原稿の始めの方②まさか入学してすぐに実践に駆り出されるなんて。
模擬戦さえ「見学」から始まるものと思っていたアッシュは、
まったく覚悟が足りていなかったと痛感した。
赤き谷ザナドへの道中では、多くの生徒が緊張しているようだった。
アッシュからすると、フェリクスとシルヴァンだけがいつもと変わらないように見えた。
実戦経験のある同級生たちがまた果てしなく遠い存在に思えた。
すでに戦場を知っている武器を握っても彼らはとても落ち着いて見え、
後方でアッシュは手を震わせていたが、指揮をとっていた教師の指示で矢をつがえた。
アッシュが狙ったのは逃げようと地を這う手負の盗賊だった。
それは見事に的中し、とどめの役割を果たした。
教師はよくやったなとアッシュを褒めたが、アッシュは弱々しく「はい」と答えることしかできなかった。
人を狙ったことも人に矢を当てたのも初めてだった。
憧れの騎士になったとしたら、こんなことが日常になるのか。
それが主命であれば、人を殺すことも当たり前だ。
そんなことはわかっていたし、大好きな物語の中でもそうであったから、
アッシュは自分も命を奪い合うことの覚悟ができている気でいた。
そうして、遠くでまた誰かが息絶える様子に、アッシュはつい目を奪われた。
その瞬間、すぐ後方で血しぶきと鈍いうめき声が上がった。
「余計なこと考えんな!死ぬぞ!」
鬼気迫った声を浴びせられ、アッシュはびくっとして振り向き後ずさった。
そこではシルヴァンが肩で息をしながら、敵の胴から槍を引き抜き血を払っていた。
そしてアッシュの顔を見ると恐ろしい形相で叫んだ。
「早く行け!」
アッシュは返事も出来ずに、慌てて指示されていた茂みのある地点へと駆け出した。
それからは自分のやるべきことに必死で集中した。
お疲れ様と声を掛けられ、はっと我に返って目にしたのは、
点々と転がる盗賊たちの死体と、返り血を浴びながらも無事に生き延びた同級生たちだ。
どうやらひどい怪我を負った者はいないようで、級長と教師は冷静に戦果の確認をしていた。
アッシュと同じように初めて実戦に出たものは、気が抜け、酷く疲れた表情をしていたが、
シルヴァンはいつも通りの脱力した佇まいで状況を報告していた。
むさくるしい野郎ばかりでしたねえ、などとまたふざけたことを言って、
ついさっきまではそんな浮ついた男の姿はまるで無かったのに。
ザナドから戻って数日後、アッシュは寮の前でシルヴァンを見かけて駆け寄った。
「シルヴァン、この間は助けていただいてありがとうございました」
アッシュが礼儀正しく頭を下げると、シルヴァンは面倒そうに頭の後ろで腕を組んだ。
「あー、いいっていいって、よくあることだし」
「よくあっては困ります」
寮の拳を握りしめてアッシュは真剣な顔で言った。
シルヴァンは戦場での鋭い表情は跡形もなく、いつも通りへらへらと笑っている。
「こんどは足手まといにならないよう頑張ります!」
「おー、やる気があんのは偉いけど……」
まともな戦力になれるまではずいぶん時間がかかるだろうなとシルヴァンは想像した。
アッシュは幼少から訓練を受けているわけでもなく、体格に恵まれているわけでもない。
それなのに早く結果を出そうと気持ちが逸っては、しょうもないことで命を落としかねない。
シルヴァンはたいして親しいわけでもないのに、アッシュの努力が正しく報われてほしいと思っていた。
「焦って根詰めすぎんのも良くないぜ」
軽く息を吐きながら、シルヴァンは意気込むアッシュをたしなめるように言った。
「でもせめて、早くみんなに迷惑をかけないぐらいにはならないと」
アッシュは俯いて答えた。このままでは周りの荷物になってばかりだ。
自分も少しでも人の役に立てるようにならなくては、騎士への道のりなんて程遠い。
シルヴァンは、浮かない顔をしているアッシュの背後に回り込んだ。
「反省ばっかしてないで、少し息抜きでもしろよ。せっかく初陣がうまくいったんだ」
力が抜けるようにとアッシュの両肩を撫でて、耳元で楽天的に囁いた。
「うまくはいってないと思いますが……」
「生きて帰ったんだからうまくいったさ!」
少しは話を聞け!という気持ちをこめて、シルヴァンはアッシュの肩をがしがしと揉んだ。
アッシュは真面目で、しかもずいぶん頑固者のようだ。
遊びに連れ出してくれる親しい知り合いもいないようだから、放っておけば追い詰められていきやしないか。
「ほら、食堂でも行かないか? 今日は桃のシャーベットが出るってよ、きっと女の子が集まってるぞ」
「えっ!」
シルヴァンの台詞を聞いて、アッシュは目を輝かせた。
「お!やーっとアッシュも女の子に興味がわい」
「そうじゃなくて!僕、シャーベットってずっと食べてみたかったんです」
わくわくと嬉しそうに話すアッシュを見て、シルヴァンはなんだか安堵した。
一生懸命な人間は嫌いじゃないが、真剣な顔ばかりでは心配になる。
食堂を一通りうろついたシルヴァンは気落ちした様子でアッシュの元へと戻ってきた。
「だめだ、シャーベットが溶けるからって相手にしてもらえない」
「だってこれすごく美味しいです!君を相手にしてる場合じゃないですよ!」
アッシュは感動して頬っぺたを落としそうな顔でシルヴァンの袖を引っ張った。
今まで見たことのない嬉しそうなアッシュの様子に押され、シルヴァンは隣に座った。
「シルヴァンも食べたらどうですか」
「あー、甘いものは好みじゃなくて」
「そんなこと言わずに!ほら、美味しいですよ」
そう言ってアッシュはシャーベットをひとさじすくってシルヴァンに差し出した。
シルヴァンは一瞬驚いたが、素直に目の前のシャーベットをぱくりと口にした。
「へえ、案外さっぱりしてるな」
悪くないといった顔で味わうシルヴァンを見て、
アッシュはにっこりとして、その後はっとして肩を跳ねさせた。
「わあああ、すみません!つい弟たちにする時の癖で……」
「兄弟がいるのか? 」
笑いながらシルヴァンは尋ねて、確かにアッシュは世話焼きっぽいもんなと納得した。
「はい、好き嫌いをしたときなんかはよくこうやって食べさせてたんです」
「へえ、いいお兄ちゃんなんだな」
きっと兄弟の面倒をよく見ていたのだろう、それはあまりにも想像に容易くてシルヴァンは優しく笑った。
なんだか恥ずかしくなってアッシュははにかみながら俯いた。
そうだ、そうやってお前の良いところを忘れないで、ゆっくり頑張っていきゃあいいんだ。
シルヴァンはそう思いながら、もう一つ桃のシャーベットを注文しに席を離れた。