依存 ちょっとしたお仕置きのつもりだったが、やり過ぎてしまったかな。部屋の鍵を開いて中の惨状を確認した私は溜息をついた。
扉をくぐり3日ぶりに入室すると血の匂いが鼻を刺激する。ぐしゃぐしゃのカーペットや爪痕だらけの壁紙に金色の血液がこびりついている。一部は酸化して黄土色になっていた。染み付いたその血痕はとても落ちそうにない。
血の汚れだけでなく物の散乱具合も酷かった。部屋にある本棚やクローゼットは全てなぎ倒され、中身がそこら中に散らばっている。本はもう読めないほどに、服は着れないほどにボロボロになっていた。
床に落ちている残骸達を避けながら備え付けられたキッチンへ近づく。そこだけぽっかり穴が空いたように綺麗だった。冷蔵庫を開き中身を確認すると、荒らされた様子もなく、私が入れておいた食材が堂々と鎮座していた。ジュースが入ったペットボトルはキャップすら開いておらず冷え切っている。
大体の状況は把握できたので、身を翻して後回しにしていたベッドへ歩を運ぶ。乱れたシーツの上にアダムが体を縮め横になっているのが見える。彼の背中に生えた翼はところどころ羽が抜けてみすぼらしくなりながらも、その身を包み守っていた。
ベッドの横に立って彼を見下ろした。その翼から覗く顔は涙、鼻水、血、汗などありとあらゆる液体にまみれていた。彼の頬に手で触れる。熱い体温が伝わると同時に手袋に彼の体液が浸透した。
彼の顔から手を離したあと、首筋をゆっくりと指でなぞり、浅く上下する胸に手を置いた。私と同じ色であるはずの心臓は音を立てて鼓動している。頭を傾けて彼の奏でる音色に聞き入った。
「ぅぁ……」
暫くして、瞼を痙攣させながら彼が目を覚ました。彼は虚ろな瞳で私を捉えると、震える右腕で体を起こして左腕を伸ばす。私は腕を背中に回して抱きしめ、彼の髪を撫でる。すると彼は堰を切ったように涙を流し始めた。私の肩に頭を埋めて泣くのでジャケットが少し濡れた。
「ごめんな、さ、るしふぁ。いいこ、なるから……!もっ、ひとり、やら」
彼はしゃくりあげて私のジャケットの袖口を掴む。舌足らずに謝罪を繰り返し自身の体を震わせている。私は過呼吸気味の彼の背中を落ち着かせようと撫でた。だんだんと息が深くなって安定してきた頃を目安に、彼の耳元で囁く。
「よく頑張ったね、アダム。辛かったな、部屋をメチャクチャにするくらいに」
「あ……」
彼が肩を揺らし私を見つめる。顔を青ざめさせ、落ち着いてきた呼吸がまた荒くなる。黄金の目が涙で覆われた。
「ごめんなさ、かたづけるから!おいてかないで。おねがぃ、おねがいします……」
私が背中に回していた腕を離すと、腕を暴れさせて彼は叫ぶ。
「ごめんなさいごめんなさい!いかないで!やら!もうわるいことしないし、るしふぁのいうことなんれもする!いやがんないから!!」
駄々を捏ねる子供のように泣き喚いて縋ろうとする彼に笑いかける。
「行かないよ。ほら、腕」
体を強張らせる彼の腕を私の手に置き、彼の手袋を外す。爪が剥がれ、擦り傷や打撲痕がついた青白い腕が現れた。彼の腕にキスを落として治癒魔法をかけた。
徐々に光が腕の怪我を消し、血を通わせる。元の美しい腕になった。私は彼の完璧な腕に指を這わせ、互いの目を合わせる。彼の瞳には私だけがはっきりと映っていた。私は彼に刷り込むように言い聞かせる。
「痛かったろう。不安だったろう」
「……………うん」
「本当はこんなことしたくは無いんだ。でも、お前のために、仕方なくやっているんだよ」
「………………ん」
「この行いは必要なことなんだ」
「…………………」
「お前が良い子になればずっと一緒に居られるからな」
「…………………」
「アダム」
彼は私の言葉に耳を傾けて目を細めていたが、私が呼ぶとすぐ見開き反応した。前よりほんの少しだけ痩けた頬を私の手に擦り寄せ、様子を伺っている。
「わかってくれたかな」
彼は首を縦に振る。何回も何回も振る。私の手に顔をくっつけた状態でそうするものだから頬骨が当たる。
彼に首振りを止めるよう命じ、従った彼の頭を撫でた。表情を柔らかくする彼の手を取って立ち上がらせ、共にキッチン近くのテーブルへと向かう。椅子を引いて彼を座らせ何が食べたいかと問いかけると、彼は指先を弄りながら、パンケーキ、と小さな声で呟いた。
「蜂蜜たくさんかけて」
「分かったよ」
指を鳴らし、蜂蜜がたっぷりかかったパンケーキと、野菜と肉が入ったコンソメスープを出す。フォークとスプーンを食器の横に置いて彼に食べるよう促す。彼はスープを一瞬睨みつけてパンケーキにフォークを刺した。大きめに切って口に入れる。何回か咀嚼して飲み込む。
「美味しい」
彼は微笑みながら食べ進め、あっという間に皿の上のパンケーキが彼の腹の中に収まった。彼が息をついて私に目線を送る。
「もっと食べたい。おかわりくれ」
「そのスープを飲み終わったらな」
彼が不満気に眉を潜める。スープからはまだ湯気が立ち昇っており、温める必要もないだろう。彼の前にスープ皿を置いて、スプーンでスープを掬う。そのスプーンを彼の口にやると彼は躊躇うように私を見た。
「私はそんな子供じゃ……!」
「野菜嫌いの寂しがりやが子供じゃないと?」
ほら、と言いながらスプーンを彼の口に押し付ける。暫しの間、彼は口を閉じて拒否していたが、押し付け続ける私に根負けしてスープを口に含んだ。
途端に彼は顔を綻ばせた。口の中で具材を転がして味わっている。長い時間をかけてその一口を楽しみ、嚥下したかと思えばすぐまた口を開いて食べさせろと目で訴えた。
パンケーキの時より幾分時間をかけて彼は完食した。スープ皿には具材のかけら一つ残っていない。私がそのことを褒めると、彼は頬を赤く染めて答えた。
「別に。野菜全然苦くないし、肉入ってたし、ルシファーが食べさせ……あ、や、何でもない。美味かった」
「それは良かった」
私は温かいパンケーキを彼の皿に置いた。彼はフォークを指してそれを食べる。頬いっぱいにパンケーキを入れる姿はハムスターのようだった。
再び皿が綺麗になり、さすがに腹が満たされたろうと、テーブルの上の食器を片付けた。そして食後に、彼好みの甘ったるいりんごジュースをコップに注ぎ差し出す。飲みやすいようにストローを添えた。
彼はジュースを少し吸うと、あっと声を漏らして腰を上げた。コップをテーブルに置いて風呂場の方へ足を向ける。しかし、その場から固まってまったく動かない。彼の妙な行動を見守っていると、彼が眉を下げて私に目をやった。
「どうした?シャワー浴びたいなら行けばいいじゃないか」
「……行かないよな?私を置いてどっか行かないよな?ここにいるよな?」
彼は瞬きもせずに私を凝視して、私の答えを待っている。不安そうに瞳が揺れてぼやける。
「行かないよ。ここで待っているさ。それともなんだ、一緒に入るか?」
彼は顔を熟した林檎のように赤くして、首を横に振った。かつての彼だったら勢いで私を罵ったものだが、機嫌を損ねて私が去ってしまわないようにか黙りこくっている。
「冗談だ」
早く行っておいでと告げながら彼の頬に口づけた。彼は顔をさらに熱しつつ、大きく角ばった手で顔を覆う。指の隙間から目尻が僅かに下がっているのが見えた。
そのまま彼は風呂場へ入り扉を閉めた。がさごそと服を脱ぐ音が聞こえる。私はその扉に寄りかかりジャケットの内ポケットから手帳とペンを取り出した。今日の彼の様子を記録していく。
最初の頃は酷いものだった。悪態はつくし、我儘は言うし、私から逃げようとするし。あの彼に、外は恐ろしいと、私と共にあることが幸せだと分かってもらうのは骨が折れた。
多少手荒な手段も使った甲斐あって、今の彼はすっかり私に懐いている。私の愛を素直に受け取り、同量かそれ以上の愛を返す彼は大変可愛い。
だがまだ足りない。完璧な彼にはまだ足りない。もっと愛を注がなくてはならない。抗うならば折檻も必要だろう。彼が私の愛を零さずに飲み込む、良い子になるように。
その決意を胸に抱いて、手帳を閉じた。