空の生き写し 向かいの壁に飾られた大きな美しい絵。
真っ赤な薔薇の結われたプラチナブロンドの髪、翡翠の瞳を縁取る、瞬きの度に星が目尻に迸るほど長く描かれた金の睫毛。小窓から薄く日の差す静かな部屋で、つい眼を細めてしまうほどに美しい女性が、クリノリン・スタイルの金糸の薔薇の刺繍がなされたドレスを、着て薔薇の花一本を華奢な指で遊んでいる。
奇跡とも思える美しさに、一目で、恋に落ちた。
「こんにちは」
緊張で、少し声が上擦った。彼女は目を丸くし、そして小さく笑い、軽く手を振って答えた。
「ねえ貴方。私の名前、教えてくださる?」
ステンレスの絵画名板には作者と西暦、そして作品名であろう《Cherie》という文字が一際目立つように記されている。
「シェリー、君の名前だよ。君を描いた人はセンスがいいらしい」
「ありがとう。貴方は……シエル」
《Ciel》、つまり空。淡いベビーブルーから深いネイビー、シアンやピーコック、様々な青系統の色から描かれた、シエル。
「……そう、忘れていた。名前なんて、呼ばれなければさして大切なものでないだろうに、あれは何故この名前を付けたんだ」
「そんなことないわ、お喋りするには名前があった方が良い。それに、貴方の名前が好きよ。貴方に似合っていて素敵」
「……そう言ってもらえるなら、この名前を好きになれそうだよ」
少し恥ずかしく、しかし決して嫌な気分ではなく、肌が軽く紅潮した。無論、青いまま。
正面にいるシェリーについて、この一か月で色々と知ることができた。薄暗い部屋の小窓から外をじっと見つめては自分が背負った青の空を凝視してを繰り返してみたり、時々物思いに耽って後に表情を明るくしたり。淑やかで、しかし思いの外感情豊かな絵であった。
……正面に彼女がいるから気づいたことであって、決して四六時中彼女を観察していたわけではない。
「身の上話でも聞かせてくださいな」
「……変わってるね」
「そう?」
「うん。僕のなんて、大して面白くない」
「面白い話が聞きたいわけではないの。ただ、なんとなく気になっただけ」
僕の話。そうか、僕の、過去か。
言葉の意味をそっと咀嚼して緩く笑った。
彼女がいる場所にあった大きな鏡。それを介して自分の姿を毎日眺めていた。繊細な青の色遣いによって描かれた、空の下に佇む、白いカッターシャツを着た少年。曇天か晴天か、判別のつかない青。
「僕を描いた人はね、若くして亡くなったんだ。絵を描き続けていれば凄く有名になっていたかも」
「……流行り病でもあったの?」
「……それについては、黙っておくよ」
自分を描いた人は空が好きだった。晴天の青ならば特にね、そう言っていた。晴れた日はカーテンを大きく開けて外を見上げていたのを覚えている。自分もそれを覗き見た。本物の空を見ることは叶わなくなったが、今でもその色を嫌というほど思い出せる。
空は、嫌いだった。しかし皮肉なことに、鏡に映ったその絵は綺麗で、空が自分を描いたようで、自分の目を奪った。
「嗚呼、それと。呪われてるんだってさ、この画廊」
「呪い?」
「ここに飾られた絵は精神を持つ。人物が描かれたものは特にね。強い自我を持つんだ。そして客を襲って、その色を取り込む。色っていうのは、人としての大事なもの。栄養に知識に、足りない分の感情」
「……お客様を取り込んで、それで?」
「外へ出る。人として生きるために」
赤に黄色に沢山の色。人が描かれていたのが、いつの間にか単なる風景画に変わっていた。何処か物足りなさを感じるが、それでも美しさが損なわれることはない。
留守になった絵からは海の波打つ音だとか、初夏の葉擦れの音だとか、小鳥の囀る声だとかが、ただただ聞こえてくるだけだ。
いつの間にか、話す相手はいなくなっていた。正面の鏡も外されていた。
「僕は、客を襲ったことがないから、絵の中に取り込む方法は分からないんだけどね」
「シエルは? 外に出たくないの?」
「僕は、外に出る気なんてないよ、それに出られるなんて思ってない。他のが客を襲っているのは何度も見たことがある、けれど、実際に出て行くのを見たのは片手で数えられるほどしかないんだ。ハイリスクハイリターンってこと」
親指以外の右の四本を立てて彼女に見せた。嗚呼なるほど、彼女もそう頷いた。
「生半可な気持ちで出ることなんてできない。作品を欠くんだ。親を捨てるようなものだよ。……いや、描き変える点においては、取り込むのも同じか」
「……私が外に出たいって言ったら、怒る?」
「他の絵はきっと止めるさ。……僕は、見なかったふりでもしよう」
「……そう」
結局、彼女と僕の関係は変わらなかった。
広い画廊の壁の端と端でいつも通り話すだけ。遠すぎる距離も問題があったのかもしれないが、一番は自分の臆病な性格であろう。
話す時間は明らかに減っていた。が、元より豊かだった感情が、更に人間味を持つようになったことに薄々勘づいていた。客が来ると、彼女はただの絵に戻る。時々自分の目の前に来た客を切れ長の美しい目で睨みつけて、次の瞬間には額縁の中へ理不尽に引きずり込んだ。嗚呼、彼女も外に出たいのか。それだけ思って詳しくは知ろうとしなかった。
ある日、目を覚ますと、既に彼女はいなかった。
「もしもし、そこの貴方」
鈴を転がすような声がした。何処か聞き覚えがあって、何の躊躇なく振り返る。
「……シェリー?」
美しい女性がいた。ドレスはあれより質素だが、それでも寸分違わないあの美しさが目の前にあった。
「何さ、飽きて戻ってきたの?」
「ええ、どうにも外は私には合わなかったみたい」
悪怯える様子もなく、初めて会話したときと同じように小さく笑い、軽く手を振った。
「それに元々戻るつもりだったの。その前に本物の空を見てみたくて。けど、思っていたのと違ったわ」
「じゃあ、どうして外に出たの」
少し古びた額縁に触れた。
「シエル、私を入れて」
「……方法が、分からない。話したじゃないか、客を取り込んだことがないって。それに、その人がどうなるのか僕には分からない。色だけ奪うかもしれない。そうなったら、身体は? 君が消えたらと考えるとゾッとするよ」
「できるわよ。私、あの話を聞いた日から、両手じゃあ数えきれないぐらいの人を取り込んだの」
客を襲ったことは知っている、というのはなんとなく黙っておいた。
「……僕は僕が好きなんだ、シエルが、どうしようもなく好き。毎日何度も、あの遠い鏡越しに見たこの絵が、大好きだ」
―名前だけは、忘れずに持っているんだよ。
自分を描いた人は、まるで絵が意思を持っていることを初めから分かっていたようにそう言った。彼は青が好きで空を描いたわけではない。空に惹かれて青を好んだのだろう。
だから、きっと、空に手を伸ばして落ちていった。
他の絵の色の豊かさを何度も嫉妬したことがある。気狂いめ、名前が嫌でそう何度も思ったことがある。
空は、嫌いだ。空の色が嫌いだ。それでも自分は、この絵が大好きなのだ。嫌気が差すほどに鮮やかな青に、きっと憑りつかれているのだ。
空の色を見る度にシエルという言葉を思い出した。何度も忘れようとした自分の名前を、記憶の中の青は繋ぎ止めていた。
「……そう。じゃあ無理に頼むのも悪いわね」
「―だけど」
だけど、できることなら、一緒に過ごしたい。無駄に広い部屋の端と端ではなく、同じ額縁の中で他愛もない話をして笑い合う男女として描かれたかった。
「空は広くて、僕一人じゃあ抱えきれないから」
それだけ言って、手をとった。
目を開けると、あの小窓からは見ることのできなかった大きな空が、彼女の視界いっぱいに広がった。
「私も真っ青になっちゃったわね」
「……後悔してる?」
「してないわ。……私、青だと見劣りするかしら?」
「いや。前と変わらず、いやそれ以上かも」
彼女の美しい金髪も、翡翠の瞳も、赤い薔薇の花も、全て真っ青になってしまった。
「青は好き?」
彼女は迷いなく答えた。
「勿論。晴天の青なら特にね」