秋の夜の夢 9月29日はおれの誕生日だ。
だからといって何かあるってわけじゃねえし、普段と変わらないと思っていたのが、いつからか祝われることも悪くねえと思えるようになった。
そして、今はまた別の理由で特別な日になった。
「ランラン、ぼくだよ。開けて」
29日もあと1時間ほどで終わる頃に聞こえる控えめなノック音と声。
扉を開けると、変わらぬ嶺二の姿がそこにある。
「入れよ」
そう言って迎え入れると、笑顔で「お邪魔しまーす」と中へ入り込む。
靴を脱いで玄関をあがると、おれを見上げてとびきりの笑顔を見せる。
「お誕生日おめでとう、ランラン」
雨に濡れた服から水が滴る。水滴はリビングまで点々と連なる。
用意していたバスタオルを嶺二に渡せば、素直に受け取り濡れた体を拭く。上着を脱がせて預かり、バスルームに干して換気扇を回す。
リビングに戻ると、ありがとう、と嶺二がタオルをおれに返してくるが、まだ髪からは雫が垂れている。受け取ったタオルで嶺二の髪をぐしゃぐしゃと乱暴に拭けば、タオルの下からくぐもった悲鳴が聞こえた。
タオルを片付けるため再びバスルームに戻る。暗い部屋に換気扇のごうごうという音が嫌に大きく響いている。換気扇なんてまわす必要もねえのにな。おれは今、苦虫を噛み潰したような顔をしているんだろう。やりきれない感情を持て余し、くしゃくしゃになったタオルを乱暴に洗濯機に放り込みリビングへと戻った。
それからささやかなお祝いをした。
ワインと簡単なつまみだけだが、嶺二は嬉しそうだった。昼間にあった仕事の話や、おれにどれだけ早く会いたかったかを、明るく楽しそうな笑みとともにおれに伝えた。
とてつもなく幸せなはずの時間なのに、おれの心はどんどん暗く重くなっていく。
もうすぐ29日が終わる。
雨で冷えきった嶺二の指を握りこむ。
きょとんとした顔で隣に座るおれを見つめる。
「嶺二、このアパートな、今年中に取り壊されることになった。だから今日で最後だ」
心残りがあったのはおれの方だったのかもしれない。
「ありがとう。毎年来てくれて」
あの日渡そうと思っていた指輪をポケットから取り出し、嶺二の薬指にはめる。
何も言わず、されるがままの嶺二の指はとても冷たい。いつまでも濡れたまま、あの日の姿のままの嶺二。
「愛してる」
あの日、嶺二はなんと言葉を返してくれたんだろう。答えがおれには分からないから、答えは返ってこない。
6年前の9月29日。
その日嶺二は地方ロケのため、恒例となっていた事務所でのおれの誕生日パーティーに参加できなかった。
雨も降っていたし、無理しなくていいと言ったが、嶺二はどうしても当日中に会いたいと仕事帰りにおれの部屋へ向かっていた。
その途中、事故にあった。
一報は、事務所からの連絡で30日をとうに超え空が白む頃。来ると言っていた嶺二は姿を現さず、メールにも電話にも反応が無いことに胸がざわついていた。やっと鳴った電話に慌ててスマホをとるも待ち望んだ相手ではなく、そして内容を聞いて目の前が真っ白になった。
日向さんの落ち着け、という言葉を無視して急いで病院へ向かったが、すでに真っ白な布をかけられ冷たくなった姿との対面だった。
そこからしばらくまともな記憶が無い。
本葬は親族のみで行われ、その後事務所によるお別れ会があったが、おれはその頃までどうやって生きてきたのかあまり覚えていない。
仕事はこなしていたはずだが、食事も睡眠もまともにとれずに散々なことになっていたところを日向さんに、お前まで死ぬつもりかと言われてやっと自分の状態に気が付いた。
自分がまさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。それほどまで嶺二の存在がおれの中で大きかったことに改めて気付かされた。
ちゃんと嶺二に言葉をかけてやれと言われたが、正常でない頭では何を伝えればいいのかまとまらずお別れ会当日を迎えた。
いつ撮ったものか、仕事での顔とは少し違う笑顔の嶺二が大きく映し出された遺影の前に立ってもまだ実感がわかずにいたが、口を開いても考えていた言葉は何も出ず、ただ絞り出すように、もっとおまえと歌いたかった、それだけが声となって出てきた。
その瞬間に、やっとおれは嶺二の死を認識した。
親父の死でも泣きはしなかったのに、次から次へとあふれ出る涙を止めることができなかった。
嶺二がいたらきっと、「ほら笑って」なんて背中をたたいてくれただろう。なんでおまえはいないんだよ嶺二。
そして一年後、嶺二の命日でもありおれの誕生日がまた巡ってきた。
一日オフにしてもらえるよう予め頼んでおいた。
始発で墓参りをして、誰とも顔を合わせる前に帰宅した。
去年とは打って変わった晴天で、もうすぐ10月になるというのに真夏のような暑さだった。
ベースの練習でもしようかと手に取るも、すぐに上の空になっていることに気がついてやめた。
時折、テーブルに置いたスマホがメッセージの受信を告げるため振動するが、見る気力もなく、ソファに背を預け天井を見上げた。
夜になっても眠れず、昼間と同じ調子で何をするわけでもなくぼうっとしていた。
こんな時間でもまだスマホが振動する。さすがに返事をするか、と手に取ろうとした時、聞き間違いかと思うほど小さく扉をノックする音が聞こえた。
もう一度その音を確認しようとした瞬間、なぜだか近くの道路を走る車も虫の鳴き声も何もかも、世界中から音が消えたようにシンと静まりかえり、二度目のノックの音だけがはっきりと聞こえた。
誰だよこんな時間に、こんな日に、と苛立ちながらそっとドアに近寄り、ドアスコープを覗いた。目を疑った。
コンコン、と小さく扉を叩くのはあの日亡くなったはずの嶺二だったからだ。
どういうことだ。混乱するおれの耳にかすかに声が届く。
「ランラン、ぼくだよ。開けて」
何度も聞いた懐かしい声が扉の向こうから聞こえる。
今思えばおかしいことは分かるのに、その時はその声を聞いて一も二もなく扉を開けていた。
嶺二はおれを見て、いつもおれだけに見せていたとびきりの笑顔を見せた。
「お誕生日おめでとう、ランラン」
その声に笑顔に、おれはとうとう狂っちまったのかと愕然とした。
そんなおれの様子なんてまったく気にもせず、嶺二はつったったままのおれの横をすり抜け部屋にはいる。
「お邪魔しまーす」と声をかけて勝手に部屋の奥へと向かう嶺二の通ったあとには水滴が点々と続いていた。
慌ててあとを追いかけて、近くにあったタオルを渡せば、受け取って顔や体を拭く。
ありがとう、と言っておれにタオルを返すが、まだ前髪から雫が垂れていて、受け取ったタオルで髪を拭いてやる。タオルの下で、文句を言う声が聞こえるのが嬉しくてわざと乱暴にした。
ソファに並んで座る。嶺二はあの日の昼間にしていた地方ロケの時のハプニングや楽しかったこと、おいしい料理屋さんがあったから今度一緒に行こう、そんな話を楽しそうにしていた。
あの後、テレビで見たロケ番組の話だ。嶺二の最後の仕事。
ふと、嶺二のおしゃべりが途切れた。
おれを見つめる嶺二の頬に触れて、口づける。されるがままの嶺二の頬は、唇は、冷たい。
拭いたはずの髪からはまた雫が落ち、おれの手のひらを伝う。
まぶたを開けると、嶺二の姿はどこにも無かった。時計はてっぺんを超えていた。
それから毎年、9月29日が終わる1時間前に嶺二はおれの部屋にやって来た。
毎年びしょ濡れの姿で現れ、同じやり取りを繰り返す。
それでも年に一度だけ嶺二と会える時間はおれにとって何よりも重要だった。
だが今年、区画整理のためアパートが取り壊されることになった。
真っ先に考えたことは嶺二のことだった。ここが無くなったら嶺二はどうなる?おれは、どうすればいい?
そして9月29日がきた。
いつも通り姿を見せた嶺二を迎え入れ、いつも通りのやり取りを交わす。
あの日、最後に受け取ったメッセージには、傘壊れてびしょ濡れになっちゃった、という言葉と泣き顔のスタンプ。
毎年現れる嶺二が濡れたままなのは、きっとその記憶がおれにこびりついてたせいだ。仕方ねえな、なんて思いながらバスタオルを用意して、風呂を沸かして待っていた。
そのせいでびしょ濡れのままなら、かわいそうなことをしてしまった。拭いても拭いても乾くことのない水滴は時に涙のようでもあった。
嶺二の前のグラスに注がれたワインは減ることはなく、つまみもおれが口にした分だけが減る。
楽しそうに話す内容が直前の地方ロケの話だけなのは、おれが知ってる最後の仕事の内容がそれだけだからだ。嶺二の最後ということで、普段ならうつされなかっただろうエピソードやハプニングも流れた。それに仕事の合間に嶺二から送られてきたメッセージ。その記憶からうまれた会話だ。
嶺二の話す内容におれの知らない話は無かった。
だからあっという間に会話も途切れる。そうすると、嶺二は隣に座るおれをただ黙って見つめる。
今日もそうだ。
これは嶺二の幽霊なのか、おれが嶺二が恋しいあまりにみせている幻覚なのか何なのかは分からない。それでも変わらないこのほんの少しの時間があることでおれは救われてきた。
それももうすぐ終わりだ。どうあがいたってそれは変えられない。だったら、伝えたいことをしっかり伝えようと、アパートの解体が告げられた日に思った。
「嶺二、このアパートな、今年中に取り壊されることになった。だから今日で最後だ」
嶺二はきょとんとしているだけでなんの反応も示さない。
「ありがとう。毎年来てくれて」
無理しなくていいとは言ったが、本当はあの日とても嶺二に会いたかった。
この指輪を嶺二に渡したかった。永遠の愛を誓うなんてガラにもねえことを考えていたんだ。
疲れているだろう嶺二のところにおれが行けばよかったんだ。何度も何度も悔やんだ。
最後に触れた嶺二の指は冷たかった。何度も触れたあの指はもうおれを握り返してくれることはないという事実が耐えられなかった。
嶺二の左手に触れる。今、目の前にいる嶺二の指もあの日のように冷たい。手を取り薬指に指輪をはめた。その薬指に口づけ、そして唇に触れる。
あの日、嶺二に指輪を渡したら受け取ってもらえたのだろうか。嶺二はなんて言葉を返してくれたんだろう。嶺二からの答えを聞くことはもう一生かなわない。だから、目の前にいるこの嶺二の姿をしたものもなにも答えを返しはしない。
「愛してる」
目を閉じて、もう一度冷たい唇に口づける。これがさよならの合図。次に目を開けるとその姿は消える。
今日は本当に最後だ。名残惜しく、握った掌に力をこめ、口づけを深めた。
かすかに指先に感じる圧に思わず目を開けてしまう。あ、と思うも嶺二の姿はまだそこにあった。
握ったおれの手のひらごと、左手を自分の唇に触れさせ、目を細めておれを見上げる。
「ぼくも愛してたよ、ランラン」
それはおれの願望がみせたものかも知れないが、嶺二から贈られた最後のプレゼントだと思いたかった。
一年後、アパートのあった場所へ久々に訪れた。たかが一年されど一年、付近はすっかり様変わりしていた。
今年も相変わらず暑く、夜中だというのに涼やかな風の一つもなく湿った空気がまとわりつき少し不快だ。
近くの自販機で買った水で喉を潤す。喉を通る冷たさが心地よい。
腕の時計は針がもうすぐてっぺんを指す。
アパートがあっただろう場所をじっと見つめる。
スマホが尻ポケットの中でブブブと振動する。30日だ。手探りでアラームを止める。
「じゃあな、嶺二」
踵を返し、アパートの存在していた場所に背を向けた。