聡実くん、こっち向いて(あれ、)
ぱたぱたと雨が二、三粒。フロントガラスを打ちつけてからまばたきをした一瞬のうち、降り出した雨はアスファルトをすっかり変色させるほどの驟雨になる。横殴りの風に煽られ波打つように揺れる雨の影を見ていると、冷房の効いた車内では感じるはずのない湿度が思い起こされて胸の内が咽せかえった。
空は明るいままで雨は降り続けている。どうやら天気雨らしい。雨は大粒でガラスを伝い流れていたかと思えば、いつのまにか次第に霧と見紛うほどの細かい線になる。勢いがあったのも一瞬だけで、すでに音もなく静かなものに変わっていた。
雨は好きではない。湿気で重くなる空気も水に濡れる不快感も厭わしい。ここで巻き込まれた渋滞がかえって功を奏して、濡れることがないのは助かった。
しかし濡れることがない代わりに、すっかりと渋滞にはまって身動きが取れないのはまた別の話としてフラストレーションが溜まる。近辺では今日、花火大会が開かれるため交通規制が実施されるということがすっかり頭から抜け落ちていた。
頃合いを見計らったように、カーラジオからはトラフィックニュースがこの渋滞について実況を始める。耳を傾けるまでもなくリアルタイムで体験中で、一向に動く気配はない。こうなってしまうと大して動かない景色を眺めようにも、見知った変わり映えしない街並みなんてすぐに飽きてしまう。暇を潰すのにとりかかれるのは、自然と何かに思いを馳せることに行きついてしまい、それはそれで厄介なものだった。じめじめと纏わりつくのは、頭で巡り続ける思考だけで充分事足りている。それはいつまでたっても揮発することもなく、しつこい黴のようにこびりついて落ちない。
あの日、頬を刺す矢のように冷たい風ばかり吹いていたことを思い出す。今日みたいな湿度はまるで影もない、乾いた空気の街。あの子が住んでいた街だということを差し引いても、ついぞ好きにはなれない場所だった。
聡実くんはあのとき、どんな顔をしていて、何を言っていただろうか。思い起こすのはもう何度目かも分からない。今日こそは、こびりついた黴を落とせるかもしれないと期待はするけれど、結局何かを変えることなどできなかった。
ふぅ、と胸の内を押し潰しそうになる空気を吐き出しても、もやがかかったような頭は依然としてはっきりしない。分かっているのは、聡実くんからはもう、連絡が来ることはないということだけだった。
未練になることすら許されない。はじめから結ばれるべきではなかった縁が、交わらずに何もかも元に戻っただけ。
本当はきっと、きれいさっぱり忘れなければいけないのだろう。けれど記憶を自在に消すなんて芸当はできるはずがない。ならば忘れてしまったふりだけでも、しなければならないことは分かっていた。それでもそのなんてことないふりでさえ、こうして手持ち無沙汰になるとすぐに隙をついて溢れでてしまうくらいには参っている。
そういえば、いつかのあの日も天気雨から始まったのではなかったか。忘れたふりをすっかり諦めてしまった脳は、こちらの気も知らないで楽しげに、次々と引き出しを暴き始めるのが憎たらしい。忘れたくないと縋りつく、己の浅ましさをまざまざと思い知らされる。これ将来、ボケたときとか話すようなってたらほんまに嫌やな。
「聡実くん、こっち向いて!」
こちらの呼び声をあやしむこともせず、素直に声に従って聡実くんは振り返る。天気雨はずいぶんあっさりと降り止んでしまい、打ち水のように暑さを和らげることはなく不快な湿度のみを残していった。
目が合った一瞬のうち、振り返った聡実くんの額にはあからさまにドン引きの文字が浮かんでいる。眉根を寄せて、下唇は押し上げて、口角は引き下げて。とても分かりやすく、今にも機嫌が悪いと言い出しそうな顔つきだった。
「なんの写真なんですか」
「え、記念。花火の」
「……はぁ」
そうとだけ呟いて、聡実くんは横に並ぶ自販機に向きなおってしまう。背中をかがめて、取り出し口から購入したばかりの夏と青春の代名詞と言える飲料を拾い上げた。そしてそのままパキパキと蓋を開けてひとくち、またひとくちと勢いよく中身を流し込む。
意外だった。てっきりスマホをしまえと怒られるか、無視の一点張りがくるとばかり思っていた。けれど聡実くんは一瞬嫌な顔を見せただけで、それももはやすでに今見える横顔にはその影もなく、ペットボトルの中身にすっかり夢中のようだった。
かざしたままだったスマホはそのまま、ただ聡実くんの次の行動を待つ。さながら待てを言い渡された犬のように大人しく、従順に見えるように。少しだけ沸き立つ心は悟られてはいないだろうかと、手にしたスマホに力がこもる。
「聡実くん」
どうかしてしまったのだろう。今の今まで賢しらに、自分は待てが上手だなんて思い上がっていた。しかし実態は数分すらも待てができない、こんなに自分が堪え性のない人間だったとは、人生捨てたもんじゃない。
「こっち向いて」
構えたスマホの画面を飛び越えて、その奥にいる聡実くんの名前を呼ぶ。発した声が思ったよりも縋るような色を乗せていて、滑稽で笑えるものだった。
呼ばれた声に再び視線を向ける聡実くんは、またしばらく動かない。何かを訴えるような目でこちらをただじっと見つめる。そこに込められた意味には気づかないふりをして、こちらも負けじとにっこりと微笑み返す。やがて諦めたように目線を外した聡実くんは小さく息をついて、ようやくこちらに身体の正面を向けてくれた。
観念した姿にあからさまに喜びを見せてはまたいつ彼がへそを曲げてしまうか分からない。なんでもないことのように、ただニコニコと笑って準備が整うのを待っていた。
聡実くんは小脇に抱えていた極彩色に彩られた花火のことを思い出したらしく、ペットボトルを持つのとは反対の手で持ち直す。撮るよ、と声をかければ手にした花火のパッケージをこちらに向けて、添え物のようなピースサインまでおまけでつけてくれた。
ピースはしてくれるんや。示されるご機嫌なポーズとは正反対に、肝心の表情はニコリともしてくれない。色も文字もごちゃついた装飾をされている派手なパッケージが、聡実くんの無表情の隣にあるのがちぐはぐで、その噛み合わなさが予想外におかしくてこちらの笑いを誘う。
「あとで送っとくな」
「いらないです」
「えー、そんな言わんと」
いい写真やで? トーク画面で共有するよりも先に、撮った写真を画面に表示して直接聡実くんに見てもらう。こちらが差し出した画面を拒否できずに聡実くんは、ム、と効果音が聞こえてきそうなほどに口を尖らせていた。自販機の光が、陽が落ちて薄暗くなった中で唯一煌々としているのは、今この時ばかりは聡実くんの不機嫌な表情を照らすために違いなかった。
どういう流れか、今日は聡実くんと二人花火をすることになった。カラオケレッスンの帰り道、いつもであれば何事もなく送り届けて終わりのところ、所用で立ち寄ったコンビニで花火を見つけてしまったところから始まる。もうそんな季節になっていたのかと興味もない時間の流れに思いを馳せれば、助手席で自分の帰りを待つ聡実くんのことが頭に浮かんだ。
花火、好きやろか。今どきの中学生は花火とかすんねやろか。そこまで考えたところでその答え合わせをしたくてたまらなくなり、目についた中で一番派手で大きなものを手に取った。
「ジャン! 聡実くん花火好き?」
車に戻り、相変わらず助手席で縮こまっている聡実くんに購入したての花火を手渡す。流石にその派手なパッケージを丸無視はできなかったのか、聡実くんは目を見開いて少しの間固まる。
さてこの反応は一体どちらだろう。分かりかねているとパチリと一度瞬きをした後、聡実くんの目線がするりとこちらに移動して、フロントガラスから差し込む夕焼けを眼鏡のレンズが捕まえた。
「花火するんですか?」
「そ。どう?」
「……僕と狂児さんの二人でですか?」
「……そやね?」
戸惑っている。理解をしようと懸命にこちらに質問を投げかけてくる聡実くんの目には、疑問が色濃く浮かび上がっていた。
「あー、俺いつかな、地球最後の日がきたら組長の家にロケット花火打つのが夢やねんか」
「えっ?」
「せやから練習付き合うてくれへん?」
どんな理由付けなのだと我ながら思わないでもない。ただ素直に聡実くんと花火がしたいと思った、とも言えない。聡実くんができるだけ首を縦に振りやすいように、せっせと外堀を埋めていく。妙と思わせない勢いで押し通す雑な作戦でも、完全に疑問がなくなったわけではないだろうに聡実くんはついに浅い仕草で頷いてくれた。
好機をみすみす逃すまいとして、早速スマホで花火が可能な身近にある公園を調べ上げて車を移動させる。車であれば聡実くんの自宅近辺からもそう遠くはない場所だった。
いい頃合いに日も傾きはじめて東から西へ、夕闇を追い出して夜がやってくる。聡実くんは家には部活で少し残って練習する、と連絡をいれたらしい。連れ回している張本人としてとやかく言えたことではなかったが、聡実くんがどんな嘘をつくのかは気になった。
「ごきげんやね。何の歌?」
「……」
分かりやすい沈黙。ご機嫌だったかと思えば不機嫌にもなり、怯えていたかと思えば不遜にもなる。思春期の苛烈な感情の移り変わりは、一瞬で変わってしまう夏の天気のようだった。きっと問いただせば恥ずかしがらせてしまうとは思っても、その美しいメロディーを聞こえないふりをしてしまうのはあまりにも惜しいと思った。
カラオケでも頑なに歌ってくれない先生は珍しく気が緩んだのだろうか。あの日と同じ、美しいハミングが極小さなボリュームではあったが耳に届く。メロディー自体は聞き覚えがあるもので、有名なポップスだとあたりをつける。
しゃがみ込んで花火を広げる聡実くんの横、同じくらいの目線の高さになれるよう腰を下ろす。また聞こえてこないかと少し期待して、肩が触れる距離まで詰めてみる。雨上がりの土の匂いに混ざり、真っ白な襟元からはほのかに柔軟剤の匂いが鼻を掠める。先ほど聡実くんが飲んでいたものと少し似ている気がした。糖分由来の甘みのある香りだが、べたつきのない、どこか爽やかなみずみずしさも醸しだして、懐かしむ気をおこさせる。
「若者のすべて」
「え?」
「若者のすべて、ってタイトルです」
そっぽを向いてしまいてっきり答えてくれないかと思っていた。顔をこちらに向けてくれることはなかったが、聡実くんは確かにぽつりと呟く。
「知ってるかも。ちょっと前のやつちゃう?」
「僕が生まれたころくらいやったかも」
「生まれたころかあ……」
自分にとってはちょっと前、という感覚が、聡実くんにとっては生まれたころにまで遡れてしまう。その事実がみぞおちにぐっと圧しかかり、ふう、と息を吐く。
「この間見てた歌番組に出てて」
「そうなんや」
「でも狂児さんの音域には合ってなさそうやし、カラオケ無理やと思います」
「フフ、そうかあ」
花火を選別する聡実くんの指先は、行ったり来たりと忙しない。やがて心を決めたように右手と左手、それぞれに一本ずつの花火を握りしめて顔をこちらに向ける。
差し出された花火はこちらに火付けをねだるものではないらしい。向けられている持ち手から、聡実くんは花火を譲ってくれるようだった。花火をしようと持ちかけた手前、聡実くんだけにこの量すべてを消費してもらうのはさすがに重荷だろう。
手渡されたのを皮切りに、お互いの花火に火を付ければ火薬が燃える音と匂いが次第に周囲に充満していく。忍び寄る夜闇に飲み込まれていた足元を、歓楽街のネオンよりも鮮やかな花火の色と光が照らし出す。
(あ、また)
今度は口に出すことをぐっと堪える。パチパチと連鎖的に爆ぜる音に隠れてしまいそうな聡実くんの歌声を、気づいていないふりをして、それでいて聞き逃すまいとじっと耳を澄ませた。
夏の終わりに花火を惜しんで、忘れられない感傷と遡ることができない虚しさがこめられた歌詞。美しい聡実くんの歌声とともに、覚えていることが苦しくなる日が来るのだろうか。それでもこの歌詞の通り、忘れることはできない気がした。
『続いては楽曲リクエストと一緒にメッセージもいただいておりました。大阪にお住まいのたこ焼きもぐもぐ学部さん、ありがとうございます』
ありえない。けれど確かにラジオの電波にのって間違いなく聞こえた言葉を一つずつ拾い上げる。耳を疑った。にわかには信じられない単語が二つ、確かに聞こえてきた。揃ったあかつきにはまだどう受け入れていいかも分からず、無性におかしくなって喉が震えた。
こんなタイミングで、いつかあった日を思い出していた今この時。そしてまたいつかの日に自分が彼に向けて戯れに口にした、あのくだらない単語。聡実くんもお気に召すことはなかったはずの、間違いなくそれだった。
後ろからクラクションの大音量が鳴らされる。ようやく自分が置かれていた今の状況に思考とからだが追いついてきた。少し開いた前方との車間距離を埋めるように促すそれは、黙示録のラッパか、それとも福音を知らせる鐘の、どちらか。
『〝今日は淀川の花火大会ですね。久しぶりに花火が見たいので、出かけようと思います。約束はしていないので難しいかもしれませんが、このメッセージがもし届いていたら、待ってます。リクエストは花火にまつわる思い出の曲です〟……約束をしていない誰かは今、この番組聞いてくれてますかね? 気になりますね。もし本当に会えたらぜひまたメッセージお待ちしてます。そしてリクエストもありがとうございます。いやー、これも名曲ですね。それではお聞きください。フジファブリックで、〝若者のすべて〟』
「う、わ……」
ばくん。心臓が、跳ねる。ラジオから聴こえてくる音すべて聞き逃したくはなかったけれど、押し出された血液が勢いよく身体を巡り脳を支配するまでに一度すべてが真っ白になる。呼吸を何度か繰り返し、脈動がいくらか落ち着いてきたところで今度は入れ替わるようにぶわりと汗が噴き出してきた。
福音が、訪れる。
確かにあの日、聡実くんが口ずさんでいた曲に間違いない。教えてくれたタイトルも、一言一句違いはない。そして何よりも、紡がれていたメッセージについて、反芻すると再び頭にカッと熱が集まる。ラジオネームも選曲も、メッセージも、自分に向けて語られているものだと、思いたくて仕方がなかった。
じわりじわりと動き出す渋滞は、そのままこちらにも決断を促すようにじり寄ってくる様相を呈している。伸るか反るか、一番肝要なところについては、何一つ迷いはなく。
進まない車は最速で乗り捨てて、咽せ返る夏の夕暮れへと一歩を踏み出す。雨はすっかり止んでしまって、昼間が残した暑さを和らげる打ち水とまではならなかったらしく辟易した。
それでも人混みに挑んでみたい。夏祭りの狂騒の中、きっと一人で下を向いて静かに佇んでいる彼のことを見つける自信があった。ラジオ聴いたよ。今大阪住んでんの。もう会わんって言ったのにごめんな。俺も今日、花火のときのこと思い出してたよ。足を進める一歩ごとに、聡実くんに言いたいことが溢れてくる。
たくさんの言葉が浮かんでいくのを忘れないように口の中で必死に反芻する。それでもやはり、きっと俯いている聡実くんに一番最初にかける言葉はあの時と一緒のものになる、そう予感がしていた。
「聡実くん、こっち向いて!」