珍しく薄暗い赤黒 寂れたラブホテルの一室は、うまく空調が効かないのかいつまで経ってもひんやりと寒かった。おまけに布団は薄っぺらくてなんとなく黴臭い。二人して身体が冷たくて、硬いマットレスに身を寄せ合って体温を分け合った。二人の呼吸音が重なる。壁が薄いのか、女性の喘ぎ声が微かに聞こえた。
うらやましい、と、黒子は思った。知らない女性の甲高い喘ぎ声を聞きながら、冷えた自分の身体をさする。そうしていたら、寒いのか、と心配そうに眉を下げた赤司が優しく抱きしめてくれた。彼の身体も少し冷たかった。でも、温かかった。
やわらかさも、膨らみもない薄っぺらい身体だ。そのままするすると下のほうへ手を滑らせる。うすい腹部にほとんど肉はついてなかった。子どもを宿すことの出来ない、彼の種を残すことの出来ない、ただの平凡な男の身体。
「あかしくん」
濡れた彼の毛先をそっと撫でる。午後から強い雨になるでしょう、という天気予報すら知らず、二人して傘を持っていなかった。濡れた先に行き着いたのがこのラブホテルだ。
ネオンきらめく繁華街、そのホテル街に並ぶ古びた外観は、まるでそこだけが異空間のように浮かび上がっていた。もう、このままここに閉じ込められて、一生出られなくても良いのに。そんなふうにさえ思ってしまった。
「…あかしくん」
「ん…どうした?」
濡れた毛先を撫でて、湿った指で彼の頬を撫でる。少し痩せて、まぶたには僅かに隈が浮かんでいた。そこに小さく唇で触れると、くすぐったい、と言って赤司はくすくすと笑う。笑ってもらえるのが嬉しかった。彼の笑顔が大好きだから、ずっと隣にいたいと、心からそう思っている。
「…したいです」
「うん。しようよ」
「今日は、全部ボクがやってみてもいいですか」
「ふふ。じゃあ、やってみて」
ベッドの上にごろりと大の字になって赤司は寝転んだ。そんな彼の上に覆い被さるようにして、おそるおそる服を脱がせてゆく。少し体勢を変えるたびに、古いベッドは大袈裟にぎしぎしと軋んだ。
ニットを脱がせて、その下のシャツに手をかける。ぷちり、ぷちり、と一つずつボタンを外した。きっととても質の良いシャツだろう。肌触りはなめらかで、ボタンひとつ取っても高級感がある。そんな仕立ての良い服を、こんな薄汚いラブホテルで脱がせてしまっている。
事態は、思っていたよりも、全然良くならない。
二人想い合っていれば、必ず報われると思っていた時もあった。周りからどんなに反対されようとも、それこそ世界中を敵にしても、彼と一緒にいたい、いや、絶対に一緒にいてやる、と。今も本気でそう思っている。
けれど、赤司は、そうじゃないのだ。彼には未来がある。それどころか、たくさんの人の生活を抱えていく立場にある。好き合っている想いだけではどうにもならない。若さだけで突っ走れるような時間はもう終わった。
今日、赤司の父に会った。
何があっても彼を支えたいし、支えられるような人間になる、だから認めてほしいと、頭を下げて言うつもりだった。でも実際会えば、そんなことは一言も言えなかった。出来たことといえば、手切れ金と称した小切手を前に大きく首を横に振ることだけだ。赤司も何も言えていなかった。
無力だ。支えるどころか、何も出来ない。
シャツのボタンを外して、するりと袖から引き抜く。剥き出しになった上半身は、寒さのせいかぽつぽつと粟立っていた。しっかりと筋肉のついた、均衡の取れた身体は、ホテルの薄暗い照明に美しく照らされている。
左胸のほうに手のひらを這わすと、とくりとくりと心音が聞こえた。こんなに綺麗な人の身体に、この心臓で作り出された血液が巡っている。そう思うと、心音さえも愛おしかった。
「黒子?」
彼の好きなところはたくさんあるけれど、一番は、この声かもしれない。黒子の名前を呼ぶ、凛とした、優しい声が。
けれど、もしかしたら、この声が、違う人の名前を紡ぐ日が来るのかもしれない。黒子の知らない女性、それから、その女性と赤司の間に出来た子どもの名前を呼ぶ日が。想像しただけで眩暈がして、吐き気がした。赤司と、知らない女と、赤司によく似た子ども。
隣の部屋から、また女の喘ぎ声が聞こえてくる。せめて、ボクが、女だったら。彼の子どもを産むことが出来たなら。また何か、違う未来があったのだろうか。
「くろこ、」
太い首筋に、立派な喉仏が浮かんでいた。
赤司の腰に跨り、馬乗りになって、その喉仏にそっと触れる。それから、両手で彼の首を掴んだ。ぐっと力を込めれば、赤司は何とも言えない、濁点が捩れたような声を出す。
「あかしくん」
「ん…ぐッ…」
「大好きです、あかしくん…」
好きで、好きで、どうしようもない。自分がこんな感情を抱くことが出来るなんて知らなかった。
どうしてこんなに好きなんだろう、と考えてもよくわからない。ただ、この人しかいない、と、魂がそう叫んでいるのだ。彼と結ばれない人生なら、別にこの先の未来がなくたって構わない。自分の隣にいてくれない彼の人生なら、もうこの手でここで終わらせてしまいたい。
両手の力を、さらに強める。喉仏が動き、太い首筋に血管が浮かぶ。赤司は抵抗などせず、されるがままにしていた。その気になれば黒子なんてすぐに引き剥がせるだろうに、そうはせず、大人しく首を絞められている。息苦しさのためか、ルビーのような瞳から、真珠みたいな涙がぽろりと溢れた。
あかしくん、あかしくん、あかしくん。
大切な、たからものみたいな人。どんな顔も好きだけど、笑った顔がかわいくて、ずっと隣で笑っていてほしい、大事な人。
「…ッ、ごほッ、ゲホッ…!」
手を離せば、赤司は大きく咳き込んだ。ほろほろと涙がこぼれる。赤司の目からも、黒子の目からも。
「ごめんなさい…」
「くろこ」
「ごめんなさい、赤司くん…」
黒子の流した涙が、ぽとりぽとりと落ちて、赤司の左胸のほうへと垂れてゆく。心臓は、まだ確かに動いていた。息をしている。冷たい指先にも、ちゃんと体温はある。彼には、抱えきれないほど大きな、大事な未来がある。それなのに、ボクは、キミを、離してあげることが出来ない。
「大丈夫だよ、黒子」
そう言って、赤司は黒子を抱き寄せた。彼の声もまた、少し震えて上ずっていた。ぐすんぐすんと肩を揺らす黒子の身体を、力強い腕で抱き締める。
「大丈夫だ。オレたちは、ずっと一緒だ」
「ほんとうに…?」
「ああ。それ以外の未来なんてない」
大丈夫、と掠れた声で、赤司は何度も何度も呟いた。それは、必死に言い聞かせているようにも思えたし、けれど彼が言うなら本当に大丈夫な気もしてくる。
彼の首筋に、真っ赤な痕が残っていた。ぺろりと舌で舐めれば、しょっぱい、ほんのり汗の滲んだ匂いがする。
「命をかけて、キミを幸せにすると誓います」
「…うん」
「だから、キミを、ボクにください…」
「最初から、オレは全部、黒子のものだよ」
古びたラブホテルの部屋で、陳腐なプロポーズの真似ごとをする。だけど、この気持ちは本当だ。ありったけの気持ちをこめて重ねた唇は、涙の味ばかりする。