遡行ifその5 早朝、誰もいないラウンジの空気はひやりとしていた。照明を灯さず、薄暗い部屋の中にぼんやりと光る画面を眺める。流れる文字の羅列の中に星を探しては目を伏せる。
「エランが委員会の端末を使ってるなんて、珍しいね」
柔らかな声に顔を上げると、柔らかな照明が辺りを照らす。そこには軽薄を香水のように纏う同級生がすらりと立っていた。シャディク・ゼネリ。よく手入れのされた長い金髪がさらりと揺れ、読み取れない深い蒼色が覗く。
「きみには関係ないよ」
エランはシャディクの興味深そうな目線を躱し、タブレット型の端末を机に戻す。もう用は済んだ。それよりも、御三家である彼に余計な詮索をされたくなかった。
「珍しいといえば、エラン。この間、出かけていたそうだけど。デート?」
「そうだよ」
端的に答えるとシャディクは珍しく目を丸くする。その一方でエランもまた、無表情の下でひっそりと驚いていた。随分と噂が広まるのが早い。グラスレーは学園内の情報に通じている、この噂がペイル社に伝わるのも時間の問題だろう。そのあとのことを考えて、エランはうっすらと眉根を寄せる。
一瞬の硬直を解いたシャディクは楽しそうに口笛を吹いた。
「エランを射止めたなんて、いったいどんな娘なんだい? 俺にも紹介してくれよ」
「……さあ」
決闘委員会には生徒の情報の閲覧権限が付与されている。本来決闘を進行するためのその権限でエランが調べたのはなんてことはない、過去を含めた生徒名一覧である。端末の中に記録されている学園創立からすべての生徒の名簿。その中に、スレッタ・マーキュリーという名を持った卒業生はひとりもいなかった。
「いったい、誰なんだろうね」
彼女のことを、エランはどれだけ知っているだろうか。
「ただいま」
いつも通りの単調な授業を終えて、エランは自室に戻った。いつからか習慣になった挨拶に、けれど予想された「おかえりなさい」は返ってこない。
「……スレッタ・マーキュリー?」
再度問いかけるが、答えはない。
ベッドの陰、脱衣室、シャワールームを順繰りに確認して、彼女の姿を探す。着替えはそのまま。キッチンコンロには具材を煮ただけの鍋が放置されている。夕食のシチューは作りかけのようだった。車椅子は部屋に置いたままだが、杖がない。外に出ていった、のだろうか。鍵はスレッタに預けてある。彼女は立派に自立した大人であり、保護した動物や子供などではない。エランは彼女を鎖や約束で繋ぎ留めたりなどしていないのだから、出ていったとしても何もおかしなことはなかった。ただ、今までなかったことに驚いただけ。
彼女が部屋に居ることを当然として受け入れ、期待していた自分に気づき、自嘲する。その状態こそ、おかしかったというのに。
エランが腰かけると広いベッドはよく沈んだ。彼女の居ないしんと澱む部屋の空気に馴染んでも、スレッタのことが頭から離れることはない。自分以外に視認できない、足の不自由なスレッタがどこへ行ったのか。どこへ行くのか。目的地へと無事にたどり着けていたらいい。健やかに、行きたい場所に行って笑っているならば。けれどもし、彼女がトラブルに見舞われていたら。泣いていたら。誰が、彼女に寄り添うのだろうか。エランの知る彼女はころんだあと、ばつが悪そうに笑ってひとりで立とうとする女性だ。けれど、一人で立てることは独りでも平気だということではない。そのことをエランは良く知っていた。
教室。ゲームセンター。モール。ベンチ。どれだけ探しても、どこを見ても彼女の姿はなかった。もしも彼女がエランの願いの見せた幻覚だったのなら、それでもいい。──もしも。もし、エランにも見えなくなってしまったのだとしたら。最悪の事態を想像して、遊歩道で立ち止まる。スクリーン上の陽は落ちかけ、辺りの区画の木も人も道も、すべてを緋色に染め上げている。彼女の色だ。
なにを、しているのだろうか。無駄なこと、意味のないことだ。今ならまだ間に合った。関心をなくしてまた、前のように生活をすればいい。無駄なことをやめ、意味のないことをせず、人形のように過ごし、人形として扱われる生活に。手足から力が抜け、虚脱感が錘のように感じられる。チカチカと痛む目を強く瞑る。それでもゆっくりと開けばまた、目が赤色を探しているのだ。息を吐く。いつから、こんなにも愚かになったのだろう。
焼きつく赤を視界に捉え、顔を上げる。スレッタだ。
エランが面倒を避けて普段近づかない、ミオリネ・レンブランのテリトリー。そこにスレッタはいた。丸い温室の入口付近の地べたに座り、閉じられた扉を外からじっと眺めている。その横顔は静かでひどく大人びて見えた。そういえば、年上なのだったと今更ながらに思い出す。
「スレッタ・マーキュリー」
エランが声をかけるとスレッタはばっと勢いよく振り返る。大きな目が丸く見開かれ、印象に幼さが戻った。
「エランさっ!!わわっ」
バランスを崩しかけたスレッタの体をエランが支える。触れられたことにひどく安堵を覚える自分に、いよいよ言い訳ができなくなった。居てくれて良かった。
そのままエランが隣に座ると、スレッタは身を縮めてバツが悪そうにおずおずと見上げた。
「あの、ごめんなさい。何も言わずに出てきちゃって」
「構わないよ。きみは自由だ」
エランには彼女を縛ることなどできない。したくないのだ。けれどスレッタは、エランの手をそっと握った。痣の残る頬を紅く染めて、青空のように鮮やかに笑う。
「帰りましょう」
「……いいの?」
ここに来たかったから出てきたのだろうに。エランが問うと、スレッタは静かに首を横に振った。
「いいんです。ごはん、食べましょう」
静かな夕食を終え、寝支度を整えるとスレッタが遠慮がちに切り出した。
「エランさん、ぎゅっとしていいですか?」
『ぎゅっと』、とは。少し考えて、抱きしめたいということだろう、とエランは翻訳する。その申し出は恥ずかしがり屋のスレッタには今までにないことだった。ぱちりと瞬きをして驚いたエランに、それでも断る理由はない。
「うん。いいよ」
それがきみのしたいことなら。
ふたりでベッドに腰かけると、スプリングがぎしりと軋んだ。体を捻り向き合った状態で手を広げてみれば、スレッタの腕がそろそろと背に回る。スレッタの薄い身体が懐に収まるのを確認して、エランも彼女の背に手を添える。
柔らかな身体を重ねると、熱いほどの温もりが血に溶け込んで巡りだす。生きている、そのはずだ。どれだけパーメットに侵されようとも、どれだけ人間扱いされなくとも。透明人間になろうとも。今ここで存在を確かめ合っているうちは、間違いなく。薄い寝間着は熱も音も遮らない、耳を澄ませば衣擦れと呼吸の中に、とくとくとスレッタの鼓動の音が小さく聞こえた。空気さえも間に挟みたくないとでも言うように、スレッタは少しずつ姿勢を変えてエランに体重を預けていく。後ろ手で姿勢を支えるエランの首元に額を擦りつけて、吐息混じりの言葉をこぼした。
「エランさん、エランさんは、生きてくださいね」
「……きみは?」
聞き返すと、スレッタは息を呑んだ。
エランの問いにスレッタは答えない。顔を上げずにただぐずるように鼻を鳴らすだけ。その薄い肩をそっと押すと、細い身体はシーツの上に無防備に沈んだ。予想していなかったのか、丸い目がぽかんとエランを見上げる。その様子をエランはひどく哀れに思った。体重をかけすぎないように上に乗り上げて、けれど動けないように片手で細い手首を縫い留める。ああ、エランは今、酷いことをしている。傷つけたくないと願っているひとの困惑した瞳から目を逸らさずに、手だけは確実に動かしていく。薄い腹に手を当てると、浅い呼吸が脈動として伝わってくる。肉の柔らかさを確かめながら腰のラインをゆっくりとなぞり、シャツの裾をめくろうとする──と、スレッタは自由な片手で必死に抵抗を始めた。
「ええ、エラン、さんっ」
「イヤ?」
「や、嫌じゃ、ないですけど、うれしい、ですけどっ! ……今は、ちょっと、その」
スレッタは顔を真っ赤な髪よりも真っ赤にして、もごもごと口ごもる。
「ぼくにならぜんぶ見せてもいいって、言ったよね?」
「あれは……っ、う、浮かれてて」
動揺して手の力が緩んだ瞬間をエランは見逃さない。そのまま一気にシャツをめくり上げる。
「ダメっ! エランさ……!!」
「……っ!」
シャツの下、意外と存在感のある膨らみは可愛らしい下着に包まれている。けれどその下、腹から腰にかけて。胃や腸など人として欠かせない部位があるはずの柔らかな場所。その部分は肌の向こう側が透けて、シャツの裏側が覗いていた。確かに熱も感触も存在するのに、そこだけまるで視認ができない。まるで透明なゼリーにでも変質したかのように。やはり、足だけではなかったのだ。
瞠目するエランをスレッタは見上げる。悲しそうに、辛そうに。きっと、彼女は知っていた。
「……いつから?」
「…………熱を出したあと、です」
「きみにもぼくと同じように見えてる?」
その問いにスレッタは小さく頷いた。
「わたしにも透明になって見えます」
知っていた。現実はいつだって残酷で、星は願いを叶えない。幸せな夢ほど覚めたあとが辛いのだ。
気づけばエランはスレッタから手を離していた。両腕が力なく胴の横に垂れる。
「きみは、消えるの?」
ぼくよりも早く。
エランのこぼした言葉は、鼓動に紛れ聞き逃してしまいそうなほどに小さかった。両手を伸ばしたスレッタは一度離れたエランの頬を引き寄せて、何を思ってか優しく微笑んだ。大きな丸い青い瞳。その中には暮れる前の青空があって、消えない星が濡れている。そして彼女はエランの額や頬に流れ星のようなキスを降らせた。
「わたし、死んでるんです。きっと」
触れる手も唇も、こんなにも暖かいのに。
重い腕を持ち上げて、彼女の丸い赤い頬に触れる。やはり柔く、暖かい。ただ、残るパーメットの赤い痣がひどく痛ましかった。
「あのとき。星にお願いしたとき。体調、悪くて。立てなくなったんです。きっとそのまま……死んじゃった」
スレッタがへらりと笑うのは、無理をしているときだ。そのクセをエランは知っている。
「エランさんに会えますようにってお願いしたんです。だからまた会えて、生きててくれて、うれしかった。わたしのせいだと思ってましたから。でも、」
作った笑顔すらくしゃりと歪む。肩に降りた手がぎゅっと握られる。首が縮まり、寄せられた頭を今度はエランがそっと撫でた。
「わたし、また見ないようにしてた。見ないほうが幸せだったから。でも、違うんです。ごめんなさい。違ったんです……」
「……なんのこと?」
スレッタの言葉は要領を得ない。
エランの問いへの答えは、ひどく小さな声だった。
「わたしたち、まだ、会ってないんです……だから、会えたんです……っ」
ああ。そうか。
不明瞭なスレッタの言葉は、何故だかはっきりとした答えとして、エランの腑にすとんと落ちた。
──未来の自分は、スレッタを残して。だから、こんなにも。
「ごめんなさいっ! ごめんなさい、ごめんなさ……っ」
とうとう耐えきれなくなったのか、スレッタの青い目からぼろぼろと涙がこぼれていく。シーツの上に星が墜ちては染みを作る。
けれど、エランにはわからなかった。
「……どうして謝るの?」
そこに罪があるのなら、それは死に抗わなかったエランのものだろうに。それでも彼女は──少女は強くかぶりを振る。
「わたしのせい、なんです! わたしが、わたしが! ここに、来たからっ」
スレッタが、ここに来たから。学園に来たから。スレッタと出会ったから。エランの運命は早まったのだろうか。
エランは彼女の出会った自分のことは何も知らない。ここにいる自分と全く同じものとは思わない。けれど、エランにもこれだけはわかる。
「きみと会ったこと、ぼくは後悔はしないよ。絶対に」
でなければ、絶望に浸る自分が未来の約束なんてしないのだ。
「……やっぱり、あなた、は──」
ぐんと引き寄せられたと思えば、エランの視界がくらりと反転する。胸の中で声を殺して泣くスレッタの、震える肩をエランはそっと抱きしめた。
赤く腫れた目元を気の毒に思い、指の背でそっと触れる。と、ぱちりと瞬く濡れた青い瞳が色気を纏った。上目に絡みつく視線に期待を感じる。エランが小さく息を呑むと、スレッタはそっと瞼を伏せた。長い睫毛がふるふると震えて誘っている。くらり、抗いがたい引力を感じた。
そしてエランは──額に、瞼に、頬に口づけてから、小さく首を振って、少し突き出された唇には触れずに子供がじゃれるように鼻を擦り合わせた。
戸惑いに薄く開いた瞼が可笑しくて、薄く微笑む。
「しないよ」
「え?」
「きみが苦しむから」
エランの指先の動きを視線でたどり、自分が左手にはめた指輪を見たスレッタはさっと顔を青ざめた。
「ち、違うんです。ずっと、ずっとしたかったんです。デートも、キスも、他のことも、いっぱい」
「うん」
「したいです」
「うん」
「うれしいんです……!」
必死に言い募るスレッタの言葉に笑みを綻ばせる。そんなことはもう、聞かずとも分かっているけれど。
彼女は決してこの指輪を外さなかった。顔を洗うときも、眠るときも。指輪は今の彼女の支えであり、大切なものなのだ。
きっと、今ここでできることをしなければ、彼女はまた後悔するだろう。もしかしたら、エランも。それでも。
「しないよ」
エランが言い重ねると、スレッタは諦めたように丸い眉をへにゃりと下げた。
「……エランさん、いじわるです」
「知らなかったの? …………でも」
抱きしめたスレッタを巻き込むようにブランケットを被る。遠隔操作で常夜灯を落とせば、きらりと光るスレッタの瞳以外は視界に映らない。こうすれば、見えなくてもそう変わらない。
温もりを逃がさないように、光を見失わないように。抱きしめる腕に力を籠める。
「きみも充分、意地は悪いよ」