遡行ifその4 柔らかな紅い髪をまた一筋取り、片手の中の房に加え、捩じって形を整える。頭の形に沿って編んでいき、くるりと回して一度、生徒手帳の画面を確認。見本と目の前の出来栄えを見比べ、頷く。うん、合格点だろう。エランが満足げに頷くと、そわそわとしていた青い瞳がゆっくりと振り返った。
「エランさん、無理はしなくていいですからね……?」
「無理じゃないよ」
あれだけ練習したのだから。心なしかむすりとした顔でエランは答えた。
今日はエランとスレッタのデートの日だ。熱を出したスレッタが、シーツの中で快気のご褒美にねだった約束の日。どんなものを用意してどんなところを巡るのか、ふたりでカタログやサイトを見て話し合って決めたのだ。だから、綺麗に髪を結う練習だってした。スレッタと話しながら彼女の髪に触れるのはエランにとって大した苦にはならず、むしろ不思議と心休まる思いもあった。
「ほら、できた」
鮮やかな髪に白く輝く髪飾りをしっかりとピンで止めてから手鏡を見せる。
「わあ……!」
スレッタの今日のリクエストは、編み込みを加えたポニーテールだ。彼女の要望で頭頂には細い銀細工のヘッドドレスを挿してある。
車椅子の上で赤いワンピースの皺を伸ばして、スレッタはエランに見えるように胸を張った。
「服も靴も、ありがとうございます」
「うん。似合ってる」
「んへへ」
嬉しさを噛みしめるようにスレッタが笑う。調達にエランを通しているとはいえ、彼女が身に着けているものはどれもスレッタが自分で選んだものだ。資金はエランではなくペイル社の懐から勝手に出しているため、エランは何もしていないに等しい。精々社から無駄遣いを疑われるくらいだろう。
頭の隅で社の追求のかわし方を考えるエランの手を、スレッタは大切そうに握った。手袋越しの温かさがゆっくりと伝わる。
「──今日は、エランさんのことたくさん教えてくださいね」
そう言って、ひかえめにはにかんだ。しっとりとした声音にはどんな想いが籠められているのだろうか。『エランさん』と別れた彼女の数年を、エランはまだ知らない。限られた時間の中で知れるといいのだけれど。
芽生えたばかりの願いを込めて、車椅子の持ち手に手を添えた。
「そうだね。じゃあ、行こうか」
「はいっ!」
無機質なペイル寮の外はもちろん快晴で、ずっと部屋に籠りきりだったスレッタは偽物の空を見上げて眩しそうに青い目を細めた。
「ずっと楽しみだったので、うれしいです!」
「そうだね。ぼくも楽しみ」
数日間、スレッタの熱はなかなか下がらなかった。体を悪くしてからはよくあることだと彼女は熱で腫れた顔で言った。データストームは脳を蝕み、ダメージが脳幹へと至れば重い麻痺に繋がる。免疫が下がれば風邪も引きやすくなるだろう。今まで平気そうだったのに、という言葉をエランは吞み込んだ。慣れない環境でそんな人間が体調を崩さないはずがないのだ。おそらくは、エランと和解したことで張っていた気が抜けたのだろう。日々を頑張っていた『ご褒美』はスレッタにこそ必要だった。
車椅子を押して、モノレールで目的地に向かう。他人の目を気にしなくてもいいように、モノレールは個室をとった。窓の外を眺めながら楽し気に体を揺らす様子に気だるさはない。そのことに、まずは胸を撫でおろす。
「ゲームセンターで遊んで公園で昼食。あとはウィンドウショッピング。今日の流れ、それで構わない?」
「はい。憧れてたんです。ずっと。水星にいたときから」
遠くを見ながらスレッタは呟いた。窓に映る彼女は遠くを見ている。その目に映っているのは遠くの景色ではなく、遠い過去なのだろう。体調を崩してからスレッタはこの顔をすることが増えた。そんな表情を見るたびに、エランはもやもやした気持ちになる。この目を過去に渡したくない。できるなら、今現在を見ていてほしい。
横顔を両手で捕まえたくなる気持ちを抑え、エランは忠告に留めた。
「気分が優れなくなったら言って。いつでも来れるから」
振り返ったスレッタは困ったように笑う。彼女はあけすけに見えて、案外不調を隠したがる。些細な変化でも気づけるように見ておきたい。エランがじっと眺めていると、やがて照れたようにもじもじと体の前で指を捏ね始めた。
「……エランさんは体調、大丈夫ですか?」
「うん」
彼女の風邪が移った気配はない。もしくは、彼女が尋ねているのはデータストームの後遺症についてかもしれない。エランの事情をスレッタは知っている。エランはエランではないことも、ひととして持つべきものを何も持たないことも、時間が残り少ないことも。すべて。
「身体、大事にしてくださいね」
自分が大切にしたところで、ペイル社は容赦なく使い捨ての駒としてエランの体を食い潰していく。エランに許された自由は残りわずかの生をどう感じて過ごすかという精神的な選択のみ。そう考えて生きてきた。それを今さら、変えてどうしろと言うのだろうか。
答えるべき言葉を持たないまま、曖昧に頷いた。
「うあぁ!?」
「ぼくの勝ちだね」
「もう一回! もう一回対戦しましょう! もうコツは思い出しましたから、次は負けません!」
「受けて立つよ」
「すごいね、全部作ったの?」
「ふふ、昨日の夜に仕込んで、スープまでバッチリ、ですよ! ……ところでエランさん、デザート、欲しくないですか?」
「ぼくはどちらでもいいけど。向こうにクレープの屋台が出てたね。買ってこようか?」
「いいんですか!?」
「占いスペース、無人で助かりました。ハロが運勢を見てくれたんです」
「どうだった?」
「そ、それはその。バッチリ、でした。どの誕生日でも」
「複数あるの?」
「あ、いえ、えっと」
「……ああ、そっか。良かった、ね?」
「……はいっ!」
「これ、どう?」
「え? エランさんによく似合うと思います。素敵です」
「そうじゃなくて、きみに」
「うぇ!? あっ、ちょっと、わたしには、オシャレ過ぎるというか……」
「そう? 似合うと思うけど」
「ほ、ホント、ですか?」
「嘘をつく意味がないよ」
「……うれしい、です」
「エランさんはあっちとこっち、どっちが好きですか?」
「……」
「……こっち、ですか?」
「どうして? ぼくはまだ、なにも言えてないよ」
「こっちのほうを長く見てましたから。エランさん、好きな料理とか、気に入った写真とか、じぃっと見るんですよ。もしかして、気づいてませんでした?」
「うん。……そうなんだ。よく見てるね、きみ」
「エランさんのこと、知りたかったんです。ずっと」
商業施設から離れた公園エリアに、目的のベンチはあった。
木製の座面にハンカチを敷き車椅子に座るスレッタへと手を差し伸べる。どこかの映画の俳優のように、もしくは童話の王子様のように。「最低限イメージを保て」とのペイルからの指示におざなりに従うのではなく、ただスレッタの前では彼女が望む「優しいエランさん」で在りたかった。
「どうぞ」
「わあ、ありがとうございます!」
スレッタを座らせ、その左隣にエランも腰を下ろす。一見して、なんの変哲もないベンチである。なにか特別なことが起こるわけでも、変わったものが見られるでもないベンチに、どうして彼女が来たがったのか。疑問に思った。
「どうしてこのベンチなの?」
エランが聞くと、スレッタは困ったようにはにかむ。もごもごと口を動かして、言い難そうに言葉を紡いだ。
「えっと。ここで昔、約束してて」
「……そう」
誰と、とは言われなかったが、察しはついた。けれど納得はしない。彼女がこの学園にいた数年前、エランはここには居なかった。強化人士である彼はまだペイル社内でガンダムに乗るための調整を受けていたはずなのだ。道理がない。機会がない。計算が合わない。今更彼女の確信を疑うことはしないが、それでも謎は残る。いつ、どこで、どうやって。スレッタはエランと出会ったのか。
話が食い違っていることには、彼女自身も口にはしないものの気づいているはずだ。ただ、恐れている。波乱は在れど穏やかな今の時間が壊れることを。
それでも。エランのタイムリミットが訪れる前に、彼女を取り巻く問題を解決するためには。訊かねばならないだろう、矛盾のことを。隠されたことを。パンドラの箱に何が入っていようとも、暗闇に灯る微かな燈りが掻き消えようとも。
意を決したエランが口を開く前に、スレッタが先に指を空に向けた。
「エランさんっ。一番星です!」
指し示す先を目を凝らすと、赤く色を変えたスクリーンの上に明るい光がひとつ、ぽつりと浮かんでいる。ラグランジュポイントに存在するこのフロントのスクリーンは、実際の景色ではなく人間の故郷である地球の空を再現している。そのため、最初に映る星は金星だ。この空の下で太陽に近すぎる水星を見ることは叶わない。
「あのときも一番星に願いごとをしたんです。『エランさんに会えますように』って」
「星に?」
「はい。麦畑で寝転がって空を夕焼けを眺めてたら、とっても眩しく見えたから」
熱が上がってきたのだろうか、亀裂のような痣の残る頬を紅潮させ、どこかうっとりとした表情でスレッタは語る。
「だからきっと、星が願いを叶えてくれたんです」
星は、願いを叶えない。人類が宇宙に進出したこの時代、星の輝きは不可思議の神秘などではなく、ただの核融合の副産物に過ぎない。占いも迷信も過去のもの。岩石やガスの塊には縋ることも祈ることもできなくなった。そんなことは、彼女も骨身に染みているだろうに。
青い目はずっと遠くの星の光を見つめている。まやかしの星に目を凝らし続けるさまは、赤い彼女が夕焼けに縫い留められたようにも見えた。
「きみは──」
「ぅるっさいわね! ついてくんじゃないわよ!」
険のある大声が辺りに響いた。首をすくめたスレッタにつられ声の元に視線を移すと、どこか見覚えのある影が大小あった。
「ミオリネ、わがままもいいかげんにしろ!」
「ワガママ!? 当然の権利でしょ!?」
グエル・ジェタークとミオリネ・レンブラン。芝の中の遊歩道を歩いてこちらに向かってくる二人は、いつにも増して騒がしい。この二人は相性が悪いのか、婚約者という間柄にも関わらずたびたび騒動を起こす。とはいえ、もしホルダーになろうと実際の婚約者になることはないエランにとっては対岸の火事ではあるのだが。エランには、それよりもスレッタの様子がおかしいことのほうが気になった。彼らを目にしてから、熱っぽささえあった顔色がみるみるうちに蒼くなり、視線はエランと彼らの間を忙しなく行き来する。怯えるように身を強張らせ、はくはくと口を開いては閉じる。
どうして。そう、音もなく震えた唇が動いた。
「もう、ほっといてよ!」
鋭い叫びに、ぱちり、瞬いた目に勇気が宿る。
「ま、待って、ください!」
今度は声が出た。けれど、二人の口論は止まらない。
「ミオリネさん! グエルさん! 落ち着いて……!」
彼女の声は口論を続ける二人に届いていない。それはそうだろう。スレッタの声も姿も、彼らには知覚することはできないのだから。声を聞けるのは、願いを聞けるのはエランだけ。慌てたスレッタは勢いのまま立ち上がり、二、三歩ほど歩いて崩れ落ちる。赤いワンピースは泥で汚れ、エランの編んだ髪は崩れた。それでも這って進もうとするスレッタを押しとどめ、起こしてから、エランは二人に向かって数歩歩み出た。ペイルの人形の顔に薄っすらと呆れを滲ませて。
エランの存在に気付いたミオリネは、露骨に嫌そうな顔をして嚙みついた。
「なによ。アンタには関係ないでしょ。それともなに、言いたいことあるなら言いなさいよ」
「うん。ぼくが言うことはないよ」
「はあ!? じゃあ、なんなのよ!」
「ペイルか……。チッ……ミオリネ! おれは許してないからな!」
エランの邪魔を嫌がったグエル・ジェタークは、舌打ちを残して踵を返した。修羅場を他の御三家に見られることは彼の高いプライドが許さなかったのだろう。
ミオリネ・レンブランもまた、何も言わずにそっぽを向いてグエルとは逆方向に去っていった。そのことに、何故だかスレッタは傷ついた顔をする。
エランが戻ってくると、スレッタはパッと顔を上げてぎこちない笑顔を作った。
「エランさん! ごめんなさい、急に飛び出しちゃって。それから、ありがとうございます。ふたりを止めてくれて」
立とうとしてふらつく上体を支え、ベンチに座らせる。顔はエランに向けるものの、視線だけは見えなくなった影を追っている。
気づけば陽は落ちて、辺りはすっかり暗くなっていた。時刻とともに点灯したライトが星の明かりを滲ませる。小さな明かりは、他の光に紛れてどれがどれやらわからなくなってしまっていた。もう、願いは叶わない。
「彼らはきみの知り合い?」
「……はい。お友達でとても、仲良くしてもらって。それから……」
居心地が悪そうに膝の上で手の甲をさする柔らかな指が、薬指の指輪をなぞる。
車椅子の上で泥のついてしまった赤いスカートを払う。その奥に揃えられた足が、一瞬、透けて見えた気がした。