一枚の縁「……」
紫色で上等そうな布に包まれたものを抱えながら私は普段よりも慎重な足取りで帰路につく。
大きさは抱えられるほど。だけど、背負っているリュックには入らないくらい。重さはそこまで重量感はなかったけれど、抱えているものの価値を無駄に考えてしまっているからか、ずっしりと感じてしまう。
傍から見れば、かなり挙動不審なのかもしれない。
――どうして……課外授業の一環で行っただけの場所で……絵画を貰うことになっちゃったの……?
◇
時は数時間前。
高校の課外授業のため、美術館見学にいっていた私はある絵画を見ていた。
その絵画は〈一天(いってん)〉とタイトルの空の絵。青から赤へグラデーションのかかっている背景の真ん中に一つの鳥が影のように描かれているものだった。
美術の疎い私にとっては……その作品にどういう技法が使われ、どのような価値があるかわからない。
だけど、その絵画はひどく引き込まれる作品で気づけば五分ほどその絵を夢中で見ているほど。
そんな中、謎のオッドアイの男性に声をかけられて突然その絵画の感想を求められた。
最初は戸惑ったものの、私は先ほど感じたことをそのまま口にすると、〈後でバックヤードに来い〉と言い、入館証を渡されて男はその場を去る。
不思議に思いながらも言われた通り、授業を終えた後に先生へ事情を説明して入館証を持ち、バックヤードへ行くと男がある紫色の布に包まれた四角いものを持って待っていた。
彼は無言でその布に包まれているものを差し出し、私が戸惑いながら受け取るとそのまま去っていった。
あまりにも自然かつ流れるような動きなのでその場で立ち尽くしていると、見かねたスタッフの人が
「彼がその絵画を君にあげると言って聞かなくてね。丁度展示会の日程は今日までだったからよければ貰ってあげて」
と苦笑いを浮かべてそういった。
布を取ってみるとそれは私が見ていたあの〈一天〉の絵画。
あまりにも驚きすぎて私は思わず
「ど、どうしてこれを‼ そんな、いただけないです!」
とスタッフの人に言うとまた苦笑いして
「その絵画を渡した彼が作者なんだ。その作品を返したとしても、たぶん君のもとに戻ってくるか……あるいは捨てられるかのどちらかだよ」
と返す。
一緒に来てくれた引率の先生もこれには苦笑いを浮かべていた。
迷いに迷った挙句、絵画は貰うことに決めた。
どういう形であれ、〈捨てられる〉というのはもったいないし、この絵画にとってはよくないことだと感じたからだ。
それがエゴだったとしても、あの男性が……この絵画を描いた作者が私へあげたのなら……この作品を扱う責任は私にある。
最初は先生に相談して学校へ管理してもらったほうが良いかとも思ったけれど、それもやめておいた。
学校に飾ったとしても場所を取るだろうし……管理する人も困るだろう。
◇
そういろいろあって持ち帰ることになった絵画だけれど……美術品の管理に対しては素人。それに私は訳あって居候の身。
自室に飾ろうかなと思ったけれど、自分の部屋がこの絵画にとって適した環境なのかもわかっていない。
――うーん……やっぱり相談すべきなんだけど……気が進まないなぁ。
絵画を抱え、やっとの思いで〈オリエント〉という喫茶店の前までたどり着いた。
この店は私が今お世話になっている居候先。
店主のマスターは普段から優しく、なんでも相談に乗ってくれる親切な人。
だから今回のこともちゃんと聞いてくれるだろうけれど……。
――毎度のごとくお世話になっているのが申し訳ない……。
日ごろから恩を還元しようと店の手伝いをできる範囲でやっているものの……それは自己満足にすぎず、本当に店にとってちゃんと恩を返せているのかはわからない。
――……不安になってもしょうがない。
私は勇気を振り絞って店の扉を開けた。
「た、ただいま。マスター」
明るすぎない照明に赤いソファのテーブル席。磨かれた床に飴色に輝くカウンターテーブル。
扉の向こうには毎日見る、いつも通りの店内が広がっていた。
そして、そのカウンターの奥に老齢の男性、マスターがグラスを磨いて立っている。彼はこちらに気づくと微笑み
「おや、おかえりなさい。課外授業はどうでしたか?」
と優しく話しかけてくれた。
「えと、興味深いものが多かった……です。美術は詳しくないんですけれど、いい経験にはなったと思いました」
「それはよかった。美術品に触れる機会なんて早々ないですからね……ところで、その抱えているものは?」
「う……えっと、その……」
早速質問されてしまい、私は思わず口ごもる。
しかし、マスターは私が話すのを待ってくれていた。
「じ、実は……」
◇
「なるほど……絵画を見ていたら作者がたまたま見ていた……と」
マスターは興味深そうにそう頷く。
「なんでこうなったのかもわからないんですけれど……なぜかその……作者さんから絵画をいただきまして……断ろうとも考えたんですけれど……」
目を右往左往させながら私は必死に言葉を並べ、恐る恐る布に包まれた絵画を彼に渡した。
こうなってしまった以上どうにか絵画の置き場を考えなければならない。
マスターは絵画を受け取ると使っていないテーブル席へ向かった。
丁寧な手つきで絵画をテーブルに置き、慎重に布を取ると彼は少し驚いたような表情を見せる。
「ほう、随分と立派な絵ですね。絵というのは、表現した人の心情などをくみ取る一つの手段でもありますが……これはすがすがしいまでに遠くを見ているようにも感じますね。魅力に感じるのも納得します」
「心情の表現?」
――遠くを……見る。
思えば……この絵の題材は空。時間の移り変わりを表しているからか、青から赤へグラデーションをつけている。そしてその中央に鳥の影が入っていることでその鳥が長時間跳び続けているようにも見える。
それをマスターがこの作品を描いた作者に対して〈遠くを見る〉という言い方になったのだろうか。
私は空というものが好きじゃなかった。
自分の瞳の色と昼間の明るい時間に上を見上げると常に自分自身の色があるように感じて……他の人たちは〈空〉を美しいと表現するのに私という〈ソラ〉を責めるから。
幼いころから身についた醜い考えだ。
私は人間であって、〈空〉というのは景色。
名前が同じなだけで意味は月とスッポンに等しい。
そんな私がこの〈空〉というものを題材としたものに引き込まれたのは……思えばどうしてだろう?
「ソラさん?」
「え? あぁ! す、すみません。平気です」
考え事をしてボーっとしてしまっていた。置き場所について相談しなきゃならないのに……しっかりしなきゃ。
「そ、それでその……マスター。いきなり帰ってきてこんなことを言うのは大変申し訳ないんですけれど……絵画を飾る場所を借りることは可能ですか? このまましまい込む、というのはちょっと忍びなくて」
「おや、そういうことでしたか。構いませんよ。ただ……この絵は油絵なようなので日当たりのいいところと湿度が高い場所は避けなければいけませんね……当然、火の出るところも避けるとなると……」
彼はすんなり了承をした。
――え、そんなにあっさりオッケーしちゃうんだ……。
やや緊張していたこともあったので、少し気が楽になる。
しかし、新たな課題も出てしまった。
「日光と湿気の高い場所……」
となると、私の部屋は前者の条件がクリアできていない。
窓を開けるともろに日の光が入るので、すぐに絵が駄目になってしまう。
「ある程度でしたら額を入れて飾ればどうにかなりそうですが、この場所に飾りたいという候補は決めていますか?」
「本当は自室が一番無難と思ったんですけれど……日当たりがいい場所なんで避けたほうが良いですよね……」
「でしたら、店内に飾りますか?」
「え? お店に?」
私は思わずそう返した。
――店内は店主であるマスターの聖域のようなもの。そこに私がもらってきた絵画を置いてもいいの?
「というより、てっきりそういう相談かと思っていました。違いましたか?」
「あ、いえ……」
私は思わず口ごもってしまう。
自分としては自室の壁に飾るつもりだったものの……この建物に住まわせてもらっている身だったので許可をとろうとしていただけ。
油絵の条件的に自室は除外されている以上、店内のほうが無難かもしれないので下手に否定もできない。
「そ、その……お願いしてもいいですか?」
「えぇ、もちろん。構いませんよ」
マスターはそう微笑みながら返した。
「しかし……飾るとなるとこの絵にあったサイズの額を用意する必要がありますね。しばらく私が預かってもよろしいですか?」
そう聞かれ私は頭を下げて
「お願いします」
という。
絵画の管理について私は知らない。ここはマスターに任せた方がいい。
「それにしても……この絵画、裏を見ても作者の名前が記載されていませんね。普通、こういうものは本人が描いたという照明のために絵の裏に名前と日数が書かれるのですが……」
マスターはそういいながら絵を裏返してみる。
確かに、絵の裏には何も書かれておらず、木の板のようなものがあるだけだった。
「名前……ですか?」
「はい、絵には描かれた日時とその描いた作者の名前、人によってはどういう素材で描かれたか……というものも書くらしいです。万が一偽物が作られたとしての対策として名前を書くというのは有効な手段ですからね」
「でも……名前がない……?」
「そのようです」
マスターは慎重に絵を広げている布の上に置きなおし、こちらに向き直る。
「ソラさんにこの絵を渡された方というのは……たしかオッドアイの青年でしたね?」
「え? はい、そうですけれど……」
彼にそう返すとマスターは少し考えるような素振りをした後に
「ふむ、もしかすると……私はその方を知っているかもしれませんね」
「え⁉ お知り合いとか……だったり?」
そもそもマスターはお客さんと交流をよくする。その成り行きで知り合いだった……というのもおかしくはない。
「知り合い……というほどではありませんよ。本当に一方的に知っているというだけです」
彼はそういいながら机に置いている絵画を丁寧な手つきで包み、彼は話を続けた。
「店に来るお客さんの一人が美術に関する大学の教授をしていまして。そのお客さんがある教え子の話をするのです。たった一人だけ、頑なに作品を描いたあとに描いた日時や名前を記録せず、絵のタイトルも一切考えない。その人物の特徴がオッドアイだったとか。彼を含めた生徒たちが美術館に絵を展示することになったときも、展示には作品のタイトルが必須項目になると頭を抱えていました」
「それって……」
たった一人だけ……描いた絵にタイトルも日時、名前も書かない。
確かに似ている。それに美術館の展示までとなると……。
「その教え子の評価をするときも……絵を描く技術は確かにあるのに、名前もタイトルも書かないから評価は再提出が多いとのことです。そのお客さんは教え子に何故、頑なに名前やタイトルを書かないのか? と聞いたところ、意外な返答がきました」
「……それは?」
「〈自分がつける必要がない、絵はあくまでも見た人と絵の一対一のもの。そこに作者の名前や作品名があればそれは邪魔にしかならない。君は僕の手で僕の作品を壊せというのか?〉と答えたそうです」
作品を壊す……。
絵は想像力を形にした一つ。作者の心情を交えて形にしたもののはずなのに、そこに作者の名前の存在がはっきりわかるようなものは不要……。
言いたいことは何となくわかる気がする。
絵というのは到底一枚では済まない。
授業の一環で絵を描くのなら、必ず複数の作品ができるはず。その作品を並べたとき、意図しなくても作者の癖のようなものが見る人が見ればわかる範囲で出てくるのだろう。実際自分が授業の一環で学んだ画家の人たちの作品も一種の共通点のようなものがあった。
あのオッドアイの青年はそういったものを見つけられるのが嫌なのだろう。
作品と見ている人が一対一の関係性を保ちたいのであれば……作者である自分自身を感じさせる情報は意図的に消してもおかしくはない。
「純粋に作品を見てもらいたいという気持ちは人一倍あるでしょうね。創造物には魂が宿るともいいますから、一つ一つの作品に対して魂を込めているのかもしれません」
「魂……」
魂を込めて……それは自身のすべてを込めてという意味と以前国語の授業で学んだ。
どれだけ必死にやったのか、どれだけ苦悩を抱えたのか。
それは当然知らないし、知る由もない。
だけどあの時、私がこの絵画に引き込まれると感じた理由は……その〈魂を込めた作品〉だからかもしれない。
あの青年が描いた〈空〉は美しく情熱的で、どこか儚げだった。
青から赤へ、昼から夜へ向かうあの鳥はどこへ行くのか。
あの一枚の中に映画のような物語があるように感じて、私は目が離せなかった。
当然、これは私の解釈であって作者であるあの青年が込めたものとは違う。
でも……少なくとも、彼の魂が私の目を惹きつけたのは間違いない。
「ともあれ……ソラさんがその絵を気に入ったことも、作者である彼が貴方を気に入ったことも、まぎれもない事実です。この絵は巡り巡った縁があったのでしょう。今度一緒に額を見に行きましょうね。私が選ぶより、貴方が選んだ方がよいでしょう」
マスターはそうやって微笑むと布で包んだ絵を抱える。
「では一度、倉庫の方へ持っていきますね。あそこであれば温度変化少なく、日光も当たりませんから。額は……そうですね、週末あたりに選びに行きましょうか」
「はい! ありがとうございます」
私がそう返事するとマスターは一礼をしてから絵を倉庫の方へ持っていった。
「縁……か」
私はそう呟くとほぼ無意識に目に手を当てる。
この目が引き寄せるものは悪いものばかりだった。不気味なもの、怖いもの。とにかく自分にとっては嫌なものばかり引き寄せてきた。
だけど、今回は違う。
――こんな目も美しいものや、好きだと思うものを見れるんだ。
そう思うと少し心が温かくなった。