滅ぶなら、誰に気兼ねするもんか。片道切符の一人旅だと、キラキラした目で語ったのに。
「あいつの最期はきっと毒死だ。それがどんなに苦しいか。俺は、嫌というほど知っている」
寮服の黄色いベルトに留められた無骨な形の短刀で、きっと主人を救うのだろう。
「そう。じゃあこれ、約束のやつね」
2枚の金貨を受け取って、2つの小瓶を手渡した。
「アズール、きっとよろこぶわ」
金貨を宙に遊ばせて、無くさないようにポケットにしまう。今はもう滅びてしまった文明都市の王の名が刻まれた鋳造貨幣。たった一枚が億で取引される金貨も今や価値など大暴落。
だって、今日オレたちは滅んでしまうのだから。
「まったく、迷惑この上ないよな」
注ぐ日差しを眩しそうに見上げて、ウミヘビくんはため息をついた。
また宴だ。まったく、人の苦労も考えてほしいもんだ。
昨日までと変わらぬ同じ口調で、残り少ない命の時間を愚痴に費やしている。
それが、自由ってもんなのかもしれなかった。
「妖精の呪いって、解けないのかな」
「期待するだけ時間の無駄だ。俺は寮に戻ってカレーを作る。カリムの飯も作らなきゃだし」
おまえたちも来るか、とウミヘビくんは珍しくこっちを向いて微笑んだ。
「え〜、オレは薬入りのカレーやだな」
「カレーは俺のだ」
「ジェイドが食うっつったら行くわ」
「そうか。じゃあ、お互いせいぜい苦しまないことを祈ろう」
ウミヘビくんは小瓶を懐に仕舞い込んで、鏡舎への道をてくてく歩いて行った。
箒を呼んで、飛行術を使えばあっという間なのに。でもそれが、あいつの自由ってもんの限界なんだ。
3年の教室に行けば、アズールが最後のチェックメイトを決めた瞬間だった。
ホタルイカ先輩は頭を真っ青にして悔しがってたし、クリオネちゃんも感想戦にメモリを使っているのか、普段はしないファンの旋回音をヒュンヒュンと頭蓋骨のてっぺんで響かせていた。
「クリオネちゃんはどうすんの?」
「なにが?」
「ホタルイカ先輩もオレたちも、『人間』はみんな滅びちゃうんだよ」
誰もいなくなっちゃうよ。動物と植物と鉱物がこの世でまだまだ生きていくのに。
『人間』だけが零時の鐘が鳴り響く時、世界からぷつんといなくなる。
「クリオネちゃんは『人間』じゃないじゃん。妖精はたぶんクリオネちゃんのメンテとかできない気がすんだけど」
「あ〜あ〜〜、そこんとこはご心配なく」
脳内で感想戦を終えたのか、「あれが敗着の一手でしたわ」と嘆息して、ホタルイカ先輩が煩わしそうに視線をあげた。
「拙者がちゃんと『冥府』まで一緒に連れてくから」
「久しぶりに兄さんと家に帰るんだ! だから、もう行かなきゃ。フロイド・リーチさん。アズール・アーシェングロットさん」
クリオネちゃんの機械の手が、つるりとオレたちの手の上を滑る。
「僕たちと遊んでくれてありがとう!」
機械の肌はすぐにオレの体温でぬるくなる。その小さな手をアズールがしっかと握りかえした。
「ええ。あなたが投資シミュレーションを経験させてくださらなければ、この最後の勝利も存在しえなかったでしょうから。感謝していますよ。イデアさん、今世はあなたに3つ勝ち星を譲っておくことにしましょう」
「ハーーッ、アズール氏最後までかわいくない後輩ですな、まったく」
やれやれ、と首を降って、先輩の視線がオレとアズールを真っ直ぐにみた。
じっと見られてはじめて、ホタルイカ先輩の瞳って綺麗な色をしていることに気づいた。
クリオネちゃんもそっくり。青空に実るレモンみたいな色。
「来世でもお幸せに」
廊下を出た足音がゆっくりと手近な階段を登って行った。手ぶらのまま、鏡の間に向かって、そのまま実家に帰してもらうのだろう。ほとんどの生徒が昨夜のうちにそうしたように。
「アズール」
幼馴染はぼんやりとしていた。勝利の盤面に注いでいた視線がゆるりと上がる。
「これ、あげるね」
ポケットから取り出した金貨を二つ、手のひらに置いてやれば、とたんに滴る水の音がした。
「いまさら、どうしろと」
「別にどうもしなくていいよ。ほしがってたやつ、ウミヘビくんにもらったからあげる」
悔しいだろうな。積み上げてきたなにもかも、これから理不尽に取り上げられるんだもん。
「それとも、オレがぎゅってしてあげようか」
泣きじゃくるアズールの体が震える。同時に、教室の扉が静かに風を押しのけて開いた。
「ジェイド」
「ここにいらっしゃると聞いたものですから」
取引は、とジェイドは言いかけて、アズールの手の中のコインに口元を緩めた。
「あなたは、家族の元に帰るでしょうから」
「そう。そのコイン、オレたちだと思って大事にして」
「おまえ、たちは」
「僕たちは何も決めていません」
「そう。別にママも親父も帰ってこいとか言わなかったし」
「それに海で迎える死は、苦しいばかりで退屈でしょう。想像がつきますからね」
ジェイドが中くらいの薬瓶を取り出した。ウミヘビくんに渡した小瓶の中身が、5〜6人分入る大きさの。
「ですから、これを差し上げます」
「昨日、水槽で試したんだ。海に帰って、時間になったら蓋を抜くだけでいいんだよ」
「……まさか、ラウンジの魚たちはおまえたちの……!」
受け取ろうとしない手のひらに、ジェイドは無理矢理薬の瓶をねじ込んだ。アズールが「痛い」とうめくほどの握力で手を開かせて、握らせた拳ごと胸に託す。
「僕たちのために、受け取って」
アズールは嫌だといった。お前たちのピアスもくれなきゃ嫌だと駄々をこねて。
しかたなく、オレとジェイドはお気に入りのピアスをアズールの耳にプレゼントした。
もしかしたら、はじめてのハグをして、鏡の向こうにその姿が溶けて消えるの見送った。なくなったピアスの分だけ、すこし寂しかった。
「フロイド、お昼ごはんは僕がつくりますから少し待っていてくれますか。大食堂のゴーストさんたちに調理場と食材を使ってもいいとおっしゃっていただいたので腕をふるいます。リクエストはありますか?」
「ジェイドのフレンチトーストがいい」
牛乳にたっぷりの砂糖に、はちみつに、極め付けのメープルシロップをぶちまけて、粉砂糖までふわふわに振るったカロリーの暴力。心臓が破裂するほど抱き合った後、冷やしておいたそれにありあわせのフルーツを刻んで乗せて平らげるのが大好きだった。
「では、デザートはフレンチトーストで決まりです」
「オレ、まだ学園にだれかいないか探してこよーっと」
一時間後に、と約束して飛び出した運動場で馬がいなないた。白いたてがみを結われた馬が騎手を振り落とそうとしている。騎手も体の使い方がうまい。竿立つ背中にぴたりと身を伏せ、馬ごと転倒するのを防いでいた。
「どう、どう」
落ち着き払った声に、馬の前脚がふわりと地面に降り立つ。ととっと軽い蹄鉄の槌音のあと、白くて長いしっぽがふぁさりと機嫌良く左右に揺れた。
「クラゲちゃん。ワニちゃん。なーにしてんの」
「フロイド。まだいたのか。ジェイドはどうした」
「大食堂でごはんつくってるとこ。ねぇねぇ、クラゲちゃん。クラゲちゃんは『人間』でしょ?こんなとこにいていいの?他の奴らはみーんな家族のとこに帰ったよ」
「俺は学園に家族がいるからな。リリア様は茨の谷に戻っておられるが、マレウス様はこちらに残っていらっしゃるから」
「クラゲちゃんはなんとも思わないの? だって、オレたちに呪いをかけたのは『妖精』なんでしょ」
「貴様!」
馬上から影が飛びかかる。すんでのところで飛び退って、太い脚の蹴りから逃れた。騎手を失った白馬が驚き、走り去る。
「なんたる、なんたる侮辱だ!!」
「侮辱じゃねーし。事実だろ。誰が、何したのか知らねーけど。『人間』全員とばっちりじゃん」
零時の鐘が鳴り響く時、滅ぶと呪われた。
大地に飲まれるわけでもなく、星が堕ちてくるわけでもない。疫病が細胞を蝕むのでもなく、ただ魂が刈り取られるだけだという。いま、この時も、どこかで誰かがサメの口の中に消えるように、ただただぷつりと命の糸が切れる。そんな呪いが、今日の真夜中午前零時に『人間』のうちに発動する。
もっと、歴史を学んでいたなら『人間』は回避できたのかもしれない。
『妖精』という圧倒的な魔力の塊との諍いを。
「んで、呪いをかけたのがウミウシ先輩じゃないことくらいわかってっし。だってさ、んな頭の悪い呪いのかけ方したらクラゲちゃんも死んじゃうでしょ」
大きく、大きく腹に空気を吸い込む音が聞こえた。破裂するような怒号に身構えたけれど、それはまた、さっきも聞いた湿った音に変わって、ちいさく途切れ途切れに地面へと落ちていく。
「フロイド先輩は、怖くないのか」
「ワニちゃんは……そっか、半分だけ『妖精』だっけ。ママが人間?」
「父親だ。……父は死ぬ。母は……母は、昼の眷属どもがかけた呪いを死に物狂いで解こうとしている。しているはずだ……あの人を愛しているから、心から惚れた男だと」
「すげー。会ってみたかったな、ワニちゃんのママ」
だって、オレのママにそっくり。最期の時は親父と二人がいいからって、楽しみなさいね、と電話一本で別れをすます女。ママじゃなければ、惚れていたかもしれないくらい清々しい人魚。うん、じゃあねで済ませた自分は間違いなく彼女の稚魚なんだ、とその時、はじめて母とのつながりを愛しく思ったのも、もう昨日のこと。たった十数時間前が、もう懐かしい。
「じゃあ、二人とも学園に残るんだ」
「ああ。今宵、リリア様が戻るまで二人でマレウス様の警護だ」
「ディアソムニアにいなくていーの?」
「……馬たちの世話をする部員がいなくなってしまったからな。明日はセベクひとりかもしれないから」
「僕とてどうなるかわからん。だから、最期にあいつに乗ってみたかったのだ」
「リドル先輩も最後まであいつを心配していたからな」
太い首を振る白い馬は馬術部で一番気性の荒い牡馬だ。金魚ちゃんが一年生の頃、何度も振り落とされながらも冬になる前に華麗に乗りこなしてみせたのを体育館のコートから眺めていた。障害を飛び越える馬は冬の妖精のようだった。一度も近寄らせてもらえなかった綺麗な四つ足の獣は、オレにない明日を生きていく。
「それでマレウス様が時間をくださったんだ。ここ数日、謂れ無い誹謗に胸を痛めておられたからお一人でいたいのかもしれない」
涼しげな風の吹くまま日陰の道を歩いていけば、ぱったりとウミウシ先輩に出くわした。
まだ、学園に誰かいると思っていなかったのか、それとも、オレとジェイドの区別がつかなくて名前を呼ぶのを躊躇ったのかもしれない。たっぷりの間があいて、「リーチか」とオレたちのファミリーネームを呼んだ。
「ねぇ、先輩。最期のお願い、聞いてくれる?」
黒黒とした角は生え際から緩くねじれて後方へ伸びていた。ただ黒光りしているばかりか、ディアソムニアの寮服のあちこちが虹色に光を弾くのと同じように、きめ細かい鱗模様がみっちりと堆積していた。
そのゴツゴツとした手触りを何度も何度も味わった。角先はきんと尖っているのかと思ったけれど、なだらかで丸い。大粒の真珠みたいな手触りだ。オレたちの背鰭とは感触も全然違った。
「あはは、ウミウシ先輩のおでこ、オレらとお揃いじゃん」
「おそろい?」
「オレらも、人魚に戻ると髪の生え際とか、顎と首の境目とかに鱗があんだ〜。こんなにごつくないけど。パルメザンチーズとかすりおろせそう」
あはは、とオレは笑ったのにウミウシ先輩はにこりともしなかった。笑っている顔なんて早々お目にかかったこともないけれど、さっきのアズールの眼差しに似ている、と思った。
どうしていいのかわからないんだろうな。
どんな感情を発散していいのかわからないんだと思う。
オレたちが「あと3日で絶滅するよ」って『妖精』に宣言された時とおんなじ。
余命3ヶ月とかまだできることあるのに、3日だもんな。
「先輩は泣いた?」
アズールがあんなに泣くとは思ってなかった。
「今日の夜には、クラゲちゃんいなくなっちゃうじゃん」
大事な後輩で家来なんでしょう。だったら、先輩も泣いたりするの?
「ワニちゃんも、ワニちゃんの親父も死んで、世界中の『人間』がいなくなっちゃうんだよ」
そして、動物と植物と鉱物が残る。それを司る妖精とともに。
「世界中に廃墟が生まれるな」とウミウシ先輩は立ち上がった。
「僕は廃墟が好きだ。か弱く短い人の営みが時とともに色褪せ、その中にも確かに生き残る時代の空気や住んでいたものの意思は、光の下では霞んでしまう。しかし、それらが夜、闇の中に滲み出すを見ると愛おしくなる。僕の知らない時を生きた者たちに触れる心地だ。永きを生きる僕もまた、『人間』とともに歩む一個の命であると。そして、いつか、僕も廃墟の意思になるはずだった。それを感じ取る者の訪れを心待ちに来る時を待てばいいと」
黙り込むウミウシ先輩に「ごめんね」とオレはいった。
きっと、クラゲちゃんもワニちゃんもそういうことはギリギリの限界までしないと思うから、思いっきりぎゅーっとハグをして、「ねぇ、ご飯食べようよ」と食堂に誘った。ジェイドは目をまんまるにして驚いて、たくさんたくさん料理を振る舞った。学食の冷蔵庫を本気で空にしたんじゃないかと思うほど、たくさんたくさん料理が出てきた。ゴーストたちも手伝ったのかもしれない。もう命はないのに、死ねないシェフたち。いつか消える時までここで空っぽの鍋を振るんだろうか。空気を刻んで盛り付けるのかな。
「ジェーイド! オレもデザートつくる!」
オレが厨房に入ったその瞬間、ジェイドはぎゅうっとオレにしがみついて、わさわさとボディチェックするみたいに身体中をまさぐってきた。くすぐったくて笑いそうになった唇にぱくっと噛みつかれて、「トカゲくさいですよ」と、また鼻の頭をがじと甘噛みされた。「僕の分、作ってくださいね」と指差す先に1キロの小麦粉と卵がワンパック。たぶん、もう一生ないほどパンケーキを焼かされて、ジェイドはそれをぺろりと平らげた。それをまじまじと見つめていたウミウシ先輩が耐えかねたみたいに「はは」と笑っていた。
食べて、抱き合って、もう死ぬってくらい奥の奥を震わせて、しがみついて。
くったりした体を湯船につけて、二人でまどろんだ。それでも時間は有り余った。
学園生活は忙しかったんだ。たいていはジェイドが。
こんなにもそばにいられるなら、滅びを待つのも悪くないと思えた。
散歩に出ると雲は紫で、夕空は赤くて。普段見ない空の色につないだ手をぎゅっと握りしめた。
同時に、きょうだいからも手を握られた気がして、ふいに視線があった。
「あはは」
「びっくりしましたね」
「なんか、死ぬのより心臓ぎゅってしたかも〜」
ジェイドも怖いんだ。だよね。だってさ、17歳だぜ。
まだセックスも両手からはみ出るくらいしかしてなくてさ。
この横顔がどんどん大人びて、この手のひらがもっとオレのことを知り尽くしていく日があったはずなんだ。見つめていたら、また視線がふれあう。
「愛しています、フロイド」
「オレもぉ。ジェイドがいちばん好き」
手を繋いで、ぶらぶらとあてどなく歩いた。このまま街まで降りちゃえと思って、まっすぐまっすぐ校門のほうまで足を伸ばした。すると今までどこにいたのか、鼻っ面の長い真っ赤なクラシックカーがグレートセブン像のど真ん前に陣取っていた。のぞき込めば運転席のシートを倒して、もっこもこで縞々のコートをきた先生が堂々と昼寝をかましている。いや、そろそろ夜になる。
「せんせー。イシダイせんせー」
「うるさい。昼寝中だ」
「起きていらっしゃるではありませんか」
「せんせー、もう夕方だよ」
「真夜中にドライブに出るからな。眠くならんように体を休めているんだ」
「へぇ、どこいくの? 島の中なんて行き飽きたとこばっかじゃね?」
むくり、とイシダイ先生は起き上がり、
「いいか仔犬ども、よく聞け。たとえ行き飽きた場所であっても恋人と走る夜道はいつだって最高なんだ。俺は、恋人と最高の最期を迎えるために体を休めている。わかったら大人しくハウスしろ」といった。
先生にも恋人いたんだ。知らなかった。そして、ジェイドはしばらく先生の車を褒めちぎって、「恋人に抱かれて迎える最後もいいですね。僕も真似しましょう、ねぇ、フロイド」とさっきまで掴んでいた腰を抱くもんだから、びっくりして変な声がでた。察しのいい先生は最期の最後に生徒の秘密を知ってしまった、という顔をしていた。御愁傷様。とりあえず、その場でジェイドの尻は思いっきりひっぱたいておいた。
それで、羨ましくなったんだと思う。二人でドライブに行こうという話になった。運転免許なんて持っていないけれど。鍵を回して、踏めば走れる。ただそれだけの鉄の馬をオレもジェイドも操ってみたかった。
「鏡もひとりぼっちだねぇ」
入学式の頃から、幾度となく潜った闇の鏡がぽつんと大広間の真ん中に浮かんでいた。
たくさんのたくさんの生徒を送り出して、世界中ありとあらゆる場所をつないで、そこで悲嘆にくれる人々を見てきただろう。鏡に心があるか知らないけど。
「あ、でも、ウミウシ先輩がいるし、メンダコちゃんも帰ってくるからぁ、寂しくはないか」
『汝の望みのままに』
厳かで重々しい響きだ。鏡に囚われた男は魔物なのか、なんなのか。『妖精』なのかもしれない。妖精はあらゆる物や現象の化身なのだと本が教えてくれた。
「オレたちの呪いは解ける?」
『……できぬ』
「しってた」
「フロイド、意地悪しないで。かわいそうでしょう」
「は〜い」
オレは黒い車がいい、と言った。オレたちのメッシュのようなマットな黒。鼻っ面が長いクラシックカーで、運転はそんなに難しくないやつ。なんなら魔導式でカスタマイズされてるようなやつがいい。
そういう車があるところに連れてってよ。
闇の鏡も、まさか物のある場所を探せと言われたことはあるまい。ああ、いや。あるかもしれない。なんせこの学園の長を名乗る烏は大の旅行好きだったし、「この世で一番甘いマンゴーが実っている南国の島はどこですか!」とか無理難題を出していたに違いない。そうやって鍛えられていたんだろう、闇の鏡はしばらく黙って、しかし、『できぬ』とは言わないまま、ぼんやりと車の姿を鏡面に映した。
磨き上げられたクラシックカーに似つかぬ田舎のダイナーと言った雰囲気だ。
鏡をくぐり抜けた先にちょうど道路標識が突っ立っていた。ジェイドが「輝石の国の北西部あたりですね」といった。この道をまっすぐまっすぐまーっすぐに行くと、突き当たって北の海に出るらしい。本当かどうか知らないけれど、緯度が高いせいか、夏なのに少しからりとした空気は冷えて心地よかった。だだっ広い田舎で土地だけは馬鹿みたいにあるのに、ステンレスの銀色でギラギラしているダイナーは、打ち上げられたイワシみたいにちんまりしていて一層寂しげに見えた。それでも店のガタついた窓ガラスからは光が溢れていた。扉を押し開けると安っぽくてうるさいだけのベルが鳴る。長いカウンターには誰も座ってなくて、年代もわからない古びた音楽が濁ったノイズ混じりで流れている。ラジオはとうに放送をやめて、ぐるぐるぐるぐるとランダムに詰め込まれたデータを流しているだけだった。オレたちが消えても音楽だけはぐるぐる鳴り続けるんだろうな。
「おい、なんだ」
呂律の回らない酒臭さが入り口まで届いた。二つしかないボックス席の奥で、よれたシャツの男が顔を出した。
「いまぁ、身内だけでやってんだ。飯ならそこにさ、ほら、チキンバーガーあるから持ってけ」
「はは、うめぇんだぜ。な、オンボロダイナーだけどな、飯はうめぇんだ。バーガーだけなんていうなよ、でっけぇ兄ちゃんがよ。フレンチフライ、BBQリブ、チキンウィング! おら、好きなの詰めてやるよ。どれがいい。どれでもいいか、全部食え!」
フラつく足で立ち上がり、トングをカチカチ言わせながらテイクアウトのペーパーパックを掴んだ男はいくつか床にこぼしながらも、たんまりと肉を包んでくれる。襟にノリの名残を感じるシャツ、ボックス席の背中にかけられた上等な上着、バーベキューソースに汚れた革靴は見覚えのある高級ブランド。ビスポークらしい組み合わせだ。既製品にはない色の組み合わせ、ステッチの選び方。センスがいいのは車だけなんだろう。
「ねぇ、あのさ。表の車、おっさんの?」
「あ? そうだよ」
「今夜さ、オレたち絶滅するじゃん」
「絶滅! おい、きいたかよ。絶滅だって」
「きいた。俺たちゃ恐竜の仲間入りか」
「図鑑に載るか! ああ、だったらチキンじゃなくて、モーヴんとこの牛掻っ攫ってきて、丸焼きにしてやるんだった。チキンの骨クズと一緒に発掘されんのかよ、最悪だな」
「味は最高だぜ。お袋のポリッジの次にな」
「ありがとよ。テメェのお袋、ポリッジ一筋だもんな」
出来上がった大人ってたまに意味のわからない話をするよね。そんな視線を投げたら、片割れはすっと落ちたチキンウィングを跨いで、身なりのいい男に近づいた。
「突然の不躾な願いをお許しください。あなたのお車を、ぜひとも、僕たちに貸していただけませんでしょうか」
「あ?」
「僕たち、海に行きたいんです」
この道をずっとずっと北に向かった冷たい海に行きたいんです、とジェイドはいった。
「おい、おいおいおい冗談じゃねぇぞ。てっぺん超えるまでに海に行くってそりゃ正気か?」
「こんな綺麗な顔した男が正気だったら世の中不公平だろうがよぉ」
「ええ、ええ!こんなに恐ろしい世の中でとても正気でなんかいられませんよ。でも、僕たち未成年なのでお酒の魔法は借りられないんです。しくしく」
ジェイドの嘘泣きに引っかかるやつなんていないだろうけど、ここにいるのは酔っ払いだ。二人とも「お〜い」と眉毛を下げて、首をふりふり「泣くなよ」とマジで慰めはじめた。
「はぁ、もう勘弁してくれ。おいなぁ、見ろよこの美人、いつから二人だった?」
「最初からだ、バカ。……最初からだよな?」
「生まれた時からず〜っと二人。オレら双子で〜す」
「ほら双子だ、バカ。オレは知ってたぜ。世界があと四時間で終わるのも知ってる。天才だな」
ほら鍵、とおっさんは上等な上着を投げてきた。ポケットには固い感触。クラシックカーの荷台にちっさいガソリンのタンクを積んで、おっさんは「鍵はここ。ギアはこう」と酔っ払いのぐだぐだな親切を振り撒いてくれた。
「おい、双子のイケメンな方。美人泣かすなよ。泣かすんならハンドル俺に代われ」
「うっせ〜。美人美人いうな。オレのジェイドなんだからあんま見んなよ、減るから」
「美人がジェイド? こっちは?」
「イケメンのフロイドです」
ニコニコとジェイドが答える。たっぷりのチキンウィングとサラダとバーガーを山盛り詰めたタッパーを膝の上に抱えて上機嫌だ。おっさんは愛車のボンネットをバンバン叩いて、ゆっくり撫でた。
「まだローンが残ってんだよ。しかも7桁も」
「ははっ! 明日には返すって!」
「お料理の感想も明日お伝えしましょう」
明日。もう、オレたちにはない明日だけど。
明日って、こんなにドキドキする時間だったんだな。
「ああ、いいな! 明日はそうだな。木曜日だけどエッグベネディクト作ってやるか」
「いーね。フレンチフライもだ。揚げたてのやつな。今日のしなしなはいただけねぇ」
「うるせぇ。ダイナーのフライってのは油でぎっとぎとでしなしながウリだ。都会に染まりやがって」
終わらない軽口に笑って、鍵を捻った。エンジンの心地よい振動に「わっ」とジェイドの顔が緩む。思えば、初めての車。初めての助手席だ。
「はは、つかまってろよダーリン」
誰が見ていようが構うか。ジェイドのほっぺたに「ちゅっ」とキスをすれば、おっさん二人が盛り上がる。
「あ〜〜〜、俺も宇宙の果てまで逃避行してぇな〜!」
「逃避行してぇな〜〜!!美人と二人でよぉ〜!」
「ちが〜うちがうちがう。逃避行じゃないの。今夜はオレとジェイドのデートなの♡」
指咥えて見てな、と投げキッスをプレゼントだ。そのまま真っ暗な道にゴトンと乗り出し、じわりとアクセルを踏んだ。おっさんの声が「ライトつけろ!」と笑いながら、しばらく後ろから追いかけてきた。
「「良い終末をな〜〜〜〜〜!!!」」
どこまでもお節介で親切なおっさんたちだった。
窓を開けて、風の音だけをきいた。知らないラジオの音楽なんていらなかった。助手席のジェイドの顔がスマートフォンの白い灯りにぼんやりと照らされている。その微かな呼吸音と時折交わすどうでもいい会話。耳元を駆け抜けていく海鳴りによく似た音が心地よかった。ただひたすらまっすぐの道。ギアの入れ替えもない。ガソリンが尽きるまで道なりに走るだけ。つないだ指先の肉と骨の感触が愛しくて、愛しくて。
フロントガラスの向こう、闇が迫ってくる感触が、どうしても胸を締め付ける。
ああ、どうして終わってしまうんだろう。初めてそこで涙が溢れた。
だって、だって、もっと恋をしていたかった。
ジェイドと恋をしていたかったよ。
「ねぇ、ジェイド」
「なんです、フロイド」
ジェイドの声も濡れていた。隠しようもないほど泣き濡れていて、悔しい気持ちはおんなじだとわかった。それだけで嬉しくて、これから来る死神の喉笛を食いちぎってやりたかった。
「あのさ、『呪い』で死ぬのは苦しいんだって」
「ええ、ええ。知っています」
「じゃあさぁ、なんでアズールに全部あげちゃったの」
眠るように息を奪う猛毒の薬。二人で作った安楽死のための。
ウミヘビ君にあげた一瓶以外、本当はオレたちとアズールの分だった。
「だって、僕は海の魔女が憧れですから」
哀れな魂に慈悲を垂れれば、なれるかなって。嗚咽まじりの真実だった。
なれたよ、ジェイド。オレは少なくともそう思うよ。
ああ、かわいそうな好奇心の塊。オレのジェイド。かわいいジェイド。
「アズールに聞きに行こっか。明日になったら、ふたりで珊瑚の海に帰ろう」
「はい。ええ、聞かせていただきましょう。そして、褒めていただかなくては」
一瞬、ライトをハイにして、まっすぐな道を確かめた。
潮の香りが近い気がしたから。
アクセルを緩めたその隙に、ジェイドの涙を吸って、柔らかい唇に触れた。
ハンドルを手放し、むさぼるように片割れにしがみついた。
もしも、もしもの話だよ?
明日、オレたちが目を覚ましたら────。