【最赤】その月が教えてくれたのは 研究教室から漏れ聞こえる聴き慣れたメロディーに、私は慌てて足を速める。日はまだ低く廊下は凛と冷えていた。時計を見て、約束の時間に遅れていないことに胸を撫で下ろす。
(最原くん、先に来て練習してるんだ。こんなにピアノに夢中になってくれて嬉しいなあ)
聞こえてくるのはドビュッシーのベルガマスク組曲 第3曲『月の光』。この学園に来てから私が彼に教えている曲だ。
邪魔をしないように、そっと扉を開けて後ろ手で閉める。そして鍵盤に向き合う最原くんを目に留めた瞬間、飛び込んできた光景にはっと目を見開いた。
窓から差し込む白い光が、彼の纏うモノトーンとピアノと交わって見惚れるようなコントラストを生み出している。さながらスポットライトだった。伏せられた長いまつ毛は朝露を湛えたようにきらきらと輝いて、瞬きのたびに陽光がその一本一本に触れ、ハープのように透明感を奏でている。
…ああ、そうだ。ピアノに集中しなきゃ。
最原くんは細く長い指を静かに鍵盤に沈ませている。そのさまは水面に浮かんだ月の輪郭を弄ぶようで、触れた一音一音から波紋が広がっていくようだった。ぼんやりとした月のシルエットを探る音の運びは、キャンバスに絵の具を一筆ずつのせて理想の月を描こうとしているようでもあった。彼の少し骨張った指が沈んだり浮いたりするたびに指先が朝日に白み、彼の手指の繊細さが彫刻のように浮き上がっては影をつくっている。
ピアノが優美にため息をつくのと同時に、最原くんが気持ちよさそうに深呼吸をする。彼が仰ぐとまっすぐな鼻筋が陶器のように光を反射した。気づけば私も彼に呼吸を合わせていた。彼の動きに遅れた細い髪がふわりと朝日に色素を奪われ、月の輪から滲む光のように彼の顔を覆う。
今、月は出ていない。けれど、陽を浴びて静謐な光を湛える彼はまさに月のようだった。
(あれ、私…ピアノを聴いているはずなのに、いつの間にか最原くんばっかり目で追ってる…)
せっかく彼が一生懸命弾いているのに。
…でも。
(ピアノを弾いている最原くんって、こんなにも綺麗なんだ…。)
『ピアノを弾いている赤松さんが見たいからさ』
(あっ…!)
ふと思い出す。それは出会って少し経った頃、彼に言われた言葉だった。私にとってピアノは聴いてもらうものだから「弾いている人を見たい」と言う彼の気持ちはその時わからなかった。
けれど今。私は初めてピアノを「聴く」のではなく弾いている人を「見る」ことの美しさを知ってしまったのかもしれない。
(どうしよう…これって、大問題だよ!)
いつだって私は、聴く人が笑顔になれる演奏を目指してきた。それは最原くんの前でも変わらない。でも彼だけは「ピアノを弾いている赤松さんが見たい」と言った。
演奏している私は、一体彼の目にどう映っているんだろう。…ああもう、こんなに綺麗な姿を見せられたら、私はこれから最原くんの隣でどんな風に弾いたら良いの。
そんな風に考えている間に、彼の演奏が終わった。演奏中に考え事なんて失礼なことをしてしまったけれど、感動を伝えたくて目一杯拍手を送った。
「あ…ありがとう。ごめん、待ち合わせにタイミング悪くなっちゃって」
「ううん、すごく良い演奏だったよ!本当に感動した!」
「そ、そう…?ありがとう…」
私がまだ動揺しているのを察してか、最原くんが不思議そうにこちらを覗き込む。さすがは探偵さんだ。
「あの、赤松さ…」
「最原くんってさ、綺麗だよね」
「えぇっ!?」
言葉を選んでいる最原くんより一足先に、私が切り出す。彼は目をまんまるにしてから、床に視線を遣って鼻のあたりを掻いた。
「さっきの演奏を見てて思ったんだ。もちろんピアノも上達してるよ?でもそれ以上に、キミには空間そのものを奏でられるような…キミ自身の魅力があると思った」
さっきの感動を伝えたくて、ずいっと最原くんに詰め寄る。
「そ、そんな、褒めすぎ、だよ」
最原くんが尻すぼみに謙遜しながら視線を逸らす。演奏している時はあんなに堂々としていたのに。
「でもそれを見て…私はどうすれば良いんだろうって思っちゃって」
「え…?赤松さんは既に凄い演奏ができるじゃないか」
連弾をする時のように、二人でピアノの前に腰掛ける。
「…最原くんは、ピアノを弾いている私が見たいって言ってくれたよね」
「うん。そうだったね」
「私はいつも聴く人を喜ばせる演奏を目指してきたけど、私を見たい人を喜ばせる演奏は分からなくて…」
「今のままで充分だと思うけど…どうして急に?」
「さっきの最原くん見てたら、『こんなに綺麗にピアノを弾く人がいるんだ』って思ったんだ。だから私の演奏を『見たい』って言ってくれたキミにだけは、私のことも同じくらい綺麗に見えてほしいなって…」
言葉を紡いでいくうちに変なことを言っている気がして俯いていた顔を上げると、最原くんは顔を真っ赤にして固まっていた。
「赤松さん、それって…」
「あ、あれ…?何言ってるんだろ。あはは…別に変な意味じゃないからね!」
大袈裟に身振り手振りで弁明しながらも、頬が熱をもつ。
すると最原くんは顔を赤くしたまま、真剣な顔で私に向き直った。
「えっと…赤松さん。あの時の僕は…キミの色んな一面を、ほんの一部だろうけど…見て知った上で、きっとピアノも素敵なんだろうなって…見てみたいなって、思わずそう口にしたんだ」
最原くんはまだ言いたいことを言い切れていないようで、口をぱくぱくさせている。
「だから、聴く人々を喜ばせる演奏をしているキミは、既に充分魅力的、で…」
「え…」
「僕はそんなピアノを弾いている赤松さんを見られて、いつも幸せだよ」
そう言ってはにかむ最原くんの口元は小さく震えていた。けれどその目は真っ直ぐに私の目を見ていた。
「最原くん…ありがとう」
「ううん、むしろごめん。超高校級のピアニストの演奏を『見たい』なんて失礼な言い方しちゃって…」
「そんなことないよ。それも嬉しかったからさ。でも、やっぱり最原くんはすごいよ。目が離せない演奏っていうか、全身で聴け!って感じの演奏だったし」
「なんかそれ、僕傲慢な奏者みたいだね…」
「ふふ、違うよ。キミが表現したいものが、音だけじゃなくキミが生み出すもの全部から伝わってくるの。それってすごいことなんだよ?」
「それは、赤松さんがこの曲の良さを沢山教えてくれたからだよ」