スパイラル ゆっくり、そう、ゆっくり、音色は高みに。
同じフレーズ、同じメロディ。それなのに、調べは違って聞こえる。螺旋の階段を上がるように、天へと向かうように。
外大陸の文化に触れたという吟遊詩人と交流を持ったルカーンが新たにつくった歌は、これまでの詩吟とはまるで違うものだった。
物語ではない。誰かを称えるものでもない。恋の歌でもない。曖昧な歌詞、繰り返されるフレーズ。
「……どうかな?」
試奏なんだけど聞いてくれるかな、と請われるままにジルはルカーンの新曲を聞いた。そうして心の中に浮かんだのが、先の想いだった。
「不思議な曲ね……」
素敵な曲、とは言い切れなかった。不思議で、心の何処かに引っかかる曲。忘れた頃に思い出しそうだった。普段は心の奥底で眠っている感情。──それを無理やり揺り叩き起こされて、突き付けられたなら。そんな時に聞いたなら、涙が溢れただろう。
ルカーンの新曲を聞いたジルは、そんなことを思った。夜明けの空の下、トルガルの遠吠え。新たな世界を前にして、ひとりだと感じてしまった。あの日、この曲を聞いたなら。
何もできなかった。
見ているだけだった。彼が負うた心の傷を少しだけ癒せた……と思う。それくらいだった。
言葉を選んで話す姿を見るたびに、そんな必要はないのにと思った。
すべて背負い込んでしまう癖を見るたびに、貴方はひとりじゃないと何度も思った。
揺らぐ心に触れるたびに、流せない涙を見るたびに、すべて自分のものにしたかった。
何もできないけど。できなかったけれど。
傍にいたかった。旅をして、笑い合って、何者でもない二人で──、いや、昔のように三人と一匹で時を過ごせたらと思ったこともあった。
「ジル?」
調弦を始めたルカーンの傍を離れ、ジルは隠れ家の主の私室──クライヴの私室へ向かった。ノックをして入ると、書類仕事をしていたらしいクライヴが不思議そうな顔でジルを見た。
「クライヴ、あのね」
「ん?」
ペンをトレイに置き、クライヴがジルの言葉を待つ。ジルは書類机に腰かけると、座ったままのクライヴに口づけた。
目を閉じる間も与えずに口づけたのに、クライヴはジルの唐突な口づけに一瞬だけ目を瞠って、すぐに主導権を握った。ジルの腰を抱いてその体を引き寄せ、もう片方の手で、書類やらインクやらペンやらを机の端に寄せる。目を細めて見つめてくるクライヴに、ジルは目が離せなくなった。
どうした?と問う代わりに口づけが贈られる。甘く、軽やかな口づけを彼はいつ覚えたのだろう。「初めて」のときは触れるのも怖い、といった感じだったのに。
自分も、いつ覚えたのだろう。彼から贈られる熱を素直に感じるすべを。
少しだけ唇を食み、ジルはクライヴから離れた。小首を傾げて微笑むクライヴに、ジルも微笑む。
「傍にいていい?」
「勿論。……少し手が離せないが、サインするだけだから話し相手にはなれると思う」
「ちゃんと中身も読まないと」
「……そうだな」
言葉の意味を取り違えたクライヴをそのままにして、ジルは私室に置かれた椅子に座った。気に入りの本を置いてあったから、それを手にして少し読み進めることにする。……そうしながら、彼の邪魔をしないように、それでもこっそり盗み見る。
今、彼はひとりではない。多くの支えを得て、愛されて生きている。
自分もそのなかのひとり。……そして、彼から愛を得ているひとり。唯一ではないけれど、多くの愛情を注がれている。そのことを今は戸惑うこともなく、肯定できる。
未だ迷い子になるようなこともある。彼の内なる激しさに翻弄されることも。それでも、感情をぶつけてくる彼が愛しくて、嬉しくて、心という名のどこかが泣く。
少しずつ、愛して。愛されて。そうして、これからも。
「そういえば、ジル」
「なあに?」
読書が少し進んだ頃、クライヴがジルに声をかけた。誰にでも見せるわけではない優しい面差しで彼は言う。
「さっき、不思議な調べの曲が聞こえてきたんだが……?」
「……ああ、あれは」
ジルはクライヴにざっと説明した。ルカーンの新曲を聞かせてもらったのだと。
「空の高みに上っていくような気持ちになったよ。歌詞は聞き取れなかったが」
「ルカーンに言ってあげて。喜ぶと思うわよ」
ジルの言葉に、クライヴは「そうしよう」と頷いた。
「後で一緒に聞きに行こう。そういえば、モリーが新作のフィグパイを作ったと言っていたから、それを食べながらでも」
「まあ!」
思わず浮き足立ったジルを見て、クライヴが笑う。「あと十枚、書類に目を通したらな」と約束してきた彼に、「待っているわ」と言い、ジルもまた本を再び開いた。
本の中身は頭には入ってこないけれど。
その一方で、あの歌の詞は何処までも心に抉りこんだけれど。
あの歌詞は自分の祈り。
あのメロディは同じフレーズだけれど、ループではなく、スパイラル。此処から続く、何処かへ。たとえば、今から未来へ。
自分の想いが彼に届くことをジルは願った。