温もりをあなたに「なんだ、オルシュファンはいないのか」
「はい、本家での会合のため本日は夜更けまで戻らないかと……」
いつものように近くに来たからとドラゴンヘッドに立ち寄った冒険者ルカは、すまなそうに主の不在を告げる副官のコランティオに拍子抜けした顔を見せた。いつ来ても歓迎してくれるから常にあの席にいるような気がしていたが、砦の指揮官であり四大名家に連なる者である。本国に招集されることもあれば貴族の会合に出席することもあるだろう。
「何かご用事でしたでしょうか?」
「いや、近くにきたから顔を見せに来ただけだ」
ラノシアでいい酒と肴が手に入ったので一杯やろうと思ったのだがあてが外れてしまった。予定も確認せずふらっと来たのだから、まぁこういうこともある。瓶詰めになった魚介の珍味は足が早いわけでもないし、またの機会にしよう。
「邪魔したな、また来る」
「あ、ま、待ってくださいルカ殿!」
慌てて引き止めた声に振り返り、躊躇うように言われた言葉に首を傾げたのだった。
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月も星も見えない暗い夜、皇都とキャンプ・ドラゴンヘッドを繋ぐ道を歩くオルシュファンの足取りは重かった。本家で催される会合には重要拠点の責任者であることを理由に出席を見送り当主もそれを黙認していたが、それでも年に数回避けられない集まりというのはある。
するとどうなるかなど、火を見るより明らかだ。冷ややかな視線を投げつけられ、和やかな会話の端に侮蔑を滲ませ、腹いせとばかりに嘲りの標的にされる。それらを躱すのはどうということはない。幼い頃から晒されてきた悪意には嫌でも処理の仕方を覚えるというもの。
しかし身の躱し方を覚えると、痛みの代わりに感じるようになったのは諦めに似た倦怠感だった。それが今日も、会合に出ざるをえなかったオルシュファンの足を重くさせていた。こんな時でなければ袖を通さないフォルタン家お仕着せのコートは、最高級の素材を使い職人が丹念に仕上げた物のはずなのにどこか寒々しく、着慣れた重たいホーバージョンがなぜか恋しく感じた。
重い足を引きずり我が家でもあるキャンプ・ドラゴンヘッドに着くと、夜半にも関わらず夜警の兵士はキビキビとした挨拶を投げかけた。それを取り繕った笑顔で労い自室へと向かう。
部下たちには帰りがいつになるかわからないから部屋の暖炉は火を入れずとも良いと伝えたが、冷えきったベッドに潜り込むことを考えるとまた体が重くなるような気がした。今日ばかりはとてもイイ騎士などと言えたものではない。明日になればまた気持ちも切り替えられる、今日は早く寝てしまおうと自室の扉に手をかけた。
「おかえり、オルシュファン」
扉を開けて出迎えたのは、ふわりと顔を撫でる暖かい空気と、心の底でいつも恋焦がれている彼の穏やかな声。暗く冷えきっているはずの自室は暖かい光が灯り、パチパチと爆ぜる暖炉の傍らに腰かけていたのは、親愛なる盟友――ルカだった。なぜ彼がここにいるのか、状況がわからず立ち尽くしているとルカが怪訝そうに眉をひそめた。
「何してる、せっかく暖めた部屋が冷えるだろ。さっさと入れ」
「あ、あぁ」
自分の私室のはずなのになぜか入るのを急き立てられる。なぜ彼がここにいるのかはわからないが、無様な姿を見せたくは無い。いつも通りを心がけ、笑みを形作った。
「来ていると思わなかったから驚いてしまったぞ。何か急用か?」
「いや、まったく。偶然いい酒と肴が手に入ったからあんたと一杯飲もうと思ったんだが……今日はお預けだな」
ラベルを見せるように瓶を掲げ持ったがそれはすぐに卓上に下ろされ、立ち上がったルカが目の前までやってくる。
「オルシュファン、ちょっと屈め」
「こうか……?なんだ一体、うぶっ」
両頬を手の平で挟み込まれ、ぐにぐにと揉まれ、ひっぱられ、揉みくちゃにされる。痛みこそないが何がなんだかわからない。
「んむっ友よ、なんなのだ……こら、やめないか」
手首を握ると簡単に離れたが、その手の持ち主は憮然と言い放った。
「疲れた顔でいい酒は飲むもんじゃない、作り笑いはもっとダメだ。暖かい茶でも淹れてきてやるから、戻ってくる前にその下手くそな笑顔を引っ込めておけ」
そう言って掴んでいた手からするりと抜け出し、廊下に出ていってしまう。空元気を見抜かれた気まずさに思わずため息が出て、脱いだコートを適当にソファの背に掛ける。言い訳を考えるのも面倒で、さっきまでルカが座っていた場所に腰かけぼんやりと暖炉の火を眺めていると、二人分のマグカップを持ったルカが戻ってきた。
「待たせたな」
差し出されたマグからは馴染み深い、だがどこか違う香りが立ち上っている。
「これは……」
「ああ、あんたがいつも淹れてくれるジンジャーティーを真似してみたんだが、どこか違くてな……まぁこれはこれで美味いはずだ」
マグを受け取りひと口含むと自分で淹れたものよりも甘く、少しだけ強いシナモンの香りがした。熱い紅茶が胃に滑り落ち体の中を温めるのにほう、とため息が漏れる。 自分のマグを持ったルカも隣に腰かけるが、オルシュファンを気に掛けるでもなくマグの中身を啜っている。自分が疲れを滲ませたせいで気を使わせていたら申し訳ないと思ったが、そういうわけでもないらしい。
何を話すでもなく、暖炉の火が爆ぜる音と温まった息をつく音だけが静かに部屋に満ちている。気づけば皇都から帰るときに感じていた澱んだ諦めも、心がささくれ立つような寒々しさもすっかり忘れていた。
暖めた部屋で「おかえり」と出迎え、温かい紅茶を淹れ、何も聞かずに隣でただ茶を飲んでいるだけで心が安らぐ。そんな関係を築ける相手は、どれほどの人間と出会おうとそう巡り合えるものではない。まったく、得難い友を手にしたものだ。
「……情けないところを見せてしまったな。お前の前では格好をつけていたかったのだが……」
ルカと会うときは彼のたくましい肉体や冒険譚に心が躍りつい活発にふるまってしまう分、疲れた姿を見せてしまったことが今更ながらに気恥ずかしくなってしまう。空元気を一目で見抜かれてしまったこともあり、尚更だ。
「別に気にすることじゃない。あんたが俺に言ったのと同じように、俺の前でくらいイイ騎士じゃなくなってもいいだろ」
表情も変えず、ぶっきらぼうに言われた言葉は優しい。その言葉はかつてルカが謀られオルシュファンの元に身を寄せていたとき、英雄の重圧に潰されそうになっていたときに投げかけた言葉だった。彼が今もそれを覚えていて、あの時の自分と同じように肩書を取り去って寄り添おうとしてくれていることが嬉しく胸が苦しくなる。
「少しくらい愚痴吐いたり、疲れた顔を晒したところであんたへの信頼は揺らいだりしない。ここの連中はみんなわかってると思うぜ」
「……お前も、そう思ってくれているのか?」
「俺?当然だろ。あんたはいつだって格好良くて頼りになる、最高の騎士だ」
当たり前のようになんのためらいもなく告げられた言葉に胸の奥が温かくなる。強く逞しく、己の信条に従って戦う気高い冒険者が、信頼を寄せてくれる。そしてそれが揺るぎないものだと信じられる。それがどんなに嬉しく、誇らしいことか。そして、それと同時に湧き上がる愛おしさに堪らない気持ちになる。
その気持ちに任せ、マグを置いて隣に座るルカの肩に額を預ける。紅茶に入れられたスパイスと彼自身の匂いが鼻先に香り、それが心地よく深く吸い込むとくすぐったそうに笑われた。
「はぁ…………ルカ」
「ん?なんだ」
呼びかけるとルカもマグを置き、後頭部をゆるく撫でながら話を聞く姿勢を取ってくれる。
「今……とても、お前を愛したい」
「……直球だな」
「嫌だろうか?」
顔を上げると褐色の肌が夕日に照らされた大地のように赤らんでいて、視線が合うと照れくさそうに逸らされるが、ミコッテ族特有の耳はパタパタと忙しなく跳ねている。
「…………嫌なわけあるか」
その答えに頬を撫でてこちらを向くよう促すと、色づいた目元が伏せられた。薄い唇に自身のそれを重ね合わせ、啄むように深めていく。その体がソファに沈むころには、帰路に感じていた寒々しさは遠く記憶の隅に追いやられていた。