Dead Biblion Society「ないやん」
整然と並ぶ本の背表紙を撫でていた指が、目当ての文字を見つけられずに途中で止まる。正確に言うなれば、欲していた巻の次巻が目に入ったところで止まった。念のためもう一度、棚の左端まで視線を戻して確認を繰り返してみたけれど、結果は同じでそこにないものはないということを再認識しただけだった。
ないのであればしょうがない。一冊を読み終えてキリの良いところではあったし、コーヒーでも淹れて一息つくことにする。カプセル式のコーヒーメーカーであれば、聡実くんでもボタンを押すだけでコーヒーが飲めるからと、買ってきた当初に狂児のほうが嬉しそうにしていたことを思い出した。僕でもってなんやねん。腹立つな。
家主よりも客人である僕のほうが訪れることが多い不思議な部屋。とあるマンションの一室を、僕は本を読むために訪れる。壁一面が本棚と化した部屋は、狂児が作り上げたものだ。
狂児には妙な癖というか習慣というか、側から見ると異常にも思える振る舞いが現れることがあった。視界の隅から隅、部屋中の壁を埋め尽くす本。これらは全て狂児が集めたものだ。狂児は集めた本を読まない。読まないにもかかわらず、本を集めているらしい。
初めてこの家に来た日、通されたこの部屋を見て、異様な光景に震えた。人がここで寝起きしているとは到底思えない、何もかもが整然と整いすぎている空間。少なくとも生活のための場所ではないことは分かるけれど、成田狂児という為人について気取ることができるものは何もなかった。
並ぶ本は小説から実用書の類まで、ジャンルに縛りがあるわけではなく、雑誌や図録、写真集といったものまで網羅されている。ここに来るまで本棚というものは、ある種その人の思考であったり心の内のようなものが表れるような気がしてきた。けれど狂児のそれはまるで一貫性のない、私というものが排された公共物だと言われても納得のいく様相だった。
変なとこでごめんなあ、なんて大して悪びれてもいない言葉を耳にした次の瞬間には、ここに本を読みに来てもいいかなんてことを口走ってしまった。狂児は少しだけ驚いたみたいで目を見開いていたが、僕の申し出を受け入れて、この場所への立ち入りを許してくれた。ええよ、とだけ、笑ってそう言っていた。
本を読むことは嫌いではない。狂児もきっと、僕がここに来るのは本が目当てと思っているのだろう。けれどそれは半分当たりで、半分は違う目論見が存在していた。
カプセルから抽出が終わった音と香ばしく漂ってくるコーヒーの香りに、沈んでいた思考の底から引き戻される。湯気を立てるマグカップを手にして、そのまま部屋の中央に鎮座する体にフィットするビーズソファに腰をおろした。このソファも僕がここに出入りするようになってから増えたもので、ソファすらなかったこの部屋に、狂児が使うといいといって与えてくれた。この部屋の雰囲気に似つかわしくない、蛍光色のソファは明らかに浮いていたが、狂児にとってはさしたる問題でもないようだった。
スマホのカメラを起動して、先ほどまで読み耽っていた本の表紙を撮影する。タイトルと作者名がよく見えるように。そうして撮れた写真をメッセージアプリでこの家の家主に送る。続きがないですという短い文章を添えて。
送った文章が既読にならないことをしばらく確認した後で、頭を倒してより深く、ソファに身体を潜らせる。当たり前だがそうして下から見上げると、立っているときよりも一層聳え立つ高さの本棚に圧倒される。しかしそこには拒絶の意思はない。言うなれば、少年漫画に度々出てくるようなレベル上げのための試練の塔のようだと思った。
「……アホらし」
己の比喩の拙さに、我ながら笑いが込み上げてくる。それでも確かにそう思った。ここに来て本を読めば、狂児のことが何か分かるようになる気がした。
知りたいと思った。狂児がどんなことを考えて、心には何を浮かべているのかを。ここにある本は確かに狂児の意思によって並べられたものに違いないが、一度収まってしまうと、彼に思い出されることはないのかと思うと怖くなった。そうなってしまうのは嫌だと思って、僕はここで足掻いている。
**
ぼやける視界の奥、何かが動いた。はっきりとしない意識の中、それでも明瞭に嗅ぎ分けることができる煙草と香水の匂いを纏った空気が揺れる。都合の良い夢かもしれない。そう自分を慰める予防線を張ってみたけれど、目元に触れるひやりとした指先が、そんなものは存在しないと僕を嫌でも分からせた。
「あ、起こしてもうた。おはよう」
上下する言葉のアクセントが耳によく馴染む。触れていたはずの指先はすぐに引っ込められてしまい、ひやりとした感覚も体温に霧散してしまった。瞬きを繰り返すとくっきりと輪郭を取り戻す視界が正しいか確かめたくて、目元を擦ろうとしたがレンズに阻まれた。
「眼鏡かけたままやったから、外してあげよう思ってんけど、失敗やわ」
そういうことかと納得して、へらりと笑う狂児を見つめる。
「来ると思わんかった」
「俺はまだ聡実くんおらんかなって、期待した」
耳に熱が集まる。期待した、なんていじらしい台詞、よう言えるわ。
ソファに寝転んだままの僕を覗き込むように目線を合わせてくるものだから、逃れることができない。それならばいっそと、中心から少し身体をずらして端に寄り、スペースを作ってみた。いくら努力しても男2人が収まるサイズではなかったが、少し驚いた顔をしたあとに、狂児は喜んで身を乗り出した。
「本、続きとプリン買うてきたんよ」
おやつ食べへん?
さっきよりももっと近い距離、耳元にも程近くから聞こえる誘いは抗いがたいものがある。プリンはきっと狂児が食べたいついでだったとしても、口に残るコーヒーの苦味を中和するのにぴったりだと思った。
「うん。食べたいです。本もありがとう。読んでってもいいですか?」
「当たり前やん〜俺も一緒になんか読もっかな」
「もう今日は出らんのですか」
「うん。お仕事、終わらせてきてん」
紡がれる言葉がじわりと滞る。口と合わせて何かと賑やかな表情筋も今はすっかり鳴りを顰めて、穏やかに瞬きを繰り返していた。
「あかーん、寝てまいそう」
「寝たらいいやないですか」
「でもプリン、あるし、聡実くん、おるし」
「コーヒー淹れて、狂児さん起きるの待ってますから」
「うん……」
ありがとう。ほとんど寝言のようなトーンで呟いて、瞬きも完全に止まってしまい、そのうち規則正しい呼吸音が聞こえてくる。こんな狭いとこでよう寝れるなと感心すると同時に、目の下を縁取る色濃い隈に思わず指が伸びた。
皮膚の薄い部分に触れても狂児は起きない。クマは温めるといいらしいと、いつか聞いたことがある言葉を思い出す。劇的な改善なんて望むべくもないが、それでも狂児より少し熱い僕の温度を分け与えたくて、しばらく指を置いたままにしていた。もう少しだけ。僕も再び眠くなってしまわない内にコーヒーとプリンと、狂児が気にいるといい本の準備を忘れないように、今日のこれからについて目を閉じて考えた。