クソッタレ、右手が痛い コン、コン。控えめに叩いても空洞に響きわたる音には返事がなく、虚しい。
部屋と部屋を隔てるだけの薄いドアの向こう側。寝室には聡実くんがいるはずで、そしてこんな時間には当然寝ているはずで。穏やかな睡眠を妨害するのは望まないことではあるが、顔が見たいという欲には抗えない。
そろりとドアノブに手をかけて押し出すと、あまりにも簡単に目の前がひらけた。
予想外に室内は暗闇でなく、ベッドサイドのライトだけが薄ぼんやりと灯されている。あかりはシーツから飛び出した聡実くんの生白い腕をやわらかに照らして、薄暗い中浮かび上がらせていた。足音を殺して枕元に近づいてみると、マットレスの上に本が置かれていることに気がついて、ライトがつきっぱなしの理由が分かった。本を読んでいたら眠りに落ちてしまった、そのことをありのままに物語る姿に眦がじんわりとあたたかくなる。
「……聡実くん」
目の前で心地よく寝息をたてる姿形と、このところはずっと頭の中で思い浮かべるしかできなかった実体を持たない想像が、一致していることを確かめるために名前を呼んだ。反応は返ってこないが、微かな呼吸で上下する胸元に、夢にまで見た姿で間違いないと安堵する。
「遅なったわ」
ごめんな、と出かかった言葉を押し返す。それは聡実くんが起きている時にきちんと言わなければ意味がない。聡実くんがこちらの謝罪など、求めているかはまた別の話だが。
起きてほしいような、ほしくないような。何かきっかけでもあればと思うけれど特に思いつかない。耳をそばだて規則正しい寝息を数えてみる。メトロノームのようにリズムを刻むのが、50と少しを過ぎた頃、無防備にシーツの外に放り出されていた爪の先がぴくりと動いた。一段と深く息を吸う聡実くんとは対照的に、こちらは思わず息を呑む。起きるかな。レンズに隔てられていないまつ毛がふるりと揺れるのを見て、鼓動がスピードを上げた。
「……きょ、じ、さん」
薄く開いた唇は乾いている。喉を通る声も少し掠れていて口調も覚束ない。まだ重そうな瞼は瞬きを繰り返して、こちらを見つめる。まるで先ほど自分がやっていたように、聡実くんも今、想像と現実を擦り合わせようとしているのだろうか。
「おはよう。起こしてごめん」
第一に謝るべきはその点ではないことは分かっているが、それでも言わずにはおれなかった。
聡実くんはまだ眠そうに瞼をこすりながら上半身を起こそうとする。それを手伝おうとこちらも上半身を傾けて、彼が掴まりやすいように視線を合わせると、するりと腕が首元に伸びてきたのでそのまま引き起こした。
「いつかえってたん」
「さっきよ。長いことおらんでごめんね」
流れるように口から出てきた言葉に少しだけ後悔した。聡実くんの意識も完全に覚醒していない段階で、尚早すぎたと思った。
首に腕を回したまま離れない聡実くんは何も言わない。意識を戻すことに専念しているのか、それともほかに理由があって黙っているのか。
「きょうじさん」
先ほどよりは幾分かはしっかりした口調が戻ってきた。名前を呼ぶ声色は穏やかだ。
「殴っていいですか」
「え」
瞬間、脳が揺れた。発砲の音よりも鮮烈に、耳元で聞こえていた聡実くんの声をかき消す衝撃に、目の前に星が散る。忘れていた瞬きを思い出して二、三度、時間差でやってきたじわじわと頬を侵食する痛みに、ようやく自分は平手打ちを食らったのだと理解した。
「……え」
「ふ。アホ面。ほんものや」
呆気に取られているこちらをからりと笑って見せる姿に、揺れた脳は処理が追いつかない。ちらつく星が目の前から消えるころ、こちらをじっと見つめる眠たげに濁った瞳が今度は網膜に焼きついた。
「びっくりするから、帰ってくるとき連絡して。右手痛なるから、二度とせんとって」
「……はい」
そう返事をすると満足そうに一度頷く。これは驚かせてしまったことへの平手打ちだったのかと、彼の言葉でようやく納得した。それにしても、殴っていいか聞くまではいいが、せめてこちらの返事も待ってほしかった。断ることは絶対にしないので。
「ああ、聡実くんそのまま寝たらあかんよ。冷やさな手腫れてまうから」
「ん、僕はええ。狂児さんのほっぺのほう冷やさな」
「保冷剤持ってくるから、そしたら、俺も一緒に寝てもええ?」
「ん、ありがとう。ええよ」
やはりまだ眠いのだろう。熱を持ち始めた手のひらを、できる限り力を込めずに優しく包むと聡実くんは再びうつらうつらと船を漕ぎ始めた。
二度とせんとって。連絡するよりもどうしても、何よりも早く会いたくて、きっとその約束はまた破ることになりそうな予感がする。そのときはまた殴ってもいいから、何度だって許してほしい。じりじりと燃えるような頬の痛みに、いつか灼かれて殺されたい。