【リア陰】フィクションに救われた僕がフィクションを裏切るまで初めての発情期で発作が出た時、先生は誰にも言わないと言ってくれたけれど、噂はすぐに立った。不幸中の幸いで、というよりオメガもアルファもその辺に転がっているような存在ではないから、フィクションと違ってその場でアルファに襲われるなんてことは無かった。
それでも嫌だった。僕は好奇の目に晒された。
あの子オメガなんだって。初めて見た。意外とその辺にいるもんなんだね。確かに弱そう。たまに社会問題とか言われてるやつだよね?なんかこの前暴れた無敵の人もオメガじゃなかったっけ。あいつがなってるの想像つくかも。よくわかんない陰キャだし。
ひそひそ言われるくらいなら聞かないフリで耐えられる。
それでも、
「オメガって男でも濡れるんだろ?俺お前の顔なら正直イケるわー」
なんてからかわれた時は頭に血が昇って、本気でぶん殴りたくなった。けれどそうした後のことを想像すれば、実行に移すことはなかった。
そんな時に出会ったのがダンガンロンパだった。
ダンガンロンパ過去作にも数人、オメガが登場している。誰も彼も、薄暗いものからどぎついものまで、同情されるべき過去を背負っていた。それはダンガンロンパの舞台では間違いなく涙や絶望を誘うスパイスで、彼らの感情の発露はもはやポルノだった。
オメガの不幸がダシにされているというのに、なぜだか嫌な気はしなかった。僕は少なくとも彼らを、好奇の目では見ていなかった。胸を打つなにかだった。その時に僕は気づいた。フィクションは人を救うんだってことに。
作中のオメガの不幸がフィクションじみて仰々しいのが逆に救いだった。凄まじい才能があるのにチャンスを奪われた。家族に捨てられた。犯された。望まない妊娠で中絶をした。
陰口を叩かれ馬鹿にされる程度の僕とは比べ物にならないくらいの不幸だった。僕も不幸だけれど、僕のじゃダンガンロンパにはとても不釣り合いだった。
だから僕もフィクションじみた設定が欲しくなった。あの世界では、トリック以外に後先のことなんて考えなくていい。感情の起爆剤になるような動機をくれれば、あとは思い切り魅せてやるから。
「ダンガンロンパ、好きなんすか?」
1人で過去作を観ていた時、そう言って話しかけてきたのは僕と同い年くらいの男子高校生だった。僕が住んでいるのとは別の住宅街の少し奥。舗装されていて、静かで、誰にも背後を取られない絶好のスポットに、いつものように腰をかけていた。
6月下旬。夏が近いということは、ダンガンロンパの放送も近いということだった。
「えっ…あ、うん…」
急に知らない人から話しかけられて、僕は帽子のつばを深く被りなおす。
ざり、ざり、と静かに、何度か彼の足が石ころの混じった荒いアスファルトを擦る。近づいてきた彼に僕は警戒したが、彼の歩数分の距離を取るほどの度胸はなくて、少しだけ腰を浮かせて、置く位置をずらした。
「どんな気持ちで見てんすか?」
「え…どんな気持ちって…」
「ダンガンロンパを」
「え…あ…ぼ、僕もこうなりたいなって…」
「才能がほしいんすか?」
「才能、」
そう口にして、間違いなくしっくり来ないと思った。
「いや、僕じゃない何かになれたら…きっと、思い切り生きられるのに、って…」
「それ、今のキミじゃできないことなんすか?」
眉がぴくりと動く。何だそれ、と思った。これから説教でも始めようっていうのか?才能を欲する前に努力をしろだとか、命を賭す前にまだ挑戦すべき事があるだとか。
僕はそれ以前の問題なんだ。こんな身体に生まれて来なければ…。
「ああいや、気を悪くしたらすみません。単純に興味があったんすよ、ダンガンロンパのファンはどんなことを考えてるのかって」
僕の顔はほとんど見えていないはずだけれど不快感が表に出ていたのか、彼が謝罪する。
「俺、ダンガンロンパのオーディションに受かったんすよ」
「え」
僕がとっさに彼を見上げて目を見開くと、彼が僕の隣に腰掛ける。
「俺の名前は天海蘭太郎っす。まあ怪しい者じゃないんで」
「えっと…僕は、最原。最原終一、です…」
気づいたら隣に彼がいて、僕は自己紹介をしていた。されたらしなきゃいけないような気がしたからだ。彼はなんて言うか、他人を自分のペースに巻き込むのが上手い人なんだなと思った。
「天海くんは…どうしてダンガンロンパに?」
「いやぁ、飽きちゃったんすよね。今の生活に」
「飽きた…って…」
「自慢じゃないっすけど、結構色々上手くいってるんすよ。でもそれってつまらないじゃないっすか。自分からデカい事やる気にもなれなくて」
こんなに惨めな僕が聞いていても、彼の話に嫌味なところは感じなかった。それよりも、好きな作品のことが僕の脳を侵食し始めていた。
「そういうキャラ、ダンガンロンパにもいるよ」
「そうなんすか?」
「うん…絶望側だけど」
「じゃあ自然なことなのかもしれないっすね。俺がダンガンロンパに出るっていうのは」
天海くんが背後に手をついて、軽く空を見上げる。諦観を含んだ声色だった。放課後でも空はまだ青くて、少し雲が浮かんでいた。
「上手く行ってるのに台無しにしちゃうの?」
「目的がないなら全部壊しちゃっても、何らかの形になるならいいかなって。…ていうか、ダンガンロンパを『人生を台無しにするもの』だとは思ってるんすね」
「そりゃあ、上書かれるべき人生を送ってるような、希望のない人が出たいものだと思うよ」
「最原君はそんな人生なんすか?」
「僕も…絶望ってほどじゃないけど…」
「上手く行ってる、ってわけでもなさそうっすね」
ひとことで何を理由として話せばいいか、少し迷う。複雑だったんだ。
「………僕、オメガなんだ」
「オメガって、…初めて会いました」
「それが普通だと思うよ」
自分がオメガだなんて他人に教えるのは初めてだった。天海くんは少し目を丸くしたが、すぐになんてことないように表情を戻した。
「俺ベータなんでその辺の苦労はあんまわからないんすけど…少なくともそれが原因なんすね」
天海くんの態度には関心と無関心が入り混じっていて話しやすかった。わざわざ「自分はベータだから安心していい」なんて言って来ない所にも好感が持てた。
「1ヶ月後くらい…だよね。本番…」
52作目の放送日のことだった。夏休み中のいつになるのかはまだわからない。とにかく場合によっては、天海くんと会話できる機会はあとそれだけだった。
「そうっすね。まあそれだけあっても、特にやりたいこともないっすけど…」
「じゃあさ。過去作、観てみない?」
「最原君と一緒にっすか?」
「え、あ…!」
人に対して自分から何かを提案するのはほとんど初めてだったから、僕は急に小っ恥ずかしくなった。なんて恥ずかしいことを言ったのだろう。友達が多そうな天海くんと僕が共有できる時間なんて、1ヶ月以上の期間があってもそうそう無いだろうに。
「最原君が解説入れて下さいね」
「え…」
天海くんの返答は、思いもよらぬものだった。…いや、僕なんかが誘おうと思えた時点で、その期待はあったのかもしれない。
「天海くんって、ダンガンロンパ向いてるのかもね」
この時完全に、僕は調子に乗っていた。
「どういう意味っすか?」
ただ疑問しか浮かべていない彼の目でも、こちらへまっすぐに向けられるとびくりとしてしまう。
「いや、えっと、変な意味じゃなくて…『目的のない人生なら壊してもいい』みたいなことを言ってたよね。それって裏を返せば『がむしゃらになれる目的があれば生きている意味がある』ってことなんじゃないかって…」
「ダンガンロンパのキャラは『才能』1本の人生だからっすか?」
「才能に限らず色々あるけど…そうかな、うん。あの世界のキャラは才能に縛られてるとも言えるけど、天海くんはむしろ1つの大きな目的を探してるように見えたから」
「…向いてるんすかね」
空気みたいに彼がそう漏らす。
「あっ…ご、ごめん…ダンガンロンパに向いてる、って、あんまり褒め言葉じゃないよね…」
「いや、確かにって思いました。むしろその理由で選ばれたのかもって思ったくらいっす」
「どんな才能だろうね」
「全く想像つかないっす。…大体、それを知る頃にはもう俺じゃなくなってるっすけど。むしろ最原君の方が才能感じるっすよ」
「え…僕に!?」
今度は本当に思いもよらぬことを言い出す天海くんに、僕は声を裏返して驚いた。よろけて地面についた掌が痛い。
「核心を突くような所あるなぁって。もっと早く最原君と出会っていれば、俺の探し物も見つかったかもしれないっすね」
「生きる意味…のこと?」
「ま、後悔はないですし、そもそもダンガンロンパに選ばれてなきゃ、最原君とこうして話すことも無かったですしね」
「そっか」
僕は無関心を装った。もう遅いのに、今からでも一緒に探したいと思ってしまった。天海くんがこの世界で生きていく意味。一生かかるかもしれない代物だけど…僕の生きる意味もその中で見つかるかもと、ふと思ってしまった。出会ったばかりなのに。
翌日も同じ場所で天海くんと会った。初代の無印から天海くんにプレイしてほしかったのでスイッチを持って行った。Vita版もPSP版も持っているけれど、陽キャはたぶんスイッチしか握ったことが無いからだ。
2人して画面を見つめていると、親から『夜適当に食べといて』とラインが来た。すると彼が「じゃあどっか食い行きますか」と言った。
チェーン店の並ぶ駅周辺を適当にまわる。なんだか普通の男子高校生みたいなことをしているなと思った。普通の男子高校生だけど。
「天海くんの名前ってさ、なんかラーメン屋っぽいよね」
「なんすか、それ」
僕が何の前触れもなく言ったからか、天海くんが尋ねながら軽く吹き出す。
「『天』とか『蘭』とか『郎』とか入ってるし…」
「ははっ、最原君って意外と変なこと言うっすよね」
2人してラーメン屋のチェーンに入る。もちろんコールが必要ないタイプの。そういう所はまず僕みたいなガリガリが入ったらロット乱しと睨まれて死ぬ。
豚骨醤油ラーメンを啜り終えた天海くんが、まだ塩ラーメンを啜っている僕を待つ。実際にはスマホをいじっているだけだけれど。普段人と食事を共にすることが無いので少し焦った。
食べた後で、少し雑談をした。もちろんダンガンロンパの話だ。
「これだけ長く続いてりゃ、誰かがやめようって言い出しそうなもんすけどねぇ」
「番組を参加者が終わらせることも、僕はできると思う」
「どうやるんすか」
「それは…秘密」
作品考察ならまだしも、自分のアイデアを話して早口になるには関係が浅すぎると思った。まだ彼は舞園さやかの腹の底すら知らないのだ。それでも口元は緩んでいたかもしれない。手元を見ていると視線を感じたので天海くんのほうを見る。彼は少しはっとしたような顔をしていた。
「50作品以上観てたら分かるもんなんすか」
「毎日ダンガンロンパのことを考えてたら誰でも分かると思う」
「そういうもんすか」
天海くんは何かを言いたげだったが、傍らのコップ1杯の水と一緒に飲み込んだ。
それからも僕らは場所を変えながらダンガンロンパをプレイし、視聴した。子供達のいる公園のベンチ。彼の学校の校舎裏。駅の裏の、公園とも空き地ともつかない空いた場所。陽が差していて、過ごしやすい。人は居ない方がいいけれどジメジメしている所が好きなわけではないので、こういう所は良かった。
こんな場所あったんだな。
天海くんといると軽く街を冒険している気分になる。1人だった時は決まった場所で観ていたから、彼と出会って世界が広くなった気がする。
海には、物心ついて以来初めて行ったと思う。
「ちょっと電車乗ればすぐっすよ」
そんなこと、地理を知っていても意識したことなんてなかった。海開きをしていない、人の少ない海辺を2人で歩く。
ピロン。また鳴った。ぬるい風と波の音に混じって、さっきから天海くんのスマホから通知音がちらほら聞こえる。友達が多い人は違うな。天海くんは画面を一瞥して、サイレントモードにした。
「誰かから連絡じゃないの?」
「まあ、今じゃなくていいっす。それより」
画面の向こうの誰かよりも僕とのくだらない会話を優先されて、なんだか優越感を覚えた。ダンガンロンパの話はこの日あまりしなかった。
7月に入り、10作品くらい(全シーンを履修してはいないが)視聴が進んだ。1ヶ月間で全シリーズを満遍なく観てもらうより、全部は観られなくてもそれなりに濃く知ってほしかったから、これくらいのペースで良い。
「最原君って、気になる女子とかいないんすか?」
「へっ?」
天海くんはそういう類いの世間話を振るタイプに思えなかったから、僕は驚いて間抜けな声をあげた。
この時、ダンガンロンパ20作品目の(非)日常パートを見ていた。時間が限られているので普段は飛ばし飛ばし観るけれど、このパートは後の見せ場に関わるので珍しく流していた。
「い、いるように、見えるの…」
半ば睨んで低くそう答えた。天海くんはなんだか楽しそうだった。
「まあ、居たらこんなにダンガンロンパ一筋になってないっすよね」
「わかってるなら変なこと聞かないでよ」
「ほら、親戚のおじさんが甥っ子姪っ子にそういうの聞くじゃないっすか。意味もなく」
「僕子供じゃないんだけど…天海くんは居ないの。彼女の1人や2人」
天海くんがそんな酷いやつだとは思っていないけれど、僕はムキになってそう言った。
「別にっすね。最近は最原君としか遊ばないんで」
引く手数多であろう天海くんのその言葉に、なんだかむず痒くなる。
僕のほうは、勿論女性とそんな風になる機会なんてない。オメガ男性なんて、男なのに妊娠できるというだけで気持ち悪がられたりするのだ。そんなことを言って炎上したアカウントがあったっけ…同じダンガンロンパ好きとして、まともな奴だとは思っていなかったけれど。一緒にダンガンロンパまで叩かれ出した時には流石に僕も怒り心頭だった。
ちょっと肩が凝ってきて、スマホを持つ天海くんの肩に寄りかかる。暑いけど。誰かと接触するなんて、家族を含めてもかなり久々だった。でもあまり勇気は要らなかった。天海くんは変わらず画面を見ていた。
「スマホで観るのも、悪くないっすね」
「画面小さくない?」
「そう思ってたんすけど、今考えが変わったっす」
「なんで?」
「甘えてくる最原君が弟みたいで面白いなって」
「あ、甘えてなんか…ないよ」
姿勢を戻して、思わず口をとがらせる。視線を感じたが、僕は頑として画面を見つめた。横で彼がくすくす笑っている。顔が少し熱かった。
「大画面で観られる所に行くのも良いと思ったんすけどね。カラオケとか、ラブホとか」
「ら、らっ…!」
僕とは一切縁のない施設の名前が登場して、全ての毛が逆立つ。思わず彼のほうを見た。
「今のはさ。もう、からかってるだろ…!」
「いえ、便利だと思うっすよ」
「ちょ、ちょっと、待ってよ天海くん…!」
天海くんがスタスタ玄関へと進む。入り口は海辺の公衆トイレみたいに壁で隠されていて、ちょっと狭かった。部屋の内装や料金が載っているパネルを見る余裕もなく、気づけば天海くんがフロントで鍵を受け取っていた。
この日はラブホテルに来ていた。「今日は陽射し強いね」「そろそろ日陰探すのもだるいっすね」と話していたら連れて行かれた。
「俺のおごりなんで」
「い、いや悪いよ…」
「うち結構金持ちなんすよ」
僕は財布を出したが、なんだかこれ以上食い下がるのは失礼だと思うところで引っ込めた。彼は目を細めた。やはり彼はモテそうだなと思った。
部屋は、人びとが情事に耽る場所にしては体温がなかった。綺麗に整えられたシーツ。照明を反射するローテーブルの上の、ラミネートされたフードメニュー。いたって事務的な空間だった。
テレビの電源を探していると、彼が背後から僕の肩を軽く撫でて、スイッチを入れる。肩を触られただけなのに、こんな場所にいるから変に意識してしまった。それと灰皿があったけれど、天海くんはやはりタバコなんて持っていなかった。初対面だったら(吸ってそう)と思っていただろう。
「キミがダンガンロンパに出たいのは、『オメガだから』が理由なんすか」
37作目。珍しく「オーディション」のシーンが本編中に流れていた。
「…嫌なことを言われても、言い返せなくて。本当は殴ってやりたいくらいなのに。でもダンガンロンパの世界ではそうじゃない。動機があれば感情を爆発させられる…むしろそれこそを求められているでしょ。そしてそのまま罰してもらえて、綺麗に終われる、から…」
「感情を爆発させたら、終わらなきゃいけないんすか?」
「…僕なんかが怒りをぶつけたって、余計に不幸になるだけだよ。現実でもある意味終わる」
「『自分じゃない何かになれたら思いきり生きられる』って、そういう意味だったんすね」
「そうだね。僕は後先のことを考えると、ダメなんだと思う」
「後先のことを考えられるって、頭が良い証拠だと思うっすけどね」
天海くんは僕の頭を帽子越しにぽんぽんと撫でた。てっぺんのボタンは避けて。
それからも暑さに耐えかねる日には、何度かホテルでダンガンロンパを観た。密室に天海くんと2人でいると、彼の甘いようなさわやかな香りが際立つのが好きだった。
それ以外の日は、天海くんが色んな所へ行きたそうだったので無理に室内へ留まろうとは言い出せなかった。
「俺が出るヤツも愛の鍵イベントあるんすかねえ」
ホテルの部屋の鍵をつまみながら彼が言った。
「前回は無かったけど、最近は定番化してるね」
愛の鍵を使えば自分が相手にとっての理想の人物となって、そこから妄想のストーリーが展開する。でも天海くんは、そんなアイテムなんか無くてもとっくに僕の理想な気がした。
それでも、愛の鍵…そんなものがあるなら。
僕は天海くんに依頼された探偵で、何かを探していて――実際には天海くんの生きる意味を探したいなんておこがましいことを思ったけれど――、今や彼にとって僕は弟みたいに何でも話せる存在で。
『本当に、最原君のおかげっす。こんなに早く見つかるとは思わなかったっす』
『ううん、僕ら2人で見つけたんだよ』
『最原君…一生かかるかもしれないって言いましたけど、キミに一生を預けても良いって気持ちは、今も変わらないっす』
彼が真っ直ぐに、愛おしそうに僕の目を見据える。
『そ、それは、僕だって…』
照れくさくて目をそらす僕に、彼がキスを落とす。
『ん…』
ちゅ、ちゅと啄むようなキスがだんだんと深くなって、控えめな舌を絡め取られ、鼻から抜けるような声がもれる。
『んん、んぅ…』
僕の顎を掴んでいた彼の手が下がって、首元を擦った。
『あ…』
『可愛いっすね』
『か、からかうなよ…』
ベッドに押し倒されて、ネクタイも、シャツのボタンも外されて、天海くんが僕に触れる。
………。
……。
…僕は気づけば自室のベッドのシーツに頬っぺたをくっつけて息を切らしていた。初めて中だけでイった。ベータの彼とこんなことをしても子供なんかできないのに、初めてオメガであることに幸せがある自慰だった。そう、彼はアルファじゃないから、これは本能の類ではなかった。
次の日も天海くんに会った。なかなか顔を見られなかった。天海くんは少し不思議そうにしていた、気がする。
『次が最後になりそうっす』
別れは想定より遅かったのに、思ったより早かった。ダンガンロンパの放送日の発表をこれほどひやりとした気持ちで見たのは初めてだった。僕は『そうだね』とだけ返信した。
「今日はホテルにしましょうか」
その言葉にどきりとすると同時に、これが最後なんだという焦りが汗となって額をつたった。暑いのに帽子の中が寒いような心地だった。
「初めて会った時、キミは言ったっすよね。俺はダンガンロンパに向いてるって。でもキミは逆だと思うっす」
2人してベッドに並んで座っていた。いつもの過ごし方だった。
「僕には向いてないってこと?」
「キミが番組に出たい理由…この世界では未来に起こることを恐れて感情を表に出せないから、あの終わりある世界で『思いきり』生きたい。そういう話だったっすよね。それって裏を返せば、キミの望む未来のために感情を表現できれば、キミにとって『思いきり』生きられるってことになるんじゃないすか」
天海くんがこれほど言葉を連ねるのは珍しかった。そしてその言い分は正しかった。彼の言うことは、ダンガンロンパの世界では実現できないことだった。超高校級のキャラクターたちは、一瞬のドラマのために感情を発露して散っていく。本当の意味で自分の望む未来のために感情を表に出すだなんて、あの舞台上で最も不可能なことだ。フィクションはフィクションの中で完結するのだから。
とにかく天海くんは、僕はダンガンロンパに出るべき人間ではないと言っていた。
「でも僕は、どうしてもダンガンロンパの世界に行きたいんだ。…キミがそっちに行くなら、なおさら…」
天海くんは少しだけ、後悔したような複雑な面持ちを見せた。少し考えた様子を見せた後、いつもの諦観を帯びた顔に戻る。
「じゃああの世界でやってみます?キミの中に眠ってる、そういう想いが舞台で活きるなんて…なくはないかもしれないっすね」
ふう、と投げやりに息をついて彼がベッドに横たわる。
僕はダンガンロンパが大好きだ。あんな風に人生史上最高のドラマを思いきり魅せて、あとは無責任に散っていきたい。
それなのに、僕の怒りを、心の叫びを、僕の望む未来のために露わにするだなんて…
「そんなの、もはやフィクションじゃないよ」
「『リアル・フィクション』がダンガンロンパの売りじゃないっすか」
そんなこと言ったって、「リアル」の部分はひとえに人の命のことだ。
…………。
………。
……。
いや…果たして本当に、そうだったっけ。僕にこんな風に人生の意味を考えさせてくれたのは、間違いなくフィクションで。天海くんと出会えたのだって。誰かに生きていてほしいだなんて僕なんかが思えたのも、フィクションのせいで。
どうしてこの期に及んで、こんな想いをしなくちゃいけないんだろう。
これまでキャラクターの元となった高校生たちも、こうして誰かに生を望まれたのだろうか。そしてダンガンロンパが続く限り、誰かがこんな想いをしていくのだろうか。
「ダンガンロンパを参加者が終わらせる方法なんていくらでもある。キミはそう言ったっすね」
「……」
天海くんならそつなくやりそうだ。けれど彼にはそうするつもりはないと、声色でわかった。
僕も彼に倣って隣に寝転ぶ。帽子がずれてシーツへ落ちた。これまで、彼の隣でも帽子を外すことはなかった。
「最原君、やっぱり綺麗な顔してるんすね。きっと受かるっすよ」
そう言って彼は、僕の髪を撫でた。