ストップ・メイキング・センス「狂児さん、好きです」
「ぇあ」
挨拶を交わすような気安さで、それでいて急所を外さない鋭さで。それにしたってあまりにも唐突だった。反応して出た声は今まで生きてきた中で発したもののうち、一番間抜けなものに違いない。
聞き間違いの可能性もある。なにしろうたた寝からの寝起きで意識がまだはっきりとしない。午後になると陽射しが差し込む窓辺でうとうと、なんて年寄りのようなことをしていたら本当に寝てしまっていた。長い時間ではないはずだ。窓から吹く心地よい風が聡実くんの前髪を揺らすのを見ていて瞬きをした瞬間、次に目を開けた時は仰向けになっていた。
「寝てた……」
「そんな長い時間やないですけど、おはよう」
「お、はよう、ございます」
情けなく尻すぼみになる言葉にも、聡実くんから返ってくる反応はいたってフラットなものだった。
身体を起こして、まだぼやける視界を正そうと目を擦る。真正面に座る聡実くんはただじっとこちらを見つめている。平時くらいまで頭の働きが戻るのを待つと同時に、自分が今、聡実くんの家にいる理由を思い出す。ひとまずこの状況を打開するためにも、事の始めから整理していこう。
もはやしっかりと習慣になりつつあった聡実くんとの定期的なご飯会の折、話がある、と切り出された。タイミングとしては食後のコーヒーも飲み終えて、そろそろ店をお暇しようかとしていたとき。聡実くんは普段からお喋りなほうではないけれど、今日はいつにも増して口数が少なく上の空に見えた原因はどうやらここにあったらしい。
ほんならデザートか、もう一杯コーヒーでも飲む? と提案してみたところで聡実くんの反応は芳しいものではなかった。あー、だとかんー、だとか言葉になる前の音ばかりが口から漏れて、しどろもどろに目線も忙しなく動き回る。助け舟を出したいのは山々だったが、何を言い淀んでいるのかが分からないのではこちらとしてもどうしようもない。おろおろしている聡実くんを眺めるのも楽しいものでその時間は苦ではないが、じっと落ち着くのを待っていると、ふう、と一際大きく息をついた。
「ここやとうるさくて、話しにくいんで、家来ませんか」
大きくはない声だが意を決して、噛み締めるように呟いた。人前では話しにくいことがあるということと、その流れで家にお呼ばれしてしまったこと。その二つの衝撃が言葉を理解した時間差で襲ってくる。
そうしてその言葉に頷いた結果、彼の自宅で向かい合っている今に至る。しかしこともあろうかうたた寝をしてしまったのは先の通りだった。ここでようやく冒頭に戻るが思い出した結果、好きだ、という発言に間違いはなさそうで。しかし寝ている時に言われたというのは、こちらが聞いていないと想定をした上でのことのはず。もしかして自分は最悪のタイミングで聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないかと、頭を抱えそうになった。
「ほんまごめん。話あるって言ってたのに寝るとか」
「疲れてるんでしょ。今日だって4時とかにラインしてきてたやん」
聡実くんの声が優しいものであるほどに、ないはずの良心が痛む気がした。聡実くんとご飯を食べることも、話を聞くために家に行くことも、全て己が選んだことだ。選択に責任を持つべきは自分であって、聡実くんが気遣う要素はない。
「さっき思わず言ってまいましたけど、僕、狂児さんが好きです」
話って何。なんて当たり障りのないように切り出そうとしていたこちらのことを知ってか知らずか、聡実くんは先ほどと同じ言葉を再度繰り返す。聞き間違いでも何でもない。やはり正しく、聡実くんは好きだと言った。
それにしても、ただ事実を伝えるだけのような温度感にどう対処するのが正解なのか分からない。じっとこちらを見つめる聡実くんは、次の言葉を紡ごうとしているようにも見えるし、こちらの反応を待っているようにも見える。他の人よりも色の薄い瞳は午後の光を溜め込んで、きらきらといつも通りに美しい。
経験則から、判断すると。世に言う告白というもので間違いがないはずだが。聡実くんのそれは過去の自分が受けてきたどれとも違って、そこに燃え上がる熱や切実さは、表面上少なくとも見られない。
それ故に、もう名前も覚えていないような過去の女たちに、自分の気持ちも分からないまま言ってきた言葉とは全く違うことを言ってみたくなった。
「聡実くん、あんな」
あるいは聡実くんは理解してくれるかもしれないという、自分勝手な期待を抱いたのかもしれない。
「何言ってんねんて思うかもしれんけどな、俺恋愛感情とかそういうんよう分からんねん」
保身に走った前置きの言葉に、存外臆病な自分を見て驚いた。思えばこのことを誰かに言うのも初めてだ。しかもその相手が25も歳下の、中学生時分から知っている男の子だと、誰が予想しただろう。
「なんやここまでフラフラしとったら、こんななってもうた」
思えば物心ついたときから、人から寄せられるそういう類の好意には不思議とよく気がつく性質だった。それを利用して生きてきたことは否定しないし、正直便利な機能、くらいにしか思っていなかったけれど。
始まりはいつも向こうからで、終わる時もまた然り。初心だったころ、自分に恋慕や愛着、欲情を向けてくる女たちに言われるがまま、いつか自分にも彼女たちが言うような好きという気持ちが分かるようになるかと思っていたけれど、ついぞその時なんてものは来なかった。
ストレートに言われたこともある。ヒートアップする言い合いの中、自分のことなど好きではないのだと言った女の売り言葉に買い言葉で、好きじゃない、と言ってしまえば案の定殴られた。頭がおかしい。普通じゃない。そう言われてようやく、ずっと自分の中では当たり前だったことが普通ではないのだと分かった。
「なんかどっかおかしいんやろなあ、俺」
「……そんな風に言わんでええし、笑いたなかったら別に笑わんでいいんですよ」
おかしいと、そう言って笑う俺を見る聡実くんは、眉根を寄せて笑わなくていいと言った。確かに面白い話ではないし笑うポイントもないかもしれないが、そういうことではなさそうだった。引結ばれた唇は震えていて、膝の上に置かれていた手のひらはいつのまにかぎゅっと力が込められている。
聡実くんが見せる感情の揺らぎを捉えることは、時たまとても難しい。こちらが想定したり期待していた反応とは、全く違うものを返されることが多々あった。今、彼の中にあるものは何だろう。
「狂児さんがおかしいとか、僕そんなこと思ったことないです」
聡実くんのその一言は、これまでどんな硬いもので殴られた時よりも苛烈な衝撃をもたらした。脳天を突き刺して、そのままの熱をもって体内で弾け散る。核分裂を起こしたみたいに生まれた熱が、心臓の拍動を後押しする。
少しだけ怒ったような顔と声。聡実くんのそんな顔を見るのは久しぶりだった。聡実くんは今、過去に怒り、その上でおかしくはないのだと、在り方を肯定してくれた。
「まず狂児さんってそういうとこあるよなってなんとなく思っとったし。僕が確認したいのは二つだけです」
話が早いというか何というか。切り替えの早さに瞬きを二、三度だけ挟み、ようやく追いついた。確認と、口にした言葉に思わず首を傾げると、聡実くんは分かりやすく左手を掲げて人差し指と中指を残して、それ以外の指を折りたたんでみせた。
「僕が好きやって思うことが、狂児さんに嫌な思いさせてないか。狂児さんが、僕とこれからも一緒におるんが嫌じゃないか」
「いやいやいやそんなわけ、あ、これはノーの嫌やなくて」
首を振り、彼が示したどちらもの可能性には声を大にして否定したい。しかし余計な口を挟んでしまって事をややこしくしてしまった。二つの確認事項を示す聡実くんからは、もう先ほどまでのような怒りの感情は読み取れない。至って平静に見えたけれど、膝の上に置かれた右手はまだ強く握りしめられていた。
嫌であるはずがなかった。そもそもこの関係は聡実くんの方から終わりを切り出されればそこまでのものだと思っていた。正直ここで終わりを切り出されることを覚悟していたところが、聡実くんが望むのが、このままでいられる関係だなんて。
「嫌なんかそんなわけないよ。せやけど、聡実くんが言う好きとおんなじもん、俺返されへんのよ」
それでもええの、とは聞けなかった。夢かと疑うばかりで、あまりにも自分にとって都合のいい話にしか思えなかった。昔の記憶が再び甦ってきたところで、そんな関係早晩無理がたたって崩れてしまうのは目に見えていた。
はじめはみんながそう言う。好きじゃなくてもいいから、と請われて始まったはずの関係だとしても、誰もがいつしかそれだけでは満足できなくなってしまう。与えたものと対等なものを要求され、それができないと分かってしまえば、誰も残ることはなかった。
聡実くんも、いつしか本当のことが分かったときに同じように、自分に幻滅するだろうか。幻滅されてこうして過ごすこともできなくなってしまうのは、ただ残念に思う。向こうが望めば終わる関係だなんて賢しらなふりをして、縋る勇気もないだけだった。
ふう、と沈黙の中で言葉よりも先に、沈んだ空気に風を通すため息を漏らしたのは聡実くんだった。
正座していた足を開放して、胡座に組み直す様をじっと見ていた。握り締められていた右手のひらもいつのまにか解かれていて、空いていた左手と指を絡ませる。そうして腰を据え直して居住まいを改めてから聡実くんは、何でもないことのように、アホ、と呟いた。
「僕狂児さんからおんなじもん欲しいとか、言ってないですよ」
再び広がる沈黙に、しばし呼吸も忘れてしまう。同じものは求めないと言った、確かなその言葉からは、かつて嫌というほど感じてきた言外の要求のかけらも見当たらないように思えた。
「別に僕と同じように、恋愛感情持って欲しいとか思わないです。狂児さんの自由なんで。告白してキスしてセックスして結婚してってだけが人と人の関係性の全てじゃないでしょ」
「いや……あの……うん……そうやな」
「ちなみに、あくまで僕は、恋愛として好きやしキスもセックスも興味あるし、狂児さんとしてみたいなって思ってますけど。そこは二人でちゃんと話して擦り合わせた上で、出来ることやったらええかなとも思ってるんで」
次々と発される衝撃的な言葉の数々に振り落とされないようにするので必死になる。そこまで望まれていたのかと、正直予想はしていなかった。
しかし望んではいても、同じものを返されることは求めない。彼が導いた答えは自分では到底見つけることができないもので、はあ、と思わず驚嘆の息が込み上げる。
求めない。そう聡実くんは言うけれど。ともすればそれはただの都合のいい関係ではないのかと、それでもいいと彼が思うようになってしまうのは何よりも避けたいことだった。例え同じものが返せなくても、そうじゃないことは、誰よりも目の前のこの子に知っておいてほしい。
「……聡実くん」
「はい」
「俺は今、君をすごく抱きしめたいですが、いいでしょうか」
「……はい、どうぞ」
思い切りよくぱっと広げられた両腕によって、からだが真正面から開かれる。同時に視界いっぱいに、真っ白なTシャツが反射する光がちかちかと瞬いて、聡実くん自身もその光に包まれているように見えた。
迎えを待っている。こちらが動くことで成立するハグのかたち一歩手前、受け入れる準備をしたその最小限の動きにさえ、感動を覚えてしまう。こんな風に優しいままで、飛び込んでいくのが聡実くんの元であることが、ちょっとした奇跡のように思えてならない。
そっと抱き寄せて胸と胸とをあわせれば、左右両方から少しテンポがずれて心音が聞こえる。重なることはないリズムでも良かった。誰のものでもない自分だけのものであることが、聡実くんと重なることによって、高みに引き上げられて良いもののように思えるのはどうしてだろう。
「好きって言ってくれて嬉しい。めっちゃ。ありがとう」
「……嫌やなかったですか」
肩口に頭を埋めているせいか、くぐもり声で聞こえてきた。それを抜きにしてもいつもより控えめなボリュームだったのは、そのことを心配していたからなのかと思い至る。
すっぽりと包んでしまえるそのからだの、腰元で組んでいた腕を解いてそのまま背中に手を回す。褒めるように撫でてからぽんぽんと、ここにあるだけの優しさを持ち合わせて、心配することはないのだと言い聞かせる。
「そんなわけないやん。嬉しいわ」
下を向いたまま動かなかった聡実くんの耳元で、できることならもっと近くで伝えたかったが今はこれが限界だった。
おずおずと頭を上げて、少し離れてしまう体温を名残惜しく思う束の間、薄茶色の聡実くんの瞳がじりじりと、一点に集めた光にあてられ焦がされる。そのままもっと囚われたくて、逸らされてしまう前にとどめておきたくて手を伸ばす。
そっと頬を両手で挟む。少しかさついた肌から内側にこもる熱が、じわりと手のひらへ伝播する。分け与えられた体温に寄せてくれた心。あと何を返せば、見合うかたちになれるのだろうか。
「聡実くんと同じ好きって気持ちは持てんでも、聡実くんのこと大事なんよ」
「うん。知ってる」
それは知ってるから、それでええねん。
ぽつりとそれだけ呟いて、それからそっと目を閉じてしまった。なんか眠くなってきた、なんて言うだけ言って、重心をこちらに預けきってしまう。どんなタイミングで、と思わないでもなかったが、先ほど寝こけていた自分が言えたことではない。聡実くんが少しでも楽でいられるように姿勢を正して再び背中に手を回してもう一度、一定のリズムで肩口のあたりをぽんぽんと叩いてみる。
誰かの寝かしつけをする日が来るなんて。そんな未来があることを過去の自分に話したら、信じるだろうか。
この素晴らしい夢が、今寝息をたてる聡実くんが見ているものであるならば。どうかできるだけ長い間覚めないで、そして悪夢に変わることがないように、祈りとともに目を閉じた。