硝煙の匂いは花火に似ている。人を殴る音は鶏肉を捌く音に似ている。そうして覚えていられるように、点と点を繋げていたら、そのうちどちらが元いた場所かも分からなくなった。
日の当たる世間のことなど捨て去って、良心なんてものも捨ててしまえば、今よりずっと楽になれることは分かっていた。
それでも縋っていたかった。会えない家族を覚えているのも、自分から忘れてしまえば本当に戻れないと分かっていたから。
「顔くらい綺麗にしとけ。せっかく喜ばれるツラやねんから」
「はぁ。そういうもんですか」
一体誰に喜ばれるというのだろう。喜ばせたい相手がここにいるわけでもない。跳ね返って付着したベタつく生暖かい感触と、鉄錆の匂いが不愉快で、シャツの袖口で頬を拭えば不快感は消えるどころか余計にひどくなった。
生き物の匂いに違いないのに、この匂いは命を遠いところに運んでしまうときに香るものだった。地面にゆっくりと広がり続ける血溜まりが、革靴のつま先にまで侵入してきた時、もはや汚れとしか思えずにまだ跡のない場所をめがけて靴底を擦り付ける。
「あーあ。そのシャツももうあかんな」
「洗えば着れますって」
「ええ、ええ。小遣いやるからさらのん買うたらええ」
「えっ、ありがとうございます」
当たり前のように洗えばいいだけのことだと思っていた。兄貴から差し出された万札をそのまま受け取ろうとして、指先や手のひらが赤黒いままのことを思い出した。そうなると、もう何もかもがどうでも良くなり、シャツの裾で手を拭う。
そやけど、どこにおったとしても、こんなふうに金で代わりが効くシャツみたいにはなりたないな。哀れみとも遣る瀬なさとも少しずつ違う。今の自分ではうまく言葉に表せない思いを押し潰すように、ぎゅっとシャツを握りしめた。
*
「うわっ」
「えっなに? ……あ」
ぱたた、と唇を伝い何かが滴り落ちた。鼻と喉の奥に感じる、鉄錆は香らなくなってもう久しい。赤い点々とした跡を眺めて鼻血だとようやく頭が理解した。
「ちょお、親指で拭くなって。広がるでしょ。押さえな。ティッシュ」
痛みはなく大したことはないと経験則で分かっていた。鼻血を流す張本人よりも慌てている聡実くんが面白くて、溢れそうになる笑いを必死でこらえる。血とか驚かせてしまったよな。
「詰めて。押さえて下向いて。動かんといて。あーもう、広がってるやん」
意外にもテキパキと出される指示に、大人しくされるがままに従う。下を向いていると視界には、聡実くんが貸してくれたスウェットに、まだら模様になってしまった血の跡が目に入った。
「あー、ごめん、聡実くん」
「なに」
「スウェット汚してもうた。弁償するな」
「いらんよ。洗えばええんやからそんなん」
「え」
飛び出してきた聡実くんの言葉に、ほとんど反射的に顔を上げる。真正面にいた彼とバッチリ目が合い、ムッと眉根を寄せた顔をして再度下を向けと怒られた。
「洗えば落ちるから、そんくらい大丈夫です」
「うん……せやな。そやったわ」
「顔、ついてるのも拭くから、下向いとって」
「はぁい」
拭って広げた血の跡を、ひやりと濡れたティッシュの感覚が上書きしていく。遠慮がちにそっと触れては離されて、繰り返されるのが心地いい。
「なあ、聡実くん」
「なに」
「ありがとうね」
「うん……何が?」
「んー、なんも」
洗えばいい。洗えばよかったんや。聡実くんの言う通りだった。血の匂いはティッシュと共に聡実くんによってどこか遠くへと投げ捨てられてしまう。聡実くんがこちらに向けてくれる心配は、手渡されるティッシュのようにふわふわとしていた。包まれるとこそばゆくて、眠気を誘うほどに気持ち良い。