「幸せの泥濘」第七話イノセント・ゼロの計画は着々と進んでいた。そして、それはセルと女のささやかで幸せな生活の終わりが近いことを表していた。
「セル、五兄弟を集めてきなさい」
「……はっ、かしこまりました」
いよいよ侵攻が始まる。セルは出かける前に女の待つ自室へ立ち寄った。お昼の家事を済ませて、ひと休憩していた女は、不思議そうにセルを見つめる。
「セル様、どうかされたんですか?」
「……いや、なんでもない。少し遠出をするから帰りは遅くなる」
お父様の願いが叶うのは、とても喜ばしいことなのに、どうしてこんなに悲しいのか。セルにはわからなかった。泣き出してしまいそうなのを必死に堪えた。お父様の願いが叶ったら、お父様が永遠を手に入れたら、僕と女はどうなるんだろう。セルは自嘲した。わかりきったことだ、用済みとして消されるだけ。セルは、ずっとそれでいいと思っていた。お父様のために尽くし、死んでいく人生こそ喜びだと。でも、今は。
「セル様、なにかお辛いことが?」
女が心配そうにのぞき込んでくる。セルは涙の浮かんだ瞳を見られまいと顔を逸らした。この女と幸せに生きていきたい、だなんて。そんな望みを抱いてはいけないのだ。僕はお父様のために生まれた、お父様の願いを叶えるために死ぬなら本望なんだ。己の中に芽生えてしまった感情を、希望を、押し殺すようにセルは乱暴に目元を擦る。
「目にゴミがはいっただけだ」
ジーン。セルは女の名を、おそらく偽りの名だろうが、心の中で呼びかけた。お前に死んでほしくない。幸せに生きていてほしい。セルは、もうこの部屋には戻ってこられない気がしていた。二人で過ごした、幸せの泥濘に。もしも、こんなことを考えてはいけないのだけれど、もしもお父様の計画が失敗したら。セルはクロゼットを開けると、自分のアクセサリボックスから、いくつかのアクセサリをひっぱりだして、女に押し付けた。
「もし、」
もし、じゃない。おそらく、でもない。確実に、セルはもう戻ってこない。
「もし僕が戻らなかったら、これを売って生活費にあてろ」
「セル様、戻らないだなんて、そんなこと言わないでください。一体なにがおきるんですか?」
女はセルの胸に飛び込んでくる。セルは女の背中を撫でさすりながら答えた。
「もうすぐ、大きく街を侵攻するんだ」
お父様のために、世界は滅びるんだよ。とは言えなかった。女は身を離すと、悲しそうに瞼を伏せた。長い沈黙の果て、一体どこまでわかっているのか、女はセルの頬にキスを落とすと、全て見透かしたように、それでいて全て受け入れたかのようにほほ笑んだ。
ー幸せの泥濘 第七話ー
そして時は流れ、セルといえばこのザマであった。がれきに挟まれて身動きがとれない。杖は手の届かない遠くに吹き飛ばされてしまったし、手もがれきに埋もれて動かせない。お父様のために死ぬのは構わないと思っていたが、まさかこんなみっともないことになるとは。たぶん、このままここで死ぬんだ。ああ、叶うことなら、もう一度女に会いたい。
「セル様……!セル様……!」
これは幻聴か、走馬灯か。女と過ごした日々は楽しかったな、うるさかったけど、わりとうるさかったなっていう思い出ばかりだけど。
「見つけましたよセル様!」
たゆん、と目の前におっぱいが。このよく見慣れたたわわな乳は。
「っ、お前っ、なんでここにっ……!」
そこにいたのは、会いたくてたまらなかった、でもこんなところにいてはまずい存在。ジーンその人であった。
「そんなことどうだっていいでしょう!セル様、今助けますからね」
女は杖を振り、がれきをのけようとするが、女の魔力ではびくともしない。女は杖を投げ捨てると、がれきに手をかけ、持ち上げようとする。
「やめろ、無茶だ!」
「でもっ、でもこのままじゃセル様が……」
女の手はみるみるまに血まみれになっていった。セルは見ていられないとばかりに叫ぶ。
「いいからお前はもう逃げろ!」
「だめです、セル様を見捨てて逃げられません!」
そうセルと女が押し問答をしているうちに、神格者の一人がやってきてしまった。こいつは、ライオ・グランツ……まずいやつに見つかった、とセルは焦る。僕が捕まるのはまだいい、このままだと女まで捕まってしまうと。
「お前……イノセント・ゼロの幹部だな?」
「……ああ、そうだ」
「……こちらの女性は?」
セルはとっさに嘘をつく。
「ただの通りすがりだ、親切な一般人だろ」
ライオは女の方を見る。女は、ぐいとライオに近づいた。
「私は、彼の小間使いです!」
「おい、そんなこと言ったらお前まで捕まるだろ!」
女は強く声を張った。
「私のこれからの人生は、アナタとともにありますから!」
セルは諦めたようにため息をついた。ライオは部下に指示を出し、セルと女を拘束する。二人は、魔法局本部に連れていかれる運びとなった。
ライオは深刻な顔で街が襲われたこと、そしてセルを捕獲したことを報告する。
「街を襲撃していたところを見捨てられたらしい。隣の女は……」
「僕の個人的な小間使いだ。お父様とは関係がない」
セルは囚われた腕をもぞもぞさせながら答える。どうにかして、女に害が及ばないようにしなければ。必死に頭を回転させるセルとはよそに、ライオはきょとんとした顔をした。
「つまり愛人ということか?」
「違う!!」
セルが大声をあげるのに被せるように、女も反論する。
「カノジョです!!」
「カノジョでもない!久しぶりだなこのやりとり!」
セルと女がぎゃあぎゃあ騒いでいると、楽しそうなところ悪いが、と一人の男が割って入った。がっ、とセルの顎が蹴り上げられる。オーター・マドルか、まあいい。静かにしてろよ、と女の方を見る。女は小さく悲鳴をあげ、オーターを睨みつける。
「や、やめてください!セル様になにするんですか!」
「バカ、黙ってろ!」
下手に口を出せば、女もただでは済まないかもしれない。セルは焦ったが、幸いオーターは女に興味を向けることなく、セルの前髪を掴んだ。
「なにをしようがオレは屈しないぞ。オレはお父様に忠誠を誓った身」
「ケツを出せ」
オーターはまっすぐセルの目を見ながらこう言った。
「お前のケツに大量の砂を流し込んで……」
それはまったくもって脅しではないことがわかる。この時点でセルは決めた。
「しゃべります」
「セル様……そ、そんなところも好きです……」
女が呆れたようにため息をついた。
「5人兄弟はそれぞれ強大な力を持っている」
デリザスタ、エピデム、ファーミン、ドゥウムと説明していく。長男を説明し終わり、セルから提供できる情報が尽きたころ、会議室に一人の女性が入ってきた。
「オーター様、ご報告が……」
部屋に入ってきた女性は、ふとセルの隣にいる女を見る。そして、はっと目を見開いた。
「ティーカ!?ティーカなのですか!?」
女性は女のことを聞きなれない名前で呼び、肩を掴んで顔を覗き込む。女は震える声で、女性のことを呼んだ。
「あ、あぁ、お姉さま、ジェーネお姉さま……」
ジェーネと呼ばれた女性は、ひどく取り乱した様子で女を揺さぶった。
「ティーカ、本当にティーカなのですね」
ジーン、ってやっぱり偽名だったんじゃないか、とか魔法局に姉がいるなんて聞いてないが!?とか、セルは頭がいっぱいいっぱいだった。
「ティーカ、お前。いったいどこへいっていたのですか、なにがあったのですか、どうしてここにいるのですか」
「それは、えっと、あの、その……」
矢継ぎ早に女を質問責めにするジェーネを、オーターが止める。
「……この女はなんだ」
「この子はティーカ・リコム。私の最愛の妹ですわ」
オーターの制止を振り払い、ジェーネは女を抱きしめる。女はしばらく空を見つめていたが、やがて堰を切ったように泣き始めた。
「お姉さま……お姉さまぁ……」
幼子のように泣きじゃくるその姿は、セルにとって初めて見るもので。セルは驚いたと同時に、妬ましいような、悔しいような、そんな気持ちを抱いた。女が、セルの前で決して見せることのなかった弱さをさらけ出していること。セルは何とも言えずに姉妹の再会を眺めていた。
「感動の再会なら後にしろ、今はやるべきことがある」
「オーター様、たとえ何が阻もうと、私はこの子のために戦います」
「……規則には従ってもらうぞ」
オーターたちは縛り上げたセルを引き連れ、最後の戦いに向かう。
「おい、その女はっ……」
セルは女の方を見る。女も、不安げな顔でセルの方を見つめていた。
「この女はしばらくこちらで拘留する。ジェーネ、連れていけ」
「かしこまりました」
ジェーネは優しく女の肩を抱き、立ち上がらせる。
「悪いようにはしません、ティーカ」
嫉妬心こそあれど、離れ離れにはなってしまう今、魔法局に女の味方がいるのはありがたい。誰だか知らないが頼んだぞ、セルがジェーネに目配せすると、ジェーネもまた瞬きをした。
そして、マッシュ・バーンデッドたちの活躍により、イノセント・ゼロは敗北。世界は平和を取り戻し、イノセント・ゼロ関係者は……セルも含め、法の下裁きにかけられることとなった。一通りの流れが終わり、裁判官が問いかける。
「セル・ウォー、最後になにか言うことは」
「……ジーン、いや、ティーカ・リコムは僕が個人的に雇っていた小間使いだ。イノセント・ゼロとの関わりはない」
席についていたライオが立ち上がる。
「やけにあの女性を庇い立てするな、やっぱり付き合っているのか?」
「……ただの小間使いだ」
そして裁判は終わり、セルは裁判所の外にでる。太陽の日差しがまぶしくて目を細めた。結局、司法取引や抒情酌量の結果、セルは執行猶予という判決が下った。はぁ、と大きくため息をつく。おわった、のか。全部、全部。裁判所の門を出て、セルは立ち尽くした。おわったのだ、お父様の野望も、自分の生きる意味も、全て。さあ、これからどうしようか。心を占めてしかたがないのは、女の安否だった。悪いようにはしない、と女の姉であるジェーネは言っていたが。イノセント・ゼロには関与していなくても、あいつもあいつで人殺しなのだから。懲役何年がつくことやら、……もう、会えないのだろうか。セルは唇を噛み、下を向く。叶うことならお前と
「セル様!」
背後に肉の塊がぶつかってきた。セルはバランスを崩して倒れこむ。全身をしたたかに打ち付けた。大きくて柔らかい肉が、身体の上にのっている。逆光に目を細めその姿を確認すると、それは確かに。
「ジーン、お前……」
「セル様ぁ、会いたかったです~!」
わき目もふらずセルに抱き着いてくる女に、セルはなんだか泣きそうになってしまった。ほんの数週間会っていなかっただけなのに、もう何年も会っていなかった気がする。セルは女を抱きしめ返した。
「……僕も会いたかった」
セルは小さく小さく、本音を零した。女はぱっと身体を離すと、セルに熱くキスをする。舌まで入ってきそうな勢いだ、セルは女を引っぺがした。
「やめろ!公衆の面前だぞ!」
「え~、私とセル様の仲じゃないですかぁ!」
んっ、と唇を差し出してくる女を押しのけようとするセル。そんな押し問答をしていると、頭上から冷たい声が降ってきた。
「楽しそうでいいですわね」
二人が上を見上げると、そこにはなんの表情も浮かべていないように見える、ジェーネが立っていた。
「お前は……こいつの姉の……」
「私はジェーネ・リコム。この子の姉です」
ジェーネはふぅ、とため息をついた。
「この子も執行猶予で済むよう手配しました。セル・ウォー……お前がぺらぺらと情報提供をしてくれたおかげでもあります。礼を言いますわ」
微妙にバカにされている気もするが、女を執行猶予にしてくれたジェーネに頭が上がらない。セルは黙って続きを聞いた。
「さて、セル・ウォー。あなたに聞きたいことが二つあります」
「……なんだ」
ジェーネはセルの眼前に指を立てる。
「ひとつ、お前はティーカの何ですか?」
「ぼっ、僕はこいつの主人だ。こいつは僕の小間使いで……」
まあいいでしょう、とジェーネが今度は二本指を立てる。
「ふたつ、お前はティーカを幸せにできますか?」
ここで躊躇ったら、女をジェーネに連れていかれるかもしれない。焦ったセルは、女を強く抱き寄せた。
「僕は、僕はこの女を幸せにする、こいつと一緒に幸せになるんだ!」
女は一瞬きょとんとした顔をしてから、すぐにへにゃりと笑って、セルに身を委ねる。
「そうですか」
ジェーネは落ち着いた口調でそう言うと、セルと女に紙切れを手渡した。
「私の連絡先です。今後なにかあったらすぐに相談するように」
立ち去るジェーネの背中に、女が大きな声で叫んだ。
「お姉さま、私、幸せになりますね!」
僕たちは幸せになるんだ。セルは女の髪の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。