照りつける太陽の熱が肌をジリジリと焼いていく。額から汗が滲み出てきて、零れた一粒が地面に小さな滲みを作った。どう考えても外に出るのに適した気温じゃない。フィンだって、補習でなければこんな日に草むしりをしようとは思わなかっただろう。…いや、どちらかといえばさせられていると言った方が正しいが。
どうしてこんな炎天下の中、フィン・エイムズは一人で草むしりをしているのか。話は少し前に遡る。
一学期最期の体力育成の実技テストの日、フィンは風邪をひいて休んでしまった。今日は本来であればその再試験の予定だったが、担当の先生が急用で来られなくなり、代わりに学校の雑用をすることで単位がもらえることになったのだ。
そりゃあ、再試験よりは雑用の方がマシだけどさ…。
実際フィンは体力育成が大の苦手で、再試験をやったところで合格ラインに達するかどうかも怪しいレベルだった。それを考えれば、雑用さえすれば単位がもらえるのだから、フィンとしてはこっちの方が断然都合がいい。
…ただし、それも今日が真夏日でさえなければ、の話だが。
「…にしても、さすがに暑すぎるよ…」
周りに人がいないことを確認して、小さく愚痴る。先生もこんな暑い中草むしりだなんて、何を考えているのだろう。さっきから滝のように流れている汗がシャツに貼り付いて気持ちが悪い。さっさと終わらせて部屋に戻ろう、そう思い作業を再開しようとしゃがんだ時、どこからか可愛らしい声が聞こえてきた。
「にゃあ」
「わっ…!」
声の主は、小さな黒猫だった。草むらからひょっこりと顔を出してこちらを覗いている。
「か、かわいい…」
フィンは思わずそう呟いた。毛が短い種類なのか、全体的に身体はスラッとしていて、シュッとした切れ長の黄金色の目をしている。
おいで、と手招きするとこちらの方に近づいてきて、フィンの手にその頬を擦り寄せて来た。そのまま顎の下の方を撫でてやると、気持ちよさそうにゴロゴロ言っている。
「かわいいなぁ。どこから来たの?」
「にゃあ」
「って言っても分からないよね…あはは…」
頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じている。その様子を眺めていると、いきなり酷い浮遊感に襲われた。
「…ッ、あ...」
まずい、そう思った時にはもう遅かった。ぐらりと視界がゆがむ。長時間外にいたフィンの身体は本人も気づかないうちに限界を迎えていたのだ。体の力が抜けて、地面との距離が近づいていく。
意識が遠のこうとするその瞬間、懐かしい幻覚を感じた。
「-フィン」
ここにいるはずのない人の声が聞こえる。そのまま、懐かしさを感じる腕に強く抱きとめられた。
「にい、さま…?」
どうして、こんな所に-。
そう口にしようとして、フィンの視界は暗転した。
目を覚ますと、見なれた自分の部屋の天井が視界に飛び込んできた。
「あれ…僕、さっきまで外にいた筈じゃ…」
誰かがここまで運んでくれたのだろうか。そう思って辺りを見回してみるが誰もいなかった。
もしかして、兄さまが…?
そんな考えが頭をよぎる。フィンが倒れる前に聞いた声、あれは確かに兄のものだった。しかし、フィンはすぐに被りを振ってその淡い期待を頭の隅から追い出した。
「そんなわけ、ないよね…」
そう、そんな筈が無いのだ。
兄に憧れて、必死の思いで編入試験をくぐり抜けて入ったイーストン-フィンはここで入学以来ずっと学年一の落ちこぼれだった。そのせいか、次第にレインはフィンと距離をとるようになっていった。
何をやってもダメで、優秀な兄の顔に泥を塗ってばかりの弟なんて、嫌われても仕方ない。何かが喉の奥から込み上げてきて、目頭がじんわりと熱くなる。あ、ダメだ、泣きそう…そう思った時、視界の隅に小さな黒い塊が見えた。
「みゃあ」
塊の正体は、さっきの黒猫だった。
「わ、来てたの?」
小さな体をひょいと持ち上げて膝の上に乗せる。その目はどことなくフィンの身を案じているようだった。
「心配して来てくれたのかな…優しいね」
「にゃ」
頭を撫でてやると、猫は気持ちよさそうに目を閉じた。そういえば、この子の名前はなんて言うのだろう。首輪らしきものが見あたらないところを見ると、どうやら野良猫らしい。
「君のこと、なんて呼ぼうかなぁ…」
何かいい名前がないか、じっと見つめていると、金色の双眼に見つめ返された。
レインと同じ、レモンクォーツのような瞳。小さい頃、その瞳に見とれていたことを思い出す。-兄さまの目は、宝石みたい。フィンがそう呟くと、お前とおそろいだ、と優しい声で返された。
そういえば、この猫もどことなく雰囲気が兄に似ている。
「そうだ、にいさま、っていうのはどう?」
「…にゃ」
肯定とも否定とも取れない微妙な返事が返ってきた。あまり好みの名前じゃなかったのかもしれない。
「うーん…でも、僕、名前のセンスないし…君って呼ぶのもなぁ…とりあえず、にいさまって呼んでも…いい?」
「…にゃあ…」
渋々了承してくれたようで、フィンはほっとする。というか、ここまで話しておいて今更な気もするが、猫に人の話が分かるんだろうか。賢い猫なのかもしれない。そんなところも兄さまにそっくりだな、とフィンはぼんやり思った。
「にゃっ」
「あっ」
にいさまがフィンの手をすり抜ける。そのまま窓から外へ出ていってしまった。
「行っちゃった…」
フィンは一人、誰もいない部屋の中に取り残されてしまった。
同室のルームメイトは帰省で当分帰ってこないから、フィンは夏休みの間中、ずっと一人部屋だった。兄以外に家族もおらず、仲のいい同級生もいないフィンは、一人で使うには広すぎる部屋をもてあましていた。
また、来てくれないかなあ…。そんな淡い期待を抱きながら、フィンは窓の方を見つめた。
その願いは思ったよりも早く、あっさりと叶った。次の日も、その次の日も、にいさまは夏休みの間ほとんど毎日フィンの部屋に来てくれた。
「にゃ〜」
「あ…!にいさま、今日も来てくれたんだ…!」
課題をしていた手を止めて窓の方を見ると、にいさまがひょい、と窓のサッシを飛び越えているところだった。その体を優しく抱き抱え、膝の上にのせる。にいさまは手足をしまいこんでころん、と丸まった。
にいさまがフィンの部屋を訪れるのは決まって夜だった。それがフィンにはとてもありがたかった。夜に一人でいると、よく上手くいかないいろんなことをぐるぐると考えてしまって、言いようのない不安にかられていたから。にいさまが側にいてくれる、小さなその温もりが心の支えになっていた。
「にいさま、今日はね…」
にいさまの背中を優しく撫でながら、フィンはよく色んな話をした。今日は一段と暑い日だったこと、ようやく魔法数学の課題が終わりそうなこと、廊下で校長先生にばったり出くわしたこと…。フィンの他愛のない話を、にいさまはちょうどいいタイミングでにゃあ、と相槌をうちながら聞いてくれる。良い話し相手だった。
フィンが話している間、膝の上のにいさまは、優しい目でフィンをじっと見つめていた。
そんなにいさまを見て、フィンはある決心をする。ずっと前から、明日こそ、明日こそはやろう、そう思って、結局できずじまいだったこと。それをにいさまに聞いてもらって、腹をくくろう。覚悟を決めて、フィンはにいさまに語りかけた。
「…あのね、にいさま、聞いてくれる?…明日、僕、久しぶりに兄さまに話しかけてみようと思うんだ。あ、兄さまって言うのはにいさまのことじゃなくて、僕のお兄さんのことなんだけど…」
話しながら、フィンは思わず苦笑した。我ながらややこしい名前をつけてしまったかもしれない。にいさまの方を見ると、目を大きく見開いてきょとんとしている。鳩が豆鉄砲を食らったような、そんな顔だった。
急に自分と同じ名前が出てきて、びっくりさせてしまったのかもしれない。そう思いフィンは言葉を続けた。
「あ、混乱させちゃったよね、ごめんね。実は、にいさまの名前は僕の兄さま…お兄さんからなんだ。雰囲気が何となく似てたから…」
「…にゃ…」
にいさまの返事は気のせいか、いつもより少し弱く、小さかった。
「すごく優しくて、かっこよくて、自慢の兄さまなんだ。最近は全然話せてないんだけど…だから、仲直りできたらいいな、って思って…あ、」
最後まで言い終わらないうちに、にいさまが膝からするりと降りる。そのまま窓の外へ走って行ってしまった。
いつもだったら、話の途中で帰ることなんてないのに。今日はどうしてしまったんだろうか。そういえば、話の途中から様子がおかしかった気がする。
フィンはなんだか胸騒ぎがして、その日はあまりよく眠れなかった。
次の日の夕方、フィンは寮の3年生が住むエリアに来ていた。普段であれば多くの学生の気配がする寮内も、この期間はほとんどが家に帰っていて人の気配が全く感じられない。
静かな廊下の中、フィンの靴音だけが鳴り響く。目的地はただ一つ、兄であるレイン・エイムズの部屋だった。
目当ての部屋番号が書かれた扉を見つけて、立ち止まる。昨日、ウォールバーグ校長とすれ違った時に教えてもらった番号だった。
-レインの部屋はそこじゃ。いつも夕方以降は部屋におるはずじゃから、兄弟水いらずで過ごすと良い。
そう言って、目元に笑みを浮かべながらフィンにメモを渡してくれた。紙に書かれた数字と、部屋のプレートの数字が間違っていないことを確認する。
ここに、兄さまがいる。
いざ扉を目の前にすると緊張で足がすくみだす。
兄と最後に会話らしい会話をしたのは、フィンが中等部に入るずっと前の事だった。入学してからはどこか近寄り難い雰囲気で、廊下ですれ違ってもすぐに目を逸らされて話しかける隙すらなかった。だから、フィンがレインに自分から話しかけに行くのは、イーストンに入ってからはこれが初めてだった。
-今日こそ、昔みたいに、ちゃんと話して仲直りするんだ。
緊張と不安に高鳴る心臓を落ち着かせようと、深呼吸をする。
意を決して、ドアを3回ノックした。扉が開くまでの沈黙の時間が、無限に続くかのように長く感じられる。しばらくして、中から足音が聞こえてきて、施錠の音と共に扉がギイ、と開かれた。
「誰だ?何か用か-」
フィンを視認した瞬間、レインの目が大きく見開かれた。そのまま、その表情が険しいものに変わる。
「…何故お前がここにいる」
冷たい視線に射抜かれて、フィンの喉の奥からヒュ、という嫌な音がする。
「え、ええっと、に、兄さまと、は、話が、したくて…」
「…話?なんの?」
「い、いや、特に何のとかじゃなくて…ただ、久しぶりに兄さまと話したかったから…」
そのフィンのオドオドした様子に苛立っているのか、一つ、大きなため息をついてレインは冷たく言い放った。
「…帰れ。オレは忙しい」
そう言って扉が閉められた。それとほぼ同時に、ガチャリ、と鍵がかかった音がする。その音で、フィンは自分が兄に拒絶されたのだと理解した。
…ろくに話すら、できなかった。
扉を閉める直前の、兄の、あの冷たい目。言外に話しかけてくるなと訴えていた。
堅く閉ざされた扉はまさに兄の心情を表しているかのようだ。フィンは耐えきれず、逃げるようにその場を去った。
そこからはもう、あまり覚えていない。鉛のように重たい足をひたすら無心で動かしていたら、気づけば自分の部屋に着いていた。そのまま自分のベッドに倒れ込む。頭の中がぐちゃぐちゃで、考えが上手くまとまらない。今はもう何も考えたくなかった。
次から次へと嫌な思考が湧き出てきて、それにつられて目頭が段々と熱くなっていく。じんわりと濡れていくシーツに顔を埋め、フィンは全ての思考を遮断するように眠りについた。
目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。部屋に着いた時はまだ夕方だったのに、あれから何時間くらい眠っていたんだろうか。
ふと、首元に暖かいふわふわとした感触を感じる。
目線をそちらに向けると、フィンは思わず驚いて飛び起きた。
「…っ!にいさま、来てたの…?!」
「にゃ〜」
「うわぁ、暗い中怖かったよね、ごめんね。今電気つけるね」
慌てて明かりをつけると、黒いにいさまのシルエットがよりくっきりした。
ベッドに再び腰かけると、にいさまはいつものようにフィンの膝の上に飛び乗ってきた。いつものように頭を撫でてやると、気持ちよさそうににゃあ、と返してくれる。
その膝の上の温もりが、そばに居てくれる小さな存在が、弱っていたフィンの心にじんわりと染み渡っていく。
気づけばフィンは、目から大粒の涙をぽろぽろとこぼしていた。それを見たにいさまがぎょっとした目でフィンを見る。
「にゃ...にゃあ...」
丸めていた四肢をすくっと立ててにいさまはじっと、心配そうにフィンを見つめた。
それを見たフィンは背中を丸めて、にいさまに目線を合わせる。
-ああ、多分、驚かせちゃったよね。ごめん、ごめんね…。
「ごっ、ごめんね…急に、泣いたりっ、して、びっ、びっくり、するよね…」
それでも涙は止まらない。フィンは堰を切ったように、今日あったことを話し始めた。
「あっ、あのねっ…昨日、兄さまに話しかけてみるって、言ったでしょ…っ?あれ、結局、ダメだったよ…」
こんなことをにいさまに言っても、困らせるだけじゃないか。そう思っても、1度口から出してしまった言葉はもう止まらなかった。
「かっ、帰れ、だってさ…あは、当たり前だよね…こんな、落ちこぼれで、恥をかかせてばっかのっ、おとうと、なんかっ、いらなっ…」
最後まで言いきらないうちに、にいさまがフィンの頬に擦り寄ってきた。ふさふさとした毛がフィンの頬をやさしく撫でる。その感触がこそばゆくて、優しさが嬉しくて、フィンは思わず笑ってしまった。
「あはっ、あはは、にいさま…ありがとう…あ、あれ…?」
途端にフィンの心の中で、それまで張り詰めていたものが全部切れてしまった。どんどん涙が溢れ出てきて、視界が滲んでいく。もう前がよく見えない。壊れたダムのように、フィンの両目からは涙がひっきりなしに出続けていた。
「だめだ、涙、止まんない…ごめっ、」
「…にゃあ」
頬になにか暖かいものが触れる。涙を拭うように、にいさまが小さい舌でぺろぺろとフィンの頬を舐めていた。そのざらざらとした感触が心地いい。
昔、フィンが泣いていると、よく兄が頬を撫でて、涙をそっと拭ってくれた。今頬に触れている温もりが、フィンの中でその時の兄の手と重なる。
「…ありがとう、にいさま…」
そう言って、にいさまをそっと優しく抱きしめる。
「にゃ」
腕の中で、フィンに答えるようににいさまが小さな声で鳴いた。
きっかり一時間。それがこの魔法の持続時間だった。自分を抱きしめているフィンの腕をするりとくぐりぬけて、ベッドから飛び降りる。ちょうど時計を見ると、もう少しでフィンの部屋を訪れてから1時間が経とうとしていた。
一瞬、体が浮いたような感覚がした後、目線が元の高さに戻る。視線を下に向けると、ふさふさの毛に覆われていた手は人のそれに戻っていた。
たくさん泣いて疲れたのか、フィンはあの後すぐに眠りについてしまった。少し体をかがめて、フィンの頬を伝う涙の跡を指で軽くなぞる。
自分でも、酷なことをしているとは分かっていた。あの扉を閉める直前、隙間越しに見た弟の顔が、脳裏にこびりついて離れない。
こんな兄のことなど忘れてしまえばいいのに。フィンは、どんなにレインが冷たく突き放してもついて来ようとした。
だからだろうか。突き放すと決めていたのに、こんな回りくどい方法まで使って会いに来てしまった。一人で心細かったのだろう、毎晩訪れる度に弟は嬉しそうな顔をしていた。楽しそうに話をする時の、自分を撫でる弟の優しい手つきと声を思い出す。
-優しいこの子が、どうか幸せになれますように。毎日笑っていられますように。
いや、オレがそう世界を作り変えていく。お前が笑って明日を迎えられるような、そんな世界に。
そのために茨の道を進むと決めた。心の片隅に感じる名残惜しさに蓋をして、フィンの頬から手を離す。
愛しい弟の顔を目に焼き付けて、レインは静かに部屋を後にした。