あなたと一緒にどこまでもあなたと一緒にどこまでも
外は梅雨らしくじめじめと湿気ていて、日が暮れてすっかり漆黒の世界と化した夜空にも厚い雲が茫洋と漂う。この陰気臭い季節は正直好きではないが、夏野菜が出回り始めて食卓の彩りが鮮やかになるという点だけが唯一及第点だ。一郎はあまり気にしていないようだが、この家の食事担当である俺にとっては割と大事な要素だ。
ということで、今日の夕食はトマトやオクラ、ズッキーニを添えた夏野菜カレー。一郎の口にも合ったようで、一郎は二回もおかわりをしていたにもかかわらず食べ終わるタイミングは俺とほぼ一緒だった。もうちょっと味わって食って欲しい思いはある一方、その食いっぷりを見ていると作りがいがあるというものだ。同棲し始めてからというもの、一郎の腹には以前より若干肉がついた気がするが、そこは黙っておいてやろう。
「てめぇ昼飯食い損ねたのか?」
「昼食ったけど、フツーに腹減ってんだよ! 今の仕事、肉体労働ってわけじゃねぇけど、立ちっぱだからそこそこ体力使うっていうか」
「てめぇ今何の仕事してんだっけか」
「六月三十日は人魚の日ってことで人魚に関する企画展やるから、それの警備。こっからもそんな遠くねぇし、来てくれてもいいんだぜ」
「行かねぇわ。てか人魚の企画展ってなんだ? そんなに作品あんのか?」
俺が余程訳の分からない顔をしていたのか、一郎の口元が若干ニヤついている気がする。心なしか表情もしてやったり顔だ。失礼なヤツめ。
「てめぇ」
「まあまあ怒んなよ、人魚って意外と身近なもんでさ」
「へぇ」
「例えばなぁ……左馬刻もたまに行くシアトル系のコーヒーショップ、あのロゴもセイレーンつって人魚の仲間みたいなもんがモチーフになってて」
「セイレーン?」
一郎が言うには、セイレーンとは人魚に似た見た目をした海に棲む伝説上の生き物で、美しい歌声で水夫を惑わして海中に引きずり込んでしまうらしい。何でそんなやべぇ生き物がコーヒーショップのロゴなのか。まぁ味で客を虜にするとか、理由はそれなりにあるのだろう。
「あと、一番有名なのは人魚姫だな」
「人魚姫」
人魚姫、それは知ってる。昔、まだ合歓が小学校に上がる前、合歓に強請られて図書館なんてガラじゃねえのに絵本を借りて来させられ、それで読み聞かせをしてやったことがある。
後にアニメ作品――オチは全く異なるが――の元にもなった有名な古典童話で、人間の王子様に恋をした人魚姫が王子様に会うために声と引き換えに足を手に入れるけれども、王子様とは上手くいかなくて、最後は泡になって消えちまう話。合歓はエンエン泣いてたっけか――何で人魚姫は王子様と結ばれないの? なんで幸せになれないの? って。
「左馬刻?」
「え、あぁ、合歓に読んでやった時のこと思い出してた」
「合歓ちゃん好きそうだもんな」
「……けど、ハッピーエンドじゃねぇっつってむくれてたぜ」
読み終わったあともワンワンピーピー泣く合歓をなんとか宥めすかして、というか泣き疲れて寝てくれたが、当時既にひねくれていた俺は「そりゃ生きてりゃ上手くいかねぇこともあるだろうよ」としか思えなかったから、合歓の反応には困惑したものだ。
「なるほどな、けど、俺もその気持ち分かるかも」
「マジかよ……」
「俺なら、ハッピーエンドを諦めない」
「は……」
一郎はその力強い赤と緑の瞳をじっと俺に向けて語りかけてくる。
食後の与太話だったはずが何だかおかしな方向に進んでいる気がする。
「俺だったら最後まであがいてハッピーエンドにしてやる。諦めて泡になんか絶対にならねぇ。たとえ他の奴に時間がねぇとか、無理だとか、なんと言われようとも絶対に振り向かせてやる」
「……」
「んで、最後は二人で幸せに暮らす」
「……てめぇらしいな」
ニカッと得意げに笑う一郎が眩しい。
俺もこいつも年をとって、一郎だってもう十代の若造という訳ではないが、こういう表情はあの頃のままでクソガキそのものだ。そんなガキを可愛がってる俺も俺だから何も言えないが。
「だから合歓ちゃんも、悲しいって気持ちだけじゃなくて、やるせねぇとかそういう思いもあったんじゃねぇのかな、多分だけど」
何となくだが、一郎の想像は当たっている気がした。意思が強くて、真っ直ぐで、世話好きで――合歓と一郎はよく似ている。
「……そうかもな」
「お、いつになく素直だな」
「るせぇわ」
ハッピーエンドにしてやる、ね。
フンフン鼻歌を歌いながら食器を洗う一郎を横目にテーブルを拭きながら、先程の一郎の言葉を反芻する。俺だったら絶対に思いつかない、一郎らしい、前向きで諦めの悪い言葉。
「……」
てめぇはそういう奴だったな、一郎。仲違いして、一時は口もきかないどころかむしろ手も足も口も出るような仲で、中王区が崩壊してお互いの誤解が解けた後も何だかギクシャクしていたのに、諦めずに俺に手を差し出して。
だからこそ、今の俺たちがある。
「……人魚展、か」
一郎と話して、合歓のことも思い出して、ほんの少しだけ心の中で風向きが変わった。さっきは行かねぇわと即答してしまったし、すごく興味がある訳では無いけれど、ちょっと覗いてみるか。
「行き方調べねぇとな」
「ん? 左馬刻なんか言ったか?」
「……別に」
あと――たまには一郎がどんな仕事をしているのか見てやるというのも、まあ悪くないかもしれない。
トウキョウ、ウエノ。一郎も俺もあまり来ないエリアだ。正直なところウエノと聞くと動物園くらいのイメージしか無かったが、周囲には本場の味をウリにした中華系の飲食店なども充実していて、子供だけでなく大人も楽しめるような街で驚いた。同じ中華系でもハマの中華街とはまた違った雰囲気で、今度銃兎や理鶯を連れて来ても面白いかもしれない。
人魚展とやらをやっているミュージアムは、そんな飲食店が軒を連ねる繁華街からそう離れていないはずなのに、木々のざわめきや小鳥の鳴き声が心地よい、美術館や博物館が点在している閑静なエリアの一角にあった。
「……割と混んでるじゃねぇか」
流石に当日券は買えたが、すでに目玉と思われる作品を中心に人だかりができている。企画展をするだけあってそれなりに人気はあるらしい。
あと、想像していた通り完全に浮いている。女子供しかいねぇ。俺が館内を歩く度にチラチラと様子を伺われ、ここがウエノなだけに何だか動物園の動物にでもなった気分だ。あれサマトキサマじゃない? という声が聞こえた気がしたが気にしてはいけない。
「……へぇ」
人魚にフィーチャーしているだけあり、館内はどこも人魚の作品だらけだ。どこかで見たことのある宗教画のように海の中で神々しく揺蕩う姿、海面から顔を出して船上の水夫を誘惑する姿――これが一郎の言っていたセイレーンか。果てはどう見ても男にしか見えない人魚もいた。しかもその男の人魚が描かれた作品には次から次へと人が押し寄せていてすこぶる人気のようだ。女子供の好みはよく分からない。合歓にも昔何度かプリプリと文句を言われたのをふと思い出した。
思いのほかじっくりと――時折一郎や合歓のことを思い返しながら――展示を見て回り、そろそろ終わりという頃、後ろから声を掛けられた。
「左馬刻」
「……おう」
「来てくれたんだ、ありがと」
一郎には行くとも何とも言っていなかったのになぜ分かったのだろうか。そんな疑問が顔に出ていたのだろう。
「サマトキサマが来てるってちょっとザワついてたからさ」
……やはりチラチラ見られるだけでは済まなかったらしい。
「悪かったな、仕事の邪魔して」
「全然! てか来るなら言ってくれれば良かったのに」
「……まあ、急に時間空いたからよ」
てめぇの仕事場を見に来たなんて素直に言えるはずもなく、一郎にバレないようにと祈りながらしょうもない嘘をつく。毎度、毎度、何度繰り返しただろうか。
素直になりたい。けどなれない。太陽のようなこの男から愛情を貰うばかりで、返してやれない自分が歯がゆい。たとえそれが根っからの性分だとしても。
「そっか。でも、ホント来てくれてありがとな」
俺はお前に相応しいのか、たまに自信がなくなる。
一郎の仕事は本人の言っていた通り立ちっぱなし且つ動きっぱなしのようだったから、その日の晩飯はボリュームとスタミナ重視の献立にした。旬の脂の乗ったアジを使ったガーリックソテーと、肉も食いたいだろうと思い豚バラ肉の梅煮も。副菜はアッサリとオクラのごま酢和えだ。それと揚げ茄子の味噌汁と、ご飯はもち麦入りの麦飯。
「すっげ美味そう! てか美味ぇ!」
「……おう」
作りすぎた気がしなくもなかったが、次から次にパクパクと平らげる一郎を見ていると杞憂だったようだ。美味い美味いと言いながら食ってもらえると作りがいがある。自分も適当に箸をつつきながら、目を細めて一郎の様子を眺める。
「てか今日、」
「おう」
「ありがとな、来てくれて」
礼を言われるのは何度目だろうか。絵画を見たいという純粋な思いが無かった訳では無いが、一郎の働いている姿もたまには見たいという下心もそれなりにあったせいか若干決まりが悪い。
けれど、企画展は思った以上には楽しめたし――俺も、もう少し素直に言葉を口に出して、一郎に想いを伝えたい。ずっと一郎の心に甘えるだけじゃなくて、まずはここから、一歩ずつ。
「……人魚っていうとガキくせぇイメージがあったけどよ、意外とそうでもねぇんだな」
「だろ、俺も最初見せてもらうまで知らなかった」
「あと、」
「ん?」
「てめぇの働いてるところ見れて、よかった、わ」
正視に耐えず無心で味噌汁を啜る。けれどもどうにも反応が気になってしまいちらりと一郎の様子を伺うと、思っていたよりも嬉しそうな顔をしていた。
「……ん、そっか、ありがと」
「ッそれと、男の人魚もあって、吃驚したわ」
俺のたわいもない一言で、ここまで嬉しくなるものなのだろうか――途端にふつふつと羞恥心が沸き起こり、思わず露骨な照れ隠しとしか思えない反応をしてしまったが、そこは目を瞑ってほしい。
照れ隠しのネタにしてしまったが、男の人魚に驚いたのは事実だった。ミュージアムショップではいくつもグッズ展開されていて、人気の高さが伺えた。
「ん? あぁ、一番人気なんだぜ、あれ」
確かに作品もショップも人だかりができていたが、やはりあれが一番人気なのか。やっぱり女子供の趣味はよく分からない。
「てかあれ、ちょっと左馬刻に似てなかったか?」
「……は?」
例の男の人魚の容貌を思い出す。髪の毛は透けるような銀色で、瞳は……確かに赤かったが、俺より明るい色だった気がする。髪の毛もハーフアップにしていて俺より長かった。
「……似てねぇだろ」
「そうか? けどまあ左馬刻と人魚って似合う気がするんだよなあ」
「キメェ妄想すんじゃねぇよ!」
「いや、絶対似合うって! 俺が保証する!」
試しに自分があの衣装――と言っていいのだろうか――を着た姿を想像してみると鳥肌モノだったが、一郎はそうではないらしい。鱗はメタリックブルーで、貝殻の髪飾りが、とか謎のワードが次から次へと口から飛び出している。果ては「俺は人魚の左馬刻に一目惚れした水夫で」なんて妄想設定まで語り出す始末だ。
「……」
その人魚がセイレーンだとすると、俺は海から一郎を誑かして遭難させてしまうことになるが、何となく一郎だったらその過程も楽しんでしまいそうな気がして思わず口元が緩んでしまった。
「え? どした?」
「……てめぇのこと考えてた」
「!」
おまえと二人なら、どこだって、何があったって自分らしく生きられる気がする。
自分にとっては縁遠いと思っていたハッピーエンド。けれど、もしかしたら俺はもう、その幸せを手に入れているのかもしれない。
「人魚になっててめぇを誑かしてやんよ、んで、海に引きずり込んでやる」
「おう! それ、左馬刻と一緒に愛の逃避行って感じがしてたまんねぇな!」
――ほら、やっぱり。
てめぇと一緒にいること、そして二人で生きつづけることが、俺にとってのハッピーエンドだ。
《あなたと一緒にどこまでも 終》