歩め、惑うな、この日々に 強風でコートの裾がぱたぱたと翻る。春物のトレンチコートは、今日の天気ではあまりにも心許ないものだった。
環境予報でも、乾燥及び強風注意報が発表されていた。だのに、それを甘く見て薄手の服装で家を出たのだから、こればかりは自分が悪い。
いつもなら、かつこつと革靴のヒールの音を立てながら歩ける石畳も、靴底と砂埃がざりざりと擦れ合うせいで気分が乗らなかった。
砂を踏み潰して歩くのは嫌いだ。攻撃を受けて穴だらけになった道を逃げ惑う日々を思い出してしまうからだ。
――少しでも役に立てるなら、と思って寮を出たのに。
思わず溜息を吐きそうになったが、自分から言い出したことなのだから、と姿勢を正して歩を進める。なにより、この歩みが自分達のきらめく未来の一粒になるかもしれない。
向かう先は、学生寮から歩いて二十分のところにある研究所だ。チームを組んでいる研究者から、測定の協力を求められたからである。
エグザべが在籍する士官学校・フラナガンスクールは、ジオン公国の研究機関であるフラナガン研究所を母体としている。フラナガン研究所はニュータイプの研究を行っており、フラナガンスクールの在校生は全員ニュータイプの能力がある。
その中でもエグザべは、秀でたニュータイプと評されていた。確かに、実験や測定の結果を見ればトップレベルの値を出している。だが、エグザべ自身は「秀でるだけで、もっと優秀なニュータイプには及ばない」と思っていた。
エグザべの自認と周囲の評価は食い違っており、フラナガン研究所に所属している研究者だけではなく、ジオン公国のニュータイプの研究に携わる者、そしてジオン軍もまた注目を寄せていた。
ニュータイプの能力があったからこそ、難民生活から抜け出すことができた。エグザべを見出したキシリアは、エグザべだけではなく、家族や友人――つまるところエグザべがいたキャンプの全員――まで生活を保証してくれたのだ。
鼓膜が破れそうな激しい爆発音や、建物があった証拠である瓦礫の山、そして、少しの風でも立ち込める砂埃は目や口に入ってしまうのが当然の日々だった。
休日にも関わらず、エグザべが研究所に向かっているのも、ある意味生活のためだった。
――あの苦しい生活を共に過ごした人たちがいる。エグザべの有用性が認められるほど、皆を守れる。
エグザべの進む道はまだ決まっていないが、おそらくニュータイプの能力を発揮できる場所になるだろう。
その場所がどこであれ、誰かに手を差し伸べることに代わりはない。不安の影が差す日々を過ごす人々に、手を差し出されたときの瑞々しい安堵を渡したい。
エグザべは、薄い毛布の中で震える夜も、薄明るい朝も、何もないことを願う昼も、そんな不安の中で過ごす苦しさを知っている。
だからこそ、傍らにいる人や、まだ手と手を握り合っていない人、たとえ出会うことのない人であっても――これ以上、痛みと苦しみの傷跡を増やすわけにはいかないのだ。
エグザべのニュータイプとしての力の先がどうなるのか分からない。
自分が思い描く未来を手にするためにも、嫌な思い出ばかりの強い風に押し流されてはいられない。
流され、飛ばされてきた砂は、一歩踏み出す度に靴底との間で大きく擦れる。
とても小さい音のはずなのに、どうしても無視することができない。
一方的で理不尽な戦争に巻き込まれた人々は、少しでも安全な場所を求め、歩み続けるしかなかった。擦り切れた靴底で、荒れた地面を踏んではざりりと音が立つ。精一杯不安に打ち克とうとしていた音だ。風に流された砂のような不安と、大きさがばらばらの砂粒が足元に溜まっていくような絶望を、もう思い出したくない。
そこにいたというだけで戦火に見舞われ、逃げ惑う難民の悲鳴が聞こえてくる。
エグザべは誰もが心も体も傷付かない世界がこの先にあると信じて歩んでいる。しかし、靴底で砂を一粒一粒押し潰す度、自分が何かを理不尽に蹴りつけている気がしてならないのだ。
強い風に吹かれる度に、砂を遮る壁が日を追うごとになくなっていく不安や、何気なくあった地面に粉塵や割れた硝子が混じるようになった悲しみを、靴底が覚えている。
だからこそ、希み、願えば叶う場所を作るため、エグザべは歩いていく。
その足跡を辿れば、もう嘆くことはないのだと分かってもらいたい。
そんな砂粒よりも小さく甘い慈善の痕跡は、風に吹かれて消えていった。
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