泣いて笑って忙しい赤黒 付き合っていたって、知らないことはたくさんあるし、知りたいこともたくさんある、と思っている。
「赤司君って、泣くことあるんですか」
そんなふとした疑問に、彼は「どうだろう」と首を傾げて笑った。
記憶にあるのは、WCの決勝戦後に流した涙だ。汗と混ざってこぼれ落ちる、とても綺麗な涙だった。重ね合わせた手のひらは熱く、唇はわずかに震えていた。溢れ出す感情を抑えることが出来ない、そんな表情。あの時の興奮と高揚は一生忘れないだろう。
ただ、それとは別にして、あれ以来赤司が感情を剥き出しにして、泣いたり怒ったりしたところを見たことがない。恋人として付き合うようになってもなお、赤司は黒子の前ではずっと穏やかだった。
穏やか、だからこそ、見てみたかった。彼がどんなことで声を上げて泣いて、子供みたいに拗ねて怒って、おなかを抱えて笑ったりするのかを知りたかった。黒子自身もあまり表情豊かな方ではないけれど、赤司だってそうだろう。他の誰かが知らない顔を、自分にだけは見せてほしい。そんな欲が出てしまったのだ。
「赤司君、今日は一緒にこれを見ませんか」
ちょうど配信されていた映画のタイトルページを開いて彼に見せる。コーヒーが入ったマグカップを傾けながら、赤司は「へえ」と気の抜けた返事をした。
「珍しいね。黒子がこういうのを見るなんて」
「泣ける映画特集ですって。たまに泣くとスッキリして良いらしいですよ」
ふぅん。なんてこれまたあまり興味のなさそうな声色で返される。開いたタイトルページのあらすじは、まあ、言うなればベタなラブストーリーだ。余命僅かな恋人と思い出を作ってゆく、タイトルからして切ない恋愛映画。実際に上映されていたのは数年前だが、最近になってサブスクで配信されて再度話題になっているらしい。
赤司が淹れてくれたココアを片手に、ソファの定位置に座る。二人ぴったりとくっついて座れば、右側が彼の体温でほんのり温かかった。
ぽちり、再生ボタンを押す。窓の外は、ぽたぽたと雨が降り続いていた。
ぐす、ぐす、すんすん。そんな音と合わさって、映画のエンディング曲のバラードがゆるやかなリズムを奏でている。
「はい。ティッシュ」
「ありがとうございます…」
「鼻かみなよ」
「うぅ"…」
差し出された箱ティッシュを受け取って、ずびずびと鼻をかむ。使用済みの丸めたティッシュがテーブルの上に山積みになっていた。全て黒子が使ったものだ。
再生開始数十分後から怪しかった黒子の涙腺は、ラストが近づくにつれて完全に壊れた蛇口のように止まらなくなった。ぼろぼろと溢れる涙を見かねた赤司がそっとハンカチを渡してくれたものの、それだけでは追いつかず、鼻水がだらだらと流れる。最後の方は自分の鼻をすする音で台詞がかき消されてしまっていた。
エンドロールが終わり、動画配信サイトの一覧へと画面は戻る。しつこくぐずぐずと泣いている黒子の背中を、赤司は小さく笑いながら撫でていた。
彼は、この映画を観て、どう思ったのだろう。
所詮作りものだと思っただろうか。離れ離れになってしまうことを余儀なくされた恋人同士の姿を見て、どう感じたのだろうか。黒子は、素直にいやだと思った。彼と離れることも、彼を残していくことも、彼に置いていかれることも、全部いやだと思った。そう思ったら、余計に涙が溢れてしまった。
「何か飲もうか。またココアにする?」
「…そうですね。甘めでお願いします」
「わかった」
黒子の頭をくしゃりと撫でて、赤司はソファから立ち上がった。キッチンに立ちお湯を沸かす姿を、涙で濡れた視界のままでぼんやりと見つめる。自分ばかり号泣して、結局赤司の涙を見ることは出来なかった。
彼は、どんなことで泣くのだろう。
.
ぐす、ぐす、すんすん。
そんな音が聞こえて、黒子は閉じていたまぶたをゆるゆると持ち上げた。薄暗い部屋の中で、カーテンの隙間から薄く朝の光が漏れている。まだだいぶ早い時間だろうか。
眠い目を擦って顔を上げれば、隣で眠っていたはずの赤司は、上半身を起こして閉め切ったままのカーテンの方を向いていた。その広い肩が、本当に小さく、わずかに震えている。
ぐす、ぐす、すんすん。小鳥のさえずりほどの小さな音が、静かな早朝の部屋に響いていた。
あかしくん。
寝起きの掠れた声でそう呼べば、赤司はひくりと肩を揺らした。ベッドに寝転がったまま、毛布の中で手探りで見つけた手のひらをぎゅっと握る。彼の手は黒子よりも少し大きくて、とても温かかった。
「ごめん。起こしたかな」
そう言って、赤司がもぞもぞと毛布の中へと戻ってくる。薄ぼんやりとした暗い部屋でも、彼のまぶたがわずかに濡れているのがわかった。寝ぼけたまま、黒子は赤司の頭を引き寄せて抱き締める。
「こわい夢でも、見ましたか」
泣かないでください、あかしくん。大丈夫です。ボクがいます。黒子がそっと抱き締めれば、赤司も黒子の背中に腕を回した。ぴったりと抱き合って、あたたかさが肌寒い朝の体温にちょうどいい。
赤司が、「違うんだ」と言って小さく首を振った。篭る息が熱くて、くすぐったい。
「怖くはないよ。むしろ、いい夢で」
「はい」
「夢で、母と会ってたんだ」
優しい声で、赤司はそう言った。だから黒子も、「そうでしたか」と言って、ぎゅっと抱き締める。黒子の薄手のパジャマの肩口が、少しだけ濡れて色が変わっていた。
そうか、キミも、ちゃんと泣けるんですね。そう知ったら嬉しくて、いとおしい気持ちでいっぱいになった。ぱたぱたとこぼれる涙を拭う赤司を見ていたら、胸が詰まって、どうしようもなく溢れてくる。
「どうして黒子まで泣くの」
長いまつげを濡らしたまま赤司は笑った。黒子の涙を指で拭って、目尻に軽く唇が触れる。しょっぱいね、と言って赤司はまた笑う。少しだけ泣きながら、二人で笑い合った。
「おかあさんとは、どんなお話をしたんですか?」
「はっきりとは覚えてないけど…黒子の話はしたよ。大切で、ずっと一緒にいたい人がいるんだって」
カーテンを開ける。ゆるやかなおしゃべりを続けながら、少しずつ日が上ってゆく空をベッドの中で見上げた。朝は、二人の涙を優しく乾かしてくれる。重ねた素足も、手のひらも、全部ぽかぽかと温かかった。
その日から少しずつ、赤司は色んな表情を見せてくれるようになった。
楽しいことがあれば二人で大口開けて笑うし、黒子が誰かと遊びに行くと言えば露骨に拗ねる。さすがに涙は滅多に見せないけれど、でも、笑ったり、怒ったり、寂しい顔をしたり。黒子の前でだけで見せる表情が、いとおしくてたまらなかった。
知らなかった顔を、少しずつ知ってゆく。好きな気持ちも、あたたかさも募ってゆく。嬉しくて黒子が笑えば、目が合った赤司もまた、楽しそうに笑った。