モモがヴァンパイアになって百年が経った。
百年と言うと、おおよそ人ひとりの一生ではあるが、悠久の時を生きる僕たちからするとあっという間であった。
短い人生しか知らない人間に、僕たちの時の流れを説明するのは大変難しい。大衆の諍いを見つめる千年は退屈で欠伸が止まらなく、月夜の下で愛する子と共に手を取り歩む百年はあっという間であるとだけ話しておく。
あの日、モモに酷い目を合わせた村人たちは、寿命でとうの昔に死んでしまった、という事にしている。本当はモモが知らない内に僕が村ごと焼き払ったのだが、真実なんて知らなくていいのだと伝える事は無かった。モモはきっと、無碍に扱われた人間相手にも心を痛めるであろう。あの子の悲しむ顔は、もう見たくなかったからだ。
あの時のことはいつでも思い出す事ができる。
孤児のモモに苦痛を与え続けた忌々しく穢らわしい村ではあったが、業火に燃え盛る様はいつかどこかの絵画で見た朝焼けのように勝景であった。モモというかけがえのない存在と出会えたのも、ある意味この村の人間が非情であったからだ。そこだけは感謝してやってもいいかな、と焼け焦げる肉の臭いに顔を顰めながら、この世の地獄の阿鼻叫喚をぼうっと眺めていた。
僕が岩に腰掛け、その“終わり”を見つめていると、一人の男が炎の手から逃げるように納屋から走ってきた。助けてくれと命乞いをする村人の顔を見る。若い男だ。彼が逃げてきた納屋の方向へ顔を向けると、そこには見覚えのある斧が立てかけてあった。
震えるモモが、はじめて会った日に両手に握っていた斧だ。
……あぁ、お前が、そうなのか。恐れおののくモモに斧を握らせ、深い森の奥の廃城へ向かわせ、まるで村の「名誉」の為に死にに行け、とけしかけたうちの一人なのか。
助けてくれ、煙を吸ってしまった、怪我をしてもう走れない。
……そんなことを言っていたような気もする。
這いつくばって命乞いをする男の前に座り込み、土埃がついた頬をそっと指でなぞる。明らかに人間のものとは違う、酷く冷たい体温にハッとして男が後退りをしたが、もう遅い。
「……モモだって、助けて欲しかったはずだよ」
「も、も」
「それなのに、あの子を傷つけた」
鋭利で長い爪は刃物のように鋭く、男の喉仏を掻っ切る。吹き出るドス黒い血は吸ってくれと頼まれたってこちらからお断りしたいほどに不味そうで、耳を劈く濁った悲鳴は汚らしくノイジーだ。
かひゅかひゅ、と男の首、穴が空いた場所からは可笑しな音が漏れる。
「あ、悪、魔ッ、……ガッ、ッ、ハっ……ァ」
「……どっちが」
男がなんとか酸素を吸い込もうとするが、口を開くと、ごぼ、と血が噴き出してしまう。
もう息もできないのだろう、惨たらしく歪んだ顔と、血走った目でこちらを睨み付けてくるだけだった。
あぁ、はやく。はやく、会いたい。
きれいであたたかい、僕の日溜り。
モモに会いたい。
死にゆく穢らわしい外道には見向きもせず、ただそれだけを考えていた。
▽
血液の代わりに薔薇の花弁から精気を吸うことに、モモはすぐ順応した。血を吸わなくなった僕が弱まりつつも生き存えていたのは、この食事方法を摂っていたからだ。
カリロエの花のように愛らしい色をした瞳を伏せ、花芯に口付けるモモの姿は艶かしく、幼い容姿と相反して倒錯的だった。しかし、それでいて穢れのなく無垢そのものにも見えるのは、きっと彼の心がだれよりも美しいからだろう。
僕が城で栽培していた真紅の薔薇を差し出すと、モモはその花がいちばん甘くて好きだと褒めてくれる。その言葉が嬉しくて薔薇園の手入れを以前より頻繁に、愛情を込めて行うようになった。モモはそのことを知ると、そっと控えめにこちらの手を取り「嬉しいです、ありがとう」と、はにかんでみせた。みなしごとして疎まれていたこの子は、優しさにとても敏感だった。どんな小さな事にも深く感謝をした。そんな姿がいじらしく愛おしく、僕はこの子の為ならどんなことでもしてやろうと思ったのだった。たとえ頼まれなくたって、この子を苦しめるものなんて、この世から消えてしまえばいいのだ。そう、例えばこっそりと焼き払った、あの村だったりね。
僕たちの食事方法は互いを吸血する事でもできた。
本来、吸血鬼同志となった場合、両者は家族のような存在になる。近親相姦がタブーとされているように近しい者の血は不味く感じるように変化するはずだったが、モモにはそれが起こらなかった。モモの血はふしぎと人間の頃のように甘美で、いつまでも味わっていたくなるほどに極上のままだったのだ。
味覚が変わらなかった事を不思議に思った僕は、試しに、とモモに自分の首を噛んでみてもらった。
本来は血を吸う方が体力回復が早いからとか、僕だけ吸血してしまうのは悪いとか、その行動に対していろんな理由もつける事も出来たが、何故自ら彼の食事になろうとこの身を差し出したのかは、至極シンプルな答えが用意出来る。
モモにも知って欲しかったのだ。
僕がどんな気持ちを殺しながら、やさしく献身的な彼を噛んでいたのか。
最初はその行為を拒んでいたモモも、さらりと髪を肩へ流し、白い首筋を見せてやると眼の色が変わったようだった。
初めての吸血に緊張するモモは、恐る恐る僕の首筋に牙を立てる。ぐ、と肉に歯を突き立てられると、それだけで身体の内側が茹るように熱くなってきた。
あぁ、そういえばこんな行為だったな。
甘い熱に耽りながらも懐かしさを感じていると、モモはすぐにちゅぱ、と愛らしい音を立て、噛み跡から唇を離してしまった。僕が手塩に掛けて育てた花のよう、身体中を真っ赤に染めながらふるふると震え、糸が切れたあやつり人形のようにその場にへたり込んでしまう。
やっぱり不味かった? と聞くと、肩で呼吸をしながら「こんなのだめ、覚えたくないです」とうっとりと瞳を蕩けさせていた。
かつて、自分に血を分け与えてくれた健全でやさしい青年だったモモが、僕の前で快楽に蹲る。閉じることを忘れた口から覗く尖った牙に伝い、血液混じりの唾液がだらりと滴っている。
モモは身体を渦巻く知らない熱を、まだ上手く逃せないようだった。
甘い吐息を漏らし、まるでか弱い乙女のように、こわい、だめです、いやだ、と己の身体を抱きしめている。
ああ、なんて愛らしいんだろう。
震えるモモの隣に座ってやり、大丈夫、なにもこわくないよ、とそっと抱き寄せる。モモは腕の中でびくりと体を揺らしたが、その眼はぎらぎらと蝋燭の炎を照り返し、さながら沸る血のような色になり、僕の首筋の噛み跡をしっかりと捉えていた。
あぁ、この子もちゃんと、「お揃い」になったのだ。
未だにモモをヴァンパイアにして良かったのか、と考えることがあるのは確かだ。しかし、いまはこの仄暗い悦びが湧き上がってくることを、僕は隠すことなどできなかった。
▽
モモがヴァンパイアになって百年が経った。今夜はモモが再誕したあの日のような望月であった。
藍の絵の具を溶かしたような、深い空に浮かぶ月はまあるくおおきく、ただただ無性に美しく、夜闇を照らしている。すべての生命が寝静まったかのような帳の中、モモは僕が仕立ててやった軽やかな薄いシャツ一枚の姿でバルコニーから満点の星空を見上げていた。モモの瞳も、まるでこの満月のように大きい。憂う瞳すら愛らしい、その横顔はいったい何を思うのか。
「冷えるよ」
隣に立ち、やさしくガウンをかけてやる。そのままこちらを向かせ、麿い頬と細くなった腰に手を這わせ行為の予感を感じさせれば、モモは日に焼けなくなった白い肌を、同じ名の果実のように淡く染めた。
「……ユキさん……僕、今日はいいです。薔薇の花も、両手から溢れる程、もらったし……」
「モモはまだ生まれたてなんだから足りないだろう? 遠慮しなくていい、ほら」
そう言いながら顔を傾け、衣服を緩め首筋を月下に晒す。噛んでいいよの合図だ。モモは一瞬びくりと身体を揺らしたが、目の前にある至極には逆らえない、と言うようにそっと近づいてきた。
「……だめ、……みないで、ゆき、さん」
「はいはい」
モモが僕の服の裾をつんと引っ張りながら上目遣いで訴えるので、すぐさま瞼を閉じる。以前、彼が一生懸命に吸血している姿がいとおしくなりじっと見つめていたら、恥ずかしいから見ないで欲しいと懇願されてしまったのだ。それ以降、行為の最中はこうする事が決まりだった。
僕の血を美味そうに啜り、快楽を貪るモモはとても扇状的で美しいのに、見ていられないのは残念だ。
「ぅ、……、ふっ……」
「ん、……モモ、おいしい?」
「…ぅ、ん……♡」
くちりくちり、と血を吸う音はとても小さくて、耳を澄ましていないと森のざわめきにかき消され、聞き逃してしまいそうだった。
吸血の最中、色っぽい吐息が耳元に届く。それは鼻から甘ったるく抜けて、与えているのにまだ何かを強請るみたいな声色だった。気分がよくなってきた。だって、モモが自分を喰らって興奮しているのだ。その事実に昂った僕は、目を瞑ったままモモの形の良い耳元を食むように唇を寄せた。
「……そう、いい子だね」
「…ッ♡……、♡…ゅ、きさん……っ」
「うん……じょうずだよ」
空気を震わすように、僕よりもちいさなモモの身体中に響くように低く、甘く囁く。
なるべく穏便に食事をする為、吸血鬼は相手を狂わすような声色で話すことだってできたが、僕はそれをしなかった。同じ存在のモモに効くかどうかも定かではないし、そんなまやかしみたいなものでモモを蕩けさせても意味がないからだ。モモには僕自身の声でとろけて、甘い反応を返してほしい。
「ゅ、ゆ、き…さん……っ♡」
彼がいつかのように肩で息を繰り返している気配を感じていると、モモは吸血行為を中断し、へなへなと僕の身体に縋り付いてきた。五十年程前には僕に触れる事も恥ずかしがっていたが、いまではこんなに素直になってしまったモモが愛おしくて仕方ない。
もういいかな、と目を開けると、わなわなと恥ずかしさに肩を震わせ、涙を滲ませるモモの顔が至近距離にあった。
「……っ、もう、! ごはん食べさせたいのか、いたずらしたいのか、どっち……っ?」
「ふふ、どっちもモモの反応がいいから悩むね」
くすくすと笑ってみせるとモモはぷく、と頬を膨らませる。おこってみせる姿もかわいくて、叱られているのにやっぱりモモの全部が好きだな、なんて場違いなことも考えてしまう。
「あんまり、いじわるしないで、変な気分になる……」
「……変って、どんな?」
「……ユキさんのこと、もっと……たべたくなる。ちっとも空腹じゃないのに……、ここが……、さみしく、なる……」
そう言ってモモは上眼遣いで僕の手を取り、それを己の下腹部へするり、と寄せた。シャツの合わせ目に指が入るように誘導して、ふぅふぅと浅い呼吸を繰り返し、目尻は興奮から赤く染まり、瞳には生理的な涙が浮かぶ。
「ねぇ、今日のお誘いは上出来じゃない? どこで覚えたの」
「……ユキさんがそう言えって、教えたんです」
「ふふ、そうだっけ? 千年も生きるとだめだね。忘れっぽくて困る」
「……うそつき」
唇を寄せれば恥ずかしそうに声を漏らすが、嫌がったりはしなかった。
おいで、と手招きをして綺麗に整えたベッドにモモを横たえる。美しかった黒髪には僕と同じ白が色濃く混じり、頬と爪先は赤く染まり、とろける瞳は薔薇のように咲いて。この子がいるだけで僕の世界は色付いていく気がする。
おわりの日まで、百年も一千年も、いつまでだってこのシーツの上、踊っていたって構わない。
「ねぇ、ユキさん」
「なぁに?」
「……僕を、ひとりぼっちだったモモを、救ってくれてありがとう」
そういうとモモは、僕の瞳に宿った花弁に聖母のようなキスをした。
本当は赦しもなく、救いもない。それがモモにもわかっているのだろう。夜明けがくれば罪は晒されて、僕たちは暗い地下に逃げ込むしかなくなる。この子からはもうすっかり、太陽の匂いがしなくなってしまった。それでも僕がした行為を救いだと、そう言ってくれるのだ。
「……モモに宿ったのが、僕と同じ白薔薇で良かった」
長い旅の果て。いつかやさしい死が、僕らの理解者となるまで。
その日までこの子の手を離さず握っていこうと、僕はまたこころに誓ったのだった。