Eclosion 一緒に出掛けないか、の短い言葉を口にするのに、こんなにも緊張したのはスミスにとって生まれて初めてのことだった。閉店作業中のイサミは花の入ったバケツを手に取ったままでスミスに目を向けた。
スラングまでは理解しきれていないものの、母国語に加えて英語も話せるイサミに甘えて二人の会話はほとんど英語で構成されている。日本語で話すのは子供らしい唐突さで英語から日本語へと言語の切り替えをするルルに合わせた時くらいである。
誘い文句も当然のように英語だった。それなのに、二十四年間慣れ親しんだ言語は危うくもつれて舌を噛むところだった。なんとか言い切ってから、スミスは口の中がやけにねばねばしていることに気が付いた。平静を装っているものの、スーツの下は汗が滲んでいる。
そんなスミスとは対照的に、誘われたイサミはと言えば涼しい顔のままで逡巡する素振りも見せずに「いいぞ」と快諾してくれた。あまりの躊躇いのなさに、勝手に抱いていた緊張感もどこへやらで誘ったスミスの方が戸惑ってしまう。彼が立派に花屋を切り盛りする同い年の成人男性であることは十分過ぎるほどわかっているのだが、たまに見せる警戒心のなさが心配だ。俺が悪い男だったらどうするつもりなんだ、とは、イサミに下心のあるスミスが言えた立場ではないけれど。
「どこに行くんだ? 前にルルが行きたいって言ってたところか?」
「あ、ごめん、違うんだ」
くれぐれも俺以外には引っかからないでくれとスミスが密かに願っているうちに、イサミが話を進めようとしたので慌てて止めた。伝えるべき重要事項が一点残されている。
話を遮られたイサミが「違うって何がだ」という顔をした。感情が大きく揺れ動けば存外表情豊かであるものの、そうでないときはイサミ自身が仏頂面であると認めるように、イサミの表情はさほど大きく変化しない。しかしそんな彼の僅かな表情のニュアンスを汲み取った――そしてそれを得意に思いながら――スミスは照れ臭さと若干の気まずさの入り混じった顔で眉を下げた。
「その……次の定休日、ルルがお泊りでいなくて……だから、俺と二人で」
休日、あるいは仕事終わりに、イサミを食事や外出に誘うことは何度もあった。今更緊張するようなことでもないのに人生一でスミスが緊張したのは、〝二人きり〟は初めてのことだからだ。
スミスの世界は今のところルルを中心に回っている。何事においても彼女を優先し、除け者にしたりはしないと、彼女を養子として迎え入れると決めた際に心に誓った。それは例え、スミスが強烈なまでに誰かに恋したとしても、である。そこまでの固い決意がなければ下してはいけない決断だと思ったからだ。
そのために、ルルの不在だからといってイサミと二人きりで出かけるつもりは当初なかった。普段は少々疎かになっている掃除でもして、買い出しを済ませた後はゆっくりお気に入りの特撮ヒーロー映画でも観ようかと思っていたのに、スミスの背中を押したのは他ならぬ世界の中心だった。
イサミよりも少しばかり古い知り合いで、ルルがオジサマと呼び慕う人の家に一泊することが決まった夜にしゅみしゅはどうするの? と訊ねられた。別に隠すようなことでもないので考えていたプランを伝えると、たちまち彼女はその柔らかな頬を大きく膨らませたのだ。
「だめ!」
「ダメ? 何が?」
「ルル、オジサマのおうちにおとまり! しゅみしゅも、一人はだめ!」
「ええ……?」
ガガピ! と彼女独特の声を上げながら必死に訴えるルル曰く、ルルはオジサマと二人で楽しく過ごすのにスミスは一人ぼっちでいるのはいただけないと。二対一では不公平だ、スミスが可哀想とのことだ。
なんとも子供らしい突飛な発想であるが、とにかく不満であることは十分に伝わった。しかしそうは言ってもどうすることも出来ないことに苦笑を浮かべていると、名案を思い付いたとルルがぱっと顔を明るくする。
「しゅみしゅは、いしゃみと遊ぼう!」
「へ? え? い、イサミ?」
スミスが動揺したのは、まさかここでイサミの名が出るとは思わなかったからだ。急速にドギマギし始めたスミスをよそに、ルルは輝かんばかりの笑顔でびしりとスミスを指差した。人を指で差したらめーっだとやんわりと注意しながらも、激しく鼓動する心臓で気が遠い。
「そー! ルルはオジサマと、しゅみしゅはいしゃみと! これでおんなじ!」
「い、いや、でもそんな……よくないだろ」
「どうして?」
「どうしてって……」
どうしてって、それは、イサミと過ごす時は必ずルルも含めた三人でと決めているからで。しかしそれはスミスな勝手な誓いによるもので、当の本人であるルルがイサミと過ごせと言っている。
なら、いいのだろうか。イサミを誘って、二人きりで過ごしても。……え、本当に?
呆然としながらルルを見ると、素晴らしい提案が出来たことにルルは誇らしげに腰に手を当てて胸を張っていた。ムフー、と荒い鼻息を零しながら、ぜったいだからね、いしゃみと遊んでね、あとで聞くからね、と詰め寄られ、挙句に指切りまでされたのだった。
今日も朝からルルに念押しされて――そしてそんなルルは現在ブレイフラワーの従業員であるヒビキと楽しそうにお喋りをしている――とうとうイサミを誘ったわけであるが、二人きりだと知ってイサミがどんな反応をするかと緊張がぶり返す。そっとイサミの顔を窺えば、彼はどこか唖然としていた。今までになかった反応だ。もしかして嫌だったろうかと、たちまち緊張からではない汗が噴き出す。
すでに店員と常連客の枠を飛び越え、随分と親しくはなかったがいまだ明確な立ち位置はない。友人ではあると思う、しかし親友とまでは呼べない、なのに時々とんでもなく許されている、けれど、まだ触れてはいけない関係。
多少関係が後退したとしても、イサミに嫌われるのだけは何としてでも避けたかった。スミスの世界の中心にはルルがいる、そこに、イサミにもいて欲しいと願っているから。
悪い、嫌ならいいんだ、気にしないでくれと言おうとしたのを遮ったのはイサミの声だった。
「二人って……お前はいいのか?」
おずおずと訊ねるイサミの、バケツを握る手に力が籠る。黒い手袋に皺が寄った。
予感がして、スミスは急いで首を縦に振った。
「もちろん! 俺が誘ってるんだから」
「ああ、そっか」
そうだよな、とイサミが口の中で繰り返す。
じっと見ていなければわからない変化。外から差し込む夕日のせいではなく、イサミの健康的な肌にじわりと赤味が滲んでいく。イサミの視線が手元の花に落ち、スミスの背後のルルに向けられ、レジ横のカレンダーに流れて、最後にスミスに行きついた。
「行きたいところはあるか?」
ごくごく慎重な、遠回しの〝YES〟。スミスは息を呑み、同じだけ慎重に返した。
「イサミとなら、どこへでも」
ゆっくりと瞬きをしたイサミの表情は、今まで見たことのない顔だった。