1週間後、スミスに赤いバラの花束を渡すイサミの話 ブレイフラワーには、毎週金曜日に花を買いに来る常連客がいる。とても気さくな男で、黙々と花束を用意するイサミによく話しかけてきた。その隣にはいつも、ちいさな女の子がいる。
同世代に見えるが、娘がいるんだよな。二人が店を訪れるたびにイサミはそんなことを考えていたが、もちろん口には出さない。「いらっしゃいませ」とだけ言うと、いつものようにオススメの花を見繕い、ちいさな花束を作る。そして会計を済ませて「ありがとうございました」。必要最低限のやりとりを交わすのみだ。イサミと男とは、あくまで店員と客という間柄だった。……今日の出来事が起こるまでは。
きっかけは突然やってきた。いつものように花束を作るイサミの背後で、「ルル!」という厳しい声がした。振り返ると、棚に置かれた胡蝶蘭の鉢が、今まさに女の子の頭上に落ちようとしているところだ。
イサミの体はとっさに動いたが、カウンターからではどうやっても届かない。しかし幸いなことに、男のほうがなんとか間に合った。落下する寸前で鉢のふちを掴み、重たい胡蝶蘭を空中で支える。駆け寄ったイサミも手伝って、胡蝶蘭は無事に棚に戻された。
「ッ、あぶなか…った……!」
冷や汗をかいた大人ふたりをよそに、女の子はきょとんとしている。男はため息を吐き、そんな女の子の目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。
「ルールー、駄目だろイタズラしちゃ。勝手に触らない。約束」
「すみすにあげよーと思ったの! すみす、お花、よろこぶ!!」
「わあああルル! しーだ。それはしー!! 内緒!」
男はなぜか慌てた様子で、人差し指をくちびるにあてている。女の子もそれを真似て、しーしーと楽しそうだ。なにやらお取り込み中らしいのだが、店員として声をかけないわけにもいかない。イサミが「あの……」と呼びかけると、男は勢いよく立ち上がった。
「すみませんでした。こちらの花は買い取らせてもらいます」
「いや無事だったんだし、そこまでしてもらわなくても。娘さんにも怪我がなくて何よりです」
「いや、でも……」
その『娘さん』は今、「さわらない。さわらない」とつぶやきながら、興味深げに店内のハーバリウムや観葉植物を見て回っている。一方、男は眉を下げて、すっかり落ち込んでしまっていた。
毎週金曜日、うれしそうに花束を受け取る男の姿が、イサミの脳裏に浮かんでいる。笑顔しか知らない男のしょんぼりとした様子に、さすがのイサミもフォローしないではいられなかった。
「……いつも花、買ってもらってるわけだし」
だからそこまで気にする必要はない。イサミは不器用ながらそう伝えたつもりだった。けれど、男は別の意味で受け取ったようだ。下がっていた眉が上がって、表情の陰りがパッと晴れた。
「覚えててくれてるのか」
そりゃあ週一で、しかもスーツ姿に子連れで来る外国人なんてアンタくらいだ。イサミはそう言いかけたが、店員と客の距離感ではないと思い直して言葉にはしなかった。しかし男のほうが、イサミの保った距離を急激に縮めてくる。
「俺の名前はルイス・スミス」
「? はあ、どうも」
急な自己紹介にこっちも名乗るべきか迷っていると、男は……ルイスはなぜか先んじてイサミのフルネームを呼んだ。
「イサミ・アオ」
そういえば以前、エプロンに付けてる名札の読み方を聞かれたな。なんてイサミが考えていると、ルイスは頭を掻いて、はにかんでいる。
接客を越えた交流が始まる気配に、イサミは戸惑っていた。愛想がない自覚があるし、必要以上の雑談も苦手だ。だから、気さくに話しかけてくるルイスは正直、まぶしくて困ってしまう。
「花が相当好きなんですね」
そんな分かりきったことしか言えない。しかしルイスの返事は意外にも「そうじゃなくて……」という歯切れの悪いものだった。
「あぁ、そうですよね。奥さんとか……大切な人へ贈るのか」
後半は、もはや独り言だった。
花束を受け取るルイスの、うれしそうな顔。それは見知らぬ大切な人へ花束と一緒に捧げられるものなのだ。そう気付くと、イサミはこの会話をさっさと切り上げたい気持ちになった。どうしてかは分からない。きっと、必要以上に話しかけてくる客にペースを乱されているのだろう。そう決めつけたイサミは作業台へ戻り、作りかけの花束を仕上げにかかる。見繕った淡い黄色のガーベラは、ルイスのネクタイに合わせた花だ。紺色に黄色が良く映えるだろうと思って。
「お待たせいたしました」
「イサミ……」
作業台に併設されたレジに立ち、イサミは会計金額を読み上げる。どうしてか気まずくて、まともに顔を上げることができない。代金をぴったり受け取りレシートをトレーに置く。あとは作った花束を渡せば、それでおしまいだ。来週から同僚のヒビキにシフトを代わってもらおうか。そんなことを考えながら、イサミはようやく顔を上げた。
「ありがとうございました」
ルイスの手に渡った花束は、イサミの目論見どおり良く映えていた。紺のネクタイだけでなく、水色のワイシャツにも、濃紺のスーツにも。イサミが己の仕事に達成感を感じたのも束の間、ルイスは両手で受け取った花束を、そのままイサミに突き返した。
長く花屋をやってきたが、イサミにとってそんなの、初めての経験だった。
「ンだよ」
客相手に敬語すら忘れた。半ば睨みつけるような、険のある視線になった。仕事を否定されたと思ったからだ。しかしルイスは動じることなく、まっすぐにイサミの視線を受け止めている。花束も引っ込めようとしない。やがて意を決したように言うのだった。
「この花束が大切な人に贈られるべきものなら、俺はこうするしかない」
「はあ?」
「オレがここに通ってる理由は、君なんだ」
「……へ?」
──花が相当好きなんですね
──そうじゃなくて……
──あぁ、そうですよね。奥さんとか……大切な人へ贈るのか
突き返されたのではなく、差し出された。そう気づいたら、自然と花束を受け取っていた。それでも理解が追いつかないイサミへ、ルイスは核心を告げる。
「イサミ、君のことが好きだ。俺と恋人になってほしい」
「で、でもアンタ、娘──」
「ルルは実の娘じゃないんだ。ちょっと、その、いろいろあって」
ちいさな声でそう言うと、ルイスはルルへ視線を向けた。イサミもつられるように同じ方向を見る。今の彼女は、ガラスケース内の生花に夢中なようだ。
アネモネ、チューリップ、ミモザ、バラ、コスモス。ルルが動くのに合わせて、青の髪も揺れる。きれいに切りそろえられた毛先に、イサミはルイスの注ぐ愛情を見た。それじゃあ、自分の手にあるこれは?
イサミが思いを馳せていると、ルイスはその肩を力強く叩き、ウインクをした。
「来週また来る。そのときに返事を聞かせてくれ」
そうしてケースに張り付いているルルを呼び、抱き上げて店を出ていく。
嵐のような時間がすぎ去って、イサミは花束を手に、一人ぽかんと立ち尽くしてしまっていた。やがて実感がじわりじわりと追いついて、ようやく告白された驚きがやってくる。
「……マジかよ」
俺を好き? あの男が? 信じがたいが、花束だけでなく言葉にしてはっきりと伝えられた。碧の瞳も真剣だった。それを思うと、イサミの心臓が揺れる。
自分とは真逆の男だ。気さくだし、親しみやすい。まぶしい笑顔は、きっとたくさんの人間を惹きつける。うれしそうに喋りかけてくるルイスに困りながら、イサミだってその例外ではなかった。惹かれていた。黄色の花は他にもあって、それでもガーベラを選ぶ程度には。
そんなふうに、イサミの胸にはルイスのまぶしさに育まれた感情がずっとあって、それが今、花開かないまでも、芽吹いたのかもしれない。だってルルが本当の娘ではないとわかったとき、イサミはうれしかったし、安堵した。そんなの、返事はもう決まったも同然だ。でも。
「言うのかよ好きって。俺が?」
その答えは、来週の金曜日に。イサミはそのあいだずっと、気恥ずかしさと幸福にもだえることになる。帰宅後、花瓶に飾ったガーベラの色がルイスの髪色と同じだと気付いて、膝から崩れ落ちたりも、する。